Date: 1月 27th, 2026
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その28)

その25)で書いていること。
バッテリーからAC電源を作り出すポータブル電源を使ってウェスターン・エレクトリックの594Aを鳴らしたことをふり返って気づくことは、励磁型スピーカーにこそ、ポータブル電源を使うべきではないのか、である。

励磁型スピーカーは、スピーカーの理想のように昔から語られている。
私も、そう思っていた(いまもある程度は思っている)が、励磁型スピーカーの難しさは、フィールドコイル用の電源をどうするかにある。

少しでも励磁型スピーカーを鳴らしたことのある人ならば、電源の重要性をわかっている。

規定の電圧と電流が供給されていれば、電源は何でもいい──、そう考えている人は、たぶんいない。
そのくらい電源で音が変る、というか変りすぎる。

ビクターはSX1000の開発にあたり励磁型スピーカーを試している。そして電源もいろいろ試したことは、当時のオーディオ雑誌を読めばわかる。

タンガーバルブを使った電源、バッテリーによる電源なども、そこに含まれる。

励磁型スピーカーの、電源による音の変化の大きさは、ボイスコイルとフィールドコイルが近距離の関係なことに原因があると考えている。

この問題を解消するには、フィールドコイルの電源を商用電源から切り離すしかない。

Date: 1月 26th, 2026
Cate: 複雑な幼稚性

ゲスの壁(その2)

(その1)で書いているゲスなことをする人は、ほんとうにオーディオマニアなのだろか。

五味先生の「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書いてある。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
     *
17の時に読んだ。
まだまだオーディオマニアとしての経験は足りないけれども、
なるほどそういうものか、と感心しながら、何度も読み返した。

ゲスとしか言いようのないメールを送信してくる人は、この五味先生の文章を、どう読むのか。

別項で書いているが、残念なことにオーディオの世界にもゲスは以前からいる。

別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で取り上げた人たちがいる。

壊れて破損しているオーディオ機器を隠して配送を依頼して、因縁をつけて損害賠償を要求する人、
スピーカースタンドの重量が、カタログスペックよりも少しだけ重たいことで裁判おこす人──。

私が知らないところでは、こんなふうにして裁判をおこしているのだろうか。

Googleで「オーディオ 裁判」を検索してみた。
検索してみてほしい。

Date: 1月 25th, 2026
Cate: 戻っていく感覚

My Favorite Things(チューナー篇・その7)

たとえばウーヘルがある。
ウーヘルはもともとテープデッキのメーカー。
ポータブル型のオープンリールデッキ、カセットデッキで知られていた。

そのウーヘルが、小型コンポーネントシステムを売り出した。
ウーヘルのカセットデッキ、CR240の音を聴いているが、他のモデルの音は知らない。
それでもテープデッキの音は想像できるところもあるが、小型コンポーネント全体の音は、どうだったのだろうか。

この頃のウーヘルの輸入元は三洋電機貿易だった。
チューナーのEG740の外観は、いかにもウーヘル的だけど、製造は日本だったと記憶している。

ウーヘル本社が企画設計して日本製造だったのか。このやり方は、1970年代のマランツがそうだった。
アメリカで設計し、製造は日本で行っていた。

EG740が西ドイツ製か日本製なのかは、あまり気にしていない。日本製であっても欲しいチューナーであることにはかわりない。

ただEG740は外部電源である。コントロールアンプもそうだったはずで、一つの電源から供給するようになっている。

実をいうと、この電源だけは持っている。日本製である。けっこう前にヤフオク!に出品されていたのを、安価だったので落札した。
EG740本体をいつ手に入れてもいいように、である。

少し話が逸れてしまったが、EG740の出力をCR240で録音してみると、どうなるのだろうか。

セクエラは、のちにスピーカーを出していたが、テープデッキは手掛けていない。
マランツはカセットデッキはあったけれど、Model 10Bとは時代が違う。
QUADにもテープデッキはなかった。

ウーヘルのEG740とCR240は同時代の製品である。この組合せの音は、どうだったのか。

Date: 1月 24th, 2026
Cate: 戻っていく感覚

My Favorite Things(チューナー篇・その6)

チューナーについて書いていると、ステレオサウンド 59号の特集ベストバイの座談会を思い出す。
     *
菅野 これも個人によって全く考え方がちがうと思いますね。たとえば、自分があまり関心のないジャンルというものがある。ぼくにとってはFMチューナーがそうです。ぼくはFMチューナーで、レコードに要求するだけの音を聴こうとは思わないんですよ。まあ、そこそこに受信して鳴ってくれればいい。だから大きな期待をもたないわけで、FMチューナーなら、逆に値段の高いものに価値観を見出せないわけです。
 亡くなられた浅野勇先生みたいにテープレコーダーが大好きという方もいる。「もうこのごろレコードは全然聴かないよ、ほこりをかぶっているよ」とおっしゃっていたけれど、そうなると当然レコードプレーヤーに関しては、大きな要求はされないでしょう。やはりテープレコーダーの方によりシビアな要求が出てくるはずですね。
 そのようにジャンルによって物差しが変わるということが全体に言えると同時に、今度はその物差しの変わり方が個人によってまちまちだということになるんじゃないでしょうか。
柳沢 ぼくもやはりFMチューナーは要求度が低いですね。どうせ人のレコードしか聴けないんだから……といった気持ちがある。
瀬川 そうすると、三人のうちでチューナーにあたたかいのはぼくだけだね。ときどき聴きたい番組があって録音してみると、チューナーのグレードの差が露骨に出る。いまは確かにチューナーはどんどんよくなっていますから、昔ほど高いお金を出さなくてもいいチューナーは出てきたけれども、あまり安いチューナーというのは、録音してみるとオヤッということになる。つまり、電波としてその場、その場で聴いているときというのは、クォリティの差がよくわからないんですね。
     *
菅野先生が言われているように、チューナーというジャンルは、それに対する考え方、価値観が個人によってかなり違ってくるものの代表だろう。

《だから大きな期待をもたないわけで、FMチューナーなら、逆に値段の高いものに価値観を見出せないわけです。》
とも菅野先生は発言されている。

私も菅野先生と同じで、チューナーの音にそれほどのレベルは求めていないところもあるといえばある。
それに高性能なチューナーで受信したい番組がどれだけあるだろうか──、と考えると、
ステレオサウンド 59号の時代よりも、それは悲しいとしか言えない。

それでもマランツのModel 10B、セクエラのModel 1は、写真だったら実物を見ると、やっぱりいいな、すごいな、となる。

モノマニアの一面が強く前に出てくるからだろうし、モノマニア心をいまでもくすぐってくる。

そしてチューナーの音である。瀬川先生の発言が、やはり気になる。
《ときどき聴きたい番組があって録音してみると、チューナーのグレードの差が露骨に出る。》
ということは、エアチェック(録音)する場合、相性のいいチューナーとテープデッキがあるのだろうか。

このことを考え始めると、また楽しくなる。

Date: 1月 23rd, 2026
Cate: the Reviewの入力

早瀬文雄氏の文章を入力していて(その4)

この項を書いていて、早瀬文雄(舘 一男)にとっての「終のスピーカー」は、いったいなんだったのだろうか、と考えているわけだが、
あれこれ舘さんが鳴らしてきたスピーカーをふり返りながら、これもしれない、と一つ思いついたスピーカーがある。

スピーカーといってもスピーカーシステムではない。
スピーカーユニットである。それもトゥイーターである。
JBLの2405だけが、舘さんにとっての「終のスピーカー」だったのではないのか。

結論とまではいえないけれど、2405は確かに舘さんにとっての「終のスピーカー」だったはずだ。

このことに気づいてまたふり返ってみると、決して間違っていない、と思えてくる。

Date: 1月 22nd, 2026
Cate: ジャーナリズム

価格、価格帯とベストバイ(その2)

ステレオサウンド 47号でのベストバイで、点数(星の数)が導入された。
星三つ、星二つ、星一つと、ベストバイに選ばれるだけでなく、そこに点数がつく。

これにはいい面と悪い面もある。
点数(星の数)が多いモデルだからといって、星二つを入れている人が多くて総合として上位に来る。

選んだ人は少ないけれど、星三つを入れてもらっているモデルは、下位であっても選んでいる人が誰かによって、点数の多い、上位のモデルよりも、場合によっては魅力的な存在だったりする。

私にとっては、瀬川先生が星三つを入れているかどうかが、47号のベストバイでは、上位か下位よりもずっと重要だった。

星のつけ方も人によって微妙に違ってくるところもあるが、それでも星三つを入れているモデルと、
星二つどまりのモデルとの間は、かなりの開きがあると感じている。

星二つばかりが多く集まっての上位のモデルは、平均的に優秀という捉え方もできなくもない。

星の数の捉え方も人によって違ってくるだろうから、単純に星の数が多いモデル、一番多く星がついているモデルは、当然、そのジャンルの一位(一番)──、
そんな捉え方だってできるし、そうする人もいる。

47号では、価格帯が設けられてなかったから、各ジャンルでの一位のモデルは一機種、もしくは同数で二、三機種となる。

読者にとって、自分の使っているモデル、気に入っているモデルが、ベストバイで一位になったら、嬉しいだろう。
そんなとこ、全く気にしない、と口では言っても、嬉しくないはずはない。

読者がそうだったら、メーカー、輸入元の人たちはどうだろうか。

Date: 1月 21st, 2026
Cate: ジャーナリズム

価格、価格帯とベストバイ(その1)

またか……、と思う人もいれば、楽しみにしている人もいるステレオサウンドの特集、ベストバイ。

定番といえるベストバイは35号から始まった。
二回目は一年後の39号ではなく、さらに一年後の43号。

おそらく35号の時点では、毎年掲載するようになるとは考えていなかったのだろう。

以前も書いているが、ベストバイという企画は編集者の体を休ませる意味合いもあった、と編集部の先輩から聞いている。

あの頃のステレオサウンドの総テストは、本当に大がかりだった。
そのため編集者の肉体的負担も小さくなかった。
毎号、総テストをやっていては体がもたない──。
試聴という取材がいらない企画としてのベストバイ。そういうふうにして始まったそうだ。

これも以前書いているが、ベストバイの号でいちばん面白った(読みごたえ)があったのは43号だ。

この43号からベストバイは、ステレオサウンドの定番の記事としてスタートといえよう。
三回目のベストバイは47号。ここまでは価格帯がなかった。

四回目の51号から価格帯ごとのベストバイとなっていくわけだが、
51号、55号のベストバイは面白くなかった(読みごたえがなかった)。
改悪だと感じていた。

59号のベストバイは、少し良くなっていた。ここでも価格帯が設けられていたが、高額な機種に関しては、いわゆる特別枠としてのベストバイという分け方だった。

読者として読んでいたころから、価格帯は意味がないと思っていた。
そこから四十数年経って、オーディオ機器の価格はずいぶん変った。いまでも価格帯が存在しているが、価格帯で分けることの意味はあるのか、といままで以上に思うだけでなく、無理も生じているし、大きくなっている。

なのになぜ価格帯を設けるのか。

二年ほど前、別項で書いているように、一位の数(機種)を増やすためであろう、と思っている。

Date: 1月 21st, 2026
Cate: 複雑な幼稚性

ゲスの壁(その1)

昨年12月に、
アホ、バカ、ゲス。
いちばん始末におえないのは、ゲスだ、と書いた。

このブログではメールアドレスを公開しているから、毎日スパムメールが届く。そのほとんどは海外からと思われる。

今日、届いたメールはひどい。

差出人は、寺本浩平。
件名は、株式会社DIASOUL。
日本からだろう。

DIASOULの寺本浩平氏は、ニュースにもなっているからご存知の方も少なくないように、
ある事件に巻き込まれて亡くなっている。

偶然なのだが、12月のaudio wednesdayは、その事件の初公判でもあった。

いろんなゲスがいる。それはわかっているが、こんなメールを送るのは、どんなゲスなのか。

こんなことをして、何か愉しいのか。

Date: 1月 20th, 2026
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その70)

「五味オーディオ巡礼」の一回目、岡鹿之助氏の音について、こう書かれている。
     *
 十数年前の、そのアトリエのたたずまいをうろおぼえに私は憶えていた。高城氏の創られた音に初めて耳をかたむけたソファの位置も、おぼえていた。それにあの忘れようのないスピーカーエンクロージァ。
 しかし、鳴り出した音は、ちがった。ふるさとの音はなかった。当時はモノで今はステレオだからという違いではない。むかしはワーフデェルで統一されていたが、今はスコーカーに三菱のダイヤトーン、トゥイターは後藤ユニットに変っている。おそろしい変化である。後藤ユニットは、高域の性能でワーフデェルを凌駕すると高城さんは判断されたに違いない、聴いた耳には、ティアックA6010のテープ・ヒスを強調するための性能としかきこえない。三菱のダイヤトーンは中音域のクォリティに定評がある。しかしワーフデェルと後藤ユニットのあいだで鳴るその音は、周波数特性に於てではなくハーモニィで、歪んでいた。ラベルのピアノ協奏曲が、三人の指揮者の棒による演奏にきこえた。ピアノもばらばらにきこえた。どうしてこんなことになったんだろう、あの高城さんがことさら親しい岡画伯の愛器を、どうしてこうも調和のない音に変えられたのだろう。むかしとそれは変らぬすばらしい美音をきかせてくれる部分はある、しかし全体のハーモニィが、乱れている。少なくとも優雅で気品ある岡画伯のアトリエにふさわしくない、残滓が、終尾のあとにのこる、そんな感じだ。
 むかしはそうではなかった。もっと透明で、馥郁たる香気と音に張りがあり、しかもあざやかだった。あの時聴いたバルトークのヴィオラ協奏曲のティンパニィの凄まじい迫真力、ミクロコスモスのピアノの美しさを、私は忘れない。どこへいったんだろう? こちらの耳が、悪いのか。
 ――おそらく私の耳のせいだろうとおもう。テープ・ヒスさえ消せば、以前とは又ことなった美しさを響かせるに違いないとおもう。高城さんほどの人が、さもなくてわざわざワーフデェルを三菱や後藤ユニットに変えられるわけがない。かならず別な美点があるからに違いない。こちらはそういう方面にはシロウトだ。音はどうですかと岡さんにたずねられたら、私は、ヒスのことを言ったろう。しかし岡さんは、さほどヒスは気にせず聴いていらっしゃる、ご本人が満足されている限り、第三者が音の良否など断じてあげつらうべきでない、これは私の主義だ。相手がメーカーや専門家ならズケズケ私は文句を言う。だがそれが家庭に購入された限り、もう、人それぞれの聴き方がある、生き方に人が口をはさめぬと同様、それを悪いとは断じて誰にも言えぬはずだ。第三者が口にできるのは、前にも言ったがその音を好きか嫌いかだけだろう。
 岡さんは満足していらっしゃる。音をはなれれば、それはもう頬笑ましい姿とさえ私には見えた。何のことはないのだ、私だってヒスは気にするが、少々のハムは気にならないそういう聴き方をしている。ハムが妨げる低音より音楽そのものに心を奪われる幸わせな聴き方が、私には出来る。同じことだろう。野口さんのところでエネスコを聴いていて、あの七十八回転の針音がちっとも気にならない、ヒスは気になってもクレデンザの針音は気にならない。人間とは勝手なものだ。だからあの、ふるさとの音をもとめる下心がなければ、岡画伯のアトリエでひびいている音を、私は別な聴き方で聴いたかも知れないとおもう。それを証拠に、同行した編集者は「いい音でした」と感心しているのだ。もっとも公平な、第三者のこれは評価だろう。私の耳がやっぱり、悪かったのだろう。
     *
野口晴哉氏の音と岡鹿之助氏の音。
どちらがいい音なのかではない。
言いたいのは、そういうことではない。

五味先生は
《同行した編集者は「いい音でした」と感心しているのだ。もっとも公平な、第三者のこれは評価だろう。私の耳がやっぱり、悪かったのだろう。》
と書かれている。

そういうものである。
「いい音でした」と感心している人がいれば、そこの音はいい音なのだろう。
その部屋の主が、いい音になったと満足していれば、とやかくいうことではないことはわきまえているから、
具体的なことは、ここでは書かない。

松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》、
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このことを理解できない人がいるから、
「ふるさとの音」、「音のふるさと」はもうそこにはない。

Date: 1月 20th, 2026
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その69)

五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目を思い出す。
ステレオサウンド 15号に掲載されている。

野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
「ふるさとの音」とつけられている。
「音のふるさと」とも書かれている。

「五味オーディオ巡礼」の一回目に、野口晴哉氏と岡鹿之助氏が登場されたこと、
そして二人の音の違い、その音を五味先生がどう感じられたのか。

2026年のいま、読み返すと、なんといったらいいのだろか。
示唆的というだけでは足りなくて、予言のような感じすら受ける。

これだけでは、何のことを書いているのかとほとんどの方が思われるだろう。

あえて、まだ詳細は書かない。わかる人は、これだけでもわかってくれる。

「ふるさとの音」、「音のふるさと」はあっという間に消え去ってしまう。
聴いた人の感想をきいて、本当にそうなってしまった──と思うしかなかった。

失われてしまった、その大事な音はもう戻らない。
失ったのは何か、それすら気づいていないのだろう。
それがシアワセなのだろう。

Date: 1月 19th, 2026
Cate: ステレオサウンド

管球王国の休刊(その7)

昨年10月発売のVol.118で休刊となった管球王国は、休刊の告知とともにウェブに移行するとも発表していた。
その時点では、どういうふうに展開していくのかまではわからなかった。

年が明けて、1月5日から管球王国のウェブ版の公開が始まった。

アクセスした人は、どう思ったのか、と私はおもっていた。
復活して良かった、と素直に喜ぶ人がどのくらいいるのだろか。
全てに目を通したわけではないが、ほぼ全てが管球王国や別冊での記事を、ウェブ用に焼き直しただけだった。

過去の記事がウェブで読める──、と読者が喜ぶと本気で管球王国の編集部の人たちは思っているとしたら、
読者をバカにしすぎ、としか言いようがない。

それに休刊になって、まずやるべきことがある、と言いたい。

ステレオサウンド 50号の巻末にはステレオサウンド創刊号から49号まで総目次がついていた。
さらに49号までのテストリポート掲載機種総索引もついていた。

この巻末附録こそ、管球王国がまずやるべきことである。
創刊号からVol.118までと別冊の総目次、そしてテストリポート掲載機種総目録の二つである。

50号の巻末附録は、ステレオサウンドを読みはじめて三年に満たない読み手にとってはありがたいものだった。
それまでのステレオサウンドがどういう特集を組んできたのか、
どういう連載を続けてきたのか、どういう書き手がいたのかがわかったからだ。
そして、それらの記事がどんなものかをあれこれ想像していた。

管球王国が休刊になって約三ヵ月が経過。総目次と総目録を作るには十分すぎる時間である。

この三ヵ月の間、管球王国の編集部は何をやっていたのか。
何をやるべきなのかをきちんと考えたのか。

今年創刊60周年を迎えるステレオサウンドにも、全く同じことを言いたい。

Date: 1月 18th, 2026
Cate: 戻っていく感覚

早瀬文雄氏の文章を入力していて(その3)

本当に気の迷いだったのか──、
そう思うようになったのは、ずいぶん経ってからのことだった。

少なくとも十数年は経っていた。ある晩、早瀬文雄(舘 一男)さんから電話があった。
スピーカーを買おうと思っているけど、何がいいか、という内容だった。

舘さんとは、いろんなことを話してきたけれど、どのスピーカーを買ったらいいか、いう話はそれまで一度もなかったし、その後もなかった。
この時、一度きりだった。

その時、鳴らしているスピーカーとは別に買うことを考えていて、
そのスピーカーは好きなスピーカーではなくて、オーディオ評論家として自宅で鳴らしておくべきスピーカーとして、であった。

なのでスピーカーの好き嫌いは関係なく、オーディオ雑誌の編集部が試聴室のリファレンススピーカー選びに近いともいえる。

候補はいくつかに絞ってはいたけれど、どれにしたらいいですかね……、と舘さんは電話越しに話していた。

そういう目的ならばB&Wでしょう、が二人の一致した答ではあったが、
舘さんも私も、消去法での選択であることは言わなくてもわかっていたし、
B&Wですよね……、これから先がなかなか盛り上がらなかった。

結局、舘さんは買わなかった。それでよかった、と思ったが、同時に、
舘さんがティールのスピーカーを買ったのも、同じような動機からだったのではないか、と思うようになった。

アメリカのハイエンドオーディオ業界で高い評価を得ているティール。
でもオーディオ雑誌の試聴室などで聴く限りは、優れたスピーカーとは思えないどころか、ひどいスピーカーのように感じられる。

ならば自分のモノとして買って鳴らしてみよう──、そういうところからの購入だったような気がする。

Date: 1月 17th, 2026
Cate: 戻っていく感覚

My Favorite Things(チューナー篇・その5)

筐体は大きいのに、中身はスカスカ──、
そんなふうに揶揄されていたオーディオ機器がいくつかあったけれど、
こんなことを言っていた人たちは、昔のチューナーを知らないのだろうな、と思っていた。

1970年代、’80年代の国産プリメインアンプとペアとなるチューナーは、
普及クラスのモノは、中身はスカスカだった。

プリメインアンプと大きさ、デザインを揃えるためだということはわかっていても、
これらのチューナーの中身はスカスカだった。
チューナーにはダイヤルスケールがあるから、大きい方が見やすいと理由があるのはわかっていても、
無理に見た目を合わせるよりも、小型で粋なデザインのチューナーであってほしい、とも思っていた。

でも国産のチューナーにはそういう発想はなかったようで、国産チューナーで小型のモノが登場するのは、小型コンポーネントシステムのチューナーとして、であった。

パイオニアが、それまでのコンポーネントよりも小さなサイズを出してきた。
続いてテクニクス、ダイヤトーン、ビクター、オーレックスなどから、パイオニアよりもさらに小型にしたコンポーネントが出てきた。

テクニクスのコンポーネントはコンサイスコンポと呼ばれ、積極的にその後も製品展開していた。

ウーヘルも、その動きに刺激されたのかはなんともいえないが、ウーヘルからも小型コンポーネントが登場した。
それまでは小型のテープデッキだけだったところに、
CR210、240と同サイズのアンプ、チューナーを出してきた。
EG740はそうやって登場した。

ウーヘルは西ドイツのメーカーだっただけに、国産の小型コンポーネントとは違うまとめ方で出してきた。

当時、小型の海外製のチューナーといえば、QUADのFM3があった。
FM3は、ペアとなるコントロールアンプ33と木製スリーブに収めた姿は、実に魅力的で、
いまでも手に入れたいと思いながらも、FM3はその型番が示すようにFM専用チューナーだった。

Date: 1月 16th, 2026
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その26)

輸入盤と国内盤の音の違いは、LPの時代だけでなくCDになってからでもあった。録音がアナログからデジタルに移行してからでもあった。

輸入盤と国内盤の音の違いは、だからといって共通認識とはいえない、とも思っている。
たしかに音の違いがある。けれど、その音の違いをどう捉えているのかは、
輸入盤といっても、主に聴く音楽によってはアメリカ盤を指すこともあれば、イギリス盤、ドイツ盤を指すこともあるからだ。

私が二台の218を聴き比べて、輸入盤と国内盤の音の違いに通じると感じたのは、ここでの輸入盤はクラシックにおける輸入盤(それもLP)であり、
ヨーロッパからの輸入盤であり、主にドイツ盤といってもいい。

こんなことを書いていると、メリディアンの218の実力を誤解する人がいるかもしれない。
ノーマルの218と私が手を加えた218には、はっきりとした音の違いがあるけれど、
その違いがうまれてくるのは、218の素性がよく、しっかりしたものだからだ。

手を加えたといっても、それはマジックではない。
どうしようもないオーディオ機器に手を加えても、さほど成果は得られない。

どういう手を加えるかにもよるが、手を加えるほどに良くなっていく機種もあれば、
変ったことには変ったけれど……、となってしまう機種もある。

Date: 1月 15th, 2026
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その25)

昨晩のaudio wednesdayでは、久しぶりに218同士の比較試聴をやった。
四谷三丁目の喫茶茶会記でやっていた時にノーマルの218との比較をやっているから、五年ぶり以上になる。

ここまで月日が経っていると、比較して、その音の違いをどう感じるのかに興味があった。

違いがあるのはわかっている。その違いをどう感じるのか、受け止めるのか。

MQAをメリディアンのUltra DACで初めて聴いた時、
アナログディスク再生にデジタルの良さが加わった、と感じた。

現在のハイエンドのデジタルオーディオ機器は、デジタルの良さを追求していくことでアナログ的な良さも感じられるようになってきた、と感じられる音も聴けるようになってきている。

どちらをとるか。両方とも、という人もいる。私も余裕があれば、両方ともと言いたいけれど、どちらかとなれば前者だ。

それはLPの再生からオーディオをスタートしているからも大きく関係しているだろう。
同じようにアナログディスク再生からオーディオが始まっている人でも、どういう音で聴いてきたのかも、大きな違いとなるように感じている。

EMTのTSD15があればいい、という時代が私にはあった。
方式、型式だけでは語れないことはわかった上で書いているのだが、MM型カートリッジがメインの人とMC型カートリッジがメインの人とでは、やはり違う。

それに国産カートリッジをメインに使ってきた人、海外製カートリッジをメインに使ってきた人、
海外製カートリッジといっても、アメリカ製なのか、ヨーロッパのどこかの国なのか。
製造国が同じでも、ハイコンプライアンス、軽針圧なのか、ローコンプライアンス、重針圧なのか。

トーンアームやターンテーブルに関しても、いろいろ言えるわけだが、
私と同じように若いころからEMTの音が常にあった者にとって、MQAの音は、アナログディスク再生にデジタルの良さが加わったと感じられた。

そんな私には、今回の218の比較試聴は、輸入盤と国内盤の音の違いと同種のものを感じた。