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Date: 6月 20th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その7)

別項「ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)」で、
マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と書いた。

このことに気づいてからは、
では、あの演奏家の「自画像」といえる演奏は、あるのかないのか。
あるとしたら、いったいどれなのだろうか、と考えることになる。

グレン・グールドについて、まず考えた。
グレン・グールドの自画像といえる演奏(録音)は、どれなのか。

ゴールドベルグ変奏曲に決っているだろう、という声は多いだろう。
でも、そうだろうか、とおもう。

グレン・グールドはバッハの録音を多く残している。
グレン・グールドはゴールドベルグ変奏曲でデビューして、
死の前年に再録音を行っている。

ゴールドベルグ変奏曲という作品のことを考え合わせれば、
いかにもグレン・グールドの自画像的といえる。

でもなんだろうか、自画像というよりも、肖像画という気がする。

多くの人がそうだっただろう、と勝手におもっているが、
グレン・グールドのブラームスの間奏曲集を聴いた時、
これもグールドなのか、と私は思った。

こういう演奏をする人なのか、と思った。
デジタル録音になってからのブラームスも、私は好きである。

では、これなのか、と自分に問う。
何か違うような、そんなところが残っている感じがする。

意外にも、グレン・グールドの自画像といえる録音は、
音楽作品ではなく、ラジオ番組の録音ではないのか、という気もする。

そんなことを考えていると、シルバージュビリーアルバムこそが、
グレン・グールドの自画像なのかもしれない。

日本ではLP一枚で発売されたが、本来は二枚組である。
二枚目には、「グレン・グールド・ファンタジー」が収められていた。

グレン・グールドの独り芝居が収められている。
これも「音による自画像」といえば、たしかにそうだ。

それでも、私にとって、グレン・グールドはまずピアニストである。
ピアニストとしてのグレン・グールドの自画像は、
私には、ハイドンのように思えてならない。

「グレン・グールド・ファンタジー」でのグレン・グールドだからこそ、
こういうハイドンが演奏できるんだな、とおもうからだ。

Date: 6月 20th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

7月3日のaudio wednesdayでは、カセットテープが音源となる一日である。
すでに書いているように、モノーラルでの音出しを考えている。

とはいえ、グラシェラ・スサーナのカセットテープをステレオで聴きたい、という気持は、
やはりある。

といっても、喫茶茶会記のアルテックのスピーカーで鳴らしたい、とは思わない。
別の、もっと小型のスピーカーでなら、ステレオラジカセ的音出しもできるような気もしなくはない。

いま手元に、ぴったりのスピーカーシステムがある。
大きくはないし、重くもない。

一本10kgを切る重量である。
電車で運べない重さではないし、大きさでもない。

それでも7月3日は夏、もしくは梅雨である。
天気がよくて、さほど暑くなくて、
それに持っていこうという気力の三つが揃ったら、
このスピーカーシステムを持って鳴らしたい、とも考えている。

カセットテープ全盛のころのスピーカーシステムである。

Date: 6月 19th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その8)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)。
マリア・カラスによる、この歌を聴くたびに、特別な何かを感じる。

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」よりも、
シルヴィア・シャシュによる「清らかな女神よ」を先に聴いていた。

そのころ、シルヴィア・シャシュは「マリア・カラスの再来」と期待されていた。
マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いたのは、一年くらい経っていただろう。

もちろん、それまでにマリア・カラスの歌は聴いていた。
「カルメン」はもちろん、その他のオペラも、すべてとはいえないが、そこそこ聴いていた。

マリア・カラスの「清らかな女神よ」は、初めて聴いた時から、特別な何かを感じていた。
マリア・カラスが特別な歌手だから、そう感じたというよりも、
マリア・カラスの歌ってきたもののなかでも、「清らかな女神よ」はひときわ特別な感じがする。

昨年12月に映画「私は、マリア・カラス」を観た。
そこでも、マリア・カラスが「清らかな女神よ」を歌うシーンがある。

この映画でも、「清らかな女神よ」は、やはり特別だな、と感じていた。
映画を観終って数ヵ月が経って、やっと気づいた。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
マリア・カラスの自画像そのものだ、ということに、やっと気づいた。

ここに気づいて、
映画「私は、マリア・カラス」の原題、MARIA BY CALLASにも納得がいった。

Date: 6月 18th, 2019
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その1)

どちらかというと眺めているだけに近いのが、
いまの私のSNSとの接し方である。

facebookは毎日眺めているけれど、
twitterは、しばらく前は一ヵ月に一度くらい、
いまは一週間に一度くらい眺めて程度になっている。

それでもどちらかでつながっている人が、おもしろい記事をリンクしてたりする。
今日も、そうやって一本の記事を読むことができた。

タイアップ記事なんて、なくなればいい」である。

楠瀨克昌氏が書かれている。
上記記事は、楠瀨克昌氏による「JAZZ CITY」のなかの一本である。

楠瀨克昌氏がどういう方なのかは、
「タイアップ記事なんか、なくなればいい」を読んでいくとはっきりしてくる。

雑誌がどうやってつくられていくのかを理解していない人が書いた文章ではない。
広告が入っている雑誌の記事なんて信用できない、
そういう人は少なくない。

そういう人こそ、「タイアップ記事なんか、なくなればいい」を、
じっくり読んでほしい。

《メディアの記事には編集記事と純広告、この2つしか存在しない》
とある。
これが雑誌の本来のあり方であって、
そうであれば、広告が入っている雑誌の記事なんて……、という意見は、
なくなることはないにしても、そうとうに減ってくるであろう。

なのに実際のところ、編集記事と純広告、
この二つしかない雑誌なんて、オーディオ雑誌にはない。

Date: 6月 17th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その12)

別項「変化・進化・純化」で自己模倣と書いた。
古い知人の出していた音を、私は自己模倣と書いた。

自己模倣も「音は人なり」となるのだろう。

さらに「自己模倣という純化の沼」とも書いた。

自己模倣という純化の沼にどっぷり浸っているのが、
いちばん楽なのかもしれない。

しかも周りにはオーディオという泥沼にどっぷりに浸かっていまして……、
そんなことを自虐的に、そして自慢気に話す。

マニアとしてのプライドも保てるのかもしれない。

けれど自己模倣という純化の沼に浸かっていては、
人間的成長からは遠くなっていく。

自己模倣であっても、音は変っていく。
変らないということはない。

けれど、自己模倣はどこまでいっても自己模倣でしかない。
そこでの音の変化も、自己模倣の領域内でのことである。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その9)

オーディオの世界に若い人を──、
ということがテーマとなると、老害について言う人がいる。
それから、若い人をOTOTENに来てもらおうと考えるのとともに、
若い人が集まるところに、なんらかの行動をおこすべきでは──、
そういったことが目に留る。

コミケ(コミックマーケット)にブースを出してみるというのも、
やってみておもしろいのかもしれない。

日本オーディオ協会に若い人を入れるべき、という意見も、
そうかもしれない、と思いつつも、
本音をいえば、総入れ替えでなければ、何も変らない──、
そう思っている。

私の世代も含めて、いまの50代より上の世代がみなくたばって、
オーディオ業界が総入れ替えされれば、若い人たちがどっと押し寄せてくるような気がする。

みな若かった、と書いた。
その人たちがみな老いてきている。

オーディオ業界が老いてきている。
新陳代謝を期待しても、そう簡単にはおこらないだろう。

けれど、そうなってしまうと、断絶が生じよう。
いまでも、断絶を感じてしまう。

そんなこと、ずっと以前にいわれてきたことでしょう──、
それをさも新発見したかのように、書いたり喋ったりする人たちが少なからずいる。

何度同じことをくり返すのか。
少しは、昔をふり返ろうよ、といいたくもなる。

いまでもそうなのだから、総入れ替えがおこったなら、
もっと大きな断絶が生じるのかもしれない。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その8)

菅野先生が「音の素描」で、ポルシェについて書かれている。
     *
 私の考えている自動車の完成度ということから見た結論が、一方ではポルシェ、一方ではメルセデスベンツということで、この二つの車には畏敬の念を禁じ得ない。ポルシェとメルセデスベンツを持つということは、私が社会人になりたてのころに描いた他愛のない夢であり、当時の目標は一生のうちにポルシェとメルセデスを買うということであった。そのように決めたきっかけは、私の知っているフランス帰りの音楽関係の人間がポルシェに乗って私の前に現われたことである。
 それ以前にオーディオのことで知り合っていた外国の友人にフェルディナント・ポルシェ博士の発明家・エンジニア、そして天才的な自動車の設計者としての素晴らしい話を聞いていた。全部は読みきれなかったが、ドクター・ポルシェのバイオグラフィーを原書で読んだこともあり、私の頭の中には自動車の神様としてのポルシェ博士の名前が大きくふくらんでいたわけだ。ところが実際にはポルシェという車を写真以外では見たことがなかった。フォルクスワーゲンはポルシェがつくったものだということと、ルノーの2CVはポルシェの息がかかっているということも聞いていたが、本物のポルシェはそれまで見たことがなかった。だから初めて知人の乗るポルシェ356を目の前に見た時には、これが憧れのポルシェ博士が、自分の名前をつけた車かということで、大きな感動を受けたのを今もって忘れない。
 その当時はポルシェなどは自分の手の届く存在だとは思ってもみなかったし、いくらするかということを調べようともしなかった。おそらく途方もない値段という感覚しかなかった。しかしその時に「いまに見ていろ俺だって」と生意気にも決心をして、一生のうちに絶対に自分で買って運転するぞと意気込んだものである。
 ポルシェ博士のヒストリーの中でベンツをより詳しく知った。一九三〇年代にポルシェ博士がベンツの技師長をしていて、ベンツのSSKという素晴らしい名車を設計したことや、ダイムラー・ベンツという会社はゴットフリート・ダイムラーという人とカール・ベンツという二人の合併でつくった会社であり、それぞれが自動車の発明家として本当のパイオニアであって、このダイムラー・ベンツ社は現存する世界最古の歴史をもったメーカーであることもそのときに知ることができたのである。
 ポルシェというのは純然たるスポーツ・カーで、現在のベンツはスポーツ・カーも出しているがより実用的なセダンがむしろ主力車種だ。おそらく乗用車では、メルセデスベンツは最高のレベルにあるものだということを想像したし、スポーツ・カーとしてはポルシェが大変に素晴らしいものであると思い、当時の若僧はこの二つを人生の目標としたのである。豊臣秀吉のように百姓の子供に生まれながら天下をとったことから考えるとき、きわめてちっぽけで幼稚な夢だが私にしてみればそのころとしてはとても実現の可能性すら考えられないことであった。
     *
憧れがあるからこそ、
「いまに見ていろ俺だって」という気持か生れてくる。

その気持を萎えさせるようなことだけは、誰もやってはいけない。
私は、オーディオ店に過大な期待はしていない。

いい店員がいるのはきいて知っている。
でも、それ以上はどうしようもない店員が多いことも、またきいて知っている。

運良く、いい店員が近くいることはあるだろう。
でも、そうでない場合もある。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その7)

いまはどちらもやめてしまっているが、
2015年、ユキムとタイムロードは、学割キャンペーンを始めた。

学割キャンペーンを始めたころの、
facebookにあるウルトラゾーンのページには、
《君たちの年頃に聴いた音楽は後々までずうっとこころに残るもの。だから、始めました。》
とあった。

10代のころに聴いた音楽は、後々までずうっとこころに残る、
同じころにきいた「音」も後々までずうっとこころに残る──、
私が10代のころ、
熊本のオーディオ店が定期的に瀬川先生を招いての試聴会で聴いた音は、
いまも、私のこころに残っている。

そのオーディオ店は、決していい店とはいえなかった面もある。
特にステレオサウンドで働くようになって、
その店の悪評(実態)を聞いた。

そういう店だったのか、とがっかりもした。
それでも、その店(寿屋本庄店)には、感謝の気持をいまも持っている。

この店が、瀬川先生を呼んでくれなかったら、
瀬川先生と会えなかったかもしれないし、
そこで聴いたLNP2の音、The Goldの音、
Referenceの音、BCIIの音など、
さまざまな音が、いまも心に残っているし、
憧れということの大事さを、ここでの試聴会がなければ、
いまのかたちで知ることはなかったかもしれない。

寿屋本庄店は、当時高校生だった私を門前払いすることはなかった。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その6)

このウェスターン・エレクトリックのバスレフ型と、
恰好としては近いものになるのが、私が考えている同軸型ウーファーである。

中心に大口径ウーファーを配置して、
その外周に小口径ウーファーを複数配置する。

大口径ウーファーの振動板の実効面積と、
小口径ウーファーの振動板の実効面積の和が同じにするのが、
実験の最初の一つの基準になる。

実際のところ、面積なのか、
それともコーン型ゆえに、その凹みの容積なのか。
容積で考えれば、外周の小口径ウーファーの数は、面積よりも増えることになる。

同軸型ウーファーは、こういう配置をするわけだから、
大口径ウーファーに15インチ口径をもってくると、かなり大型になる。

そうなると、もうスピーカーシステムとしてのウーファー部よりも、
サブウーファーとして考えるほうがいい。

それに中心の大口径ウーファーと、外周の複数の小口径ウーファーの接続をどうするのか。
この点を考慮しても、サブウーファーの方がいい。

大口径ウーファーと小口径ウーファーは、別々のアンプで駆動することになろう。
レベルコントロールが独立して行えたほうがいいこともあるし、
小口径ウーファーの接続も直列と並列を組み合わせてのものになるし、
一台のアンプで接続(駆動)するよりも、二台のアンプにしたほうが、
実験として適している。

バカげたアイディアだと思われるかもしれないが、
私としては、失敗の可能性も高いと思いつつも、
この同軸型ウーファーの実験は実現にうつしたいことの一つである。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その21)

ベートーヴェンの「第九」、私は名曲だと思っているけれど、
音楽を聴く人のすべてが、
「第九」を名曲だと思っていなければならないと考えているわけではない。

「第九」をつまらない曲と思っている人がいてもかまわない。
それでも、こんなこんなことを書いているのは、
「第九」から歌を取りのぞけば──、そういう発想をする人がいることに、
少々驚いているからだ。

「第九」の四楽章から歌を取りのぞく、
そんなことを考えたことは一度もなかった。

なかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」という発言の裏には、
「第九」の四楽章から、
歌を取りのぞける(取りのぞけたら)という考えがある、というふうに受け止めてしまう。

歌は、オーケストラの演奏と一体となっている。
いままでこんなことを考えてみたことがなかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」を聴いて、
よけいに一体となっていることを改めて感じた。

それだけに「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」、
四楽章で歌が入ってくることでだいなしに、しかも演歌にしている──、
そういったことを聞いたり読んだりすると、
この人たちは、「第九」に涙したことはないんだな、と思う。

私が小澤征爾/ボストン交響楽団の「第九」を聴いて涙したのは、
四楽章の歌が始まってからだったし、
年末に刑務所で「第九」を聴いて号泣した受刑者も、たぶんそうであろう。

受刑者の、その人は、おそらく「歓喜の歌」のことはまったく知らなかったのではないか。
ドイツ語もまったく理解していなかったのではないか。

それでも「第九」の四楽章で、
“O Freunde, nicht diese Töne!”(「おお友よ、このような音ではない!」)と、
バリトン独唱が歌う、そのところで涙したのではないのか。

そして、そこからは最後まで涙していたようにおもう。

そういう力が「第九」にはある。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その6)

今年のOTOTENでは、若い人を集めようとするいくつかの試みがなされる。
それらがうまくいって、若い人が例年よりも多く来場した、とする。

来場した若い人の何割かがオーディオに興味をもってくれた、とする。
それらの人たちが次に進むステップとして、オーディオ店に行くことがある。
オーディオ雑誌を買うことも、ここでのステップだろう。

若い初心者に対して、どちらも優しいだろうか。
優しくなければならない、とは私は思っていない。

私が中学生、高校生のころだって、
オーディオブームでもあったけれど、決して店員が優しかったわけではない。

それでも門前払いのような扱いだけはなかった。
(その5)で書いたガレージメーカーの社長のような人は、
少なくともいなかった。

たまたま私が運がよくて、そんな人と出あっていなかっただけなのか。
そうなのかもしれないけど、そうでないのかもしれない。

とにかく、ガレージメーカーの社長のような態度の人が、
オーディオ店にいたら、どうなるか。
そこにOTOTENに行き、オーディオにいくらかの関心をもった若い人が行ったら──、
書くまでもないだろう。

OTOTENに若い人を集めるだけではなく、その先こそが大事だと思う。

別項「LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化」で書いているBさん夫妻は、
オーディオ専門店ではなく、量販店で購入している。

別項の(その13)で長岡鉄男氏の文章を引用しているが、
こんなオーディオ店の店主もいた(いる)わけだ。

日本オーディオ協会としては、若い人を一人でも多く、
OTOTENに来てもらえれば、それでいいのかもしれない。
目標達成ということなのかもしれない。

OTOTENは今月の29日、30日である。
終ってから、日本オーディオ協会が、
若い人が大勢来場されました、なんてことを得意げに発表したりするようでは、
何も変らない。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その5)

1980年だったか、ステレオサウンドの弟分としての月刊誌サウンドボーイが創刊された。

このころのステレオサウンドもそうだが、次作記事が載っていた。
特にサウンドボーイは、ほぼ定期的に次作記事があった。

伊藤先生のアンプ製作記事を筆頭に、
小林貢氏による過去のスピーカーエンクロージュアの製作、
それから高津修氏による、高津氏独自の製作記事があった。

高津修氏の製作記事の一つに、
ウェスターン・エレクトリックのバスレフ型エンクロージュア製作があった。
ウェスターン・エレクトリックが特許をもつバスレフ型で、
一般的なバスレフ型とは違い、
ウーファーの周囲をバスレフポートの開口部が取り囲むように並ぶ。

手元にサウンドボーイがないため、バスレフポートの数は忘れてしまったが、
八つ以上はあったように記憶している。

ウーファーの振動板の実効面積と、
複数のバスレフポートの開口部面積の和を同じにするのが、
この一風変ったバスレフ型の設計ポイントである。

高津修氏は、ユニットにエレクトロボイスを選択されていた、と記憶している。
興味は惹かれたが、残念ながら聴いていない。
実物はもちろん見ている。

バスレフの開口部がいくつものあるスタイル、
しかもユニットの外周にそってバスレフの開口部がいくつもあるスタイルは、
一般的なバスレフ型をみなれた目には、少々キワモノ的にも映った。

ウェスターン・エレクトリックが特許をもつ、ということをわかってみても、
バスレフポートからの不要輻射音のことなども考えると、
ウーファーからの音を濁らせることにもナルのでは……、そんなことも思ったりした。

このウェスターン・エレクトリックのバスレフ型は、
バッフルに穴を開けるだけで、そこに筒状のダクトが取り付けられているわけではない。
なので、ある種のマルチポートバスレフ型でもある。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その4)

同軸型ウーファーについて、私はどうも反対に考えていたようだ。
昨晩、ふと気づいた。
逆にすればいい、ということ。

そして逆にすることこそ、
本来目指していたところに辿りつけそうであることに気づいた。

同軸型ユニットではなく、ここで考えているのは同軸型ウーファーである。
小口径ウーファーと大口径ウーファーを組み合わせたユニットとしての同軸型ウーファーであり、
大口径ウーファーの欠点をどうにかしたい、と思っての発想だ。

同軸型ユニットといえば、ウーファーとトゥイーターの組合せが多い。
どんな同軸型ユニットであれ、トゥイーターよりウーファーの口径が大きい。

反対の同軸型ユニットというのは、存在しない。
このことが、同軸型ウーファーを考えるにあたって、発想の妨げになっていた。

中心に小口径ウーファー、その周囲に大口径ウーファーという配置は、
同軸型ユニットの配置から、なんら抜け出せていなかった。

同軸型という言葉にとらわれてしまっていた。

大口径ウーファーを中心にすればいい。
こんなことに、昨晩やっと気づいた。

大口径ウーファーの周囲に小口径ウーファーを複数配置する。

そのヴィジュアルを頭に描いていて、もうひとつ気づいたことがある。
ウェスターン・エレクトリックのバスレフ型のことである。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その5)

以前、「2014年ショウ雑感(ヘッドフォン祭)」でヘッドフォン祭は、
ヘッドフォンオーディオ祭という名称ではないことを書いた。

ヘッドフォンオーディオ祭だったら──、
そこにオーディオとつくことで、若い人(特に女性の若い人)は来なくなるのかもしれない。

私はオーディオという言葉が好きなのだが、
世間一般ではどうなのだろうか。

オーディオマニアはバカにされる、
オーディオマニアだと誰にもいえない、
これらは極端な例なのだろうか。

どうもそうではないような気がする。
そんな気がする、というだけで、確かめているわけではない。

けれど、(その3)と(その4)に書いたことは実際にあったことだ。
日本オーディオ協会の人たちは、そういうことが実際にある、ということを知っているのか。

若い人たちにも参加してほしい──、
これはオーディオ業界だけでなく、他の業界でもそうだろう。
先細りなのははっきりしている。

けれど、若い人でも、昔にくらべるとずっと少なくなってきているとはいえ、
オーディオに関心をもつ人はいる。

いるけれど、今回の小川理子理事長の発言にSNSでコメントしている人の中に、
とあるガレージメーカーの社長に、
「学生にはトップモデルは聴かせられない」と拒否された、というのがあった。

学生が買えるようなものしか聴かせない。
買えないような高価な製品を聴かせても、時間、労力の無駄、と、
そのガレージメーカーの社長は判断しての発言なのだろう。

そういう人がいる一方で、
とあるオーディオ店のある店員は、
学生相手にも、そんなイヤミをいうことなく、ハイエンドオーディオを試聴させてくれる、らしい。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その4)

北海道の若いオーディオマニアの件は、
この人一人だけの特別な例なのだろうか。

別項『「オーディスト」という言葉に対して(その25)』へのfacebbokでのコメントも、
同じといえる例でもあった。

四年ほど前に、とあるミュージックバーに行き、
幼いころから音に関心があって、いまではオーディオマニアになった──、
そんな話をしたら、バーの店員から散々バカにされたそうである。

このバーは、ミュージックバーを名乗っているくらいで、
トーレンスのアナログプレーヤーを使っていることを売りにしている、そうである。

そういうバーの店員でも、オーディオマニアをバカにしている。

北海道の若いオーディオマニアが、
オーディオマニアだ、と周りの人にいうことは、カミングアウトすることに近いのだろう。

若い人たちではないが、私より少し上の世代の人たちも、
そんな空気を感じとっているのかもしれない。

まったくオーディオと関係なく会った人と話しているうちに、
こちらがオーディオマニアだ、とわかると、
「いやー、実は私も……」と言ってくる人(といっても数人なのだが)がいた。

同世代の女性の知人は、中学生のころから、
絶対にオーディオマニアとは結婚しない、と決めていた、という。
彼女が中学生のころは、オーディオがまだブームだったころだ。