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Date: 6月 28th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その8)

HPD295Aに追加するウーファーとトゥイーターに何を選ぶか。
タンノイには単体のウーファーもトゥイーターもない。
他社製をもってくるしかないわけだが、
心情的にも、トータルとしての音色の統一ということでも、
どちらもユニットもできることならイギリス製をもってきたい──、
そう思っていても、選択肢は少ない。

HPD295Aは25cm口径だから、ウーファーには38cm口径をもってきたい。
そうなると、当時はセレッションのPowercel 15、
リチャードアレンのCG15、ヴァイタヴォックスのAK155/156ぐらいしかない。

Powercel 15はウーファーということになっているが、
センターキャップはたしかアルミ製だったし、周波数特性的には大口径フルレンジといえる。
CG15は、33,000円とHPD295Aのほぼ半分の価格のということで、
なんとなく格負けしそうな印象をもっていた。

AK155/156が本命といえばそういえたが、
このウーファーをバスレフ型エンクロージュアにいれて、
うまく鳴ってくれるのだろうか──、という印象があった。

イギリス製ということにこだわらなければ、アメリカ製がある。
アルテック、エレクトロボイス、JBLが候補としてあがってくる。

アルテックならば416か515ということになるが、
なんとなくタンノイとうまく合いそうにないと感じていた。
聴いたことがあるわけではないのに、そう感じていた。

エレクトロボイスのウーファーは、主として楽器、PA用ということだった。

そうなるとJBLなのか。
2231Aとか2205、LE15Aなどがあるが、HPD295Aの出力音圧レベルは87.5dB/W/mである。
あくまでもカタログ発表値での数値ではあるが、JBLのウーファーのほうが数dB高い。

ヴァイタヴォックスのウーファーは発表されていなかったが、
JBL以上に高能率のはずである。アルテックもそうである。

つまりマルチアンプでなら、出力音圧レベルがウーファーのほうが高いことは問題にならないが、
LCネットワークでシステムをまとめようとすると、やっかいである。

Date: 6月 28th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その7)

私のところにやってきたコーネッタには、HPD295Aがついてる。
HPD295Aは、私がオーディオの世界に興味をもちはじめた1976年秋、
一本60,000円のスピーカーユニットだった。

同軸型2ウェイというフルレンジユニット。
このHPD295Aというユニットに、より関心をもつようになったのは、
1977年に発売されたHIGH-TECHNIC SERIES-1を読んでからだった。

これも何度も書いている瀬川先生のフルレンジユニットから始まる4ウェイ構想である。
フルレンジ(シングルボイスコイル)からはじめて、次にトゥイーター、
その次にウーファー(この時点でマルチアンプ化)、最後にミッドレンジを加えての4ウェイである。

瀬川先生の4ウェイ構想では、ミッドレンジはJBLの175DLHだった。
瀬川先生のプランどおりにフルレンジから始めてもいいし、
フルレンジ+トゥイーターからのスタートもあるし、
最初から4ウェイとして、というやり方もある。

その人のフトコロ具合や力量に応じてのプランともいえる。

この4ウェイ構想は、学生の私にとって、あれこれ考える(想像する)のが、楽しいものだった。
そのうちに、そうだ、タンノイの同軸型ユニットからスタートするという手もあるということに気づいた。

ぴったりなのが、HPD295Aである。
ユニット構成として、25cm口径のコーン型にホーン型の組合せ。
瀬川先生の4ウェイ構想では、ミッドバスとミッドハイのポジションにぴったりとあてはまる。

HPD295Aからスタートして、トゥイーター、ウーファーを足していくことで、
最終的に4ウェイとする。

こんなことを考えはじめると、タンノイのEatonへの関心もましてくる。
HPD295Aが入っているブックシェルフ型。

まずこれを買って、しばらく楽しんだのちに4ウェイ化していく、という考えだ。
けれど、現実的にはEatonは当時80,000円(一本)していた。

ユニット単体の価格からすれば、安いくらい感じるけれど、
当時高校生になったばかりの私には、かなり高価なスピーカーであった。

それにEatonを手に入れたとして、次のステップとして、
どのメーカーの、どのユニットを選択するのか──、
これがけっこう悩ましかった。

Date: 6月 27th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その8)

片持ちは、オーディオ機器のいたるところにある。
たとえばスピーカーシステムであれば、バスレフポートがそうである。
とうぜんポート長がながくなればなるほど、片持ちの影響は大きく音にあらわれることになる。

それにスピーカーユニットそのものも片持ちといえば、そういえる。
特に奥行きの長いユニットほど、片持ちの影響は、ここでもはっきりとあらわれてる。

ホーン型のユニットは、コンプレッションドライバーの重量のため、
後側が重たくなっている。

JBLの4343の中高域ユニットは2420。
フロントバッフルにホーンの一端が固定され、反対側に2420という重量物がくる。
重量バランスはかなり悪い。

その重たい後部が、いわばフリーの状態である。
4343の後継機の4344では、ホーンの後部(ドライバー側)に金属板をとりつけ、
この金属板がエンクロージュアの天板に固定されることで、片持ちの影響を抑えている。

それから同軸型ユニットも片持ち的といえるユニットである。
同口径のコーン型ユニットよりも、中高域がホーン型の同軸型ユニットは、
奥行きの長いユニットになってしまう。

アルテックの604もそうだし、タンノイの一連の同軸型ユニットがそうだ。
これらのユニットをきちんと鳴らそうと考えるのであれば、
ユニット後部をどう支えるかも考えていくことになる。

こまかいことをいえば、ここで注意をはらう必要があるのは、
上記の二例の場合、フロントバッフルでも固定されている、ということである。

エンクロージュアという箱が、完全な無共振・無振動であれば問題はないのだが、
現実にはそんなことは無理である。

さまざまなことろが共振し振動している。
その振動の位相が各部同じであることはまずない。

フロントバッフルと後部とを固定した場合、
二つの固定点の位相はどういう関係にあるのか。

Date: 6月 27th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その6)

ステレオサウンド 55号には、
「ザ・スーパーマニア=故・五味康祐氏を偲ぶ」が載っている。

その55号の編集後記八本のうち二本は、ほぼ記憶している、といっていい。
一本は何度か引用している原田勲氏の編集後記。
もう一本は、Ken氏の編集後記だ。
     *
 ぼくのオーディオは「西方の音」で始まった。以来タンノイこそ理想のスピーカーと信じ、いつしか手にすることを夢みたものである。そんなある日、モニターゴールドを譲ってくれるという人が現われ、五味先生ばりにオート三輪ならぬ2トン積トラックで武蔵野まで取りにいった。コンクリートで補強してあるとかでばかに重いコーナー型の国産箱をなんとか荷台に積み、意気揚々わが家に向けて走り出したとたん、後ろでものすごい音がした。最初のかどを曲がったはずみで箱が一本倒れたのだ。壊してしまったのじゃないかと真っ青になって荷台にあがり、初夏の頃だったので寒風吹きすさぶというわけではなかったが、あとは支えて帰った。
     *
Ken氏は、古くからのステレオサウンドの読者ならばご存知のように、
いまステレオサウンドの筆者の一人の黛健司氏である。

五味先生、黛氏、ふたりのように荷台に乗ってスピーカーを支えるという行為は、
いまでは道路交通法違反になってしまう。

おそらく、どちらのクルマも、荷台が平ボディだったのだろう。
私はバンボディ(荷台が箱になっている、いまでは一般的なタイプ)で、
コーネッタはラッシングベルトでしっかり固定していたから、
荷台で支えることはなかった。

五味先生は、この日のことを「わがタンノイ・オートグラフ」でも書かれている。
     *
 この時までのわたくしは、S氏が追放されたグッドマンを拝借し、同じく追放されたガラードのプレヤーで、ひそかに一枚、二枚と買い溜めたレコードを聴いていた。S氏邸のタンノイを聴かせてもらう度に、タンノイがほしいなあと次第に欲がわいた。当時わたくしたちは家賃千七百円の都営住宅に住んでいたが、週刊誌の連載がはじまって間もなく、帰国する米人がタンノイを持っており、クリプッシュホーンのキャビネットに納めたまま七万円で譲るという話をきいた。天にも昇る心地がした。わたくしたちは夫婦で、くだんの外人宅を訪ね、オート三輪にタンノイを積み込んで、妻は助手席に、わたくしは荷台に突っ立ってキャビネットを揺れぬよう抑えて、目黒から大泉の家まで、寒風の身を刺す冬の東京の夕景の街を帰ったときの、感動とゾクゾクする歓喜を、忘れ得ようか。
 今にして知る、わたくしの泥沼はここにはじまったのである。
     *
五味先生の「泥沼」は「オーディオ巡礼」をはじめ、
五味先生の書かれたものを読んでほしい。

黛氏も、格闘十年間と編集後記に書かれているから、そうだったのだろう。

五味先生も黛氏も、ユニットは15インチ口径、
私はというと、10インチ口径と小さい。

それに二人が最初にタンノイに自分のモノにされた年齢よりも、
ずっと上の年齢になってしまった。

泥沼はないだろう、
けれどタンノイとともに過ごした青春はなかったわけだ。

Date: 6月 27th, 2020
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その15)

タンノイ・コーネッタを手に入れた。
購入したリサイクルショップへは、
仕事関係の知人といっしょに引き取りに行った。

別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で書いているように、
ある事故(事件といってもいいと個人的には思っている)によって、
ヤマト運輸がオーディオ機器の運搬をとりやめ、その後も再開しないため、直接引き取りに行くしかない。

道すがら、そういえば五味先生もそうだったな、と思い出していた。
     *
 さて中間小説の剣豪ものをぼつぼつ書くようになって、六吋半からスピーカーはグッドマンにかわった。アンプも高城さん製のS氏のお古をもらうことが出来たが、そうなると、欲が出る。私のほしいのはその頃タンノイのモニター15であった。昭和三十一年当時、米価で百七〇ドルだったと思う。そのころは、オーディオ部品をあちらから入手するには、航空運賃、手数料、税金、業者のマージンなどを含め一ドル千円が相場だった。つまりタンノイが十七万円見当になる。それを或るアメリカ人がキャビネットごと七万円で譲ってくれると聞いた時は天にものぼる心地がした。私達の生活に七万円は当時まだ大金だったので、妻同伴で私は目黒のその親日家の邸を訪ねた。キャビネットごとだから運搬用にオート三輪を雇っていった。米人は『ハイ・フィデリティ誌』をバック・ナンバーで揃えているほどの音キチで、ワガ友ヨ、とばかりに私を迎え、タンノイがどれほど優れたスピーカーであるかを〝ハイ・フィデリティ誌〟に試聴記の載ったページをひらいて、くどくど説明する。ジーンクルーパーのドラムと、アームストロングのトランペットを斯く程生々しく再生したスピーカーはついぞないものである、てなことの書かれた記事を巻き舌で読みあげるわけだ。そんなことは私にはどうでもいいのだ。目の前に奇妙な──クリプッシュ・ホーンであると米人は力説していた──側面のがらんどうのキャビネットに紛れもなくタンノイが装填されているのを見て、もう一ときも早く運び出したくてウズウズしているのに、「汝ハ今イカナル再生装置ヲ所持スルヤ?」などと訊く。挙句には、めしを喰ってゆけと、あまり美人ではない夫人にその支度をさせる。そうしてこの音を汝はどう思うかと鳴らしたのは、日本風な行灯に見せかけた今でいうブックシェルフ・タイプである。今なら珍しくもないだろうが昭和三十一年に、ブックシェルフで彼は聴いていたのだから確かに天っ晴れな音キチというべきだろう。小型のわりには良く鳴るので、スピーカーは何だと訊くとEMIだという。へえそんなスピーカーがあるんですか、こちらはその程度の関心でしか答えず、本当に一刻も早くわが家へタンノイを運びたかった。さいわい戸外で待っている運送屋が、早くしてくれと文句を言ったのでようやく私は米人の歓待をのがれることができ、皆でキャビネットをオート三輪に乗せた。
 私は揺れぬようオート三輪の荷台に突っ立ち、妻は助手席で、師走の風の肌をさす黄昏を目黒から大泉の自宅まで帰ったのだが、後で妻は、米人宅で出された白葡萄酒を絶讚して、あんなおいしいワインは飲んだことありません、さすがは外人ね、と言った。そんなものいつ飲んだか私には記憶にない、いや、のんだのは覚えているが味など上の空だった。ああ、いかにも妻は音キチの私に理解を示して来ているが、亭主がタンノイをまさに入手せんとしてワクワクしている時に、ワインの味に舌なめずり出来るとは何という神経であるか。遂に女房どもには、ぼくらの音の美への執念や愛着、その切なさなど分っちゃいない。女はまことに浅間しいものである、という確信をこの時私は深めた。今もってこの確信はかわることがない。オーディオ・マニアが圧倒的に男性で占められるのも故なしとしないわけである。
(「フランク《前奏曲 フーガと変奏曲》」より)
     *
やっぱり「オーディオは男の趣味」である。

Date: 6月 26th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは・その8)

598戦争時代の一本59,800円のスピーカーシステムは、
著しくアンバランスな製品だった。

この価格帯のスピーカーがターゲットとしている購買層が、
とうていきちんと鳴らせるスピーカーではない、と言い切れるほどだった。

ユーザー宅で鳴っている598のスピーカーの音を聴いたことは一度もない。
それでも、そう言い切れるほど、
ステレオサウンドの試聴室で、国内各社の598のスピーカーシステムはすべて聴いている。

同価格のプリメインアンプとCDプレーヤーの組合せ、
それに598のスピーカーを買うであろう若い人の使いこなしの力量で、
低音をうまく響かせることができた人がいるだろうか。

よほど幸運にめぐまれないかぎり、
低音のほんとうの魅力を知ることなくオーディオをやることにつながっていったはずだ。

それに、いまでもいわれていることだが、
スピーカーの高さはトゥイーターを耳の位置に合わせるのが基準になっているが、
実際に音を聴けばすぐにわかることだが、
当時の598のスピーカーシステムのユニット構成、クロスオーバー周波数の設定などからいえるのは、
比較的バランスがよくポイントは、トゥイーターの位置どころか、ずっと低いところにある。

ウーファーとスコーカーの中間あたりに耳をもってくれば、
けっこうバランスはよくなる。

つまり、当時の標準的な高さのスタンドにのせて598のスピーカーを鳴らすのであれば、
聴き手は床に直に座ったくらいでも、場合によっては耳の位置が高いことになる。

椅子に座って聴くから、といって、
それではスタンドにもっと高いモノをもってきてスピーカーをさらに持ちあげる──、
このやりかたは、おすすめしない。

まず当時は、そんな高さのスタンドはほとんどなかったはずだ。
しかも598のスピーカーは物量を投入しすぎて、重量は重く、
しかもフロント側がやたら重いというアンバランスさもあって、
想像以上にしっかりしたスタンドを用意しなければ、アンバランスな音はさらにひどくなる。

このことについては、どこまでも書いていけるけれど、ここではこのへんにしておく。
とにかく598のスピーカーで、豊かな低音を鳴らしていた人は、ほとんどいないと思っている。
ということは、598のスピーカーで聴いていた人たちは、
あの帯域バランスが基準となっていった可能性も考えられる。

Date: 6月 26th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるバックハウスのベートーヴェン(その2)

5月下旬から、e-onkyoでバックハウスのMQAでの配信が始まっている。
今日(6月26日)現在、28番まで出ている。

今回の配信はステレオ録音だから、
モノーラル録音しか残されていない29番「ハンマークラヴィーア」は含まれない。

残りは、30番、31番、32番である。
近日中に配信されることだろう。

バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタは、配信だけでなく、
11月18日にMQA-CDでも発売になる。

こちらは28番(ステレオ)と29番(モノーラル)のカップリングで出る。
このMQA-CDは、ユニバーサルミュージックのことだから、
DSD(2.8MHz)を、352.8kHz、24ビットのMQAにしたものだろう。

e-onkyoの配信のほうは、96kHz、24ビットだから、
リマスタリングの過程は違う可能性が高い。

すべてを聴き較べしようとは考えていないが、
30番、31番、32番だけはe-onkyoとMQA-CDの両方購入するつもりでいる。

Date: 6月 26th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Frans Brüggen Edition(余談)

小学校の音楽の授業でハーモニカとリコーダーを、私の世代は習った。
吹き方を教わって、指定された曲をみんなで吹く。
実技のテストもあった。

とはいえ小学生だから、飛び抜けてうまいやつはいなかったし、
とてつもなくヘタなやつもいなかった。

そのためか、私はなんとなく、ハーモニカとリコーダーを、
小学生向けの楽器と受け止めていたところがあった。

ハーモニカもリコーダーも、一流の演奏家に手にかかれば、
ものすごい表現力をもつ楽器だとわかる。

けれど小学生の私には、そんな想像力はなかった。
オーディオに興味をもつようになってから思うようになったのは、
小学校の音楽の授業で、
ハーモニカとリコーダーの一流の演奏家のレコードを、まず生徒に聴かせた方がいい。

誰もがそうなれるわけではないけれど、そこまで到達できるということを、
まずはっきりと示してほしかった、といまは思う。

ハーモニカならウーゴ・ディアス、
リコーダーならフランス・ブリュッヘン、
この二人のレコードをきかせるところから、
ハーモニカとリコーダーの授業は始めてほしかった。

Date: 6月 25th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

五味先生の「ピアニスト」に、コーネッタのことは出てくる。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
これを読めば、コーネッタがどうしても欲しくなる。
なので、7月1日のaudio wednesdayでは、
「パルジファル」を、最後にかけようと考えている。

決めたわけではない。
コーネッタの音を、まだ聴いていない。
どの程度のコンディションなのかは、鳴らしてみるまではっきりとしない。

あるレベルの音が、当日鳴ってくるのであれば、
最後に締めの曲として、「パルジファル」を鳴らす。

五味先生がステレオサウンドの試聴室で聴かれたショルティ盤の「パルジファル」ではなく、
五味先生が自宅で聴かれていたクナッパーツブッシュの「パルジファル」である。

CDではなく、MQA(192kHz、24ビット)で鳴らす。

Date: 6月 25th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その12)

組合せのための試聴は、
アンプやスピーカーの試聴が受動的試聴とすれば、能動的試聴だと、
これまで書いてきた。

それから組合せという試聴は、思考の可視化とも書いた。

ここまで書いてきて、別項「正しいもの」のなかで、
「ベートーヴェンの音」について書き始めたところである。

だから思うのは、いまオーディオ評論家を名乗っている人たちに、
ぜひとも「ベートーヴェンの音」というテーマで組合せをつくってもらいたい、ということだ。

そこで使うディスクも、編集部から指定されたものではなく、
自身で「ベートーヴェンの音」が録音されているものと感じるディスクを数枚選んでもらうところから始める。

もちろん、ここでの録音とは、つねに演奏と切り離せないものであることはいうまでもない。

そしてスピーカーを選び、アンプを選び……、というふうに組合せをつくりあげてゆく。

いまオーディオ評論家と名乗っている人たちの、さまざまなことが顕になるはずだ。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: 言葉

直向き(その2)

7月のaudio wednesdayでは、タンノイのコーネッタを鳴らすことは、別項で書いている通り。
四十年前のスピーカーである。
コーナー型エンクロージュアというだけでなく、フロントショートホーンまでついている。
完全な前時代的形態と捉える人も多い、と思っている。

こういうスピーカーを手に入れて喜んでいる。
それだけでなく、audio wednesdayで鳴らして、誰かに聴いてもらおう、ともしている。

目新しいもの好きの人からすれば、なんと後向きのオーディオか、となろう。

このブログでは、あいもかわらず瀬川先生、五味先生、
岩崎先生、菅野先生のことをくり返し書いている。

生きているオーディオ評論家(と呼ばれている人たち)のことを書くことは、
それに比べれば、ずっと少ない。

ここでも、私は後向きだ、と思われていることだろう。

目新しいもの好きの人たちは、後をふり返るな、とか、
過去に縛られてはいけない、とかいう。
そして前を向け、未来を見よ、という。

こんなことを言っているのが好きな人は、
ほんとうに前を向いている、未来をみている、と信じ込んでいるのか、と疑問に思うことがある。

ただ単に自分が向いている方を、前、もしくは未来だと思い込んでいるだけじゃないのか。

前とは未来のことのはず。
未来は、誰にもみえない。
見えるのは、過去だけである。

だからこそ過去と直向きにつきあっていくしかない。
直向きは、あえて書いておくが、ひたむき、とよむ。

真っ正面から過去と直向きになれる人だけが、はっきりと前がわかるはずだ。
己の背中に未来がある。

ただし過去を斜に構えて眺めているだけでは、背中は未来からズレた方向にいってしまう。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: 価値か意味か

価値か意味か(その5)

いま、目の前にあるスピーカーから、いい音が流れてきた──、とする。
その「いい音」というのは、
これまでオーディオに情熱、そのほかさまざまなものを注ぎ込んできた結果としての「いい音」のはずだ。

結果であるからこそ「音は人なり」となる、ともいえる。

そう考えながらも、「いい音」というのは、人によっては、答ということもある。
すべてのオーディオマニアにとって答とはならないのは、
すべてのオーディオマニアが問いを常に求めているとはいえないからだ。

結果としての「いい音」、
答としての「いい音」。

そんなことを考えている。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Frans Brüggen Edition

フランス・ブリュッヘンの名前を知ったのは、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」でだった。

大村櫻子さんという女性の(架空)読者からの手紙に、愛聴盤のしてあげられていたのが、
ブリュッヘンの「涙のパヴァーヌ」だった。

他には、ミルシテインのメンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、
シャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」、ジム・ホールのアランフェス協奏曲だった。

この四枚のなかで、「涙のパヴァーヌ」がとても気になっていた。
1976年12月の時点で、四枚のうち、聴いていたのは一枚もない。

ブリュッヘンは、私にとってカザルスと同じで、
指揮者としての活動のほうに強い感心がある。

ブリュッヘンを熱心に聴くようになったのは、
フィッリプスから出た一八世紀オーケストラによるベートーヴェンとモーツァルトがきっかけである。

それまでは古楽器によるオーケストラの演奏に、あまり関心をもつことはなかった。
コレギウム・アウレウム合奏団のコンサートは、
ブリュッヘン/一八世紀オーケストラを聴く数年前に行っている。

私のなかで、がっかりしたコンサートの数少ない一つであるから、わりと記憶に残っている。
だからといって古楽器にアレルギーのようなものを持ったわけではないが、
積極的に聴こう、とうい姿勢は持てなくなっていた。

そこにブリュッヘンのモーツァルトとベートーヴェンは、新鮮だった。
それからブリュッヘンに夢中になった数年間が続いた。

ふたたびブリュッヘンのリコーダー演奏を聴くようになったのは、それからである。

Frans Brüggen Edition」は十二枚組のアルバムである。
すでに持っていたものとダブるけれど、
持っていないものもあったし、それに再発ボックスの例にもれず、
この「Frans Brüggen Edition」はとても安価だ。

メリディアンの218で聴くようになってから、ブリュッヘンのリコーダーをまだ聴いてなかった。
昨晩遅く、久しぶりに聴いてみた。

聴いていたら、今度のaudio wednesdayに持っていくことに決めた。
コーネッタで聴きたい、と思ったからだ。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

二時間ほど前に、喫茶茶会記にコーネッタを搬入してきた。
一週間後のaudio wednesdayで鳴らすコーネッタである。

ヤフオク!で落札したコーネッタの出品者は、リサイクルショップだった。
実物をみていたわけではない。

リサイクルショップの倉庫に引き取りに行って、初めて実物をみた。
四十年以上のスピーカーだから、ある程度のくたびれ感はしかたない、と思っていた。
実際、倉庫でみたコーネッタは、そんな感じだった。

なのに喫茶茶会記に持ち込んで、とりあえず置いてみると、感じ方がまるで違ってくる。
どんなスピーカーであれ、部屋にスピーカーを持ち込めば部屋の雰囲気は大なり小なり変化する。

コーネッタがおさまった喫茶茶会記の、いつものスペースはいい雰囲気だな、とまず思った。
コーネッタというスピーカーのアピアランスは、わりと素っ気ないともいえるが、
コーナー型ということ、そして実際にコーナーあたりに置いてみると、しっくりくる。

不思議なことに、くたびれた感じが今度はしない。
もちろん細部をみていくと、それなりの年月感はあるけれど、
コーネッタが部屋におさまったときの雰囲気のよさは、
いまのスピーカーからは、まず得られない。

実をいうと、まだ音を聴いていない。
今日は搬入しただけである。
あと一週間、どんな音が鳴ってくるのか、
どんな音を聴かせてくれるのか、楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 23rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER

キングインターナショナルから、
フィルクシュニー名演集(Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER)が、
7月に発売になる。十枚組である。

ルドルフ・フィルクシュニーは、菅野先生がお好きだったピアニストだ。
日本ではフィルクスニーと表記されることが多いようだが、
菅野先生はフィルクシュニーと書かれていたし、
話の中に出てくるときも、フィルクシュニーと発音されていた。

フィルクシュニーの演奏は菅野先生による録音もある。
なので名前は聴いたことがある、という人は少なくないだろうが、
フィルクシュニーの演奏をじっくりと聴いたことがある、
聴き込んでいる、という人は意外と少ないように感じている。

かくいう私も、フィルクシュニーの演奏は、菅野先生が録音されたものぐらいしか聴いていない。
今回発売になる名演集の詳細を眺めていて、
いまさらといわれようが、じっくり聴いてみようという気になっている。

菅野先生の音をきいたことのある人は、どのくらいいるのだろうか。
聴いたことのある人のなかには、既に亡くなっている方もいると思う。
菅野先生の音を聴いている人は、これから少なくなっていくだけで、
増えることは絶対にない。

菅野先生がいわれたことをおもいだす。
菅野先生の音を聴いた人は、
もちろん「素晴らしい音ですね」とか「すごい音ですね」と、菅野先生にいう。

それは本心からのことばであっても、
ほんとうに菅野先生の音のすごさを理解していた人は、そうとうに少ない──、
そんなことをもらされたことがある。

オーディオ業界の人でも、数える程しかいない、ともきいている。
それが誰なのかもきいて知っているが、ここで書くことではない。
みんな、自分がそうだ、と思っている(信じている)ほうがシアワセだろうから。

菅野先生の音を聴く機会がなかった人のほうが、聴く機会があった人よりもずっと多いはずだ。
聴けなかった人のなかにこそ、菅野先生の音のすごさをわかる人がいた可能性はある。

こんなことを書いても、もう菅野先生の音は誰も聴けない。
けれど、菅野先生が愛聴されていた演奏家の録音は、誰でもが聴ける。

そうやって聴いていくことで、菅野先生がどういう音を実現されていたのか、
その手がかりは、きっとつかめるはずである。

どれだけ聴いてもつかめない、という人は、
菅野先生の音を聴いていたとしても、菅野先生の音をわかっているとはいえない──、
私は、そうおもっている。