Author Archive

Date: 3月 9th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その7)

私がオーディオ雑誌を読み始めた1970年代後半、
そのころ、各オーディオ雑誌の書き手は固定されていた面があった。

たとえば瀬川先生は、ステレオサウンドがメインだった。
その他はFM fanの連載があって、別冊FM fanにも書かれていたし、
スイングジャーナルにも、おもに別冊に登場されていた。

私がオーディオ雑誌を読み始める前は、ステレオでも書かれていた。
それ以前はラジオ技術の編集者であり、メイン筆者でもあった。

でも、私がオーディオ雑誌を読み始めたころは、そんな感じだった。

長岡鉄男氏は、いわゆる売れっ子のオーディオ評論家だったが、
ステレオサウンドには、そのころはまったく書かれていなかった。
それ以前は書かれていた時期がある。

長岡鉄男氏は出版社でいえば、共同通信社と音楽之友社がメインだった。

ようするに筆者(オーディオ評論家)によって、
メインとなる出版社は決っていた、といえる。

とはいえ瀬川先生は、はっきりとステレオサウンド社がメインであったが、
だからといって、サウンドボーイには一度も書かれていない。

サウンドボーイが創刊されたころ、なぜなのか、不思議だったのだし、
サウンドボーイにも書いてほしいと思っていた。
ステレオサウンドで働くようになって、その理由を知ったが書くつもりはない。

そういう瀬川先生だから、もし長生きされていたとして、
ステレオサウンド社から出ている管球王国にも登場されなかったはずだ。

Date: 3月 9th, 2020
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その6)

(その5)へのコメントがfacebookであった。
(その5)で、私は「ぼくのオーディオ回想」はつまらない、と書いている。

コメントの方は、そこはいい、
けれど続く、
私の周りに「ぼくのオーディオ回想」をおもしろい、といっていた者はいない、
と付け加えるのは余計とあった。
読者には検証できない事例を挙げて客観性を装う一文、ともあった。

客観性を装うつもりはさらさらない。
おもしろい、おもしろくないは、主観でしかないからだ。

ここで私が「ぼくのオーディオ回想」は、
まったく役に立たない記事だ、とか、ページのムダでしかない、
そんなことを書いて、私の周りも同じことをいっていた──、
そんなことを書いていたのであれば、客観性を装う一文といわれてもかまわない。

でもくり返すが、私はつまらない、と書いている。
つまりおもしろくなかったわけで、ここには客観性など、どこにもない──、
というのが私の認識である。

「ぼくのオーディオ回想」は、始まったころは少しは楽しみにしていた。
回を追うにつれ、なんだかなぁ……、と感じ始めてきた。

「ぼくのオーディオ回想」に感じたことは、
菅野先生が亡くなられたときの柳沢功力氏の文章にも感じていたことだ。

どう感じたのかは、ここでのテーマとは関係ないので省くが、
二つの文章に共通する何かを感じるか感じないのか、それも人によって違ってくる。

何も感じていない人に、どれだけ言葉を費やしても伝わらない。

Date: 3月 8th, 2020
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その5)

文章だけの、月刊ステレオサウンドの創刊という提案は、
オーディオ評論家に連載を持たせろ、ということである。

いまステレオサウンドに書いている人で、
連載を持っている、持っていた、という人はどれぐらいいるだろうか。

しかも読者の記憶に残るような連載を持っていた、という人はいるのか。

ここでの連載とは、試聴に頼る記事ではない。
試聴によりかかったところでかかれる文章ではないものを、毎号書いていく。

ステレオサウンド 213号で終りとなった柳沢功力氏の「ぼくのオーディオ回想」は、
その意味で連載といえるのか、と私は思っている。

毎号毎号書かれたものでなく、短期間で書き上げたものを、
毎号毎号掲載していったものであるからだ。

それも連載じゃないのか、と思うのは勝手だが、
こうやって毎日ブログを書いていて感じているのは、
毎日書くことによる気づきがあるからだ。

「ぼくのオーディオ回想」はタイトル通りの内容だから、
そこに気づきなんてものは必要ない、ということなのかもしれない。

でも、ほんとうにそうなのだろうか。
回想であるからこそ、気づきがあってのものなのではないのか。

私は、「ぼくのオーディオ回想」はつまらない、と感じていた。
私だけではなく、周りの友人、オーディオ仲間で、
誰一人として「ぼくのオーディオ回想」をおもしろい、といっていた者はいない。

Date: 3月 8th, 2020
Cate: アクセサリー

仮想アース(218の場合・その4)

218に、あることを施したことでアース電位が大きく下ったことを書いた。
それまでの約四分の一ほどになった、とも書いた。

本音をいえば、この「四分の一」というのも具体的な数字につながっていく。
今回はたまたま喫茶茶会記でも、私の自宅でも、そのくらい低くなったが、
それがたまたま偶然だったという可能性も考えられる。

今回の218のアース電位に関しては、喫茶茶会記でも、私のところでも、
時間差がけっこうある。
あくまでも以前測った値と比較して、である。

より厳密に測ろうということで、
今回手を加えた箇所を元に戻して測定し、また手を加えて測定。
これをごく短時間の間に行わなければ、
「四分の一」という数字は具体的なものにはならない、といえる。

そうやってアース電位を測ると、四分の一ではなく三分の一か二分の一くらいかもしれないし、
五分の一くらいになるかもしれない。

そういう可能性が十分あるわけだ。
今回「四分の一」くらいということを書いたのは、コメントがあったためでもある。

Date: 3月 8th, 2020
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その20)

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代は、
メーター付きのアンプが、いまよりも多かった。

その当時は、なぜだろう、とは考えなかった。
その後、メーター付きのアンプが減ってきても、そんなことは考えなかった。

いまはちょっと考える。
なぜだったのか。

それは真空管アンプが、ほとんど市場からなくなった、
メーカー製の真空管アンプが非常に少なかったからなのではないか、と考える。

真空管アンプにあって、
トランジスターアンプにないものとはなにか。

ガラスという素材である。
真空管の多くはガラスのなかに電極がおさめられている。

真空管のまわりにはトランスがある。
トランスは金属のかたまりであり、
真空管、トランスはシャーシーの上に並ぶ。
シャーシーも、もちろん金属である。

真空管アンプ、
きちんといえば真空管のパワーアンプは、金属とガラスという異る素材がつねにあった。

トランジスターアンプになると、金属だけである。
でも、そこにメーターがついてくると、少し違ってくる。

メーターにはガラスもしくはアクリルが使われている。

Date: 3月 7th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その7)

児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
第一番を、先日のaudio wednesdayでもかけた。

別項「喫茶茶会記のスピーカーのこと」でふれたように、
この日の音は、いままで鳴らした音のなかでも、かなりひどかった。
それにくわえて時間の余裕もなかった。

SACDが、こんなにひどい音で鳴るのか──、
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンを鳴らすのはやめようかな、とも思うほどだった。

ほんとうはSACDとして鳴らしたかった。
でも、その状態の音では鳴らしたくなかった。

結局メリディアンの218を通して、CDとして鳴らした。
もう期待はなかったのだが、
鳴ってきた音は、ひどい状態の音であっても、
動的平衡の音の構築物の片鱗の、そのまた片鱗くらいは感じさせてくれた。

あの日、菅野先生のリスニングルームで体験した音の構築物という感じが、
多少なりとも響いてくれた。

ただ質は、それに伴っていなかったし、大半は構築物が崩れているようにも感じてもいた。
ほとんどの人が、この音を聴いたら、ひどい音ですね、ときっというだろうし、
児玉麻里とケント・ナガノの、この演奏を初めて聴く人は、
録音がいいとも感じなかったかもしれない。

それでも、私はちょっとだけ、ほっとしていたし、
そこで目の前に展開していると感じる音の構築物に浸っていた。

きわめて主観的な聴き方であって、
誰かに理解してもらおうとはまったく思っていない。

同じように感じる人もいるかもしれない。
ひどい音と、切って捨てる人もいるはずだ。

音楽をオーディオを介して聴く、ということは、つまるところ、そういうことのはずだ。
もっといえば、ベートーヴェンをそうやって聴くということは、
まさしく、そういうことである、と信じている。

Date: 3月 7th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その6)

ようやく自分のシステムで鳴らした児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲

もっと早く鳴らしていればよかった、と思えるくらいの感じでは鳴ってくれた。
ただ単にいい音で鳴ってくれた──、ではむしろ何の満足もない。

菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」、
そういわれた理由が伝わってくる音でなければ、
このディスクをかける意味が、少なくとも私にはない。

菅野先生のところで、このディスクを聴いていなければ、
そんなことはまったく思わなかったはずだ。

でも聴いている。
それがどんなふうに鳴ってくれたのか、
私の心にどう響き、
何を感じさせたのかについて、以前書いているので、ここではくり返さない。

まさしくベートーヴェンであるために、動的平衡の音の構築物であってほしい。
音場感がよく再現されている、
音の定位もいい、各楽器の質感もよく鳴っている──、
そんな感じの音で鳴ったとしても、それは「まさしくベートーヴェン」とはいえない。

動的平衡の音の構築物であってこそ、私にとっての「まさしくベートーヴェン」であり、
おそらく菅野先生にとってのベートーヴェンも、そうであったと確信している。

私のところで鳴ってきた音は、
動的平衡の音の構築物としては、まだまだである。
そんなことはわかっていたことだ。
それでも、片鱗を感じさせてくれた。

このディスクは、以前CDを鳴らしていた。
知人宅でも聴いている。
いずれでも、そんな印象は微塵も感じなかっただけに、今回感じた片鱗は、
片鱗であっても、「まさしくベートーヴェン」の世界へ一歩足を踏み入れたことだけは確かだ。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その18)

メリディアンの218に電源スイッチはない。
なので私はずっと通電したままで使っている。

電源を切るのは手を加えるときぐらいだ。

audio wednesdayの前日の夜に準備をする。
218もその時バッグに収める。23時ごろには電源を切るわけだ。

audio wednesday当日は早ければ18時ごろには電源をいれる。
それでも本来の音が鳴ってきたな、と感じるのは、その二時間後ぐらいである。

今回は電源を入れたのが21時過ぎだった。
ほぼ丸一日電源を入れていない状態だった。

つまり218本来の音が鳴ってくるのは、その二時間後、
23時過ぎくらい、ということになる。
こればかりはどうにかできることではない。

鳴らしながら待つしかない。
だから22時30分ごろは、ようやく鳴り始めてきたな、という状態でもある。

やっとここで、編成の小さな、しっとりした感じが重要となる曲をかける。
それまでかけてきた曲とは、音量もぐんと小さくなる。

こういった曲が、なんとか鳴ってくれれば、まずまずということになる。
そして、この時点で、MCD350からiPhoneに変更した。

鳴らしたのは、映画「JUDY」(邦題:ジュディ 虹の彼方に)で、
主演のレネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”である。

MQAで、44.1kHz、24ビットである。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その17)

今回のaudio wednesdayでは、SACDをけっこう持ってきた。
個人的にも、どんなふうに鳴ってくれるのか興味津々なところもあった。

でも、その期待は一瞬にして打ち砕かれた。
せっかくのSACDであっても、メリディアンの218を使えば、
DSD再生ではなく44.1kHz、16ビットの通常のCD再生となる。

スペック的には、音質的にも不利になる。
それでも218の音を聴いてみよう、と思うしかなかった。

218を通す以前かけていたSACDのCD層を鳴らす。
残念なこと、というべきなのかもしもないが、
218での音の方がよかった。

いくら手を加えた218とはいえ、
元のプログラムソースがSACDとCDとでは、
誰が考えてもSACDのほうが良く鳴ってくれる、と思う。
私だってそうだ。

またそうでなくては困る。
なのに、この日の結果は違っていた。

こうなるとMCD350の調子がどこかおかしかったのかもしれないが、
それを突き止める時間はなかった。

218で聴こう、と決めた。
何も知らずに訪れた人が聴いたら、ひどい音と感じただろう。
それでも、そのがさつな音に耐えていくしかない。

こういう時、時間の余裕がたっぷりとあれば、
やさしいソフトから徐々に鳴らしていく、というやり方もあるが、
そんな悠長なことはやってられない。

それでも218の良さは伝わってくる鳴り方はしていた。
結局、どうにか聴ける音になってきたと感じたのは22時30分ごろだった。

そのくらいかかると、218にした時点で予想できていた。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その16)

audio wednesdayは毎月第一水曜日だから、
次回までは四週間もしくは五週間あることになる。

そのあいだは、誰かによって鳴らされていたり、
スピーカーを鳴らす必要のない人、
つまり喫茶茶会記のスペースを音楽、オーディオ以外に利用している人たちにとっては、
邪魔な存在になったりする。

今回は四週間ぶりになる。
しかも3月のaudio wednesdayは、どうしてもさけられない用事があって、
喫茶茶会記への到着がいつもより二時間以上遅くなってしまった。

音が鳴り始めたのは20時過ぎていた。
鳴ってきた音は、ひどかった。

この四週間のうちに、どれだけひどい扱いを受けてきたのか、
それともがさつな鳴らし方をされてきたのか、
そんなことを想像してしまうほど、がさつな音しか鳴ってこなかった。

時間の余裕があれば、あれこれやれるが、今回は違った。
もうただただ鳴らしていくしかない。

繊細さ、みずみずしさ、艶、そういった要素が皆無の、
野放図な音だった。
だから、がさつな音と表現したくなる。

2月のaudio wednesdayでの音は、いったいどこか消えてしまったのか。
そういいたくなるほどだった。
しかもSACDで、そういう鳴り方だった。

今回は遅くなったこともあって、
メリディアンの218は設置しなかった。
マッキントッシュのMCD350で、いい音がしたら、
そのまま行こうかな、と考えていただけに、
出てきた音のがさつな音の度合の大きさに、結局218を取り出すことにした。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: アクセサリー

仮想アース(218の場合・その3)

アースの理想の状態は、電位が0Vであり、絶対に変動しないこと。
おそらく実現はできない、と思う。

なので現実にはできるだけ低く、変動しないこと、もしくは変動しにくいことである。

今回の218(version 9)のアース電位は、それまでの四分の一程度までに低くなったとはいえ、
アースに関するところに手を加えたわけではない。
仮想アース関連のアクセサリーを使用したわけでもない。

具体的なことは伏せておくが、
やった本人にしても、アース電位がここまで低くなるとは予想をこえていた。

数割程度は低くなるかもしれない、その程度の予想だった。
こうなるとアースに関するところは手を加えていないとはいえ、
アース電位を低くし、変動も小さくする、という意味では、
仮想アースに関係してくること、と判断して、ここで書いたわけだ。

仮想アースという言葉にとらわれすぎて、
パッシヴ型にしろアクティヴ型にしろ、
アースになんらかのアクセサリーを使用するのが仮想アースと考えてはいないだろうか。

今回やったことはパッシヴ型といえる。
218にだけのことではなく、他のオーディオ機器にも使える。
けれど、くり返しになるが、アースに直接何かをしたわけではない。

それでもアース電位を低くすることは可能なわけだ。
このへんに関しては、もう少し追試を行うつもりだ。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: アクセサリー

仮想アース(218の場合・その2)

昨晩(その1)へfacebookでコメントがあったので、(その2)を書くことにした。

これまでテスターでアース電位を測ってきた、と書いてきた。
けれど、一度も、測定値を出しことはない。
理由は簡単である。

テスターで測るアース電位は、常に絶対値ではないからだ。
改めて書くまでもないことだが、テスターの片方は指で持っている。
つまりアース電位を測るさいの基準は、測る人の身体の電位である。

つまり同じ条件で測っても、
測る人が変れば、数値は微妙に変化するし、
同じ人が測っても、違う日に測ればテスターに表示される値は変ってくることがある。

それで短時間で、どちらの電位が高いか低いかをみるには、なんら問題はない。

絶対値が測れれば、そこでの数値をここで書いている。
メリディアンの218の、AC極性があっている時は○○Vで、
合っていない時は○○V、というふうにである。

けれど、あくまでも相対値でしかないから、高いか低い、
そのくらいのことしか書いてこなかった。

今回もどの程度アース電位が低くなったのかについては書かなかった。
version 9にして、218のアース電位は、
version 8までのアース電位、ほぼ四分の一程度までに低くなっている。

数割程度低くなっていたわけではない。
ここまて低くなる、ということは、
絶対値ではないとはいえ、はっきりと低くなった、といえる。

それに昨晩の(その1)を書く前にも測っている。
やはり以前測った値の四分の一程度に下っている。

これまでテスターによるアース電位の測定は、数えきれないほどやってきている。
どういう誤差が発生するかも承知している。

そのうえで、今回の218のアース電位の低さは、もう誤差とはいえない、と判断した。

Date: 3月 5th, 2020
Cate: アクセサリー

仮想アース(218の場合・その1)

昨晩のaudio wednesdayでは、メリディアンの218(version 9)を持っていった。
version 8からversion 9への変更点は少ない。

音はけっこう変化した。
そのことについて書きたいのではなく、
昨晩、セッティングしているときに、218のアース電位を測ってみた。
これまでに二回ほど測っている。

どちらもほぼ同じ値を示した。
今回もそのくらいのはず、と思っていたら、
そうとうに低い値をテスターは示す。

電源を入れ忘れているのかな、と確認しても、そんなことはない。
その下り方は誤差とはいえないほどである。

しかも値が低いだけでなく、変動率も小さくなっている。

仮想アース関連のアクセサリーを導入したわけではない。
その値を見て、アース電位について改めて考えてみた。

納得いく理由はある。
やってみて、測ってみて、
こういうことでもアース電位は下り、安定していくのか、という発見であった。
version 9の音の変化は、このことが大きく影響しているのかもしれない。

Date: 3月 5th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その1)

e-onkyoでは、
フリードリヒ・グルダとクラウディオ・アバドによるモーツァルトのピアノ協奏曲は、
第25番と27番のカップリングが、MQAの96kHz、24ビットで聴ける。

これがあるのに、なぜ、20番と21番がないのか、と思っていた。
いつか出るのか、それとも出ないのか。

25番と27番は2018年に出ている。
約二年経っているのだから、出ない可能性が高いのか、
そんなことを思っていたら、
ドイツ・グラモフォンから、
20番、21番、25番、27番を、CD(二枚)+Blu-Ray Audio(一枚)で、5月に出る。

192kHz、24ビットでリマスターされており、
Blu-Ray Audioは192kHz、24ビットでの収録である。

このあたりは、さきごろ出たミケランジェリのドビュッシーと同じだ。
ということは、これもまたミケランジェリのドビュッシーと同じで、
グルダ、アバドによるモーツァルトのピアノ協奏曲も、192kHz、24ビットで出るのか。

出るとしたら、MQAも含まれる可能性はとても高い。

グルダとアバドのモーツァルトは、
25番、27番のカップリングよりも、20番、21番のカップリングのほうが、
実に素晴らしい演奏である。

だからこそ20番、21番をMQAで聴きたい。
それがようやく叶うかもしれない。

Date: 3月 5th, 2020
Cate: audio wednesday

第111回audio wednesdayのお知らせ(218+α)

4月1日のaudio wednesdayは、218+αがテーマである。
メリディアンの218は、昨晩のaudio wednesdayでversion 9を聴いてもらった。

別項で書いているようにversion 10は構想だけで実行に移す気はない。
けれど、218は、もっともっと良くなるはず、と確信している。

今回は218の内部に手を加えるわけではない。
「218はWONDER DACをめざす(その15)」で触れているように、
218に、いわばオーディオ用アクセサリーを追加して、という意味での218+αである。

とはいっても、オーディオ用アクセサリーとして、
オーディオ店で売られているモノを使うわけではない。
そういうアクセサリー類を使うのは、218ユーザー一人ひとりが自由にやればいいことである。

メリディアンの218は、125,000円(税抜き)のD/Aコンバーターである。
そこに同等の価格か、それ以上の価格のアクセサリーを使おうとは、ほとんど考えていない。

218の価格の何倍もするアクセサリーを買って(使って)、
音が良くなったとしても、私の感覚としては、
それはちょっと違うだろう、と感じてしまう。

今回やることは、直接手を加えるわけではないので、
やる気になれば、どなたにも試せることである。

もちろん価格的にも、218とアンバランスになるようなモノは使わない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。