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Date: 1月 20th, 2019
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(シェルリード線試聴会・その3)

オーディオはコンポーネント(組合せ)である。
LPを再生するためには、アナログプレーヤー、アンプ、スピーカーが必要になる。

細かくいえば、アナログプレーヤーだけでも、カートリッジ、ヘッドシェル、
シェルリード線、出力ケーブルが要素として加わってくる。
さらにはターンテーブルシート、スタビライザーなども加わる。

アナログプレーヤーシステムそのものも組合せから成り立っている。

なので、それぞれのパーツ(ケーブル、ヘッドシェルなどのアクセサリー)を吟味したくなる。
事実、何をかえても音は変化するから、シェルリード線の試聴会というのも成り立つ。

それでも組合せだけでは解決しない領域がある。
使いこなしでしか補えない領域がある。

かといって使いこなしだけでどうにかできるわけでもない。
使いこなしだけでは無理な領域がある。
組合せでしか埋められない領域がある。

アナログプレーヤーシステムを構成する個々のパーツの組合せ、
そして使いこなし。
どちらの比重が大きいのかは、ケース・バイ・ケースだろう。
同じくらい大きい、と思っていて問題はない。

だからこそ、アナログプレーヤー関連のパーツの試聴は、
試聴条件を同じにするだけでは、はっきりといえない領域が残る。

16本撚りのリード線で、針圧を1.9gにしてもらったのは、そういう理由もあってのことだ。
1.9gでいい感触が得られたので、
それ以上のこまかな針圧、インサイドフォースキャンセル量の調整は求めなかった。

それにアナログプレーヤーの使いこなしにおける聴感上のS/N比に関して、
いくつか気になるところがあったので、それをなんとかしたかった。

Date: 1月 19th, 2019
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その6)

昨晩は、仲良しチーム(今年からディープオーディオ三騎士)で飲んでいた。

メリディアンのULTRA DACの話題から、D/AコンバーターのFPGAへと、
それからartificial intelligence(人工知能)へと移っていった。

そう遠くない将来にFPGAのプログラミングをAIがやる時代がくる──、
Aさんは、そういう。

圧倒的な計算能力で最適解を導き出してくる。
オーディオの信号処理(FPGAのプログラミング)においても、そうであろう。

最初のころは人間にかなわなくても、短期間で追いこしていくであろう。
そうやって開発されたD/Aコンバーターが、そう遠くない将来登場するかもしれないし、
人間による開発は、太刀打ちできなくなる。

おおむねそんな趣旨だった。

ここでは「人工知能が聴く音とは……」というテーマだが、
Aさんが語っていたのは「人工知能が聴かせる音とは……」となる。

いわれてみると、そんなD/Aコンバーターが登場しても不思議ではない。
人工知能が聴かせる音を、われわれは聴く時代を迎えることになるわけだが、
ここで見落してならないのは、Aさんのいうとおりの開発手法だと、
そこでのAiは、音を聴いていない、ということである。

純粋に数学的に最適解を求めた結果としての音であって、
その最適解をはじきだしたAIは、音を聴いているわけではない。

これはなかなかに興味深いことになるはずだ。
そしてAIも、次のステップとして音を聴くようになっていくのだろうか。

Date: 1月 18th, 2019
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(オーディオマニアとして・その3)

音楽に対する「想像と解釈」、
これこそが聴き手の心象である。

わずかでもいい音をもとめ、音に一喜一憂して過ごす、オーディオマニアとしての永い時間は、
自分だけの心象を創造・構築していくことである。

Date: 1月 17th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その44)

オーディオの想像力の欠如した耳は、無機的な音だけを喜ぶ。

Date: 1月 17th, 2019
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(上原晋氏のこと・その6)

上原晋氏のリスニングルームに庭に面している一辺はアルミサッシである。
おそらく、ではあるが、リスニングルームの設計段階、
それに完成した当初は、このサッシを背にしてスピーカーを置かれていたはずだ。

庭の景色をながめての音楽鑑賞を描かれていたように思う。
そのことはリスニングルームのカベに飾られていた写真からもうかがえる。

花の写真があったが、長男の嵩史氏によると、庭に咲いている花であろう、とのこと。
ならば庭をながめながら、だったはずだ。

けれど意に反して、満足のえられる音が出なかったのか。
それでラックスの冊子、それに現在のように、
作業室へと通じる引き戸側にスピーカーを移動された、と推測できる。

そういえば、瀬川先生がステレオサウンド 54号に書かれていることを思い出す。
     *
 部屋の基本的な音、響きについては十分に満足をし、成功したものの、実は当初予測し切れなかった小さな誤算がひとつあった。
 以前から私は、部屋の中でのスピーカーの置き方として、長方形の部屋の場合、長手方向の壁面をスピーカーの背面として使ってきた。つまり部屋を長手方向に使うのではなく、短手方向に、左右のスピーカーのさらに外側を広くあけて使う、という置き方をしてきた。それはかつて、6畳ないし8畳という、決して広くない空間で、できるかぎり音の広がりと奥行き、定位といったステレオエフェクターを最大限に活かすために、体験的にあみ出した方法だった。
 スピーカーの二つの間隔がせますぎ、なおかつスピーカーの左右両わきに十分な空間がとれないと、どうしても音の広がりが得られない。いったんスピーカーを十分に広げて音の広がりを体験してしまった耳には、ひどくもどかしく感じられる。それを6畳ないし8畳、あるいはせいぜい本誌試聴室の15畳の広さで実験してみた場合、部屋を短手方向に使う以外にないようだ。ここ数年来の本誌のテストでも御承知のように他のリポーターが部屋を長手方向に使う場合でも、私だけは頑固に短手方向に使うということを一貫して行なってきたというのも、その主張のあらわれに他ならない。
 にもかかわらず、自分のリスニングルームを計画した時、部屋の短辺の壁面が内寸(実効寸法)で4・5メートル以上とれれば、部屋を長手方向に使っても2つのスピーカーの間隔はほぼ十分にとれ、従来のように部屋を短手方向に使う必要がないと、この部屋に関しては最初から決めてかかり、当然、視覚的な窓の配置等を含めたインテリアもその方向で仕上げてしまった。
 ところが、スピーカー運び込み、初めて鳴らしてみた時に、予測しないトラブルが生じた。十分聴き慣れていたはずのJBL♯4343が、部屋の短辺に置いたのではひどくこもった、まるで魅力のない音でしか鳴らない。魅力がないどころか、その音はむしろ、欠点だらけといいたいほどひどいバランスで、一時は♯4343を手離すことさえ考えた時期もあった。転居してしばらくの間は、♯4343はそうして部屋のすみに放り出されていた。ある日フト思いついて、部屋の長辺のほうに左右の両はしを十分にあけた形で、♯4343を置いてみた。するとどうしたことだろう、長手方向でまったくサマにならなかった♯4343が、これまた一変して予測もしなかった、たいへん見事な音で鳴り始めたではないか。
 この♯4343の置き方がヒントになって、各種のスピーカーを部屋の長手方向、短手方向に置き変えてみた結果、少なくとも音の響きの美しさを活かしながら、細かな音をよく聴き分けるには、やはりこの部屋でも短手方向に使う方がすぐれていることが確認できた。前述のようにこの形で聴くかぎり、視覚的にはやや落着きのない結果になってしまった。リスニングルームを計画するにあたっての小さな、しかし重大な誤算であったと反省している。
 この体験を通して確認できたことは、従来さまざまな部屋で体験していたことだが、同じ部屋の中で、同じスピーカーが、置かれる場所(面)によってまるで別物といいたいほど性格を変えるということだ。そのことからも、リスニングルームを計画するにあたって、スピーカーの位置をあらかじめ決めて、つくり付けにしてしまうというようなことは、とうてい私にはできないと再確認した次第である。
     *
瀬川先生は
《リスニングルームを計画するにあたっての小さな、しかし重大な誤算であったと反省している》
と書かれている。

上原晋氏も同じように思われていたのだろうか。

Date: 1月 16th, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その29)

40年前の、女性ヴォーカルに向くスピーカーといえば、
スペンドールのBCIIにしろ、QUADのESL、それからロジャースのLS3/5A、
他にもいくつか挙げられるけれど、共通していえることのひとつには、
ホーン型ではない、ということがある。

ホーン型スピーカーは、いまではハイファイ用には向かない、
そんな認識が広まっているようだ。

しかもそれはオーディオマニアだけでなく、
メーカー側も、そう考えているところが、残念なことに多数派のようである。

オーディオ評論家もそうである。
とあるオーディオ評論家は、オーディオショウで、
口のまわりに手をあてて、ホーン型はいわゆるメガホンなんですよ、
といいなから声を出して、ホーン臭い音になるでしょう、とやってたりする。

この程度の認識でホーン型を腐している。

ドーム型ユニットの性能向上もあって、
ホーン型の影は薄くなっている。
いったいいつごろからそうなっていったのか。

ふりかえるに、1980年代の終りごろからなのかもしれない。
そこにどういうことが関係してなのか、検証していくことがいくつもあるが、
まずひとつ思い浮ぶのは、CDの普及である。

当時はそんなふうには捉えていなかったが、
ここにきてメリディアンのULTRA DACを二度聴いて、そうなのでは……、と思うようになってきた。

不思議なことにULTRA DACだと、
アルテックの古典的なホーンからホーン臭さが、ほぼ消え去る。

角を矯めて牛を殺す的な音で、そんなふうにしているのでは、まったくない。
ホーンの良さを積極的に活かしながらも、ホーン臭さが、ほぼないように感じる。

一度目は不思議だった。
たまたまなのかとも思ったりもした。

二度目に聴いて確信した。

Date: 1月 16th, 2019
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(シェルリード線試聴会・その2)

EADレコードに撞いたとき、すでに銀線のシェルリード線の音が鳴っていた。
初めての店だし、当然初めて聴くシステム。

その音を聴いて、銀線の音がどうだったとは、あたりまえのことだがいえるわけがない。
銀線から、OFC線0.08mm/16本のシェルリード線に交換。

いわば、私にとって、ここからシェルリード線の試聴が始まった、といえる。

audio wednesdayでは、自分でセッティングして、ディスクをかけて、セッティングも変えたりする。
でも、ここでは私は聴くだけの側である。
店主の方が、リード線を交換して、レコードをかけかえて、プレーヤーを操作して、である。
楽でもあるし、店主がどうされるのかも興味の対象となる。

シェルリード線とはいえ重さがある。
芯線の数が増えれば、わずかといえ重量の違いが生じる。
このことに意外と無頓着な人もいる。

EADレコードの店主は、オルトフォンの針圧計でシェルリード線の交換後、
針圧をチェックされている。
1.7gに合わせられている。

16本のモノを聴き、24本、56本と、
レコードはそのままで聴いた。

16本と24本では重量の違いは0.1g程度だったそうだが、
56本ともなると0.2g程度違っている、とのこと。

16本、24本、56本の、
どのシェルリード線の音がよかったのか、
どういう違いがあったのか、その詳細についてここで細かく書いたところで、
システムが変り、カートリッジも違ってきて、使いこなしの腕も違えば、参考にあまりならない。

24本から56本になったときの音の変化量は大きかった。
それでも自分で使うのならば、ということで、16本をもう一回聴かせてほしい、とリクエスト。

56本の時に二枚目のレコードにかけかえられていたので、同じレコード16本を聴く。
聴いて確認したいこともあった。

だから16本の音をふたたび聴き終って、針圧を0.2g増えやしてほしい、と。
16本/1.9g針圧で聴く。

この音ならば、アナログプレーヤーのこまかなセッティングの詰めをやってみようという気になる。

Date: 1月 16th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その3)

私が考えている月刊ステレオサウンドは、文字だけのステレオサウンドだ。
図や写真などが一切なく、文章だけのステレオサウンドである。

なので判型もステレオサウンドのB5ではなく、その半分でいい。
片手でも持てて、じっくりと読む。

こんなことを考えたのは、連載がキーワードだった。
マンガ雑誌では、それぞれのマンガ家が連載を目指している。
連載を勝ち取ったとしても、人気がなければ打ち切りになる。
それまでの実績は関係なしに打ち切られる。

打ち切りになったら、次の連載を勝ち取られなければならない。
どんな雑誌でもページ数という物理的制約がある以上、
何かが打ち切りになれば、別のマンガ家の作品が連載となりページは埋まっていく。

マンガ雑誌とオーディオ雑誌が違うのはわかっている。
そのうえで、オーディオ評論家も、オーディオ雑誌に連載をもつべきではないか、と思う。

そうするには季刊誌ステレオサウンドではページが足りなさすぎる。
それに三ヵ月に一度の連載なんて、ぬるい。
週刊誌とはいわないが、月刊誌での連載である。

ならば月刊ステレオサウンドだ。

端折っているところもあるが、こんなふうに考えての、月刊ステレオサウンドである。

オーディオ評論家に担当編集者が必ず一人つく。
連載のテーマを決め、タイトルを決める。

編集者は一人で、二人か三人のオーディオ評論家を担当することになるだろうが、
取材や試聴は、連載のために原則としてしない。

それからなんらかの評価システムを設ける。
だらだらと連載を続けさせないためにである。

月刊ステレオサウンドの編集長は、
季刊誌ステレオサウンドの編集長とは別にする。別の人がやったほうがいい。

編集者・編集部を分けることは必要ないはずだ。
文章だけの月刊誌だから、最初にフォーマットをきちんと作り上げておけば、
原稿があがってきてからの作業は、さほど手間ではないはず。

Date: 1月 15th, 2019
Cate:

いい音、よい音(いい音響、よい音響)

2018年4月、「いい音、よい音(きこえてきた会話)」で、
隣のテーブルからきこえてくる数人の女性の会話のなかに出てきた「いい音響」、
そのことにふれた。

オーディオマニアでもなんでもない人たち(そうみえた)が、
映画の話であっても、そこに「いい音響で観るとほんといい」と頷きあっていた。
「いい音で……」という人は珍しくないけれど、
「いい音響」とみなが言っていたのが興味深かった。

川崎先生が「コーラルはオークションで手に入るから、教えたい」を公開されている。
そこでも、いい音響が出てくる。

以前から音響ということばについて書こう、と考えていた。
とはいえ、少し斜めからの解釈による音響について書く、ということだ。

音響とは、音と響き、と書く。
これを少し違う言葉でおきかえると、質感と量感ではないか、と、
ここ数年思うようになってきたからだ。

質感はともかく、量感は、どうも誤解されているような気もする。
私にしてみれば、それは量感とは捉えない鳴り方を、量感と一般的にはいっているような気もしている。

それだけでなく、量感のよさというのが、最近のスピーカーシステムからは失われつつあると感じている。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その2)

月刊のオーディオ雑誌といえば、
音楽之友社のステレオがある。
技術系のオーディオ雑誌としては、誠文堂新光社の無線と実験がある。
書店売りはしなくなったが、ラジオ技術もある。

月刊ステレオサウンドと書いてしまうと、
ステレオのようなイメージを思い浮べる人もいるかもしれない。
私がイメージしている月刊ステレオサウンドは、
季刊誌ステレオサウンドの弟分的な存在とか、
劣化版としての月刊誌ということでは、まったくない。

株式会社ステレオサウンドは、以前サウンドボーイという月刊誌を出していた。
このサウンドボーイも、私が考えている月刊ステレオサウンドとはまったく違う。

私がマンガを積極的に読むことは、これまでにも書いている。
マンガ雑誌は、メインとして週刊誌である。
少年ジャンプとか、少年マガジン、少年サンデー、少年チャンピオンなどがある。

これらには週刊誌のほかに、月刊誌も存在する。
月刊マガジン、月刊ジャンプなどがそうだ。

だからといって、
これらマンガ雑誌のような意味での月刊ステレオサウンドでもない。

私がいいたいのは、
マンガ雑誌におけるマンガ家と編集者との関係の深さというか強さ的なことを考えてのことだ。

マンガ雑誌では、マンガ家一人に担当編集者が必ずつく。
マンガ家と編集者との関係については、
インターネットにはいくつかの記事がある。
興味のある人は検索して読んでみてほしいし、
以前、別項で紹介した「バクマン。」というマンガも、
そのあたりのことが興味深く描かれている。

私は前々から、マンガ雑誌のような編集者のありかたが、
オーディオ雑誌ではやれないのか、と思っていた。

季刊誌ステレオサウンドのように、特集記事があって、
新製品紹介の記事があって、その他にいくつかの記事があるという状況では、
まず無理といえる。

ならばどうすればそういうことができるのか、といえば、
その答が月刊ステレオサウンドである。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その1)

ステレオサウンドは、3月、6月、9月、12月に出る季刊誌。
ステレオサウンドを初めて手にした中学生だったころは、三ヵ月かかって読み切っていた。

くり返し読むということもあったし、
初めて目にする単語や固有名詞もあったりして、
それに内容も、いまよりも濃かったこともあって、
オーディオの世界に足を突っ込んだばかりの中学生には、
いまのステレオサウンドのように、すぐに読み終えてしまうなんてことはなかった。

読み終えてしばらくしたら、もう次のステレオサウンドが書店に並ぶ。
そんな感じがしていた。
なので季刊誌でよかった、と思っていた。

小遣いのこともあった。
ステレオサウンドが毎月出ていたら、小遣いが不足してしまう。
当時1,600円の雑誌は安くはなかった。

一ヵ月に換算すれば500円ちょっということになるが、
他に買いたいものがいろいろある中学生に、
ステレオサウンドが毎月発売されたら、何かを犠牲にすることになったはず。

私がいたころも、編集会議という場ではなく、
雑談として、季刊誌から隔月刊へ、という話題は何度かあった。

いつの時代も、「これからはスピードの時代」的なことがいわれてきた。
あのころも、いわれていた。
だから、季刊誌ではなく隔月刊に──、
そんなことを雑談ではあっても、けっこう真面目に話していた。

ステレオサウンドが隔月刊になったら、
2月、4月、6月、8月、10月、12月に出る。

私がいたころは写植の時代だった。
いまはDTPき時代である。

一冊のステレオサウンドが仕上がるまでに必要な時間は、
試聴や取材の時間を除けば、短くなっている。
今ならば隔月刊化も無茶なことではなくなっている、と私は思う。

けれど、ここで書こうとしているのは、
隔月刊化ではなく、月刊ステレオサウンドについて、である。

隔月刊をとびこえての月刊、ということではない。
季刊誌ステレオサウンドは、もういまのままでいいと思う。
というよりも、もう変らない(良くならない)のだから、現状維持ができるのならば、
それでいいのではないか。

私が提案したいのは、ステレオサウンドと名のつく雑誌を、もうひとつ増やすことである。
季刊誌ステレオサウンドとともに、月刊ステレオサウンドを出す、ということである。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その2)

ラルキブデッリの録音は、ヴィヴァルテというレーベルから出ている。
このレーベルは、ソニークラシカルのオリジナル楽器専門のレーベルである。
ゆえに中世から古典派あたりまでをおもに録音している。

ヴィヴァルテの、すべての録音のプロデューサーは、ヴォルフ・エリクソンである。

クラシック音楽好きで、録音にも関心が高い人ならば、
ヴォルフ・エリクソンの名前はどこかで見たり聞いてたりしていよう。

ヴォルフ・エリクソンは、テルデック、セオン、そしてヴィヴァルテと、
つねにオリジナル楽器による演奏を録音しつづけてきている。

ラルキブデッリのCDを買ってみようかな、と思ったのも、
それがヴィヴァルテの録音であり、ヴォルフ・エリクソンによる録音だからである。
ただ、(その1)でも書いたように、
ヴィヴァルテからは、ラルキブデッリ以外の録音も当然出ている。

でも、ラルキブデッリを選んだ理由は、いまでははっきりと思い出せないし、
なんとなく選んだのだろうか。

そんな、どこか不純な好奇心から手にしたのが、ラルキブデッリのディスクであり、
モーツァルト、シューベルト、それにブラームスだった。

モーツァルトのディスクから聴いた。
次にシューベルトを聴いた。
日をおいて、ブラームスを聴いた。

ブラームスの弦楽六重奏曲ということだけでなく、
そのジャケットも好みではなかったこともあって、あとにしていた。
どんなジャケットなのかは、検索してみてほしい。

こういうジャケットが嫌い、というより、苦手である。
若いころはそうでもなかったのだが、十数年ほど前から新緑の季節になると、
植物の、その勢いにたじろぐおもいをするようになった。

濃い、というよりも、こちらが歳をとったせいなのであろう、
あまりにも青々しくて(緑が濃すぎて)、なにか植物に侵略されるのではないか、
そんな気分にすらなるし、
ラルキブデッリのブラームスのジャケットも、それに近い。

でも、聴けば、なぜ、このジャケットなのか、も理解できる。
好きにはなれないけれど。

Date: 1月 13th, 2019
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(シェルリード線試聴会・その1)

中央線・高円寺駅から徒歩数分のところにEADレコードというレコード店がある。
今日、そこでシェルリード線の試聴会が行われるのが、来ませんか、という誘いがあった。

出掛ける用事もあったし、時間も用事が済んだころからだったので、
17時からの試聴会に行ってきた。

高円寺は気が向いたら途中下車することはある。
それでも北口、南口も、阿佐谷よりのほうには行っても、
中野よりにはほとんど行ったことがないなぁ、と思いつつ、ESDレコードをめざす。

このへんを歩くのは初めてである。
EADレコードは、もう20年以上やっているそうだ。

今回試聴できるシェルリード線は、Koike Lines製のモノ。

純銀線0.1mm/7本
OFC線0.08mm/16本
OFC線0.08mm/24本
OFC線0.08mm/56本

この四種類の比較試聴会だった。

30年以上前は、シェルリード線の比較試聴はやっていたけれど、
もうとんとやっていない。

シェルリード線の長さは、
カートリッジのコイル、トーンアーム内の配線、
トーンアームの出力ケーブル、これら全体の長さからすれば、その割合は小さい。

それでも音は、その割合とはおもえないほどに変ることは、
一度でも、この部分の交換をやったことのある方ならば、経験されていよう。

今回は同じ芯線で、本数の違う三種類のシェルリード線を比較試聴できる。
こういう機会はそうないだろう。

EADレコードは、小さなレコード店けである。
そこに大型のスピーカー、大型のアンプが並んでいるわけではない。
そういうシステムを期待されている方は行かれるとがっかりされるだろう。

店の規模に見合ったシステムが置いてある。

Date: 1月 12th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その3)

ローザ・ポンセルのCDは、ナクソスから数枚出ている。
「椿姫」もナクソスから、である。

ポンセルの「椿姫」は、ジャケットにBroadcast on 5th January, 1935と記されているように、
放送用に録音されたもので、
再生してみればわかるようにいきなり音楽から始まるのではなく、コメンタリーから始まる。

録音年代からすると、それほど音は悪くはないし、
鑑賞にたえるだけの音質ではある。

それでも、セラフィンの
「私の長い生涯に、三人の奇蹟に出会った──カルーソー、ポンセルそしてルッフォだ。この三人を除くと、あとは数人の素晴らしい歌手がいた、というにとどまる」、
アーネスト・ニューマンがカラスのコヴェント・ガーデンへのデビューの際に評した
「彼女は素晴らしい。だが、ポンセルではない」、
これらにすなおに首肯けたかというと、決してそうではなかった。

ずっと以前きいたときよりも印象はよくなっていたけれど、
それでも……、とやっぱり感じてしまうのは、ポンセルの実演に接していないからなのか。

残されている録音を聴くことしかできない聴き手にとって、
ローザ・ポンセルのすごさは感じとり難いとしかいいようがない。

1月のaudio wednesdayに19時前に来られた方は二人。
二人とも、ポンセルの歌にすごさは感じられてなかった。

ローザ・ポンセルの「椿姫」の二枚組のCDは、昨秋ディスクユニオンで買ったものだ。
新品で定価は500円となっていた。

レジに持っていくと、店員がちょっと待ってください、という。
なにかな、と思っていたら、何かのセールのようで、100円になっていた。
一枚あたり50円。
だからそれだけの価値しかない、とはいわないし、思っていない。

それでも……、ともう一度くりかえしてしまうが、
私は、おそらく死ぬまでローザ・ポンセルのすごさはわからないのかもしれない。

ローザ・ポンセルの「椿姫」を最後までかけはしなかった。
19時になったので、マリア・カラスの「椿姫」をかけた。

Date: 1月 11th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その2)

《カラス至上のレコードは、彼女の最初の〈トスカ〉である。ほぼ二十五年経った今も、イタリア歌劇のレコード史上いぜんとしてユニークな存在を保っている。》

ウォルター・レッグは「レコードうら・おもて」でそう書いている。

カラスは、ヴィクトル・ザ・サバータ/ミラノ・スカラ座と1953年に、
その後、ステレオ時代に入ってからプレートル/パリ音楽院管弦楽団と1964年に録音している。

いまはどうなのか知らないが、1980年代までは、「トスカ」の名盤といえば、
カラスの、この二組のトスカがまず挙げられていた。

CD化されたのは、デ・サバータとのモノーラル盤のほうが先立った。
このこともウォルター・レッグのことばを裏づけていよう。

「トスカ」もかけようと考えていた。
けれど、四時間もカラスばかりかけていたにも関らず、
「トスカ」からは「歌に生き、愛に生き」だけしかかけなかった。

19時からの始まりで、最初にかけたのは「椿姫」。
EMI録音のサンティーニ/RAI交響楽団とによるものは、
カラスひとりだけ素晴らしくても……、とおもわざるをえない。

黒田先生が、以前どこかで書かれていたが、
「椿姫」のヴィオレッタの理想は、絶頂期のマリア・カラスであろうが、
それでもカラスのEMI盤は、名盤とは思えない。

なのに最初に、その「椿姫」をかけたのは、
19時の直前までかけていたのが、ローザ・ポンセルの「椿姫」だったからである。