岡俊雄氏のこと(その10)
岡先生の「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」は、
Deliusをデリウスと安易に書いてしまうような人には、到底無理なサーヴィス精神といえよう。
Deliusをデリウスとしてしまう人のは、「あちこちにごろごろしているプラスティックのサーヴィス精神」であり、
どんなに彼がサーヴィス精神を発揮しようとも、
プラスチックのサーヴィス精神は「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」になることはない。
黒田先生は1981年の時点で、プラスチックのサーヴィス精神が「あちこちにごろごろしている」とされている。
いまは30年前よりも、もっともあちこちにごろごろしているのではないだろうか。
何をモってプラスチックのサーヴィス精神と判断するのか、
本物の、筋金入りのサーヴィス精神とするのか。
それは人によって異ることなどない、と思いたいのだが、
どうも実際にはそうでもないように感じることもある。
私がプラスチックのサーヴィス精神だと感じている人がいる。
その人の書いたものを信用することなど私にはまったくないけれど、
意外にも、その人が、いまオーディオ評論家と呼ばれている人の中で読者から信用されていることを、
インターネットでみかけたりすると、がっかりするではなく、
それは驚きであるし、理解できないことでもある。
いま「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」を持っている人、
つまりは「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」を行うには、
調べられることは徹底的に調べる精神が必要であるわけだが、
そういう人がいるのだろうか。
いなくなったからこそ、
「あちこちにごろごろしているプラスチックのサーヴィス精神」によって書かれたものばかりになり、
そのプラスチックをガラスをみせかけようとしている人が信用されているのかもしれない。