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Date: 10月 28th, 2019
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その3)

強化ダンボールとはいえ、スピーカーユニットを支えるだけの強度はない。
10cm口径程度のフルレンジユニットであれば、支えられるだろうが、
38cm口径の同軸型ユニットを想定しているだけに、
それだけの重量をバッフル板で支えようとは、最初から考えていない。

アルテックの755E+ダンボール平面バッフルの時もそうだったが、
ユニットはダンボール・バッフルには取り付けていない。

ユニットの後を友人に支えてもらって、
さらにダンボール・バッフル板も持ってもらっての音出しだった。

つまり左右スピーカーに一人ずつ、
聴く人一人、最低でも三人は必要となる音出しである。

そこでは精緻な音場感とは期待しないでほしい。
けれど気持のいい音がした。
鳴りっぷりのいい音、響きであった。

楽しい音がしていた。
だからこそ、いまでもたまには聴きたい、と思うことがある。

強化ダンボールを複数枚使っての大型平面バッフルは、
だからユニットは角材三本を使っての支持方法をとる。

あくまでもダンボール・バッフルは、
ユニットの前後の音を遮るための役割だけで、
ユニットフレームとは接触するかしないかぐらいにする。

同軸型ユニットは、通常のユニットよりも、奥行きがあるし、
その分後方に重心が移動することにある。

そういうユニットを、これまではフロントバッフルだけで支えていたわけだ。
自作マニアの中には、ユニットの磁気回路を何かで支えていたりするだろうが、
多くは、あれだけの重量をもつ構造体が、いわば片持ち状態となっている。

Date: 10月 27th, 2019
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その2)

本格的な平面バッフルの実現には、それだけの広さのリスニングルームが必要となる。
なので実用的なサイズの平面バッフルというのを、
以前から考えてきているのだが、
それでも一度は2m×2mの平面バッフルの音を聴いてみたい。

きいたことがないわけではない。
聴いている。
いい音だった。

だから、なんとか実現したい、という気持はずっと持っている。
audio wednesdayで、平面バッフルをやりたい、と考えているのもそういうことからである。

喫茶茶会記のスペースがあれば、2m×2mの平面バッフルを、
なんとかすれば設置できなくもない。

バッフルを分割式にして、部屋で組み立てる。
そうすればなんとか実現できる(金銭的なことは抜きにして)。

問題は、その後である。
2m×2mの平面バッフルを、どうするか。

そのまま喫茶茶会記に置いておけるのならば、
やる気は急に出てくるものだが、そういうわけにはいかない。

結局処分するしかない。
処分するのにも費用は発生する。

このあたりが、平面バッフルをaudio wednesdayでやる上でのいちばんのネックとなる。

先日、東急ハンズに行ったら、強化ダンボールが売っていた。
いままでなかった商品である。

これを見て触っていて、
これで平面バッフルを作ろうかな、と思いはじめている。

別項「素朴な音、素朴な組合せ(その8)」で書いているように、
ずっと以前にアルテックの755Eをダンボール製平面バッフルで鳴らしたことがある。

気持ちのいい、その時の音はいまも、機会があればまた聴きたい、と思うほどだ。
この経験があるから、強化ダンボールによる平面バッフルを考えている。

Date: 10月 27th, 2019
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その38)

私が高校生のころ使っていたダイレクトドライヴ型は、
国産の普及クラスの製品で、私にとって、初めてのダイレクトドライヴ型でもあった。

ある日、ターンテーブルプラッターを外して、モーターを廻してみたら、
センタースピンドルが、カクカクした感じで回転している。
いわゆるコギングである。

スムーズに回転しているものだとばかり思っていたから、
このコギングは、かなり衝撃的だった。

ターンテーブルプラッターの慣性を利用して、
結果としてはスムーズに回転している、という説明をその後すぐに知ったけれど、
肝心の回転が、こんなにカクカクしていて、ほんとうに問題ないのか。

それになぜ、センタースピンドルでターンテーブルプラッターに回転を伝えているのかも、
これまで書いてきているように、非効率のように思えた。

この普及クラスのダイレクトドライヴ型プレーヤーのせいで、
私のダイレクトドライヴ型に対する不信感は、一拠に大きくなった。

パイオニアのPL30、50、70、
それにExclusive P3が登場する前のことだ。

パイオニアが、このころ採用したSHR(Stable Hanging Rotor)方式の解説図、
これを見てダイレクトドライヴ型のすべてがセンタードライヴでないことに気づいた。

SHR方式を理解しようとして、まずつまずいたのが、
ダイレクトドライヴ・イコール・センタードライヴという思い込みだった。

それでどうやってSHR方式を実現できるのだろうか、とけっこう考えたものだった。
カタログに載っていた図を見て、なんだぁ、と気づいたわけだが、
おかげでセンタードライヴではないダイレクトドライヴ型に気づけた。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(その3)

「音で遊ぶ」オーディオマニアなのか、
「音と遊ぶ」オーディオマニアなのか。

少し前に、自己模倣という純化の沼ということを書いた。
このことも、「音で遊ぶ」なのか「音と遊ぶ」なのかについて関係しているように感じている。

いまのところ、
「音で遊ぶ」人は、どうも自己模倣に陥りがちなのではないのか。

その2)で、デコレートされた(よく)と書いた。
このデコレートされた(よく)こそが、自己模倣によって生じた純化という沼なのか。

そして、その沼で「音で遊ぶ」。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: オーディオの科学

閾値(その4)

この項の(その1)でやったことは、
そうとうにオカルトと批判する人はけっこういるように思う。

音は、audio wednesdayに来ていた人全員の耳で確認してもらった。
明らかに音は変化する。

これで変化するのか、
しかもここまで変化するのか、と試してみた本人の私が、
少々驚くほどだ。

その3)で常連のHさんが自宅のシステムで試されたことも書いている。
ここでも、音の変化ははっきりとあらわれただけでなく、
奥さまの耳にも、その変化は聴きとれた、とのこと。

パリ管弦楽団の副コンサートマスターの千々岩英一氏のツイートを、
Hさんが教えてくれた。

そこには、私がaudio wednesdayでやったことと同じと思われることを、
ヴァイオリンで試されている。

千々岩氏のツイートには、
《仕組みはよくわかりませんが、音が少し輝かしくなったような気がしなくもないです》
とある。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その2)

夏がようやく終って、富士山が見える日が増えてきた。
今日は神奈川県の寒川町のあたりに夕方いた。

クルマの中から見えた富士山が、
いままでに見たことのない富士山だった。

夕方は曇り空だった。
富士山の中腹ほどには雲も多かった。

風の強い晴天の日に見ることの出来る富士山とは、
正反対の趣の富士山であった。

おそらく東京からでは見なかったであろう。

なんといったらいいのだろうか、
藍色を主とした水墨画のようでもあったし、
使う色を極力抑えた日本画のようでもあった。

高解像度の写真のようにディテールがはっきりしているわけではない。
むしろぼやけている。

それは写真のようではなく、絵画的だった。
こういう富士山の表情があったのか、と思った。
初めて見た(感じた)富士山の美しさがあった。

今日の富士山はもう二度と見れないかもしれない。
それにしても、富士山は見飽きないのか。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その15)

いい音が鳴ってきた、と思う時がある。
オーディオマニアなら、誰にでもあろうことだ。

そういう時に愛聴盤、
それもとっておきの愛聴盤を、それこそ満を持してかける。

いい音よりも、もっともっと上の素晴らしい音で愛聴盤が鳴ってくれる──、
そういう期待がもう膨らみに膨らんでいる。

にも関らず、鳴ってきた音楽はすかすかだったりすることがある。
音は悪くないどころか、いい音ではある。

なのに音楽が、愛聴盤でこそ聴きたい音楽がすかすかとしか、
他に表現のしようがないほどに、なんら響いてこない。

虚しく、あちら側で鳴っている──、
そんな感じしかしない。
音楽に感動する、とか、そんなこと以前に、
かなしくなってしまう。

そういう時も「音は人なり」である。
そこで鳴ってきた、これまで大切にしてきた音楽がすかすかにしか鳴らないということは、
鳴らしている己がすかすかでしかない、ということを、
否応なく正面からつきつけられる。

どこにも逃げようがない。
愛聴盤をかけるまでは、素晴らしい音に仕上がった、と思っていただけに、
よけいに惨めさを味わうことになる。

そんな時に慰藉してくれる愛聴盤がまったく響いてこないのだから、
どこにも逃げ場はない。

「音は人なり」は容赦ない。
その容赦なさに、だまって耐えるしかない。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その2)

音楽をオーディオを介して聴いていると、
ふと、他に誰もいないのではないか、という錯覚に似た気持になることがある。

スピーカーから鳴っている音楽を演奏している人がいる。
そして、それをスピーカーの前で聴いている私がいる。

この二人以外、誰も世の中に存在していない──、
わずかな時間ではあるのだが、そう感じる、というよりも、
それに気づくことがある。

気づく、というのも変な表現だ。
実際に、外に出れば人は誰かしらいるし、
隣近所の建物には誰かが住んでいるわけなのだから。

東京のように人口密度が高い都市では、隣の家との距離も近い。
半径百メートルにどれだけ多くの人が住んでいるのか。

にも関らず、いま独りだ、と気づくことが、
スピーカーからの音楽を聴いていて、ときどきある。

この気づく瞬間が好きなのかもしれない。
この気づく瞬間があるからこそ、ながくオーディオをやってきているのかもしれない。

昨日もあった。
昨日は、野上さんのところで、野上さんと聴いていての気づきだった。
野上さんが私の前にいて、音楽を聴いている。

独りだ、と気づいたし、あっ、独りと独りだ、とも気づいた。
野上さんのところは線路から近い。

電車の走る音によって、
そうだ、野上さんの家の周りには、多くの人が歩いていたり、話していたり、
テレビを見ていたりしているわけだ。

電車の音も、聞こえていたはずなのに、
電車の音に気づくのもけっこうな時間が経っていた。

その電車には多くの人が乗っている時間帯なのに、
なんだか誰も乗っていない電車が走っている感じもしていた。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: オーディオマニア

平成をふり返って(その7)

個人情報の保護ということがいわれるようになってから、
病室の入口に、入院している患者の名前のプレートが消えていった。

私が入院していたころは、
どの部屋にどんな名前の人が入院しているのは、
部屋の前を通れば、誰でも知ることが出来た。

個人情報の保護という点では、ネームプレートをなくしたことは間違っていない。
けれど、一方で、患者の取り違えをなくすために、
患者本人に名前をフルネームで、さらに生年月日までいわせるようになっている。

こうすれば患者の取り違えは、まず起らないだろう。
でも、看護婦が患者に、病室の前の廊下で、名前と生年月日をきいているのは、
そばを通っている人の耳には、はっきりと聞こえたりする。

フルネームと生年月日が、第三者に情報が漏れてしまっている。
これで個人情報の保護を行っているつもりなんだろうか。

これがとある大学病院でのことである。
このちぐはぐさはなんだろう、と思う。

個人情報は保護しなければならない、
患者の取り違えは絶対に無くさなければならない。
この二つの重要なことの両立が、
私がたまたま訪れた大学病院ではできていなかった。

(その6)で書いている、昼間でもカーテンを閉めきって、
病室が暗くなっていることも、
入院患者の一人一人が、なんとなくではあるが、
個人情報の保護とプライバシーの確保ということに、
ずいぶん神経質になっているためなのだろうか。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、カセットテープのこと(その6)

218で聴くmp3の音について考えていて思い出すのが、
モーツァルトのレクィエムの補筆に関してのことだ。

五年ほど前に「ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)」で書いている。

私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっているわけだ。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。
未完成なのだから、それは仕方ない。

モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。

補筆のところになった途端に、音楽的差違の激しさにがっかりする演奏がある。
補筆が始まったとわかっても、モーツァルトのレクィエムとして、
最後まで聴ける演奏もある。

そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──
という考えに立てば、前者がハイ・フィデリティな演奏ということになる。

そんなことはわかっている。
でも、そういうモーツァルトのレクィエムを聴きたいのか。
補筆が加わる前で、レクィエムは止める、という聴き方もある。

それがモーツァルトのレクィエムとしての正しい聴き方とは思う。

それでも、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持がある。
そうすると音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。

218でmp3の音の、カセットテープ的な音は、
モーツァルトのレクィエムでいえば、後者の演奏的といえる。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、カセットテープのこと(その5)

写真家の野上眞宏さんのところに、
メリディアンの218が入って、ほぼ一ヵ月。

野上さんによると、mp3の音もいい、ということ。
今日は野上さんのところでいろいろな曲を聴いたあとで、mp3の音源も聴いた。

それまで聴いていた音とは、はっきりと違う。
違うけれど、他の機器で聴くmp3音源の嫌な感じは気にならない。
ない、とさえいいたくなる。

それに音の印象が、実にカセットテープの音の印象そのままに感じる。
高校生のころ、
レコード(アナログディスク)をカセットテープにダビングした音を思い起こさせる。

低音域も高音域もナロウレンジになっている。
ダイナミックレンジも狭くなっている感じがある。

それに不安定とまでいうといいすぎかもしれないが、安定感にはかける。
ふわふわした感じがつきまとうなど、
私がカセットテープに抱いている印象そのままで鳴っている。

悪くない。
これだったら、しばらく聴き続けていられる。ちょっと意外な感じがした。

こんなことを書くと、
MQAは非可逆圧縮、mp3も非可逆圧縮。
非可逆圧縮音源の再生が得意なD/Aコンバーターなんだろう──、
そんなことを言い出す輩がいるはず。

mp3はデータ量が少ないからひどい音で、
ハイレゾ音源のようにデータ量の多いものはいい音で、
そうであってこそハイ_・フィデリティだ──、
つまり二つの音源の違いがはっきり出たほうがいい、というのか。

私はmp3でしか聴けない音源があるのだから、
mp3がカセットテープのような感じでもいいから、
聴いていて苦痛になるような感じが払拭されている218での音は、歓迎する。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(老害、独断と分断・その1)

老害とは、
企業や政治の指導者層の高齢化が進み,円滑な世代の交代が行われず,組織の若返りがはばまれる状態、
と大辞林には、そう書いてある。

オーディオの世界でも、老害について書かれていることを、
SNSでもみかける。
割と多いのではないか、とさえ思うほど、頻繁にそうであったりもする。

それほど熱心にSNSをチェックしなくなったので、
たまたまみかけた、そういう書き込みについての印象でしかないのだが、
この人が指摘している老害は、ほんとうに老害なのだろうか、
と一言返したくなることもないわけではない。

面倒なので返信したりしないのだが、
老害といっておけば、それに賛同する人が必ず現れるというのが、
SNSの、オーディオに関する投稿ではないのか。

五年前に、twitterに、
《年寄りの話をきちんと聞けない、年寄りと会話できない人はオーディオに向いてない、と断言できる。》
と投稿した。

これに数年後、書いたことを忘れたころに返信があった。
見知らぬ人、フォローもしていない人からだった。

そこには、老人の話ばかりを有難がって、
若者の意見に耳を貸さないのは老害である──、
そんなことが書かれてあった。

どんな人なのかは、まったくわからなかったけれど、
おそらく私よりも若い人なのだろう、かなり若い人なのかもしれない。

その人の返信を読みながら、こんなふうにとらえるのか、とがっかりもした。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・その5)

今回、Windowsを触って思うのは、
音楽を聴くためにWindowsは使いたくない、ということを再確認していた。

Windowsを使うのに抵抗のない人はそれでいいのだろうが、
私はどうしても嫌である。

自分のところではいろいろ試すのもいいが、
喫茶茶会記でのaudio wednesdayでは、Raspberry Piの導入を考えはじめている。

Raspberry Piの基板にはI2Sのコネクターがついている。
I2SをSPDIFに変換するドーターボードも、いくつか市販されている。
どちらも数千円で購入できる。
サイズも小さい。

Raspberry Piには以前から興味をもっていたけれど手を出すことはしなかった。
単に面倒がっていただけである。

でも218の喫茶茶会記への導入を機に、Raspberry Piの導入は、
優先順位として高くなりつつある。

Raspberry Piをいじるようになったらなったで、
CDプレーヤーの、なんだかんだいっても完成度の高さを実感するようになるような気がする。

CDプレーヤーは第一世代から、
ステレオサウンドの試聴室でじっくりと触ってきている。

そのころのCDプレーヤーはプログラム再生を試すと、
動作がおかしくなって、電源を一度落さなければならないモデルも、
実を言うといくつかあった。

そういう時代から知っているだけに、
よけいに完成度ということを思ってしまう。

Date: 10月 23rd, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・その4)

先週金曜日に喫茶茶会記に、メリディアンの218その他を導入したとき、
店主の福地さんは旅行中で休みだった。

福地さんが休みのときの店番の女性に、基本的な操作方法を伝えていた。
それでもパソコンを接続しての再生は試していなかった。

今日、喫茶茶会記の開店前に行ってきた。

218には、D/Dコンバーターが、
D/Dコンバーターにはノート型パソコンが接続されていた。

D/Dコンバーターは、FX-AUDIOのFX-D03J+を使用した。

型番末尾に+がつかないモデルもあるが、
サンプリング周波数192kHzに対応できるのは、+がつく方である。

USBバスパワーで動作するモノなんて……、という人がいるのはわかっているが、
サイズも大きくないし、価格も手頃である。

USBバスパワーで満足のいく音が出なければ、その時対処法を考えればいいことで、
最初からUSBバスパワーということだけで、製品そのものを否定はしたくない。

ノート型パソコン(Windows)には、foobar2000がインストールされていた。
私はWindowsもfoobar2000も、どちらも初めて、といっていい。
Windowsはまったくとはいわないが、これまで触った回数は四回程度の短い時間。

それでも、ちょっと設定で迷ってしまったけれど、
192kHz、24ビットまでの再生は問題なくできるようになった。

福地さんも、218のためにiPhoneを購入した、とのこと。
218で、さまざまな音源が楽しめる環境が整いつつある。

Date: 10月 23rd, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、音の量感のこと(その6)

BCIIにしても、LS3/5A、そしてPM510も、
その音を最初に聴いたのは、CDではなくアナログディスクでの音で、だった。

どのスピーカーも、CD以前に登場している。
そういう時代に、これらのスピーカーの音を聴いて、みずみずしい音というものを知った。
知った、といえるし、出逢えた、ともいえる。

これらのなかでLS3/5Aは、いまも人気のあるスピーカーだし、
復刻版や各社から、いくつものLS3/5Aか出ている。

それでも、私が十代のころ体験できた、あのみずみずしい音を、
いまの若い人たちが体験できるのかというと、
周りの状況がずいぶんと違ってきているし、
LS3/5Aも、いまではLS3/5aになって、音そのものの変化もあるだろうから、
なんともいえない。

みずみずしい音の認識、捉え方が違っていても仕方ないのか、と
なかばあきらめもあるが、
それでもみずみずしい音、
私がずっと求めてきているみずみずしい音を、
誰もが聴く機会がもてるようになってほしい。

そこに昨秋、メリディアンのULTRA DACを聴く機会が訪れた。
MQA-CDの音を、ULTRA DACで初めて聴いて、驚くとともに嬉しくなった。

みずみずしい音が、
本音でみずみずしいといえる音が、そこにあったからだ。

ULTRA DACは、喫茶茶会記のスピーカー、
つまりアルテックのユニットを中心としたシステムであり、
私か感じるみずみずしい音を出してくれるスピーカーとは大きく違っている。

それでも、そこからみずみずしい、といえる音が聴こえてきた。