好きな音、好きだった音(その5)
エミール・ギレリスの名を私が知ったころはまだ、
鋼鉄のタッチと呼ばれていた時だった。
ギレリスの演奏を聴くまえに、鋼鉄のタッチというバイアスがすでに、
聴き手であるこちら側には、いわば植え付けられていた。
ギレリスの演奏(録音)を聴いたのは、ベートーヴェンだった、と記憶している。
何番だったかは、なぜか思い出せない。
それきりギレリスの演奏を積極的に聴くことはなかった。
そんな私でも、
ギレリスがドイツグラモフォンでベートーヴェンのピアノソナタ全集に取りかかったことは知っていた。
後期のピアノソナタの録音が出た。
ジャケット写真を見て、もう一度聴いてみよう、と思った。
何番だったのか思い出せない記憶との比較なんて当てにならないのだが、
なんとギレリスはこれほど変ったのか、と驚いた。
この時も鋼鉄のタッチというバイアスは充分残っていたにも関らず、だ。
そのみずみずしい演奏に驚いた。
ギレリス晩年の演奏なわけだが、枯れた演奏とか表現とは思えない。
ほんとうにみずみずしい。
昨晩書いたクラウディオ・アラウも、そうだ。
晩年のフィリップス録音での演奏の、なんとみずみずしいこと。
このふたりの境地になって、ほんとうにみずみずしいといえる表現が可能になるのか。
若々しいとみずみずしいは違うことを、あらためて思う。
みずみずしいは、水々しいとは書かない、瑞々しい、である。
ギレリスの演奏もアラウの演奏も、瑞々しい。