Date: 11月 19th, 2013
Cate: VOXATIV

VOXATIV Ampeggio Signatureのこと(その4)

オーディオにも流行り廃れはある。
技術的なことでも、外観的なことでも、音を表現する言葉にも流行り廃れはある。

ずっと以前はよく使われていた音の表現でも、
ここ10年以上、あまり目にしなくなった言葉がある一方で、
以前はあまり使われてなかった表現が、いまでも誰もが当り前のように使うようにもなっている。

たとえば「音の粒立ち」。
昔(といっても私がオーディオに関心をもち始めたころ)は、よく目にした。
それが、いまではあまり目にしなくなっている。

それから「内声部」も以前ほどは目にしなくなっている。
以前は、クラシック、オーケストラや弦楽四重奏が試聴レコードとして使われた時には、
試聴記には、内声部についての表現があったものだ。

VOXATIV Ampeggio Signatureの音を最初に聴いていて、頭に浮んでいたのは、
これらの音の表現に関することだった。

つまり、これらの音の表現が実に良くなってくれる。
だからなのだろう、音が鳴り出した瞬間に、いい音だなぁ、と感じられる。
そして音楽に進むにつれて、最初の感想に疑いをもつどころか、
ますますそのおもいが確固たるものになっていく。

Date: 11月 19th, 2013
Cate: モノ

モノと「モノ」(その14)

オーディオが、もしパソコンの20年間と同じ速度で進歩していたら……、
そんなことを夢想しないわけでもないけれど、一緒くたに考えることではないことはわかっている。

とにかくパソコンの進歩は大きかった。
大きかったけれど、それでも20年前と変らぬことは、
パソコンに前に人がすわり、キーボードやマウスを操作してパソコンに対して、
なんらかの指示を出さなければ、
どんなに高性能なパソコンに、どんなに多機能なアプリケーションをどれだけインストールしていようと、
勝手に何かを、そのパソコンの所有者の代りにやってくれるわけではない。

毎日、こうやってブログを書いていて、
これまでにけっこうな文字数を入力していっているけれど、
だからといって私の代りにパソコンがこれまでの入力履歴をベースにして勝手に文章をつくり出してはくれない。

パソコンという様々な処理を可能にしてくれる計算器に、
ある目的、方向性を定めるのがアプリケーションであり、
ハードウェアとソフトウェアの組合せによって、道具たり得る、となる道具なのだろう。

それではオーディオにおけるソフトウェアは、
パソコンにおけるアプリケーション的な意味での道具的要素をまったくもたないのだろうか。

Date: 11月 19th, 2013
Cate: モノ

モノと「モノ」(その13)

オーディオにもパソコンにも、ハードウェアとソフトウェアという括り方ができる存在がある。
オーディオもパソコンも、どんなに高価で高性能をモノを揃えたとしても、
ソフトウェアがなければ単なる飾りか、
デザインがよくなければ飾りにもならず、置物。もっとひどくなれば邪魔物になってしまう。

オーディオにはLP、CD、ミュージックテープといったプログラムソースと呼ばれるソフトウェア、
パソコンにはアプリケーションと呼ばれるソフトウェアがあって、
オーディオもパソコンも道具として機能するようになる共通するところをもつ。

とはいえ、ソフトウェアであっても、パソコンのアプリケーションもまた道具のひとつである。

パソコンが登場した時からしばらくは何度か目にしたことがあるのが、
パソコンという道具は、他の道具と異り、はっきりとした目的をもっていない、といったことがあった。

つまり包丁は食材を切ったり捌いたりするための道具である。
鍋は食材を煮るための道具であり、ペンは文字や絵を描くための道具。
そういった意味での目的をはっきりともたない道具がパソコンである、と。

パソコンは、ある意味何でも可能にしてくれる道具かもしれない。
とはいえ基本的には計算器である。
その計算器に、実に様々な計算を実行させるのがアプリケーションということになる。

どういう計算をさせるかによって画像処理が可能になるし、
音をいじることもできる。表計算もできるし、文字入力・変換もできる。
計算器の処理能力が高ければ高いほど、可能となる処理範囲は広くなっていく。

年々パソコンの計算器としての処理能力は高くなっていくし、
アプリケーションも多機能になっていく傾向がある。
私が最初に自分のMacとして使い始めたClassic IIから20年以上経つ。
この間の処理能力の向上と多機能化は目覚しいものがあって、
最近ではそのことが 当り前のことになりすぎてしまい、
この間の進歩を忘れてしまいがちにもなる。

Date: 11月 18th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その19)

私が瀬川先生がJBLのD44000 Paragonを手に入れられたはず、と思える理由のひとつに、
岩崎先生の不在がある。

何度かこれまでも書いているように、
瀬川先生にとってのライバルは岩崎千明であったし、
岩崎先生にとってのライバルは瀬川冬樹であった。

だからパラゴンは、岩崎先生のメインスピーカーのひとつであった。
ステレオサウンド 38号に掲載されている岩崎先生のリスニングルームには、
パラゴンがいい感じでおさまっていた。

あの写真をみてしまったら、
同じオーディオ評論家としてパラゴンには手を出しにくい。

欲しければ、それが買えるのであれば何も遠慮することなく買ってしまえばいいことじゃないか──、
こんなふうに思える人はシアワセかもしれない。

岩崎先生にも瀬川先生にもオーディオ評論家としての、自負する気持があったと思う。
その気持が、パラゴンが欲しいから、私も……、ということは許せなくする。

もし岩崎先生が健在であったなら、
ステレオサウンド 59号の瀬川先生のパラゴンの文章は違った書き方になっていたはず。
その意味で、59号の文章は、瀬川先生のパラゴンへの気持・想いが発露したものだと思えてならない。

Date: 11月 18th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その28)

ステレオサウンドでは、以前セパレートアンプの別冊を出していた。
1981年夏に出たのを最後に、いまのところは出ていない。

私がステレオサウンドで働き始めたのは1982年1月からだったけれど、
1981年のセパレートアンプの別冊の取材の大変さは聞いていた。

試聴室で行った試聴テストも大変だったわけだが、
それに加えて全アンプの測定は松下電器の協力を得て行っている。
そのためすべてのアンプを大阪まで運んでいる。

これがどのくらい大変なことなのかは、
実際にステレオサウンドで働くようになり、特集の試聴テストの準備をしていくとよくわかる。
特に総テストとつく特集のときは、
試聴そのものは楽しくても、しんどさはけっこうなものがある。

ステレオサウンドは総テストをひとつの売りにしていた。
いまは総テストはほとんど行われていない。

なぜ、こんなことを書いたかというと、
あるとき先輩編集者が話されたことがある。
なぜ、ステレオサウンドがベストバイという特集をやったのかについて、であった。

どうしてか、と思う、ときかれて、
いくつか私なりに考えて答えたけれど、私が考えた理由によるものではなく、
取材(つまり試聴テスト)をやらずにつくれる特集をやることで、
編集者の肉体的な負担を減らそう、体を休ませよう、という意図から企画されたものだ、と聞かされた。

これだけが理由ではないだろうし、どこまで信じていいものか、というところもあるけれど、
ベストバイの特集が最初に行われたステレオサウンド 35号、
このころは総テストが当り前のように行われていた時期である。

Date: 11月 18th, 2013
Cate: audio wednesday

第35回audio sharing例会のお知らせ

12月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 17th, 2013
Cate: 瀬川冬樹

バターのサンドイッチが語ること、考えさせること(その1)

バターのサンドイッチのことを書いた。
これ以上書く必要はない、と考えながらも、
バターのサンドイッチが示唆することについて、二、三書いておきたいという気持もまた強い。

蛇足だな、と自分で思いながら書いていく。

バターのサンドイッチのバターは、
オーディオにおけるケーブルをはじめとする、アクセサリーの類なのかもしれない。

バターのサンドイッチがおもいつかないから、
バターは塗るものという思い込みから離れることができないから、
とにかくバターを吟味する。

そのへんのスーパーで売っているようなバターではなく、
高級食材を扱っているスーパーでのみ買える高価なバターをいくつも試したり、
さらにはそういうスーパーでも手に入らないような、もっと特別なバターを探し出してくる。

そのへんのスーパーで売っているようなバターよりも、
ずっとずっと高価なバターをパンに塗って食しては、このバターは……、と評価し、
気に入った、それもめったなことでは入手できないバターであればあるほど、
そのバターについてのウンチクを滔々と誰かにまくしたてることだろう。

そんな人は、バターのサンドイッチは思いもつかないことだろう。

Date: 11月 17th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その18)

ステレオサウンド 59号の瀬川先生のパラゴンについての文章を読み返すたびに、
あれこれおもってしまう。

だから何度も引用しておこう。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
この200字くらいの文章から読みとれることはいくつもある。
それは私の、瀬川先生への想い入れが深すぎるからでは決してない、と思う。

この文章を最初によんだ18の時には気づかなかったことが、いまはいくつも感じられる。

「外観も音も、決して古くない」
ここもそうだし、
「しかも豊かな気分になれる」
ここもだ。

瀬川先生とパラゴンについて、こまかいことう含めて、長々と書いていくことはできるけれど、
この文章だけで、もう充分のはずだ。

私は断言する。
瀬川先生はバラゴンを手に入れられたはずだ、と。

Date: 11月 17th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その11)

黒田先生は、岡先生の「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」について書かれたのに続いて、
「岡さんは若い。それが岡さんの最大の魅力のひとつであり、
それがまたこの本の説得力をたかめる要因になっている」
と書かれている。

私がステレオサウンドにいたとき、
編集部に遊びにこられた回数がいちばん多かったのは岡先生だった。
岡先生は藤沢にお住まいだった。

そのころ編集部のあった六本木と藤沢はけっこう離れている。
それでも都内にほかの用事があって来られる時は、ふらっと編集部に寄られていた。

ある時、試写会で観たばかりの映画について話された。
その映画の主役の俳優について、将来きっと有名になる、
つまりスターとしての華がある、といったことを黛さん相手に楽しそうに話されていた。

映画のストーリーよりも、その役者についての話の方が多かったように記憶している。
だから、その映画が公開になって観に行った。
「卒業白書」という映画だ。
1983年の映画で主役はトム・クルーズ。

トム・クルーズは「卒業白書」でゴールデングローブ賞 主演男優賞にノミネートされた。

この映画を観ながら、岡先生はこういう映画も楽しまれるのか、と思っていたし、
その後トム・クルーズが大スターと呼ばれるようになっていくのをみるにつれ、
岡先生のいわれたとおりだ、とも思っていた。

Date: 11月 17th, 2013
Cate: 数字

100という数字(その6)

変換効率の高いスピーカーは、カタログスペックの出力音圧レベルの値が高い。

いまでは一般的とはいえなくなったが、
私がオーディオに興味を持ち始めたころ、
つまり1970年代後半の国産ブックシェルフ型スピーカーシステムの出力音圧レベルは92dB/W/m前後だった。
実はこの92dBという値は、アンプから入力された信号の1%が音に変換された、ということである。
残りの99%は熱になって消費されてしまう。

92dBを切っているスピーカーシステムは、1%以下の変換効率ということになるわけだ。
92dBよりも10dB低い82dB/W/mだと、10dBは約3.16倍であるから、1%を3.16で割ればいいし、
102dB/W/mだと10dB高いわけだから、1%の3.16倍の変換効率といえる。

100%は1%の100倍だから、dBでは40dBの差となる。
92dB+40dB=132dB、である。

JBLのD130のカタログに発表されている出力音圧レベルは103dB/W/mだから、
これで計算すれば、92dBのスピーカーの約3.54倍となる。
82dBのスピーカーと比較すれば、約11.22倍となる。

ちなみにJBLのコンプレッションドライバーの2440は、カタログには118dB/W/mと表記されている。
92dBとの差は26dBだから約19.95倍となる。

100dBを超えているスピーカーを、簡単に高能率といってしまっているけれど、
130dBのD130ですら、約3.54%しか音に変換できていないわけで、
dBではなく%でみると、D130ですら、高能率といっていいのかどうか考えてしまう。

こんな計算をしながら考えていたのは、
音圧と音量について、である。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×三十二・原音→げんおん→減音)

つまりはこうである。

五味先生が書かれていた、マッキントッシュのMC275の音の描写、
「もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある」
こういう音の美をほんとうに理解できるようになるためには、
MC3500の音の描写、
「簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている」音をまず出せるようになってからではないのか。
そう考えるようになったからである。

若いうちから、この手の音を求めていく。
当時ステレオサウンドの連載記事スーパーマニアに登場されていた人たちは、
若い時分にそうとういろいろなことをされて、行き着く先に、
高能率のスピーカーシステムと真空管アンプという組合せにたどり着かれている、のを読んでいた。

シーメンスのオイロダインに伊藤先生のアンプを使われているスーパーマニアの方もいた。
最終的にこういう境地にたどりつくのであれば、
最初からこの世界に手をつけていれば──、という考えも少しはあった。
いいとこだけをやろうとしていた。

だが、オーディオはそんなことでうまくいくようなものではない。
シーメンスのコアキシャルと真空管アンプの組合せ、
これをあの時からずっと続けていれば、
20代前半のころよりもずっといい音で鳴らしている、とは思う。

だがシーメンス・コアキシャルの世界からあえて離れて、
いわゆるハイ・フィデリティと呼ばれるオーディオをやってきたからこそ、
もしいま当時と同じシステムを鳴らすことになったとしたら、
ずっと鳴らしつづけてきた音よりも、ずっといい音で鳴らせる。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×三十一・原音→げんおん→減音)

私は20代前半のある時期、
シーメンスのコアキシャル(25cmウーファーとコーン型トゥイーターの同軸型)を平面バッフルで鳴らしていた。
平面バッフルのサイズは縦190×幅100cm、米松合板を使ったもの。
これにf0:65Hzという、古い設計のスピーカーユニットを取り付けていたわけだ。

同軸2ウェイとはいえ、トゥイーターも古い設計で、
しかも口径も大きいわけで高域がすーっと延びているわけでもない。

上も下も、そのくらいのレンジ幅である。
例えば口径はすこし小さくなるが、
JBLの20cm口径のLE8Tを適切なチューニングのなされたバスレフ型エンクロージュアにおさめたほうが、
低域に関してはずっと下まで延びている。

コアキシャルの出力音圧レベルは、98dB/W/m。
高能率といえるユニットだけに、このベクトルでの音の良さは確かにある。
けれど、コアキシャル+平面バッフルでは、再生が無理な音があるのも事実であり、
そんなことはこのスピーカーを導入する前からわかっていたことであり、それを承知で、
こういうシステムでしか聴けない音を求めての選択だった。

つまりは、ここでテーマとしている「減音」、
このときはそこまで意識したわけではないけれど、
それに若さゆえに粋がっていたゆえの選択でもあったけれど、
ようするに、この項の(続×二十九)で書いているMC275的音の描写を意識してのことだった。

けれど、このシステムはそうながくは続けなかった。
音が気に入らなかったわけではない。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(真空管アンプのレイアウト・その7)

街が機能するには、電気が必要であり、そのための電線が敷設される。
電力の供給だけでなく、上下水道もガスも電話線(いまでは光ファイバーか)も必要であり、
日本では電線、電話線は電柱を立てて地上に露出しているけれど、
地下にすべてを埋設もできる。

真空管アンプの内部、つまりワイアリングもそれらと同じである。
真空管のプレートにかかる高電圧の電源供給ライン、
ヒーター用の定電圧の電源供給ライン(交流であったり直流であったりする)、
それから信号ライン、アースラインなどワイアリングされている。

いつのころからか真空管アンプにもプリント基板が使われるようになり、
こういった見方をすることの無理なアンプも市販品には多い。
ワイアリングの巧拙、枝ぶりの美しさ、といったことをあれこれいう楽しみも、
いまどきの真空管アンプにはなくなりつつある。

伊藤先生のアンプには、あたりまえすぎることを書くが、
プリント基板はいっさい使われていない。
すべてベルデンのフックアップワイアーを使われている。
ラグ、ターミナルストリップを適所に配置して、部品を固定しながらひとつひとつワイアリングされている。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その10)

岡先生の「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」は、
Deliusをデリウスと安易に書いてしまうような人には、到底無理なサーヴィス精神といえよう。
Deliusをデリウスとしてしまう人のは、「あちこちにごろごろしているプラスティックのサーヴィス精神」であり、
どんなに彼がサーヴィス精神を発揮しようとも、
プラスチックのサーヴィス精神は「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」になることはない。

黒田先生は1981年の時点で、プラスチックのサーヴィス精神が「あちこちにごろごろしている」とされている。
いまは30年前よりも、もっともあちこちにごろごろしているのではないだろうか。

何をモってプラスチックのサーヴィス精神と判断するのか、
本物の、筋金入りのサーヴィス精神とするのか。
それは人によって異ることなどない、と思いたいのだが、
どうも実際にはそうでもないように感じることもある。

私がプラスチックのサーヴィス精神だと感じている人がいる。
その人の書いたものを信用することなど私にはまったくないけれど、
意外にも、その人が、いまオーディオ評論家と呼ばれている人の中で読者から信用されていることを、
インターネットでみかけたりすると、がっかりするではなく、
それは驚きであるし、理解できないことでもある。

いま「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」を持っている人、
つまりは「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」を行うには、
調べられることは徹底的に調べる精神が必要であるわけだが、
そういう人がいるのだろうか。

いなくなったからこそ、
「あちこちにごろごろしているプラスチックのサーヴィス精神」によって書かれたものばかりになり、
そのプラスチックをガラスをみせかけようとしている人が信用されているのかもしれない。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その9)

Deliusをデリウスを書いてしまう人と違い、岡先生は調べられることは徹底的に調べる人である。
もっともDeliusをデリウスを書くようなことは、徹底的に調べなくとも少し調べるだけで避けられること。

徹底的に調べる、ということは、あるひとつのことについて調べていても、
それに附随・関連するいろいろなことを知り、またそれらについて調べていくことでもある。

そういう岡先生の本だからこそ、といえるところが「マイクログルーヴからデジタルへ」にはある。
これについて黒田先生はこう書かれている。
     *
 そしてもうひとつ、どうしても書いておかなければならないことがある。岡さんの、決して押しつけがましくならない、相手にそれと気どられることさえさけようとする、いかにも岡さんらしいサーヴィス精神である。サーヴィス精神という言葉は、昨今、ひどく安っぽくつかわれることが多いが、岡さんのサーヴィス精神は、あちこちにごろごろしているプラスティックのサーヴィス精神ではなく、本物の、筋金入りのサーヴィス精神である。
 岡さんの本の、ほとんどすべての偶数ページの下段に、さまざまなレコードのジャケット写真と、そのレコードについての二五〇字前後のコメントが印刷されている。たとえば、こんな具合にである──「ワイル《三文オペラ》ロッテ・レーニャ、他(米キャピトルP8117、1950年12月)この《三文オペラ》は1930年に映画化されたときのメンバーによる4枚組SPがオリジナル。のちに独テレフンケンが30cm片面にして出している。ジャケットの裏に3、500と値段が鉛筆で書いてある。昭和26年の輸入盤LPが当時の物価から見ればずいぶん高いものだったことを改めて思い出す。しかもこのレコードは両面で27分足らずしか入っていなかった」(同書、二二一ページ)。そして、そのページの本文では、当然のことに、そのレコードについても、ふれられている。
 読者は、本文を読みつつ、同時に、下段のジャケット写真をながめ、それにそえられたコメントに目を走らせて、いってみれば立体的なたのしみをあじわうことになる。まことに岡さんらしい、岡さんならではのサーヴィス精神の発露というべきではなかろうか。
     *
「マイクログルーヴからデジタルへ」の偶数ページの下段のレコード紹介は、
本文と同じくらいに楽しめる内容だった。
モノクロで、決して解像度の高い写真ではないけれど、ジャケット写真を見て、
それらのレコードを、ほぼすべて発売時に聴かれてきた岡先生のコメントは、
岡先生よりもずっと後の時代に生れ、いわば後追い体験している者(私)にとっては、興味深くもあった。

これに関しては読み手の世代によって違いがあろう。
黒田先生はこんなふうに書かれている。
     *
ああ、そういえばこういうレコードがあったと、過ぎた日に輸入レコード店の店頭でながめ、しかし買うことままならずながめるだけですまさざるをえなかったレコードを、そのジャケット写真は思い出させてくれる。
     *
黒田先生と私は27違う。
東京生れ東京育ちの黒田先生とは、この部分でも違うのだから。