オーディオ入門・考(マンガ版 オーディオ電気数学・その2)
説明の仕方が違うということは、
同じことに対しての理解の仕方が違う、ということでもあろう。
「マンガ版 オーディオ電気数学」は、その意味で、
いくつかのことで理解が不十分であったのを指摘してくれた一冊でもある。
説明の仕方が違うということは、
同じことに対しての理解の仕方が違う、ということでもあろう。
「マンガ版 オーディオ電気数学」は、その意味で、
いくつかのことで理解が不十分であったのを指摘してくれた一冊でもある。
スピーカーをうまく鳴らせるのは誰なのか。
そのスピーカーを設計・開発した人でしょう、という人がいる。
本気でそんなことをいう人が意外にいる。
どうして、そういう考えになるのか、不思議に思う。
例えばカメラ。
カメラメーカーの技術者が、もっともいい写真を撮れるのか、というとそうではない。
プロのカメラマン、写真家がいる。
写真家よりも、そのカメラについては開発した人のほうがずっと詳しい。
だからといって、写真家よりいい写真が撮れるわけではない。
そんなことはほとんどの人がわかっている。
車にしてもそうだ。
車の開発者が、いちばん速く走らせられるか、というとそんなことはない。
このことだって、ほとんどの人がわかっている。
そんなわかりきったことが、なぜかオーディオでは通用しなかったりすることがある、
通用しない人がいる。
(その1)で、オーディオ評論家はスピーカーをうまく鳴らすことが求められる、
と書いた。
(その5)では、どんなに耳がよくても、
スピーカーをうまく鳴らせなければ、それはオーディオ評論ではなくサウンド批評だ、とも書いた。
車の評論家を考えてみてほしい。
車の評論家で、運転できない人がいるだろうか。
助手席に座っているだけで車の評論ができると思っている人が、
スピーカーがうまく鳴らせなくとも、オーディオ評論家というのだろう。
ステレオサウンド 46号の特集で、菅野先生がもっとも高く評価されていたのは、
UREIのModel 813である。
*
ところで、今回の試聴で一番印象に残ったスピーカーは、ユナイテッド・レコーディング・エレクトロニクス・インダストリーズ=UREIの813というスピーカーである。このスピーカーは、いわゆるアメリカらしいスピーカーともいえる製品で、モニターとしての能力もさることながら、鑑賞用としての素晴らしさも十分に併せもっている製品であった。
*
46号で、Model 813は初めて登場している。
特集だけでなく、新製品紹介のページでも、46号での登場である。
アルテックの604-8Gを使いながらも、
アルテックのスピーカーがそれまでのアメリカのスタジオモニターの流れを代表していたのに対し、
Model 813は新しい動きを提示した、ともいえよう。
Model 813の試聴記では、こう書かれている。
*
モデル813と呼ばれるこのユニークなシステムは、正直なところ完全に私を魅了してしまった。その高域は、604-8Gとは似ても似つかぬ繊細かつ、明確、なめらかなハイエンドと化し、しなやかな弦の響きを再現するし、パルシヴな高域のハーモニックスも優美な音を響かせる。加えて、適度にダンピングをコントロールした低域の豊かさは素晴らしく、フェイズ感はナチュラルで、近来稀に聴く優れたスピーカーだった。
*
《パルシヴな高域のハーモニックス》、
これは「THE DIALOGUE」の再生においてのことではないだろうか。
そう思っていま読み返すと、
「THE DIALOGUE」がそうとうにうまく鳴ったようにおもえてくる。
「THE DIALOGUE」のLPがオーディオ・ラボから発売になったのは、
1978年2月25日である。
ステレオサウンドの試聴で「THE DIALOGUE」が最初に使われたのは、
46号の特集「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質」においてである。
菅野先生が使われている。
ただしLPではなくテープである。
*
それから、モニタースピーカーのテストということなので、試聴には2トラック38cm/secのテープがもつエネルギーが、ディスクのもつエネルギーとは相当違い、単純にダイナミックレンジという表現では言いあらわしきれないような差があるためである。ディスクのように、ある程度ダイナミックレンジがコントロールされたものでだけ試聴したのでは、モニタースピーカーのもてる力のすべてを知るには不十分であると考えたからでもある。テープは、やはり私がdbxエンコードして録音したもので、八城一夫と川上修のデュエットと猪俣猛のドラムスを中心としたパーカッションを収録しており、まだ未発売のテープをデコーデッド再生したわけである。そのテープにより、スピーカーの許容入力やタフネスという、あくまで純然たるモニタースピーカーとしてのチェックを行っている。
*
猪俣猛のドラムスを中心としたパーカッション、
「THE DIALOGUE」のことで間違いない。
この時、ステレオサウンドはの試聴室では、どんな音が鳴り響いたのだろうか。
オーディオの面白さは、組合せにある。
システム全体という組合せ、
スピーカーシステムという組合せもある。
そう捉えているから「スピーカーシステムという組合せ」も同時に書いている。
別項「オーディオの楽しみ方(つくる)」での自作スピーカーもまた組合せ、
それゆえに音をつめて作業に求められるのは、
この項で何度が書いているように、受動的聴き方ではなく、能動的聴き方である。
受動的聴き方が求められていないわけではないが、
受動的聴き方だけでは無難なスピーカーシステムにしか仕上がらないのではないか。
能動的聴き方をして、「いいスピーカー」へと近づいていくのではないだろうか。
組合せ(component)は、いわば組織である。
スピーカーシステムという組織、システム全体という組織にしても、
受動的聴き方によってまとめられた組織というものは、どこかが弱いとでもいおうか、
構造的強さをもっていない、とでもいおうか、そんな印象がある。
組織という意味では編集部もそうだ。
組織は入社試験、面接によって人を選ぶ。
その選び方が受動的なのか能動的なのか。
受動的な視点で集められた組織というものの弱さを感じる。
オーディオ関連書籍のコーナーには、数ヵ月に一回くらいの割合で行く。
いくつかの書店の、そのコーナーをざっと見て、面白そうな本が出ていたら手にとる。
今日行った書店には、「マンガ版 オーディオ電気数学」があった。
奥付には、2013年8月20日発行とある。
四年半以上前に出ていた本に、今日初めて気づいた。
あまり期待していなかったが、「オーディオ電気数学」が示すように、
虚数の説明から始まる。
ここ数年、オーディオ入門書として発売されている本からすれば、
マンガ版とはいえ、数式はけっこう出てくるし、回路図ももちろん出てくる。
マンガ版と謳っているが、マンガとしての出来はそれほど高いとはいえないし、
そのせいで、本としての出来を少しスポイルしているかな、と感じなくもないが、
それでも、ここで紹介したいと思うだけの内容はもっている。
すべての説明がわかりやすい、とはいわないが、
この本を読んで、「あれって、そうだったのか」と気づく人はいるはずだ。
私も、この本に書かれていることをすべてを知っていたわけではないし、
知っていることでも、こういう説明の仕方もあるのか、と感心するところもある。
マンガ版だからといって偏見をもたずに、一度手にとって見てほしい、と思う。
シーメンスのEurodynが、38cm口径ウーファーを22cm口径三発に変更したときは、
シーメンスも堕落したものだと思った。
その後に登場したスタジオモニター(八木音響の広告に載っている)は、
アルテックのユニットを使ったシステムだっただけに、
そのイメージが重なり、シーメンスともあろうものが……、
そんなふうに思っていた時期があった。
思い入れが強いだけにそう思ってしまったのだが、
少し冷静になって考え直してみると、
1970年代後半にEurodynのウーファーの変更は、
それなりの意図があってのことだ、とも思えてくる。
いまから40年ほど前とはいえ、すでにEurodynは古典的スピーカー、
もっといえば古物的スピーカーともいえた。
Eurodynを新規に購入する劇場はどのくらいあっただろうか。
38cm口径時代のEurodynには音響レンズはついてこなかった。
22cn三発になってからは標準装備されている。
このことは、指向特性の改善を図ってのこと。
ということはユニット三発配置は、この点に置いてはっきりとしたメリットがあるのだろう。
しかもEurodynは、ウーファーとホーンを固定しているフレームも変更している。
旧型のフレームそのままでは、22cm三発の配置はサイズ的に無理があるから、
旧型の49cmの横幅は、61.8cmへとなっている。
ただユニットの造りそのものを比較すると、
やっぱり堕落したな……、と思ってしまうけれど、それでも三発配置について、
真剣に考え直してみる必要と価値はあるはずだ。
別項「喫茶茶会記のスピーカーのこと(その9)」で書いたように、
今年はトゥイーターを交換してみたい、と考えているし、
それにともない、スピーカーの鳴らし方の方向性を少し(時には大きく)変えようとも考えている。
月一回とはいえ、2016年(九回)、2017年(十一回)鳴らしてきて、
スピーカーケーブルやネットワークなどは、
少し手は加えているけれども、喫茶茶会記で常時鳴らしているモノを使ってきた。
今年は、このあたりも変えていこう、と考えている。
これまでは私自身の音の好みはあえて無視してきた。
目の前にあるスピーカーを鳴らし切ろう、という方向で行ってきた。
もちろん鳴らし切った、とはいえないが、そろそろ方向性を変えて、
私自身の音の好みを反映させていこうか、
別に私の好みでなくとも、常連の誰かの好みでもかまわない。
少なくとも半年くらいは、そういう感じで鳴らしていこうと思う。
3月のaudio wednesdayは、7日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
ウーファーは10cm口径を三発、
トゥイーターはLS5/1のように二本使いながらも、
上側のトゥイーターに関しては、途中からロールオフさせていく──、
こんなことを考えていること自体、
ここでのテーマから外れてしまっているのは、自分でもわかっている。
わかっていても、
SICAのフルレンジとAUDAXのトゥイーターによる2ウェイの自作スピーカーの音を聴くと、
オーディオマニアの性として、こんなことを考えてしまうのだ。
トゥイーターは何にしようか、と、そんなことまで考えている。
AUDAXでいいじゃないか、といわれそうだが、
LS5/1的トゥイーターの使い方で重要となるのは、
二本のトゥイーターのダイアフラムをどこまで近接できるか、がある。
AUDAXのトゥイーターに限らないのだが、
ドーム型トゥイーターはフランジ部分が大きすぎる。
AUDAXのトゥイーターを二本縦に並べた場合、
ふたつのダイアフラムのあいだはけっこう開いてしまう。
フランジを最小限の大きさにカットするとしても、
マグネットの直径が70mmある。
AUDAX以外のトゥイーターでも、ドーム型では、このへんの寸法に大きな違いはない。
この視点からドーム型トゥイーター探しをしていくと、非常に限られてしまう。
ならばATM型にしようか、とも考える。
一年と少し前に書いている。
Gaiaの真ん中にはaiがいる。AIだ。
artificial intelligence(人工知能)のAIが、Gaiaの真ん中なのだ。
いわばこじつけなのだが、そう思っている。
でも最近では、AIとは、artificial intelligenceだけではなく、
auto intelligenceなのかもしれない、と思うようにもなってきた。
うまいなぁー、と感嘆する歌い方は、私の場合、たいてい溜めの巧い歌い方である。
こんなふうに歌えたらなぁー、と思いながら聴いていて、
ちょっとマネしてみても、とうてい及ばないことを思い知らされる。
けれど、溜めの巧い歌い方であっても、
スピーカーによって、そのへんはずいぶんと違って聴こえてくるものだ。
この人、こんな歌い方だっけ……、と思うような鳴り方をするスピーカーがある。
このスピーカーもうまいなぁー、と思ってしまうほど、きちんと溜めを表現するスピーカーもある。
どちらのスピーカーに魅力を感じるかといえば、後者であり、
音楽の表情を豊かに鳴らしてくれるのも、後者である。
溜めのない(乏しい)音は、平板になる。
すました顔が、どんなに整っていてきれいであっても、
すました顔ばかりを眺めているわけではない。
音楽を聴くということは、そういうことではない。
表情があってこそ、その表情が豊かであり、
時には一変するほどの変りようを見せてくれる(聴かせてくれる)からこそ、
飽きることなく、同じレコード(録音)を何度もくり返し聴く。
その溜めが、出てくるようになったのは、やはり嬉しいし、
やっていて楽しいと思える瞬間である。
昨晩、電話をかけてきたKさんは、「楽しそうですね」といってくれた。
何人かの方は気づかれているが、自作スピーカーの持主は写真家の野上眞宏さんである。
野上さんも「オーディオって、楽しいね」といってくれた。
ほんとうに楽しいのだ。
エミール・ギレリスの名を私が知ったころはまだ、
鋼鉄のタッチと呼ばれていた時だった。
ギレリスの演奏を聴くまえに、鋼鉄のタッチというバイアスがすでに、
聴き手であるこちら側には、いわば植え付けられていた。
ギレリスの演奏(録音)を聴いたのは、ベートーヴェンだった、と記憶している。
何番だったかは、なぜか思い出せない。
それきりギレリスの演奏を積極的に聴くことはなかった。
そんな私でも、
ギレリスがドイツグラモフォンでベートーヴェンのピアノソナタ全集に取りかかったことは知っていた。
後期のピアノソナタの録音が出た。
ジャケット写真を見て、もう一度聴いてみよう、と思った。
何番だったのか思い出せない記憶との比較なんて当てにならないのだが、
なんとギレリスはこれほど変ったのか、と驚いた。
この時も鋼鉄のタッチというバイアスは充分残っていたにも関らず、だ。
そのみずみずしい演奏に驚いた。
ギレリス晩年の演奏なわけだが、枯れた演奏とか表現とは思えない。
ほんとうにみずみずしい。
昨晩書いたクラウディオ・アラウも、そうだ。
晩年のフィリップス録音での演奏の、なんとみずみずしいこと。
このふたりの境地になって、ほんとうにみずみずしいといえる表現が可能になるのか。
若々しいとみずみずしいは違うことを、あらためて思う。
みずみずしいは、水々しいとは書かない、瑞々しい、である。
ギレリスの演奏もアラウの演奏も、瑞々しい。
岡先生がクラシック・ベスト・レコードで、
アシュケナージに次いでよく取り上げられていたのが、クラウディオ・アラウという印象がある。
実際に数えたわけではないが、
あまりにも頻繁に、つまりアラウの新譜が出るたびに、高い評価をされていたから、
このころからアラウのレコードを集中的に聴くようになっていった。
ベートーヴェンの後期のソナタ、バッハ、モーツァルト、シューベルト、
どれも素晴らしかった。
けれどそれらのディスクは、以前書いているように、
切羽詰った時に、オーディオ機器をまず手離し、そしてディスクの大半も……、というときに、
私は手離した。
そのときは、これだけの名演なのだから、
しばらくして余裕ができたら買いなおそうと思っていた。
ところがいざ買いなおそうとしたときに、
アラウのCDは古い録音がいくつか出ているぐらいになっていた。
私がもっとも聴きたい、1980年代に入ってからの録音のほとんどが廃盤になっていた。
いつ再発売してくれるのか、と思い続けてきた。
もう諦めかけていて、中古CDを探そうか、と思ってもいた。
先週の金曜日(2月16日)、帰りの電車でfacebookを見ていたら、
クラウディオ・アラウ全集発売の投稿があった。
いまはもうフィリップス・レーベルはないから、デッカから80枚ボックスで出る。
やっと登場した。
ベートーヴェンも、モーツァルトもバッハもシューベルトもある。
ワーグナーの音楽と、瀬川先生が好まれて聴かれていた音楽とは、
少々印象が一致しない面があるようにも感じていた。
ワーグナーと瀬川先生ということで、
私が真っ先に思い出すのは、ステレオサウンド 38号の、黒田先生のこの文章だ。
*
普段、親しくおつきあいいただいていることに甘えてというべきでしょうか、そのきかせていただいたさわやかな音に満足しながら、もっとワイルドな音楽を求めるお気持はありませんか? などと申しあげてしまいました。そして瀬川さんは、ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の合唱曲をきかせてくださいましたが、それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない。
たしかに、そういうことは、いえるような気がします。日本でこれほど多くの人にバロック音楽がきかれるようになった要因のひとつに、日本での、決してかんばしいとはいいがたい住宅環境があるというのが、ぼくの持論ですから、おっしゃることは、よくわかります。音に対しての、あるいは音楽に対しての好みは、環境によって左右されるということは、充分にありうることでしょう。ただ、どうなんでしょう。もし瀬川さんが、たとえばワーグナーの音楽の、うねるような響きをどうしてもききたいとお考えになっているとしたら、おすまいを、今のところではなく、すでにもう大音量を自由に出せるところにさだめられていたということはいえないでしょうか。
*
ここにワーグナーが出てくる、「さまよえるオランダ人」も出てくる。
そして《それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない》
と瀬川先生がいわれた──、
ここを読んでいたから、ワーグナーの音楽と瀬川先生の好まれる音楽が結びつきにくかった。
ついさっきまでKさんと電話で話していた。
彼によると、瀬川先生はNHK FMで放送されているバイロイトをエアチェックして聴かれていた、とのこと。
当時ラックスのショールームで定期的に行われていたなかでも、
常連の方とワーグナーについて熱心に語られていた、という話も聞いた。
聞いていて、意外だな、というおもいと、やっぱり、というおもいとが交錯していた。
瀬川先生は世田谷に建てられたリスニングルームでは、ワーグナーを聴かれていたのだろうか。