2025年をふりかえって(その2)
一年をふりかえると、今年もけっこうイヤなことがあったと思っても、
今年もいいアルバムが聴けたな、とそのことをおもい返すと、
結局は、今年もいい一年だったな、となる。
一年をふりかえると、今年もけっこうイヤなことがあったと思っても、
今年もいいアルバムが聴けたな、とそのことをおもい返すと、
結局は、今年もいい一年だったな、となる。
audio wednesdayが年に数回単発ならば、再開できる可能性が出てきた。
スペース的には大勢は入らない(そんなに大勢が集まることはない)けれど、音量の制約はない。
詳細は何ひとつ決まっていないけれど、来年になれば不定期ではあるが再開できそう。
器材の制約はあるが、その中でやっていくのも、個人的には楽しく感じている。
2020年は11月8日から、
2021年は11月1日から、
2022年は11月10日から、
2023年は11月1日から、
2024年は11月2日から、それぞれこの項を書き始めている。
今年は今日(11月2日)から。
昨年の(その4)で書いたことを、コピーしておく。
オーディオのプロフェッショナルとは、どういうことなのか。
今年は、そのことについて、いつも以上に考えさせられることが、
いくつか重なった。
結局、オーディオ業界にいて、お金を稼いでいれば、
その人はオーディオのプロフェッショナルということになる──。
もちろん、そういうレベルの低い人ばかりではないことはわかっている。
それでも、オーディオのプロフェッショナルを自称している人の中には、
そういうレベルの人が、決して少なくないことを、
今年は目の当たりにすることが何回かあった。
おそらく、ではなく、きっと来年も、そういう人を目の当たりにするであろう。
以上のことを書いているけど、今年も残念なことに同じだった。
オーディオのプロフェッショナルを自称している人の中には、オーディオの商売屋としてのプロフェッショナルがいる。
仕事なのだから、オーディオで稼いでいっているわけで、全ての人を、オーディオの商売屋と見ているわけではないし、
そんな人は少数だと感じていても、
オーディオの商売屋としてのプロフェッショナルは、目立つ。
そんな人は昔からいたのだろうか。
残念なことに、そんなことを感じさせられた一年であった。
今日は、大阪のホームシアターの専門家のMさんに誘われて、オフ会に参加していた。
主宰のCさんは、フランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らした時、Mさんと一緒にaudio wednesdayに来てくださった。
ソナス・ファベールのGuarneriを鳴らされている。久しぶりに聴くGuarneri。
いいスピーカーだなぁ、と思う。
Ktêmaとともに、やはりフランコ・セルブリンのスピーカーだと実感できる。
現在のソナス・ファベールのスピーカーと比較して、どちらがいいなどとは言わないが、
佇まいに自然とあらわれる個性は、Guarneriの方だなと好感が持てる。
フランコ・セルブリンがいた時代のソナス・ファベールとその後のソナス・ファベール。
その変化は起こって当然であり、そのままであったとしたら、そちらの方が問題である。
そう思いながらも、オーディオの核は、やはりスピーカーシステムであり、例えば今年のインターナショナルオーディオショウでの今井商事のブース。
これまでは閑散としていた。人が入ってきても、すぐに出ていく人の方が多かったのに、今年は違っていた。
核となるスピーカーシステムとしてヴァイタヴォックスのCN191があったからだ。
そのスピーカーの存在に共感できる。そういうスピーカーと出逢えた人は幸せのはずだ。
今日、Cさんのところに集まったのは五人。六人で15時ごろから21時くらいまで、あれこれ話していた。
初対面の方が三人。そんなこと関係なく楽しかった。
Guarneriで聴く(観る)ホームシアターも、いいなと思っていた。
オリビア・ニュートン=ジョンの“Warm And Tender”は、三十五年ほど前のアルバム。
ステレオサウンド 94号掲載の黒田先生の「ぼくのディスク日記」でとりあげられていたので、知ってはいた。
いたけれど、聴いていたわけではなかった。
機会があれば──、いつか、聴くこともあるだろう、という気持だったから、
いつのまにか、その存在すら忘れかけようとしていた。
昨晩、「ぼくのディスク日記」を読み返した。
*
〝美しい星と子供たちに〟と副題のついた「ウォーム・アンド・テンダー/オリビア・ニュートン・ジョン」(日本フォノグラム/マーキュリー・PPD9001)は、自然破壊阻止を願ってさまざまな活動をしているオリビア・ニュートン・ジョンが、その思いをこめてつくったディスクである。ここで、オリビア・ニュートン・ジョンは、モーツァルトやブラームスの子守歌、それに「星に願いを」や「虹のかなたに」、あるいは「きらきら星」といったような、まさに「ウォーム・アンド・テンダー」な歌を「ウォーム・アンド・テンダー」にうたっている。オリビア・ニュートン・ジョンも、すでに3歳半のお子さんのお母さんであるが、声はあいかわらず少女のように可愛らしい。
このようなアルバムは、ともすると歌い手の側の思いがなまなかたちで示されがちで、考えには賛成なんだけれど、と逃げ腰にならなくもない。しかし、このオリビア・ニュートン・ジョンの「ウォーム・アンド・テンダー」には、そういう臭みがない。おそらく、オリビア・ニュートン・ジョンの人柄によるのであろうし、自然保護を願うオリビア・ニュートン・ジョンの気持がまっすぐなためであろう。
*
いまの時代、ストリーミングがある。
黒田先生の文章を読んで、聴きたいと思ってすぐに聴ける。
“Warm And Tender”が発売された時、私は29歳だった。その時、聴いていたら、どう感じただろうか、とそんなことも考えていた。
いいアルバムだ。
昨晩、お知らせしたように狛江でのaudio wednesdayは、10月を持って終了となった。
昨日、そう決めたわけだが、結果として10月のaudio wednesdayが終夜となって良かった、と思っている。
カラヤンとベルリンフィルハーモニーによるワーグナーの「パルジファル」を全曲鳴らすことができたからだ。
終りにふさわしい会となったなぁ、とひとり納得している。
11月に、ヴァイタヴォックスのCN191が鳴らせると楽しみにしていましたが、詳細を書きたくない事情により、前回(10月)で終了となりました。
いい場所が見つかれば、いつの日か再開するつもりでいます。
いまどきのスピーカーの出力音圧レベルがあたりまえになっている人は、
スピーカーの変換効率はどのくらいなのか、わかっているのだろうか。
スピーカーの変換効率は、相当に低い。
93dB/W/mで1%の変換効率でしかない。
いまでは90dB以上のスピーカーは高能率と言われたりするが、93dBといえば、JBLの4343がそうだった。
15インチ口径のウーファー、10インチ口径のミッドバス、ホーン型のミッドハイとトゥイーターという構成で、
フロアー型だった4343は、ブックシェルフ型並の出力音圧レベルと言われたりした。
四十年ほど前は93dB/W/mは高能率ではなかった。
変換効率が1%ということは、アンプからの信号の99%は音に変換されず熱になっている。
その熱が音に影響しないのであれば、こんなことを書いてはいない。
アコースティックエナジーのAE2のエキスパンドされたかのような音を思い出すと、4343でも音の伸びをあるレベルから抑えられていたのだろう。
熱対策を十分に行っているスピーカー、つまりAE2の音の伸びこそ、本来の鳴り方なのかもしれない。
スピーカーのボイスコイルは、数Ωという直流抵抗を持つ。
この直流抵抗によって、ボイスコイルは熱を持つことになる。
熱を持てば、金属の性質上、直流抵抗の値は高くなる。
高くなれば、その分さらにパワーのロスが生じる。
ということは、そこでまた熱が発生する。
そうやってボイスコイルの温度がさらに上れば、直流抵抗はさらに高くなる……。
悪循環を招き、リニアリティの低下となる。
JBLの4343から4344へのモデルチェンジにおいて、
ウーファーが2231から2235へと変更されている。
JBLの発表によれば、
約30Hzの低音での1W入力時と100W入力時の出力音圧レベルは、
ボイスコイルの温度上昇とそれによる直流抵抗の増加、
それ以外にもダンパーなどのサスペンションの影響により、
2231では100Wの入力に対してリニアに音圧レベルが上昇するわけでなく、
3〜4dB程度の低下が見られる。
2235での低下分は約1dB程度に抑えられている。
2235は確かボイスコイルボビンがアルミ製になっている。
ボビンの強度が増すとともに、放熱効果もある程度は良くなっているはずだ。
このことが、100W入力時の音圧の低下を抑えている、といえよう。
1970年代後半に登場したガウスのユニットは、
磁気回路のカバーがヒートシンク状になっていた。
これは放熱効果を高めるためであるが、ボイスコイルを直接冷やしているわけではない。
あくまでも間接的放熱である。
ボイスコイルの温度上昇を抑えるには、効率的な放熱対策が必要となる。
ボイスコイルが巻かれているボビンを熱伝導率の高いモノにする。
ボイスコイルからボイスコイルボビンに伝わった熱を、どう放熱するのが効率的かといえば、
振動板を熱伝導率の高い素材にすることだ。
アコースティックエナジーのAE1、AE2のウーファーはアルミの振動板を採用。さらにボイスコイルボビンから伝わってくる熱を、
アルミの振動板に伝えるために接着剤も熱伝導率を重視している。
とにかくボイスコイルが発する熱を、できるだけ振動板に伝え、放熱させる設計であり、だからこそのエキスパンドされたのような鳴り方を実現している、と見ている。
一週間ほど前に知ったのだが、アコースティックエナジーから、AE1 40th Anniversary Editionが出ている。
型番からわかるようにAE1の40周年記念モデルだが、だからといって限定モデルでもなさそう。
アコースティックエナジーのスピーカーを聴いたのは、別項でも触れているように早瀬文雄(舘 一男)さんのリスニングルームだった。
とにかく広い空間だった。床面積も天井高も、一般的なサイズではなかった。
そういう空間にポツンと置かれていたAE2。AE1と同じスピーカーユニット使用だが、
型番からもわかるようにダブルウーファー仕様。
小型スピーカーとはいえ、それまでの小型スピーカーとは顔つきが明らかに違っていた。
ロジャースのLS3/5Aとは時代がかなり離れているから当然としても、
セレッションのSL600、SL700といった近い時代の小型スピーカーとも、ずいぶん違う。
出てきた音もそうだった。欲しいとは思わなかったが、凄いスピーカーが登場してきたものだ、という驚きは強かった。
とにかく音がのびる。バスレフポートからの風圧が顔に感じられるほど音量を上げても、余裕があるどころか、エキスパンドされたかのようにすら聴こえた。
同じことを井上先生が、ステレオサウンド 95号に書かれている。
《音量が上がるに従って、加速度的に音のエッジがクリアーになり、一種のダイナミックエキスパンダーのような力強い音に変るのが、このシステムの音のキャラクターである。》
ダブルウーファーとはいえ、ユニット口径は9cm。
にも関わらず、まさしくそういう音がAE2から鳴ってくる。
dCSのVarèseは、どうだったのかというと、ありきたりになるが凄かった。
CDトランスポートを加えると全体で六筐体。縦型のラックに収められているのを見て、
壮観だな、と思うか、なんと大袈裟な、と思うか。音を聴くまでは、人それぞれだっただろうが、
その音を聴いてしまうと、この規模があっての音なのか、と納得するはず。
土方久明氏の選曲は、ケルテス指揮ウィーンフィルハーモニーによる「新世界より」。
古い録音なのだが、見事だった。
聴いていて、五味先生のことを思い出していた。
ステレオサウンド 47号から始まった「続・五味オーディオ巡礼」での南口重治氏の4350Aの音について書かれていたことを思い出していた。
*
プリはテクニクスA2、パワーアンプの高域はSAEからテクニクスA1にかえられていたが、それだけでこうも音は変わるのか? 信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
小編成のチャンバー・オーケストラなら、あらためて聴きなおしたゴールド・タンノイのオートグラフでも遜色ないホール感とアンサンブルの美はきかせてくれる。だが大編成のそれもフォルテッシモでは、オートグラフの音など混変調をもったオモチャの合奏である。それほど、迫力がちがう。
*
さらに五味先生は《仮りに私が指揮を勉強する人間なら、何を措いてもこの再生装置を入手する必要がある、と本気で考えていたことを告白する。》
とまで書かれている。
五味先生が南口氏の音を聴いての衝撃は、これと同じか、きわめて近いのでは──、
そんなふうに思いながらも、では昂奮していたのかというと、割と冷静だった。
昨年あたりからハイエンドオーディオ機器の価格は、跳ね上った。
今年、さらに跳ね上った。
来年は、どうなるのか。
数千万円を超え、一億円も超えるようになってきた、それらのオーディオ機器のことを否定する気はない。
ただ言いたいことは、価格ではなく、その規模に節度はあるのか、そのことだけである。
規模が大きくなることに、マニアならば昂奮もする。よくぞ、ここまでやった、と思うこともある。
けれど……、である。
別項でも触れているが、山中先生ステレオサウンド 50号の特集で、クラシックスタンダードという言葉を使われている。
マランツのModel 7は、まさしく、そのクラシックスタンダードなオーディオ機器である。
スタンダード(standard)の意味を調べると、節度ともあった。
スタンダードにはいくつかの意味がある。節度は、その中の一つなのだが、
いまの時代のハイエンドオーディオ機器を見ていると、これらが二十年後、三十年後、さらにもっと年月が経ってふり返ったときに、
クラシックスタンダードとは、呼ばれないだろう。
クラシックスタンダードと呼ばれることが、何らかの絶対条件であるとは言わないが、
それでも節度を全く感じさせないオーディオ機器は、将来、どういう評価を得るのか。
ジャクリーヌ・デュ=プレとカスリーン・フェリアーを生涯の「友」として聴いてきたのであれば、その人の人生は幸福だったはず。
人生にはいろんなことが起こる。苦労ばかりだった──、そんなことをつぶやきたくなる人生でも、
デュ=プレとフェリアーの音楽とともに歩んでこれたのならば、やはり幸せなはずだ。
もっとも、どんな音で聴いてきたか。
このことを無視して、生涯の「友」として聴いてきたとは語れない。
11月5日のaudio wednesdayで、ヴァイタヴォックスのCN191を鳴らすわけだが、
うまく鳴ってくれれば、二人の演奏をかける。
11月5日のaudio wednesdayでヴァイタヴォックスのCN191を鳴らすと決めてから、
先日のインターナショナルオーディオショウで聴くことができたし、
ヴァイタヴォックスからは新製品が登場するなど、不思議とヴァイタヴォックスとの縁(のようなもの)を感じている。
今回CN191を鳴らす器材は、いつもと同じである。
D/Aコンバーターは、メリディアンのUltra DACだ。
ここには日本製、アメリカ製ではなくヨーロッパ製を持ってきたいし、できればヴァイタヴォックスと同じイギリス製を、というのは、私のこだわりでしかない。
以前から感じていることなのだが、100dB/W/mほどの高能率スピーカーほど、MQAとの相性がいい。
野口晴哉氏のリスニングルームのスピーカーは、
シーメンスにしてもウェストレックス・ロンドンにしても高能率であるが、
その中でヴァイタヴォックスは低域もホーン型という存在。
それ故の難しさもあろうが、
オールホーン型という、いまでは稀少な存在となったスピーカーシステムを鳴らせるのは、楽しみでしかない。
ハイエンドオーディオという言葉が、昔から嫌いだった。
こんなことを書くと、 ハイエンドオーディオ機器を買えないことからの僻みだろう、と言われようが、
ハイエンドオーディオと呼ばれているオーディオ機器が嫌いとか認めないとかではなく、
ハイエンドオーディオという言葉そのものが嫌いなのだ。
ハイエンドオーディオって、高域まで伸びているオーディオのことですね──、そんなふうに言ったりしていたことも二十代のころはあった。
ハイエンドオーディオという言葉を、たぶんこれから先も好意的に使うことはない、すらいえる。
もちろん他人がハイエンドオーディオという言葉を、有り難かったり、
自分自身を大きく見せるために使うのは、ご自由に、と思う。
少し前からディープエンドオーディオと書くようになった。
もうひとつ言葉としての響きがよくないと自分でも感じているが、
深みを目指していくのだから、いまのところ、かわりのいい感じの言葉が思いつかない限りは、
ディープエンドオーディオを使っていくことになるが、
ディープエンドオーディオには高能率のスピーカーが絶対的に欠かせない存在である。