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Date: 11月 3rd, 2020
Cate: High Resolution

廃盤ならぬ廃配信

ハイレゾリューション音源は、
私の場合、もっぱらe-onkyoでの購入が主である。

一ヵ月ほど前から気になっていたことがある。
配信においては、いわゆる廃盤はないものだ、と思っていた。

ところが、どうもそうではない。
ジャズで、いくつかのアルバムを購入しようと思って検索してみたら、ヒットしない。
記憶では、確かにあった。

なのに、いまは存在しない。
私の記憶違いなのか……、と思ったが、
今日、クラシックでも、それがあるのに気づいた。

しかも、それは私が昨年購入したアルバムだから、確かにあった。
なのに、いまはどんなに検索してもヒットしない。

グレン・グールドの「インヴェンションとシンフォニア」である。
flacで、176.4kHz、24ビットでの配信だった。
それが、e-onkyoのラインナップからは消えている。

moraは、どうなのか、と思ってみたら、
「インヴェンションとシンフォニア」はある。
けれど、44.1kHz、24ビットのみだった。

moraにも、以前は176.4kHz、24ビットであった。

とにかく配信には、廃配信がある、ということだ。

Date: 11月 3rd, 2020
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(iPhone+218・その14)

明日(11月4日)のaudio wednesdayでは、
これまでの iPhone 8からiPhone 12 Proにかえての音出しも行う。

もちろんiPhone 8も持っていくので、
一曲のみではあるが、比較試聴も行う予定だ。

といっても、iPhone 8はほぼ三年使っている。
iPhone 12 Proは、一週間も経っていない。

使い込んだiPhoneと新品のiPhoneの比較ということもあるので、
厳密な比較試聴というわけではないが、参考にはなるはず。

ふり返ってみると、今年は、iPhoneをオーディオ機器として認識した一年ともいえる。

Date: 11月 3rd, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その22)

その16)と(その17)で、「これでいいのだ」のことを書いた。

書いた後に、ふりかえって、20代のころの私は、
「これがいいのだ」だったなぁ、と思っていた。

もっといえば「これこそがいいのだ」でもあった。

たとえばアナログプレーヤー、
EMTの927Dstを買ったときは、まさに「これこそがいいのだ」だった。
私が買った927Dstは、後期のモデルとは少し違い、最初から927Dstである。

よく知られる927Dstは、アルミダイキャスト製デッキは、
927Astと共通だから、デッキ左端にあるクイックスタート・ストップのレバーのところに、
メクラ板で塞いでいる。

私が買ったモデルは、最初からこの穴がない。
それからデッキに、927Dstと刻印されていた。

そういうこともあって、「これこそがいいのだ」と思っていた。
その927Dstも、無職時代に二進も三進も行かなくなり、
他のオーディオ機器を含めて、手離すことになった。

いま思うのは、手離してたからこそ、「これでいいのだ」と思えるようになった、ということ。
あのまま使っていたら、「これこそがいいのだ」を追い求めてることを、
いまも続けていたことだろう。

「これこそがいいのだ」は、オーディオマニアとしてアリだ、と思う。
「これこそがいいのだ」を追求する時期が、あってこそのオーディオマニアだと思う。

それでも、「これこそがいいのだ」は度が過ぎると、いびつになっていくのではないのか。

とにかく若いころの「これこそがいいのだ」があっての、
いまの「これがいいのだ」の心境でもある。

Date: 11月 3rd, 2020
Cate: 映画

BORN TO BE BLUE

「CHET BAKER SINGS」のMQA-CDの発売が、なぜ遅れているのか、
その理由は知らない。
発売されるのをじっと待つしかないわけだが、
今日Amazon Prim Videoを眺めていたら、
「ブルーに生まれついて(BORN TO BE BLUE)」があるのに気づいて観ていた。

2016年の映画。
イーサン・ホークが、チェット・ベイカーを演じている。

Amazon Prim Videoでの公開は、3日以内に終了、とある。

Date: 11月 3rd, 2020
Cate: audio wednesday

第117回audio wednesdayのお知らせ(Bird 100)

明日(11月4日)のaudio wednesdayでは、
チェット・ベイカーの「CHET BAKER SINGS」のMQA-CDをかけるつもりでいた。

当初は9月2日発売予定で、9月のaudio wednesdayでかける予定だった。
けれど10月に発売延期。
11月のaudio wedneadayには間に合うな、と安心していたら、またも発売延期で、
今回も間に合わない。

12月は、Beethoven 250がテーマだから、
間に合ったとしても(間に合うはずなのだが)、かけない。

コーネッタで「CHET BAKER SINGS」のMQA-CDを、
喫茶茶会記で鳴らす機会はくるのだろうか。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 11月 3rd, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その4)

指揮者パブロ・カザルスの演奏は、
録音は残っているけれど、映像はないものだ、と今日まで、そう思っていた。

残っていてもおかしくはないのだけれど、なんとなくそう思い込んでいた。
でも、残っていた。

YouTubeに“Casals at Marlboro”がある。
14分32秒の、さほど長くない動画だけれど、冒頭と最後のところで、
モーツァルトの「ハフナー」を指揮するカザルスが、数分とはいえみることができる。

「ハフナー」のときだから、1967年のマールボロ音楽祭だ。

とにかくカザルスの指揮する姿をはじめてみた。

Date: 11月 2nd, 2020
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(才能とは)

オーディオの才能とは、いったいどういうことなのか。
オーディオの才能の正体とは、なんなのか。

こんなことを、二十年ほど前から、ときおり考えていた。

別にオーディオの才能だけに限ったことではない。
たとえばスポーツ。
野球の才能とかサッカーの才能。

とにかく世の中には、さまざまな才能がある、ということになる。

あの人は野球の才能がある、とか、絵の才能がある、とか、
そんなことをいわれたりするけれど、
その才能そのもの正体については、ほとんど語られることはない。

それでも、○○の才能がある、という使われ方は、世の中に溢れている。

才能とは、多岐にわたるさまざまな能力(一つ一つはそう大きくはない)を、
ある目的のために統合化できる、ということだろう。

能力のネットワーク(システム)によって生み出されるものが、
才能の正体であり、
才能をのばす、ということは、そのネットワークを拡張していくということであり、
ハタチすぎればタダの人になってしまうということは、
ネットワークを維持するだけでせいいっぱいか、もしくは維持できなくなる、ということ。

オーディオの才能とは、その人が持っているいくつもの能力を、
どれだけオーディオのためにシステムとして構築できるかであり、
さまざまな変化に対応するということは、システムの再構築のはすだ。

こう考えていくと、スランプとは、再構築がうまくいっていない状態なのだろう。

Date: 11月 1st, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その11)

組織の新陳代謝なんてことをいいながら、
新しい人をいれたところで、その人が、いわゆる替えの利く人であったならば、
新陳代謝なんてことは、期待しない方がいい。

替えの利かない〝有能〟な人をいれてこそ、新陳代謝は起こっていくもののはずだ。
けれど、替えの利かない〝有能〟な人は、そうそういるわけではない。

それにそういう人は、いつかふらっといなくなることだって、十分ある。

組織の維持のためには、替えの利く〝有能〟な人を集めた方がいいんだろう。
会社の経営者ならば、そう考えても不思議ではない。

もちろん替えの利かない〝有能〟な人と替えの利く〝有能〟な人、
どちらも雇えれば、それに越したことはないが、そうそううまくいくものではない。

替えの利かない〝有能〟な人だと思って雇ってみれば、
替えの利く〝有能〟な人だってこともあるし、
替えの利かない〝無能〟な人ということもあるだろう。

人を入れ替えただけでは、組織の新陳代謝は起こらない。
起らないから、老いていくだけなのだろう。

Date: 10月 31st, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その10)

菅野先生からこんな話をきいたことがある。
まだステレオサウンドにつとめている時だったから、30年以上前になる。

あるオーディオメーカーが、従来の音から脱却するため、
ブランド・イメージを一新するために、
このメーカーとは異る音を実現しているメーカーから優秀な技術者を引き抜いてきた。

ただ引き抜いてきただけでは、不十分だということで、
設計・開発だけでなく、部品の調達から製造ラインに関しても、
この人にかなりのところまでまかせた、とのこと。

にも関らず実際に出来上ってきたオーディオ機器は、
そのメーカーがそれまでつくってきた製品と同じ音のイメージで、
わざわざ引き抜いてきた技術者が以前在籍していたメーカーの音は、そこにはなかったそうだ。

頭で考えるならば、これだけやれば、そのメーカーの音というよりも、
その技術者が在籍していた以前のメーカーの音になるはず、である。

なのに、結果はそうではなかった。
繰り返すが、これはたとえ話ではなく、実際に、日本のメーカーで起ったことである。

なぜ、そうなったのかは、誰にもわからないのだろう。
結局は、組織の音を、その優秀な技術者(個人)は崩せなかった、ということ。

組織と個人では、つねにそういう結果になってしまうのだろうか。

二年ほど前に、別項でこんなことを書いている。
 ①替えの利かない〝有能〟
 ②替えの利く〝有能〟
 ③替えの利かない〝無能〟
 ④替えの利く〝無能〟

「左ききのエレン」というマンガに出ていた、会社員の分類だった。

菅野先生の話に出てきた他社の優秀な技術者は、替えの利く〝有能〟な人だったのではないのか。
替えの利かない〝有能〟な人だったならば、その会社の音は変ったのか。

菅野先生の話をきいた時には考えなかったことなのだが、
優秀な技術者が引き抜かれた会社の音は、その後、どうなったのだろうか。
おそらく変化しなかったはずだ。

オーディオ雑誌の編集者も同じだろう。

Date: 10月 31st, 2020
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

総テストという試聴のこと(その4)

別項で、「老いとオーディオ(とステレオサウンド)」を書いている。
書き手の年齢も読み手の年齢も、高くなっていくだけである。

若い書き手、若い読み手がそうとうに増えないかぎり、毎年、高齢化していくだけである。

読み手も高齢化しているのだから、書き手も高齢化していっても、特に問題はない──、
そう考えることもできる。
ステレオサウンドという雑誌自体も、高齢化しているのだから、
高齢化は受け入れるしかない。

書き手の高齢化は、総テストという、
ステレオサウンドの特徴の一つであった試聴のやり方をなくしていく。

試聴なんて、音を聴くだけだから、ラクだろう、と捉えている人が、
意外に多いのに、ステレオサウンドにいたころも、辞めてからでも、
少なくないことに驚くやら呆れるやら、といったことがある。

試聴は、体力勝負の面が強い。
以前のステレオサウンドがやっていた総テストは、
オーディオ評論家も編集者も、まだ若かったからやれた企画(特集)である。

これからのステレオサウンドの誌上で、
総テスト、総試聴という言葉が使われることはあるだろう。
でも、以前の総テスト、総試聴とは、そこに登場してくる機器の数が違う。
明らかに減っていることだろう。

若くて60前後、70代、80代の人に、昔のような数の総テストを依頼したところで、
ことわられるに決っている。
それはしかたない。

けれど、総テストをやらなくなったことで、どういうことが起るのか。
もう若い書き手は登場してこないのだから、そんなこと心配しても無意味なのかもしれないが、
総テストを経てきたことで、鍛えられるわけだ。

それがなくなってしまう。

Date: 10月 30th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その1)

ステレオサウンド 94号、150ページに、こうある。
《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだとぼくは思う。》

いま書店に並んでいる管球王国Vol.98に、
「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」という記事が載っている。

94号(1990年春)で、コアキシャルが定位がいいというのはまぼろしだ、と書いた人が、
30年後、「魅惑の音像定位」という記事を執筆している。

節操がない、とは批判しない。
30年も経てば、人は変る。
考えも、いろんな意味で変ってくる。

だからこそ、なぜ変ったのかを、オーディオ評論家ならばきちんと説明してほしい。

「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」は、まだ読んでいない。
30年前に、真逆のことを主張していた人が、なぜ、管球王国の記事を担当したのか。
そして、おそらく記事中では、同軸型スピーカーの定位のよさにふれているはず。

定位がいいのは、まぼろし、とまで書いた人が、真逆のことを認めるようになったのには、
いったい何があったのか。

執筆者の傅 信幸氏は、書かれているのか。
94号のことを憶えていない人は、
「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」をすんなり読むだけだろう。

でも、中には、私と同じように94号のことをしっかりと記憶している人もいる。
その人たちは、なぜ? とおもう。

その「なぜ?」に答えるのが、オーディオ評論家のはずだ、という時代は過ぎ去っていて、
いまでは答えないのが、オーディオ評論家なのだろう。

Date: 10月 30th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その3)

カザルス指揮によるモーツァルトの後期交響曲六曲で、
20代のころ、いちばん聴いていたのは、ト短調(40番)だった。

ハ長調(41番)は、なぜだか、まったくといいほど聴かなかった。
カザルスの演奏が──、というよりも、
「ジュピター」のニックネームで呼ばれている、この交響曲を、
当時の私は、意識的に遠ざけていた。

いま思うと、なぜなんだろう? と自分でもなぞでしかないのだが、
ほかの指揮者でも「ジュピター」を聴くことは、ほとんどなかった。

40近くなったころに、なにかのきっかけで「ジュピター」を聴いた。
聴いていて、20代のころ、聴く機会はけっこうあったにもかかわらず避けてきた、
その理由をおもいだそうとしたけれど、何もなかった。

それでも、もっと早く聴いておけばよかった──、と思ったわけではない。
まったく聴いていなかったわけではないし、
カザルスの「ジュピター」も、数えるほどでしかないが、聴いていた。

とはいえ、記憶のなかで鳴り響くカザルスのモーツァルトは、ト短調ばかりだった。
カザルスの「ジュピター」は……、と思い出そうとしても、朧げだった。

カザルスの「ジュピター」は、熱かった。
こうなると、カザルスの「ジュピター」ばかり聴く日が、しばらく続いた。

不思議なもので、それでも、もっと早く聴いていれば、
そのよさがわかっていれば、といったことはおもわなかった。

いま聴いて、素晴らしいと思える──、
そのことに、音楽を聴く喜びを感じられれば、それでいいのだと。

Date: 10月 29th, 2020
Cate: audio wednesday

第117回audio wednesdayのお知らせ(Bird 100)

11月4日のaudio wednesdayのテーマは、
チャーリー・パーカー生誕100年だから、Bird 100である。

すでに何度か告知しているように、
チャーリー・パーカーを中心に、
ビリー・ホリディ、チェット・ベイカー、バド・パウエルなどもかける。

クラシックでは、サンソン・フランソワのショパンもかける。

どこか不健康な選曲になっていく。
だから、11月4日の最後にかける曲は、
チャーリー・パーカーとも、その他の人たちとも無関係の一曲をかけるつもりでいる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 10月 29th, 2020
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(カザルスを聴いておもうこと)

今年は、コロナ禍が始まった春から、
カザルスの演奏をよく聴くようになった。

チェリストとしてのカザルスも聴いた。
指揮者としてのカザルスは、もっと聴いている。

カザルスのモーツァルトにしてもベートーヴェンの交響曲にしても、
燃焼するとは、こういうことなのか、と思わざるをえない。

燃焼こそ純度だ、と思いたくなる。

Date: 10月 28th, 2020
Cate: High Resolution

High Resolution to Higher Resolution(複雑化?・その2)

1982年10月に、CDとCDプレーヤーが登場した。
新しいプログラムソースの登場であった。

CDに興味を持った人もいれば、そうでなかった人もいる。
興味をもった人は、CDプレーヤーを買ってくれば、
それまでのシステムに導入できた。

デジタルだから、といって、小難しい設定に取り組む必要はなかった。
CDプレーヤーのライン出力を、
コントロールアンプ、プリメインアンプのライン入力に接続するだけで、
とにかくCDの音を聴くことができた。

その世代は、デジタルの導入の簡単さを実感したはずだ。
もちろんCDから、望む音を再生できるようになるには、
それだけですむわけがないのだが、それでも導入ということに関しては、
何も難しいことはなかった。

SACDが1999年に登場したときも、そのことに関しては同じだった。
SACD対応プレーヤーを買ってくれば、導入に関しては簡単だった。

いまハイレゾリューションがあたりまえのようになってきつつある。
そのための再生手段として、PCオーディオ、ネットワークオーディオなどについて、
オーディオ雑誌で記事が組まれている。

ハイレゾリューション再生も、いうまでもなくデジタルである。
けれど、CD、SACD登場のときのように、導入が簡単か、というと、
そうではないようだ、と感じている人はいる。

デジタルなのに……、というおもいがあるように感じている。
導入は簡単ですよ、という人もいるだろうが、
けっこう高いハードルと感じている人もいる。

それに選択肢が、いろいろありすぎる、と感じている人もいるはず。

私がMQAを高く評価し、MQAのエヴァンジェリストを自認するようになった理由は、
導入の簡単さが、まずあるからだ。

別項でメリディアンのULTRA DACを初めて聴いた時のことを書いている。
こんなに簡単に再生できるのか、と拍子抜けするほどであった。