Date: 9月 10th, 2022
Cate:

音の種類(その7)

音の種類についてあれこれ考え書いていても、
それらの音を出せるのか、である。

結局は、出せる音と出せない音ということになっていくのだろうか。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(50CA10単段アンプ・その13)

50CA10のヒーターは、50V、0.175Aという規格だから、
オームの法則で抵抗値は285.7Ω程度である。

この値はヒーターが十分に熱くなってのことだ。
冷めた状態では、テスターで測かると、約40Ωである。

つまり50CA10を二本直列にすると、40Ω+40Ωで約80Ωしかない。
ここに100Vの交流電圧がかかるわけだから、最大で100V/80Ωで、
約1.25Aの電流が流れることになる。

1.25Aは0.175Aの七倍ほどである。
ヒーターの温度の上昇に伴い抵抗値も増えていくので、
十分に熱くなれば、0.175Aに落ち着くわけだが、それまでの時間、
短い時間であっても、50CA10のヒーターには規格値よりもかなり大きな電流が流れる。

白熱電球のフィラメントが切れるのは、スイッチを入れた時である。
このことは真空管のヒーターと同じである。
冷めた状態ではフィラメントの抵抗値が低いから、過大な電流が流れるからだ。

50CA10がいまでも新品が安価に入手できるのであれば、そういう使い方でもいい。
けれど、何度も書いているように50CA10は、そうではなくなっている。

なので私は50CA10と直列に285Ω程度の抵抗を入れる。
こうすれば、50CA10のヒーター温度が低い状態でも、
285Ω+40Ωで、約325Ωになるから、電源を入れた直後でも、100V/325Ωで、約0.3A。

50CA10直列接続よりもかなり低い値に抑えられる。
これだけでも、50CA10の寿命をのばせるはずである。

こういう場合、セメント抵抗を使う人が割と多い。
セメント抵抗の音の悪さは、けっこうなものである。

いや、セメント抵抗も使い方次第、という人もいるようだが、
私はたとえヒーター回路であっても使いたくない。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その2)

(その1)を読んで、ヘルマン・プライの「冬の旅」を聴かれた方から、
facebookにコメントがあった。

その方はパパゲーノの印象が強すぎて、
プライの「冬の旅」を敬遠されていたようだ。

「冬の旅」といえば、フッシャー=ディスカウだけでなく、
ホッターの「冬の旅」も世評は高い。
いまはどうなのか知らないが、1980年代はそうだった。

「冬の旅」について詳しいことは省くが、
いわば「冬の旅」は、青年が旅する歌であり、「青春」の歌でもある。

そこのところで、ホッターの歌唱はもう青年とは感じられない。
中年をこえて年老いた人のようにも感じられる。

フッシャー=ディスカウの歌唱は年老いているわけではない。
でも、プライの歌唱から感じられる「青春」は、
フッシャー=ディスカウの歌唱からは、私はやや感じとりにくい、というか、
そういうこととは違うところでの歌唱のように感じられる。

コメントの方は、プライの「冬の旅」は、
肩の力の抜けた、というか、穏やかな、何かほっとするような演奏と書かれている。

意外に、ヘルマン・プライの「冬の旅」は聴かれていないのかもしれない。
とにかく、私が書いたのを読んで、プライの「冬の旅」を聴かれた人が、
少なくとも一人はおられたわけで、このことは単純に嬉しい。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: Wilhelm Furtwängler, ディスク/ブック

Brahmus: Symphony No.1(Last Movement, Berlin 23.01.1945)

五味先生の「レコードと指揮者」からの引用だ。
     *
 もっとも、こういうことはあるのだ、ベルリンが日夜、空襲され、それでも人々は、生きるために欠くことのできぬ「力の源泉」としてフルトヴェングラーの音楽を切望していた時代——くわしくは一九四五年一月二十三日に、それは起った。カルラ・ヘッカーのその日を偲ぶ回想文を薗田宗人氏の名訳のままに引用してみる——
「フルトヴェングラーの幾多の演奏会の中でも、最後の演奏会くらい強烈に、恐ろしいほど強烈に、記憶に焼きついているものはない。それは一九四五年一月二十三日——かつての豪華劇場で、赤いビロードを敷きつめたアドミラル館で行なわれた。毎晩空襲があったので、演奏会は午後三時に始まった。始まってまもなく、モーツァルトの変ホ長調交響曲の第二楽章の最中、はっと息をのむようなことが起った。突如明りが消えたのである。ただ数個の非常ランプだけが、弱い青っぽい光を音楽家たちと静かに指揮しつづけるフルトヴェングラーの上に投げていた。音楽家たちは弾き続けた。二小節、四小節、六小節、そして響はしだいに抜けていった。ただ第一ヴァイオリンだけが、なお少し先まで弾けた。痛ましげに、先をさぐりながら、とうとう優しいヴァイオリンの旋律も絶え果てた。フルトヴェングラーは振り向いた。彼のまなざしは聴衆と沈黙したオーケストラの上を迷った。そしてゆっくりと指揮棒をおろした。戦争、この血なまぐさい現実が、今やはっきりと精神的なものを打ち負かしたのだ。団員がためらいながらステージを降りた。フルトヴェングラーが続いた。しばらくしてからやっと案内があって、不慮の停電が起りいつまで続くか不明とのことであった。ところが、この曖昧な見込みのない通知を聞いても、聴衆はただの一人も帰ろうとはしなかった。凍えながら人びとは、薄暗い廊下や、やりきれない陰気な中庭に立って、タバコを吸ったり、小声で話し合ったりしていた。舞台の裏では、団員たちが控えていた。彼らも、いつものようにはちりぢりにならず、奇妙な形の舞台道具のあいだに固まっていた。まるでこうしていっしょにいることが、彼らに何か安全さか保護か、あるいは少なくとも慰めを与えてくれるかのように。フルトヴェングラーは、毅然と彼らのあいだに立っていた。顔には深い憂慮が現われていた。これが最後の演奏会であることは、もうはっきりしていた。こんな事態の行きつく先は明瞭だった。もうこれ以上演奏会がないとすれば、いったいオーケストラはどうなるというのだ。」
 このあと一時間ほどで、待ちかねた演奏会は再開される。ふつう演奏が中断されると、その曲の最初からくりかえし始められるのがしきたりだが、フルトヴェングラーはプログラムの最後に予定されたブラームスの交響曲から始めた、それを誰ひとり不思議とは思わなかった。あのモーツァルトの「清らかな喜びに満ちて」優美な音楽は、もうこの都市では無縁のものになったから、とカルラ・ヘッカーは書きついでいるが、何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う。こればかりはレコードでは味わえぬものである。脱帽だ。
     *
この「レコードと指揮者」を読んだ頃、
フルトヴェングラーのブラームスの一番といえば、
1951年、ベルリン・フィルハーモニーとのライヴ録音の世評は高かった。

こういものを読むと、聴きたくなる。
1945年のドイツでの演奏会の録音が残されているとは、当時は思わなかった。

けれど残っているものである。
最終楽章のみ録音が残っている。

私が聴いたのは、Music & ArtsのCDだった。
フルトヴェングラーのブラームスの演奏を集めた四枚組ぐらいのCDだった。

そこに1945年1月23日のブラームスの一番の最終楽章があった。
1990年ごろだったはずだ。

五味先生の文章を読んで十年ほど経っていた。
いまはTIDALでも聴くことができる。

なので先日、久しぶりに聴いた。
前回きいた時から、二十年近く経っていた。

Date: 9月 8th, 2022
Cate: Jazz Spirit

二度目のナルシス(その4)

昨日(9月7日)、
新宿のジャズ喫茶、ナルシスに行った。

これで四度目のナルシスである。
いつも誰かと行っている。
今回もそうだ。

坐る席も、毎回ほほ同じ。
かかっているレコードは、いつも違う。
四回しか行っていないのだから、同じレコードがかかる率は低い。

それでも昨夜のナルシスの音は良かった、とはっきりといえる。
頻繁にナルシスに行っているわけではない。

おそらく次回は来年だろう。
その時、どんな音になっているのだろうか、と思うし、
ナルシスの昨晩の音を聴いていると、
ジャズ喫茶をやるならば、スピーカーは何を選ぶ、ということを、
ついつい考えてしまう。

以前、別項で、ロックウッドのMajor Geminiにしたい、と書いた。
Major Geminiもいい、と思うし、Major Gemini以外ならば、何にするだろうか。

そんなことをつい考えさせてしまうナルシスの音でもあった。

Date: 9月 8th, 2022
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その18)

タワーレコード、HMVのサイトでの紹介文をよると、
今回の「ラインの黄金」2022年リマスター盤では、
1958年オリジナルのマスターテープから新たに制作したDSDマスターを使用、とある。
そのうえで、マスタリング作業は、192kHz、24ビット環境で行われた、とのこと。

つまりアナログ録音をDSDに変換、さらに192kHz、24ビットのPCMに変換。
発売されるのはSACDなのだから、192kHz、24ビットのPCMを、
2.8MHzのDSDに変換しているようだ。

おそらく(期待もこめて)、
e-onkyoやTIDALでも配信されるであろう。

e-onkyoではDSF、PCMのflac、それからMQAが用意されることだろう。
TIDALはMQAになる、と思っている。

192kHz、24ビットでのMQAでの配信を勝手に期待している。
可能性はかなり高いはずだ。

タワーレコード、HMVの紹介文を読んでいると、
今回のリマスタリングは、これまでよりも丁寧な作業が行われているように感じられる。

2009年のエソテリックのSACDは聴いていない。
周りに持っている人もいない。

私は、発売のニュースに当時は軽く興奮していた。
きちんとした作業が行われてのSACD化だと思い込んでしまった。

けれど、しばらくしてからいくつかのウワサが耳に入ってきた。
そのことを検証したくとも、聴いていないのだから、はっきりしたことは何もいえないが、
いま思っているのは、当時無理して買わなくてよかった、である。

Date: 9月 8th, 2022
Cate: audio wednesday

第二回audio wednesday (next decade)

第二回audio wednesday (next decade)は、10月5日。

昨日の第一回と同じく、場所はまだ決めていない。
どこかに集まって、というかたちをとる予定だ。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

BINDER QUINTET: Featuring John Tchicai

今日は第一回audio wednesday (next decade)で、
ジャズ喫茶めぐりをしていた。

最後に行った店は、新宿のナルシス。
ここだけは、最後に行こう、と最初から決めていた。

18時ごろに入店。
ドアを開けて入ったら、目の覚めるような音が鳴っていた。

かかっていたのが、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”だった。
私は熱心なジャズの聴き手ではないから、聴いて、すぐにそれが誰の演奏なのかはわからない。

クラシックだって、これまで聴いたディスク(録音)よりも、
聴いていないディスク(録音)のほうが多いのだから、
ジャズに関しては、聴いているディスク(録音)はわずかでしかない。

ビンダー・クインテットの名も、初めて知った。
最近では、こういう場で気に入った曲がかかっていると、
店の人に訊ねる前に、iPhoneにインストールしているアプリShazamで検索する。

多くの人が、Shazamを使っていることだろう。
便利なアプリである。
けれど、Shazamでも、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”は表示されなかった。

なのでジャケットにある“BINDER QUINTET”の文字を手入力しての検索。
すぐに、どのディスクなのか判明したが、
TIDALで聴けるだろう、と思い検索してみると、
ビンダー・クインテットは一曲のみ表示されるだけ。
アルバムの検索結果はゼロだった。

いまのところ、CDも入手はできないようだ。
とはいえ、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”は手に入れたい、
自分の音で聴いてみたい。

今日は、このディスクとの出逢いがあった。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: German Physiks, 新製品

ジャーマン・フィジックス HRS130(とサウンドクリエイト・その1)

7月10日から日本での発売が開始になったジャーマン・フィジックスのHRS130。

タイムロードが扱っていた頃は、よかった。
2006年に、突然輸入元がゼファンになった。
それからは、ひどかった。

ジャーマン・フィジックスの製品、その音がひどかったのではない。
ゼファンによる扱いがひどかった。
しかもわずかな期間で取り扱いをやめてしまっている。

それからは、ジャーマン・フィジックスの日本での取り扱い元はなかった。
かなり長い間、そういう状態だった。
ジャーマン・フィジックスの不在の時期は、私にとっては実際の年月よりも長く感じられた。

今年6月に、タクトシュトックが取り扱うニュースが届いた。

まだいまのところ取り扱い製品は、HRS130だけである。
それでも、いい。とにかくもう一度ジャーマン・フィジックスが聴ける。

とはいえ、これまで聴く機会はなかった。
今日、聴いてきた。

場所は、サウンドクリエイトである。
サウンドクリエイトは、銀座二丁目にある。

私は、以前から銀座にきちんとしたオーディオ店があるべきだ、と思っていた。
親しい人とも、そんなことを何度か話したことがある。

サウンドクリエイトは、以前の場所のときに、ほんのちょっとだけのぞいたことがあるくらい。
ほんとうにわずかな時間だったから、今回が初めて、といっていい。

どういうオーディオ店なのかは、なんとなくは知っていたけれど、
それはなんとなくでしかなかったことを、実際に行って感じていた。

HRS130は今日までの展示・試聴だった。
もしこれが、トロフィーオーディオ店と呼ぶしかない、そんな店だったら、
私は行かなかった。

今回は、ジャーマン・フィジックスのスピーカーということ、
そしてサウンドクリエイトということが重なって、
こういうことにはやや重い腰の私でも、行って聴いてこよう、になる。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その1)

シューベルトを集中的に聴いていることは、
別項で聴いているとおりだ。いまもシューベルトを、まず聴くようにしている。

ここ一週間ほどは、シューベルトの歌曲をよく聴いていた。
「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」も聴いている。

これまで「冬の旅」がとくにそうなのだが、
ディートリッヒ・フッシャー=ディスカウを主に聴いていた。

他の歌手による録音をまったく聴かなかったわけではないが、
それで比率としてはかなり少なかった。

ディートリッヒ・フッシャー=ディスカウだけを聴いていれば、それでよし、とは、
もちろん思っていないけれど、そうなっていた。

実を言うと、今回初めて、ヘルマン・プライの「冬の旅」を聴いた。
1971年の録音、ピアノはサヴァリッシュである。

エンゲルのピアノによるプライの「冬の旅」も聴いていなかった。
私が聴いたことがあるのは、デンオン録音、ビアンコーニによるピアノの「冬の旅」である。

さほど期待していたわけではなかった。
それでも素晴らしい歌唱は、そんなバイアスをきれいに吹き飛ばしてくれる。

Date: 9月 6th, 2022
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その17)

昨日(9月5日)、クラシック好きの人は、
ショルティの「ニーベルングの指環」の2022年リマスター盤登場のニュースに、
いちばん驚いた(もしくは喜んだ)のではないだろうか。

SACDが登場したときから、ショルティの「ニーベルングの指環」は、
いつSACDとして登場するのだろうか、と思っていた。
ながらく出なかった。

結局、2009年12月に、エソテリックから発売になった。
やっと出た、買おう、と思ったけれど、
その値段を見てすぐにあきらめた。

はっきりとは憶えていないが、確か六万円ほどだった。

そして2012年9月に、デッカから新たなリマスターCDが登場した。

十七枚組のCDにDVD、30cm×30cmのブックレット、
それとは別の冊子などのほかに、この限定盤の最大の目玉(特典)といえるのが、
ブルーレイディスク一枚におさめられた96kHz・24ビットによる音源である。

こちらも価格はもう忘れてしまったが、エソテリックとは違い納得のゆくものだった。
ならば買ったのか、というと、こちらも買っていない。
Blu-Ray Audioの再生環境を持っていなかったからだ。

それに少しだけショルティの「ニーベルングの指環」に対しての熱も冷めかかっていた。

いまはどうか、というと、MQA(44.1kHz)で聴ける。
e-onkyoでも発売しているし、TIDALでも配信されている。

そこに今回の2022年リマスター盤の登場である。

Date: 9月 6th, 2022
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その6)

その2)で、
バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う、
と書いている。

老人の、執拗な愛によるマーラーを聴きたい──、
そう思う一方で、執着と愛は違うわけで、
執着と愛をごっちゃにしてしまうほど、こちらももう若くないわけだが、
では、執拗と執着は、どう違うのか、と考える。

執拗を辞書で引くと、
しつこいさま、とある。
それから、意地を張り、自分の意見を押し通そうとするさま、ともある。

しつこいを引くと、
一つのことに執着して離れようとしない,とある。
ここに執着が出てくるからといって、執拗と執着が同じとは思っていない。

辞書には、しつこいの意味として、もう一つある。
(味・香り・色などが)濃厚である。不快なほど強い、とある。

私がバーンスタインのマーラーを、
《老人の、執拗な愛によるマーラー》と感じたのは、まさにこれである。

執着とは、辞書には、
ある物事に強く心がひかれること、心がとらわれて、思いきれないこと、とある。

バーンスタインの晩年のマーラーを聴けば、わかる。
執着と愛は違う、ということが。

老人(バーンスタイン)の、執拗な愛によるマーラーは、
人によっては不快と感じるのであろう。

Date: 9月 5th, 2022
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(50CA10単段アンプ・その12)

50CA10のヒーターは、50V、0.175Aとなっている。
これは50CA10を二本直列にすることで、AC100Vに直接接続できる。

電源トランスから出力管用のヒーター巻線を省ける。
そういうメリットがある。

50CA10の単段シングルアンプでは、50CA10を左右チャンネルで二本使うわけだから、
その二本を直列にすればいいわけだが、
ではどちらを上にするのか、という問題が生じる。

50CA10のプッシュプルアンプならば、四本になり、
二本、二本の直列接続は、左チャンネルの二本、右チャンネルの二本とわけることで、
左右チャンネルを同条件にできる。

それでもプッシュプルの上の球を、ヒーターの配線ではやはり上にするか、
それとも意図的に下にもってくるのか──、
まだ試していないが、それによる音の違いはあるはずだ。

それがシングルアンプとなると、片方の50CA10を上にするということは、
どちらかのチャンネルの50CA10を上にするわけで、
どちらを上にするか(下にするか)は、左右チャンネルの音に影響をもたらす。

50CA10のシングルアンプで、ヒーター配線をどう処理するか。
私は抵抗を介しての接続を考えている。

こうすることで、ヒーターの寿命も多少はのびるはずだからだ。

Date: 9月 5th, 2022
Cate: ディスク/ブック

音響道中膝栗毛(その2)

(続)音響道中膝栗毛」には、
ステレオサウンドに連載されたものがおさめられている。

伊藤先生の文章とは、伊藤先生のアンプ記事よりも先に出あっている。
中学生のころから読みはじめたステレオサウンドには、伊藤先生の連載があった。

そのころは、伊藤先生がどういう人なのかは全く知らなかったが、
それでも書かれたものを一つでも読めば、
中学生であっても、伊藤先生がどういう人なのかは、直観的につかめていたところがある。

だから、この人の書くものは、きちんと読もう、と思った。
伊藤先生の書かれたものに、最新のオーディオ機器のことは登場しない。

古いオーディオ機器のことが書かれてあるかというと、
こちらもウェスターン・エレクトリックやシーメンスのことがたまに出るくらいで、
そういう文章ではない。

けれど、伊藤先生の文章はオーディオについての文章だった。
伊藤先生の文章を、いつ読むのか。

大人になってから、老いてから読んでもいい。
けれど10代のころに読んでいるのといないのとでは、その後に違いがあるはずだ。

私は運が良かった、とオーディオに関してはそう思う。
オーディオに関心をもつ大きなきっかけが「五味オーディオ教室」だったし、
その後すぐに、伊藤先生の文章を、その時代に読めたからだ。

Date: 9月 4th, 2022
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その4)

その2)で触れている「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」という問い。
これを発した人にとって、そのころすでにステレオサウンドはつまらなく感じていて、
それゆえの「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」だった。

ステレオサウンドは変っていっている。
おそらく私に「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」と訊ねた人も、
そう感じている。

そうであっても、その人は「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」と訊く。
くり返すが、それはステレオサウンドがつまらくなっていて、
そのことが変らないからである。

ステレオサウンドがつまらない──、
そういう人もいるし、そうでない人もいる。
面白い、という人ももちろんいる。

223号の「オーディオの殿堂」を、オーディオの歴史の勉強にもなる、
そんなふうに高く評価している人が、ソーシャルメディアにいた。

そうなのかぁ……、としかいえないのだが、
受けとり方は人によって大きく違うのだから、
「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」が、
ステレオサウンドはつまらなくなったまま、という捉え方も、
その人個人のものでしかないわけだ。

それでも、その人は私に、そう訊ねてきたのは、
その人は私もそう感じていると思ったからなのだろう。

私は、どう感じているのか。
ここ十年のステレオサウンドを眺めて思っているのは、
つまらない、とか、変らないなぁ、とか、そういったことではなく、
ダサくなった、である。