ただ、ぼんやりと……選ばなかった途をおもう(その4)
選択と拒否は不可分である、とまでは思っていない。
それでも、選ばなかった途(選べなかった途)についておもうとき、
拒否した途があったのだろうか……。
拒否もいくつかあろう。
やりたくないからくる拒否、認めたくないからくる拒否、
許せないからくる拒否──、などがあろう。
なにを拒否してきたのだろうか。
選択と拒否は不可分である、とまでは思っていない。
それでも、選ばなかった途(選べなかった途)についておもうとき、
拒否した途があったのだろうか……。
拒否もいくつかあろう。
やりたくないからくる拒否、認めたくないからくる拒否、
許せないからくる拒否──、などがあろう。
なにを拒否してきたのだろうか。
(その9)は、2019年9月8日に書いている。
この六日後(14日)に、メリディアンの218を導入した。
しばらくはCDプレーヤーのデジタルアウトとの接続で使っていた。
2019年12月ごろから、e-onkyoを活用するようになってきた。
そして2020年11月、TIDALを使い始めるようになった。
2021年は、どっぷりTIDALとの一年だった、といえる。
そうなるとCDプレーヤーを使う頻度が大きく減った。
所有しているすべてのCDをリッピングしているわけではないが、
大半はリッピングしているから、それらのアルバムを聴く際には、
CDプレーヤーを使う必要はない。
この数ヵ月、CDプレーヤーに触れていない。
それでも音楽生活は、TIDALのおかげで充実している。
アナログプレーヤーは三台ある。
こちらはCDプレーヤー以上に稼働していない。
MQA登場以前、MQAをメリディアンのULTRA DACで聴くまでは、
アナログディスクならではの音も、時には愉しみたい、と考えていた。
それがMQAのおかげで、そう思うことが減っている。
どういうことかというと、五年後、十年後のことまではなんともいえないが、
少なくともこれからの数年間は、CD、LPといったパッケージメディアに頼らなくとも、
私の場合は、充分に音楽に浸れることだけは確かだ。
極端な話、目の前からCDプレーヤーとアナログプレーヤーが消えてもかまわない。
手離すということではない。
とりあえずどこかにしまっておく。
そういう数年間があっても、何かを失ったとは感じないのではないだろうか。
別項で、オーディオシステムの中心はどこか、と書いている。
コントロールアンプだと私は考えているわけだが、
いままで私が思い描いてきたコントロールアンプとは、
その傍らにアナログプレーヤーがあり、CDプレーヤーがあり、
さらにはチューナーやテープデッキがあってのコントロールアンプ像であった。
ところがこの二年間で、そういったオーディオ機器がとりあえずなくなっても、
過不足なく、というよりも、それまで以上に音楽を聴いていける、
ということを経験してきている。
だから、このへんから、
そういう時代をふまえてのコントロールアンプ像を考えていく必要があるし、
コントロールアンプのバラストとしての機能についても考えていきたい。
自己模倣という純化の沼こそ、オーディオの罠だ、といまははっきりといえる。
(その1)を三年前に書いたころは、
オーディオの罠は存在しない、と思う──、
そのぐらいに思っていた。
二年前の(その2)で、この自己模倣という純化の沼を、
オーディオの罠のように錯覚しているだけなのだろう、と書いた。
やはりオーディオの罠というのはない、といまは断言する。
オーディオの罠がある、と錯覚しているだけにすぎないし、
そうしていたほうがラクだからかもしれない。
そして、その、錯覚しているオーディオの罠は、自己模倣の純化の沼であり、
その、自己模倣の純化の沼を作り出しているのは、
「オーディオには罠がある」とか
「オーディオ沼」とかいって自虐的に喜んで言っている本人でしかない。
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》
いうまでもなく小林秀雄の有名すぎる一節であり、
これまでにいろいろな解釈がなされている。
これについては、坂口安吾が「教祖の文学──小林秀雄論──」で、
こんなことを書いてもいる。
*
美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。
私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦人なり」という文章の解釈をだされて癪にさわったことがあったが、こんな気のきいたような軽口みたいなことを言ってムダな苦労をさせなくっても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言えばいいじゃないか。こういう風に明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するように心掛けることが大切だ。
美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある。
彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
*
そうなのかぁ、と思いつつも、
私が考えたいのは、オーディオの「美」についてであり、
それを考えていく上では、《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》は、
たとえそれがほんとうに言葉の遊びであっても、無視できることではない。
(その1)は、2015年5月に書いている。
六年半経過して、思い出して書いているのは、
ここ最近たびたび書いている「心に近い(遠い)」ということが、
そして「耳に近い(遠い)」ということが、
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない》ということなのかもしれない、
そんなふうに感じ始めているからだ。
美しい「花」が心に近い音なのか、
「花」の美しさが耳に近い音なのか。
心に近い「音」はある、耳に近い「音」というものはない、ということなのか。
それともまったくの逆なのか。
そんなことを思っているところだ。
「MQAのこと、TIDALのこと(その2・補足の補足)」で、
Amarra Playのヴァージョン1.27でMQAの問題が解消された、と書いた。
ヴァージョン1.27は再生に関しては問題はなかったのだが、
今度は表示に少しばかり問題が発生していた。
いちばん下までスクロールできない。
なので1.28に期待した。
1.28は夏に公開された。さっそくダウンロードした。
すると表示の問題は解消されていたが、今度はまたMQAの問題が発生している。
こうなると1.29に期待するしかない。
1.29はなかなか公開されなかった。
年内は無理かも……、と諦めていたら、
木曜日(12月23日)に1.29が公開された。
さっそくダウンロード。
MQAの問題が解消されているかどうか、それをまずチェックするわけなのだが、
いきなり奇妙な音楽が流れてきた。
音楽が1/2倍速くらいで再生されている。
聴いてもおかしいのだが、時間表示も一秒経過するのが二秒ほどかかっているのがわかる。
MQAでない、通常のPCM再生に関しては、1.28よりも音が良くなっているように感じる。
けれど肝心のMQAがまったく使えないのだから、話にならない。
クレームがきっと山ほど届いたのか。
一日も経たないうちに、1.30が公開された。
けれど、これはヴァージョン1.27の問題がそのまま残っている。
1.27の音が良くなったヴァージョンともいえる。
今回の件で疑問をもったのは、ソフトウェアデコードに関することだ。
これだけのことでは断言まではできないけれど、
MQAの真価は、やはりハードウェアデコードで聴いてこそ、であり、
ソフトウェアデコードが具体的にどんなことを処理しているのかは、
勉強不足で知らないけれど、信頼性ということではまだまだなような気がしてならない。
「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」
以前にも書いていることのくり返しなのだが、本気でそう思っていた時期があった。
30代前半のころだから、いまから二十年以上の前のことだ。
親しい友人にも、そう言っていた。
本気だったのに、そのとおりにしなかったきっかけは、すでに書いている。
川崎先生のDesign Talkと出逢っていなければ、読みつづけていなければ、
ずっとこのままきていたかもしれない。
それに瀬川先生の著作集をなんとかしたい、というおもいが、
ステレオサウンドを離れてからずっとあったことも、深く関係している。
30代後半のころ、インターネットが普及の兆しを見せ始めていた。
ウェブサイトを自分でつくるアプリケーションも出始めてきた。
このことがなければ、もしかすると、じっとそのままで、
「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」といい続けていたかもしれない。
いくつかのきっかけが重なっての2000年8月にaudio sharingの公開だった。
公開後も、いろんなことがあった。
もしaudio sharingをつくっていなかったら、公開していなかったら──、
オーディオの才能を自分のためだけに使っていたら──。
audio sharingの公開後の人との出逢い。
ある人と出逢い、その人との出逢いで、また別の人と出逢う。
六次の隔たり、という仮説の実感でもある。
そうやっての2021年10月7日の巡り逢せは、
オーディオを続けてきてよかった、と心底から実感している。
オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。
(その13)で、誰か「ゲスの壁」を書かないだろうか、と書いた。
ゲスは、下司、下種、下衆と書く。
どう書くのがいいのか、あれこれ考えて結局ゲスにした。
辞書には、品性が下劣なこと、また、そのような人やさま、とある。
品性が下劣であっても、知識だけは豊富な人も、私にいわせればゲスである。
本を数多く読んでいる人でも、ゲスな人は残念ながらいる。
どうしてなのだろうか、としばらく考えたことがある。
なんとなくではあるが、こういうゲスな人に共通しているのは、
上書きしかできないのではないだろうか、ということだ。
《私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。》
「音楽に在る死」のなかで、五味先生がそう書かれている。
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」では、こう書かれている。
*
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
*
区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。
倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。
時代の軽量化とは、こういうことでもあるのだろう。
五味先生の、音楽、音、オーディオについて書かれた文章には、
祈り(もしくは祈りに通じる)が感じられるからこそ、
「五味オーディオ教室」と出逢ってすでに四十年以上が経ちながらも、
いまも飽きずに、ということにとどまらず、新たな気持で読み続けている。
《常々観じていることとか、抱いている疑問の大半は五味オーディオ教室にすでに書いてあった》
今日、ソーシャルメディアを眺めていたら、そう書いてあった。
私より若い人である。
聴く音楽も違う。
そういう人が、いま「五味オーディオ教室」を読んでいる。
そして、そう感じているわけだ。
嬉しいことだし、頼もしいとも思っている。
ようやくウェスターン・エレクトリックの300Bが発売になったので、
(その28)と(その29)は少し脱線してしまった。
ここからが内容的には(その27)の続きである。
アンプ一台の重量は、どこまでが上限なのか。
音さえよければ上限などない、という人もいるはず。
私も若いころは、そんなふうに考えていた。
年がら年中、設置場所をあっちに持っていったり、こっちに戻したり、
そんなふうに移動するわけではないのだから、重くてもかまわない──、
そんな考えだった。
それでもできれば一人で持てる重さ、
どんなに重くても大の男、二人で持てる重さが、上限かな……、ぐらいではあった。
となると一人だと40kgあたりが上限となるし、
二人だと80kgあたりが上限となろう。
もっとも、これは私の場合であって、人によっては上限の値は上下してくる。
しかも、ここでの重量は、ある程度重量バランスがとれている場合であって、
極端にアンバランスな重量の偏りがあったり、持ちにくい場合にはもっと軽くなってしまう。
いま、オーディオ機器の価格の上限は、なくなってしまったかのようである。
パワーアンプで、一千万円(ペア)を超える機種がぽつぽつ登場してきている。
ブルメスターのフラッグシップモデルは、四千万円を超える。
こういうアンプの存在を否定したいわけでなく、
こういう存在のアンプのみが出せる音の世界が、
十年後、早ければ数年後には、
ここまでの価格の製品でなくとも出せるようになるようになることだってある。
これだけの製品が開発されることで得られることがあるわけで、
それらが活かされてくる時代が、いずれやってくるわけで、
その意味でも、ある種のプロトタイプのようでもあり、
こういうモデルの登場を、私は期待しているところがある。
ブルメスターのフラッグシップのパワーアンプで私が驚いたのは、
実は価格ではなく、その重量だった。
モノーラルアンプで、一台180kgである。
二台で360kg。
JBLのパラゴンよりも重いのか──、とまず思ってしまった。
1921年12月20日が、五味先生の誕生日なのだから、
今日(2021年12月20日)で、生誕100年となる。
いくつか五味先生の文章を引用したい気持がつよくあるが、
あえて、ひとつだけとなると、やはりこの文章がすぐに浮ぶ。
*
さいわい、われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる——神を異にする——民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。
*
「マタイ受難曲」からの引用だ。
最初に読んだ時から、ほぼ四十年が過ぎた。
《神を視ている》、
このことばほど、強烈なものは、私にはない。
フルトヴェングラーは、マタイ受難曲について、
「空間としての教会が今日では拘束となっている。マタイ受難曲が演奏されるすべての場所に教会が存在するのだ。」
と1934年に書いている。
《神を視ている》も、同じことのはずだ。
徹底して、個人の音といえる音がある。
その一方で、個人と個人をつなぐ音もある。