Date: 4月 27th, 2018
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その19)

五味先生の「西方の音」を読んだのは、ハタチぐらいだったか。
「日本のベートーヴェン」が、最後に収められている。
そこに、こんなことが書いてあった。
     *
 私は『葬送』の第一主題に、勝手なその時その時の歌詞をつけ、歌うようになった。歌詞は口から出まかせでいい、あの葬送のメロディにのせて、いちど自分でうたってごらんなさい。万葉集の相聞でも応援歌でも童謡でもなんでもいいのだ。どんなに、それが口ずさむにふさわしい調べかを知ってもらえるとおもう。ベートーヴェンの歌曲など、本当に必要ないくらいだ。日本語訳のオペラは、しばしば聞くにたえない。歯の浮くような、それは言語のアクセントの差がもたらす滑稽感を伴っている。ところが『葬送』のあの主旋律には、意味のない出まかせな日本語を乗せても、実にすばらしい、荘重な音楽になる。これほど見事に、全人類のあらゆる国民が自分の国のことばで、つまり人間の声でうたえるシンフォニーをベートーヴェンは作った。こんな例は、ほかに『アイネ・クライネ』があるくらいだろう。とにかく、口から出まかせの歌詞をつけ、少々音程の狂った歌いざまで、『英雄』第二楽章を放吟する朴歯にマント姿の高校生を、想像してもらいたい。破れた帽子に(かならず白線が入っていた)寸のつまったマントを翻し、足駄を鳴らし、寒風の中を高声に友と朗吟して歩いた——それは、日本の学生が青春を生きた一つの姿勢ではなかったかと私はおもうのだ。そろそろ戦時色が濃くなっていて、われわれことに文科生には、次第にあの《暗い谷間》が見えていた。人生いかに生きるべきかは、どう巧妙に言い回したっていかに戦死に対処するかに他ならなかった。大きく言えば日本をどうするかだ。日本の国体に、目を注ぐか、目をつむるか、結局この二つの方向しかあの頃われわれのえらぶ道はなかったと思う。私自身を言えば、前者をえらんだ。大和路に仏像の美をさぐり、『国のまほろば』が象徴するものに、このいのちを賭けた。——そんな青春時代が、私にはあった。
     *
『葬送』とは、ベートーヴェンの交響曲第三番の葬送行進曲のことだ。
その第一主題に、《勝手なその時その時の歌詞》をつけて歌う。
真似をしたことがある。

けれど、すんなりいかなかった。
それには、少し気恥ずかしさもあったからだろう。

そんな私がいま何をやっているかというと、
ベートーヴェンの「第九」の四楽章で、同じことをやっている。
《勝手なその時その時の歌詞》をつけて歌っている。

意識して始めたことではない。
ふと旋律が浮んできて口ずさんだ。
その時に、勝手な日本語をつけて歌っていた。

やってごらんなさい、というつもりはない。
第三番の葬送行進曲で、やっと歌えそうな気がしている。

Date: 4月 27th, 2018
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その11)

別項で、「音は人なり」は、思考の可視化と書いた。

思考の可視化ということでいえば、
組合せはまさに、思考の可視化である。

思考は(しこう)であり、
(しこう)は、志向、指向、嗜好でもある。

まさに組合せは、志向、指向、嗜好の可視化ともいえる。

このことに気づけば、組合せの記事こそがオーディオ雑誌の記事で、
もっとも興味深く面白い、といえる。

けれど実際は、編集者も組合せを考えるオーディオ評論家(商売屋)も、
組合せを思考の可視化とは、おそらく考えていない、はずだ。

スピーカーを決めて、それに合いそうなアンプを数機種見繕って、順に聴いていく。
その中から一機種選ぶ。
次はCDプレーヤーを数機種選んで……、
そんな試聴(受動的試聴)をやっていても、
オーディオ評論家にやらせても、
思考の可視化になるはずがない。

おもしろくなるはずがない。

Date: 4月 27th, 2018
Cate: 菅野沖彦, 録音

「菅野録音の神髄」(余談)

菅野先生の録音とはまったく関係ない話だが、
昔ステレオサウンドで読んだ、あるエピソードは、興味深いものがある。

55号の音楽欄に掲載されている。
「今日の歌、今日のサウンド ポピュラー・レコード会で活躍中の三人のプロデューサーにきく」
RVCの小杉宇造氏、CBSソニーの高久光雄氏、ポリドールの三坂洋氏が登場されている。
聞き手は坂清也氏。

9ページの記事。
引用するのは、三坂洋氏の発言のごく一部である。
機会があれば、この時代の日本の歌の録音を聴く人は、読んでほしい、と思う。
     *
 たとえば森田童子の最初のLPを制作したときのことですが、彼女は弾き語りでうたったときのニュアンスが最高にいいんです。彼女のメッセージの背後にあるデリケートな体臭とか人間性が、弾き語りのときには蜃気楼みたいにただようんです。それをレコーディングのときに、まずオーケストラをとり、リズム・セクションをとり、そのテープのうえに彼女のうたをかぶせる、といった形で行なうと、その蜃気楼みたいなものが、どこかへ消えてしまうんじゃないか、と確信しました。
 そこで、まずいちばん先きに彼女のギターとうただけをとり、そこにベースをかぶせドラムスをかぶせ、さらに弦をかぶせて、そのあとでベースとドラムスをぬいてしまったんです。したがって出来上りは、弦のうえに彼女の弾き語りがのっかる、という形になったわけです。ベースとドラムスは弦のためみたいなもので、ことにドラムスのリズムの拍数が分らないと、弦は演奏できませんから(笑い)。
     *
森田童子の最初のLP、
「GOOD BYEグッド・バイ」でとられたこういう手法は、
何もこのディスク(録音)だけにかぎったことではなく、
ずいぶんと多いと思います、と三坂洋氏はつけ加えられている。

Date: 4月 26th, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その12)

デザイナーの亀倉雄策氏が、そういえば、同じことをいわれている。
     *
私はなぜ撮影に立ち合わないか。理由は簡単だ。立ち合うとその場の苦心が理解され過ぎて、選択の冷酷な目が失われるからである。この冷徹な透視力があってこそ、最後の一撃ができるのである。
     *
その11)での写真家のマイク野上(野上眞宏)さんと同じことである。

亀倉雄策氏の場合、撮影する者と選択する者の二人がいるから、
撮影に立ち合わないことで、選択が可能になる。

野上さんの場合は、撮影するのも選択するのも同じ人、野上さんである。
だから、そこには五年の月日が必要になる。

野上さんは「冷酷な目」という表現は使われなかったが、
撮影時に関するもろもろのことを切り離しての、冷静な目での選択──、
それは、どちらも写真(視覚の世界)のことではあって、
音(聴覚の世界)においては、どうなのか、と考えさせられている。

Date: 4月 26th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その10)

オーディオは自己表現だ、と真顔で力説する人がいる。
だからこそ「音は人なり」でしょ、とそういう人は続ける。

「音は人なり」と、私はずっと前からいっている。
ここにも書いている。

オーディオは自己表現だ、と力説する人は、
「音は人なり」と言い続けてきているあなた(つまり私)にとっても、
オーディオは自己表現である、とまた力説される。

私はオーディオは自己表現だ、とは思っていない。
たしかに「音は人なり」であり、そこで鳴っている音に、
鳴らしている人(私)が反映されるわけだけど、
それをもって自己表現と決めつけられることには、強い抵抗がある。

いったい自己表現とは何なのか。
そういう人にはそのことから問いたくなるが、面倒なのでやらない。

自己表現が好きな人は、たぶんにナルシシストのような気もする。
オーディオは自己表現だ、と力説しているときの表情を見ていると、そんな気がしてくる。

「音は人なり」は、オーディオは自己表現だ、と語っているのだろうか。
私は、思考の可視化(音だから可聴化か)だ、と結論する。

Date: 4月 25th, 2018
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(オーディオの才能)

オーディオの才能をもっている、と自負している。
けれど、そのオーディオの才能は、実のところ、
オーディオに興味をもちはじめた13歳のころから、
なにひとつ変っていないのではないか……、
最近,そう考えるようになってきた。

オーディオの才能はあっても、それを活かすことができなかった。
生かすために必要な知識も知恵も、経験も技倆もなかった。

永いことオーディオをやってきて、それらのことを身につけた。
ただそれだけのような気がしてならない。

Date: 4月 24th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その22)

そこにあったハンガーは、たしかにハンガーなのだけれど、
いわゆるハンガーではなかった。

いろいろなモノがデザインされていることは、
まだ若造だった私でもわかっていたけれど、
ハンガーがこんなに美しくデザインされるなんて──、
想像をはるかに超えていた。

買おうと思えば変える値段だった、と記憶している。
でも買わなかった。

いつか、この美しいハンガーが似合うような環境を実現したら……、
そんなことを思って、買わなかった。
(もっとも、オーディオを最優先していたことも理由なのだけれど)

後になって、その時買っておかなかったことを後悔する。
後悔したときに、そのハンガーをデザインしたのが、誰なのかを知った。

倉俣史朗氏のデザインだった。
その店は、倉俣史朗氏のデザインしたモノばかりがあった(はずだ)。

そのころは倉俣史朗氏の名前も知らなかった。
知らなくても関係なかった。

あれだけ美しいハンガーを見たのは、それ以降ない。
そしてアクリルは、こんなにも美しく仕上がるのか、と感嘆した。

これを書くにあたって、Googleで「倉俣史朗 ハンガー」で検索しても、
私の記憶にあるハンガーは出てこない。
記憶違いなのか……、とも思うけれど、あれだけインパクトのあるハンガーのことを、
その材質のことを勘違いしているとも思えない。

Date: 4月 24th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その21)

六本木交叉点を東京タワーに向って進む。
しばらく行くと、ステレオサウンドが以前入っていたビルがある。
さらに進むと、AXISビルがある。

私がステレオサウンドで働き出したのは1982年1月。
AXISビルは1981年9月23日にオープンしている。

出来たばかりといえる、真新しいそのビルは、
田舎から出てきて、一年弱の私にとっては、ひとりで入るには気後れしそうな感じがあった。

AXISビルの地下一階に和食の店があった。
そこには、先輩に連れられて昼食に行っていた。
いまも和食の店は入っているが、違う店である。

週に一回は必ず行っていた。
先輩と一緒だから、最初のうちは行けた、ともいえる。
慣れてきてからはひとりでも行くようになったけれど、
それでもAXISビルのすべてを見てまわるのは、まだまだ早いような気がしていた。

地下一階の和食の店のすぐ近くの店は、特にそうだった。
ガラス張りだから和食の店に行くために、その店の前を通る。
どんなモノが置いてあるのか、なんとなくわかる。

近寄り難い雰囲気を、勝手に感じていて、なかなか中に入る勇気が出てこなかった。
入ってみたい、とは思ってても、入れなかった。

若さはバカさ、で、思い切って入ってしまえばいいんだ、と言い聞かせても、
いつも素通りするばかりだった。

どのくらい素通りしただろうか。
なぜ入ってしまったのか、いまとなっては思い出せないが、
素通りしなかった日がある。

いまもはっきりと憶えているのは、ハンガーである。
なんて素敵なハンガーなのか、と思った。

Date: 4月 24th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その20)

瀬川先生は、ダストカバーの項目のひとつ前、コントロールスイッチのところで、
こんなことを語られている。
     *
 それから感覚的なことをいえば、さっきいったことの繰り返しになるんだけれども、パワースイッチ、あるいは速度調整のツマミを押し、あるいは回したときのボタンなりツマミなりレバーなりの感触──指ざわり──というものが、非常に冷たいメカニックな感じでなく、どこか暖かみというか、柔らかさを感じさせるオーガニックな感触であってほしい。
 つまり、レコードというビニールの材料を取り出して、ターンテーブルに載せる。このレコードを触った感触というのはある柔らかい感覚をもっている。その感触が手に残っている間に、同じ手でレバーなりボタンをなりをいじるのだから、そこに極端な違和感があるのは、ぼくはとってもおかしなことだと思う。いま柔らかいビニールを持った手が、こんどはすごくとがった、シャープなボタンをカチンと押すというそういう感覚は、ちょっとおかしいですね。非常にドライにストンとスイッチが入るよりも、ある種の粘りみたいなものが感じられる、やはり一種のオーガニックな動き方の方が好ましい。レコードの感触がそのまますべてに延長されているというのがいいプレーヤーだということを、ぼくは非常に強調したいわけです。
     *
EMTの930st、927Dstはそうだった。
レバーの感触には、ある種の粘りがある。
使っている(いた)人ならばわかるはずだ。

930st、927Dst、どちらにもダストカバーはないから、
使っている時には気づかなかったが、
ダストカバーには、レコードの感触が残っているうちに触れる。

このことを無視して、ダストカバーの材質、形状、それに操作性は語れない。

ダストカバーの材質が冷たく硬いもので、しかも角がとがっていたら……。
若いころは、プレーヤーのダストカバーがアクリル製が大半なのは、
安く作れるからだ、と思っていた。

確かに大量生産によって安価に生産できていたはずだが、
そればかりがダストカバーがアクリル製で、
ああいう形状なことの理由のすべてではないではないことに気づいた。

Date: 4月 24th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その19)

瀬川先生がダストカバーについて述べられていたのは──、
すぐに思い出せるのはステレオサウンド 40号の特集「世界のプレーヤーシステム最新50機種の総試聴」、
「瀬川冬樹の語るプレーヤーシステムにおける操作性の急所」である。

以下の項目について語られている。
 プレーヤー全体の大きさ
 インシュレーターとキャビネット
 ターンテーブルの形状
 ストロボスコープ
 センタースピンドルの形状
 トーンアーム
 トーンアーム(ヘッドシェル)
 トーンアーム(アームレスト)
 トーンアーム(アームリフター)
 トーンアーム(カウンターウェイト)
 コントロールスイッチ
 ダストカバー

ダストカバーには、性能的な問題と、
使ったときの心理的、機能的な問題がある、とまず語られている。

性能的なことでいえは、ペラペラなつくりであれば、ダストカバーを閉じた状態で、
ハウリングを誘発(もしくは増幅)することがある、と指摘されている。

40号では、「操作性の急所」がテーマとなっているから、
心理的、機能的な問題についてがメインである。

こう語られている。
     *
 ダストカバーの動き方の理想というのは、使用者の好みによって、どの角度でもとまってくれるのがいいのだけれども、それは普通の機械では無理ですね。しかしできれば、一番開けたところで90度まで開いて、そこから45度くらいまでの間ではフリーストップするというのが理想なのですけれどね。
 それから閉まる直前でバタンと落ちるのはまずいわけです。これは気分的な問題だけじゃなくて、実際レコードに針をのせてふたを閉めようとしたときに、ちょっと手がすべってカバーがバタンを落ちれば、針が飛んでしまったりする。
 話がそれるかもしれないけれども、昔の〝クレデンザ〟という蓄音器の名器はものすごく重いマホガニーのふただったけれど、それをたたきつけるように閉めようとしても、エアーダンパーが働いてスーッと静かにおりてくる。そういう設計をしてあったわけです。しかし、 いまのダストカバーに使われている蝶番のほとんどは絶対的な大きさが小さすぎるから、この程度のメカニズムではふたの重さをカバーしきさない。ですから、ある程度ていねいに扱ってやるよりないですね。
     *
ここで語られていることも、デザインに含まれる。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 映画

ストリート・オブ・ファイヤー(再上映)

ストリート・オブ・ファイヤー」のことは、昨年末に書いた。
もう一度、映画館でエレン・エイムの歌のシーンを観たい、と思いながら書いていた。

東京でも名画座は減っていく。
映画館で再上映されることはまずない、と諦め切っていた。

なのに7月21日から、デジタルリマスターで、5.1チャンネルでの再上映が始まる。
新宿のシネマートから始まり、全国で順次ロードショーということだ。

1984年、コマ劇場のところにあった新宿プラザで、
「ストリート・オブ・ファイヤー」は観ている。
かなり大きなスクリーンの映画館だった。

シネマートは、新宿プラザほどは大きくない。
それでもいい、もう一度映画館で観られるのだから。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その5)

同じことは他のところにもいえる。
同じスピーカー関係でいえば、ネットワークのアッテネーターが挙げられる。

一般的な連続可変型で、どの程度減衰させるか調整したうえで、
同じ減衰量になるように良質の固定抵抗でアッテネーターを作る。

これもスピーカーを平台車に乗せて、あちこち移動して……、と同じ見逃しがあるからだ。

結局、どちらのやり方もおおよその目安がつくだけである。
でも、おおよその目安がつくだけでもいいじゃないか、
十分じゃないか、といわれそうだが、
そんなおおよその目安は、そんなことをやらずにもつくことである。

オーディオはなにかひとつ変えれば音は必ず変化する。
その変化量が大きいか小さいか、
小さい場合には変っていないと思ってしまうこともあるだろうが、
音が変らないということは、まずない。

音は変る。
変るから、どちらがいい音なのか、と判断しがちだ。

これはオーディオの初心者であろうと、キャリアのながい人であろうと同じだろう。
けれど、どちらがいい音なのか判断するということは、
どういうことなのかを、いまいちど考え直してほしい。

いままでの音をA、なにか変えた音をBとすれば、
Aがいいのか、Bがいいのか、
自分で判断することもあれば、微妙な違いであれば、
信頼できるオーディオ仲間に聴いてもらい判断する、ということだってある。

Bの音が良かった、と自分も仲間も同じ意見だとする。
この場合のBは、答である。

大事なのは、その答は、川崎先生がいわれていることなのだが、
応答なのか、回答なのか、解答なのか、である。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 菅野沖彦
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「菅野録音の神髄」(その17)

ステレオサウンド 17号(1970年12月)に、
「ディレクター論 ロイ・デュナンを語る」がある。
菅野先生と岩崎先生の対談による記事だ。
     *
岩崎 「ウェイ・アウト・ウェスト」は、じつに素晴らしいレコードですね。ロリンズの最大傑作といってもいい。
菅野 シェリー・マンのドラムもよくとらえらているしね。あれはやはり、ロリンズ
のもっている音にロイ・デュナンのキャラクターがプラスされて、ああいう音になったのでしょうね。
 それでね、この間、油井さんがいっていられたんだけど、日本のジャズ愛好家というのは、ほとんどロイ・デュナンとかルディ・ヴァン・ゲルダーといった人たちの耳をとおしてジャズを聴いてきたようなものだ、と。
 ぼくも、そう思うんだ。やっぱりこういった人たちの感覚のふるいを通して聴いてきた。だから、じっさいにむこうのジャズ・メンが来たときに、その演奏にふれて、あれっとおもったりしてね(笑)。
岩崎 ほんとうに違うんだな。アート・ブレイキーが来たときに、どんなに凄い音なのかと思ったら、意外に爽やかな音でこんな調子じゃなかったと(笑)。圧倒されるような音を期待してたんですね。ほんとうにレコードとは違うんだと思いましたね。ぼくらはヴァン・ゲルダーのとったブレイキーの音に慣れ親しんでいたわけですよね。
菅野 ロイ・デュナンが、最初からブレイキーをとっていたら、はっきりととって、もっと実際に近かったてしょうね。
岩崎 そこが大切なことでしょう。もしブレイキーの音を、ロイ・デュナンが録音したものを聴いていたら、本物を聴いて、なるほどなと思ったに違いない。
 ところが、それまではブルーノートのブレイキーの迫力ある音ばかり聴いていたでしょう。だから、すっかり面喰らってしまったわけ。前から三番目辺で聴いていたのだけれど、タッチは軽やかだし、スカッとした音ですね。
菅野 それはよかったからまだいいんだけれど、逆につまらない場合もあってね。ああ、これならレコードの方がいいやって(笑い)。
 だいたいルディ・ヴァン・ゲルダーが手をかけたミュージッシャンというのは、迫力のあるミュージッシャンだと感じるものね。そして、ロイ・デュナンが手をかけたひとは、みんなハイ・センスで、クールな音をもっていると感じてしまうでしょう。不思議なことですよ。
岩崎 だから音楽をとらえるということは、大変なことなんだな。
     *
こまかな説明は省いていいだろう。
同じことが、ここでも語られているのだから。

Date: 4月 22nd, 2018
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その4)

私がオーディオに興味を持ち始めたころは、
セパレートアンプブームが起きはじめていたころでもある。

つまり安価なセパレートアンプが各社から登場しはじめた。
ステレオサウンドを読みはじめのころ(1976年末から)、
プリメインアンプは20万円を超える機種は、例外的だった。

海外製品では、マッキントッシュのMA6100(378,000円)、
ラドフォードのHD250(249,000円)、
ギャラクトロンのMK10(300,000円)といったモデルがあったし、
国産でも、ラックスのL100(235,000円)、サンスイのAU20000(280,000円)、
ソニーのTA8650(295,000円)、ビクターのJA820(250,000円)、
マランツのModel 1200(325,000円)などがあった。

とはいえ、これらの機種は最新機種とはいえなくなっていて、
実際にステレオサウンド 42号のプリメインアンプ総テストには登場していない。

42号から二年後あたりから、20万円を超えるモデルが、
国内メーカーからも登場しはじめてきた。

たとえばマランツのPm8(250,000円)、アキュフェーズのE303(245,000円)、
ケンウッドのL01A(270,000円)、サンスイのAU-X1(210,000円)などだ。
Pm8について、瀬川先生は52号で次のように評価されている。
     *
 今回のテストの中でも、かなり感心した音のアンプだ。この機種を聴いた後、ローコストになってゆくにつれて、耳の底に残っている最高クラスのセパレートアンプの音を頭に浮かべながら聴くと、どうしてもプリメインアンプという枠の中で作られていることを意識させられてしまう。つまり、音のスケール感、音の伸び、立体感、あるいは低域の量感といった面で、セパレートの最高級と比べると、どこか小づくりになっているという印象を拭い去ることができない。しかしPm8に関しては、もちろんマーク・レビンソンには及ばないにしろ、プリメインであるという枠をほとんど意識せずに聴けた。
     *
プリメインアンプの水準が、それまでの枠から踏み出してきて、
同価格帯のセパレートアンプに匹敵するか、部分的には上廻るようになってきた。

そのころのペアで20万円ほどのセパレートアンプといえば、
思い出せないわけではないが、それほど印象深く残っているモノはない、といえる。

つまりセパレートアンプは、プリメインアンプ(一体型)では、
達成不可能なレベルに挑むための形態であり、だからこそセパレートアンプへの要求は、
プリメインアンプへの要求とは比較にならないほど厳しくなる。

このことは、当時のステレオサウンドにも、何度か指摘されていた。
私はそういう時代を経てきている。

Date: 4月 22nd, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その18)

ステレオサウンド 48号特集
「ブラインドテストで探る〝音の良いプレーヤーシステム〟」では、
ダストカバーが付属する機種に関しては、開いた状態での写真が撮影・掲載されている。

当時の広告は、というと、ダストカバー付きの写真のメーカーは少ない。
ダストカバーは外した状態、しかもヒンジまで取り外した状態での撮影もけっこうある。

ステレオサウンドも、組合せの記事、
たとえば年末の別冊「コンポーネントステレオの世界」では、
ダストカバーは取り外しての撮影である。

瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」でも、
ダストカバーは外しての撮影である。

だから48号でのダストカバー付きの撮影は、
しかも掲載されている写真はダストカバーの一部がカットされることなく、
そのプレーヤーの全景が掲載されているのは、評価すべきことである。

これが55号の「ハイクォリティ・プレーヤーシステムの実力診断」では、
ダストカバーを外した撮影となっている。

ダストカバーとは、ヤッカイモノなのか。
そんな印象を、知らず知らずのうちに植え付けられていたかも……、と思えなくもない。

国産のプレーヤーならば、安い製品であってもダストカバーはついていた。
アクリル製のダストカバーがついているのだが、
だからといって、ダストカバーを特註しようとすると、意外に高くつく。

ステレオサウンドにいたころ、ある人が、
ダストカバーなしのプレーヤーのために、アクリル製のダストカバーを、
アクリル加工を専門とするところに見積もりを出してもらったことがある。

もう正確な金額は忘れてしまったが、ちょっと驚くほどの金額だった。
「アクリルなのに、そんなにするんですか?」と訊きなおしたほどだった。

大量生産だから安くできていたのであって、一品製作となると、
アクリル製ダストカバーは決して安くはない。