Date: 12月 19th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その8)

マスターテープの音そのままの再生(再現)ということであれば、
音量も聴き手が勝手に調整してはいけない、ということで、本来あるはずだ。

なのにマスターテープの音そのままの再生(再現)を目指している、
大きな目標としていると広言している人も、音量は調整している。

自分の、その行動をおかしいと思わない人が、
マスターテープの音そのままの再生(再現)を謳う。

ここで難しいのは、音量の一致である。
マイクロフォンが拾った音の音圧そのままをスピーカーから再生すればいいのか。

けれど、その音圧にしても、スピーカーの正面からどの程度の距離での音圧なのか。
録音時に楽器とマイクロフォンの距離が1mあったとしよう。
ならばスピーカーの正面から1mの距離のところでの音圧が、
マイクロフォンが拾った音圧とイコールになればいいのか。

それとも録音している最中の、
その録音スタジオにおけるモニタースピーカーと同じ音量に設定すればいいのか。

たとえば生演奏(生音)とのすり替え実験では、
同じ空間での録音と再生であるだけに、音量の設定に難しいことを言う必要はない。
けれど録音と再生の場が一致しない場合は、そうはいかない。

Date: 12月 19th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その18)

別項でもなんどか書いている「心に近い(遠い)」。
このことを今年は、改めていろんな機会に考えていた。

心に近い音、心に近い音楽、そして心に近い人。

Date: 12月 18th, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(ジュリーニのブラームスの四番)

今月はブラームスをよく聴いている。
別項で書いているようにブラームスの交響曲第一番を、
バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーの演奏を中心として、
いろんな指揮者、オーケストラで聴いていた。

一番を集中して聴きながらも、四番の交響曲も聴いていた。
ブラームスの四つの交響曲で、私がよく聴くのは一番と四番だ。
二番と三番は、あまり聴かない。

四番がもっともブラームスらしいと感じるだけでなく、
四つの交響曲のなかで、いちばん好きでもある。

今日はジュリーニの四番を聴いていた。
シカゴ交響楽団によるEMI録音と、
ウィーンフィルハーモニーによるドイツ・グラモフォン録音である。

録音には約二十年の隔たりがある。
どちらがブラームスの四番として優れた演奏なのか。
どちらも私は好きだし、いい演奏だと感じている。

それでもずいぶん違う演奏だ。
シカゴとの四番は、推進力がある、とでもいおうか、
録音にキズのあるところが何箇所があるものの、
そんなことはほとんど気にならないほどの演奏だ。

シカゴとの四番を聴いた直後に、ウィーンとの四番を聴くと、
ちょっとものたりない、と感じなくもない。
でも、それはすぐに消えてしまう。

しなやかで、歌うかのようなブラームスの音楽を聴いていると、
ただただ聴き惚れてしまう。

ウィーンとの四番は発売されてすぐに買って聴いた時から、
素晴らしいと感じていたし、ブラームスをよく聴く知人にもすすめたことがある。

知人は、ピンとこなかったようだ。
一緒に聴いていて、「これをいい演奏というんですか」というような顔で、
私の方を見ていた。

そういうものかもしれない。
二人とも、その時から三十以上齢を重ねている。
知人とは疎遠になったが、彼はやっぱり、
三十年以上前と同じように感じるのだろうか。

私は、というと、こういうふうにしなやかにブラームスの交響曲を歌えるのであれば、
老いてゆく、ということの素晴らしさを感じている次第。

Date: 12月 17th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その17)

ソーシャルメディア、ほぼ毎日眺めていて、
オーディオのことだけでいえば、着弾と出音という単語が、
よく使われるようになったと感じた。

着弾と出音。
私は、どちらも使わない。これからも使うつもりはないが、
使う使わないは、その人が選ぶことであって、とやかくいうことではない──、
とわかっていても、なんだか違和感のようなものをおぼえてしまう。

手に入れたいモノが届く──、
その嬉しさを着弾という単語で表現しているのはわかっている。
でも、もう少しマシないい方はないのか、とも思う。

出音。
こちらは、語感が悪いと感じる。
出音。もうこれだけで私は悪い印象を受けてしまう。

なのに「いい出音だった」みたいな使われかたを見かけると、
へぇ……、という印象しか残らない。

世代の違いなのか、とも思うこともあったけれど、
ソーシャルメディアでは投稿している人の年齢がはっきりとわからないこともあるが、
意外にも若い世代の人だけでなく、けっこう上の世代の人も使っているようだ。

来年以降は、オーディオ雑誌でも、着弾、出音が使われ始めるようになるのか。
それとも、もう使われ始めているのか。

Date: 12月 17th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その24)

二十年ほど前には、
ベートーヴェンの交響曲もブラームスの交響曲も立派に演奏できる指揮者が大勢いた──、
そんなことを1980年代の後半に、
福永陽一郎氏がレコード芸術に書かれていたと記憶している。

全面的に賛同するわけではないが、
福永陽一郎氏がいわんとされているところには共感するだけでなく、
スピーカーにおいても、いえることのような気がする。

スピーカーの進歩は確かにある。
その進歩によって、ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が、
立派に鳴ってくれるようになったとはいえない。

昔のスピーカーには、
ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を立派に鳴らしてくれるモノが、
ひしめていた──とはいえないものの、
立派に鳴らしてくれるスピーカーが確かにあったことは、はっきりといえる。

いまはどうだろうか。
ここでも、耳に近く(遠く)、心に近く(遠く)がいえる。

心に近い音のスピーカーがあってこそ、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれる、ともいえるし、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれるからこそ、
心に近い音のスピーカーといえる。

福永陽一郎氏は、確かに「立派」とされていた(はず)。
この「立派」をどう解釈するかでも、心に近い(遠い)が変ってこよう。

Date: 12月 16th, 2021
Cate: 表現する

オーディオ背景論(その5)

最近の、というか、もう少し前からなのだが、
人気マンガの連載期間が、
私が中学生、高校生だったころとくらべると、かなり長くなってきている。

あのころは単行本も十巻までいかない作品がけっこうあった。
二十巻をこえる作品は、そうとうに長い、という感覚であった。

ところがいまでは五十巻超えの作品はけっこうあるし、
百巻超えの作品も珍しくなってきている。

その理由は、一つではなくて、いろんなことが絡み合ってのことなのだろう。
でも、ここでテーマとしていることと関連していえることは、
背景の描写が緻密になるとともに、
作品の連載期間の長期化があたりまえのこととなってきた──、と。

背景描写が緻密でない作品でも、
たとえば「サザエさん」のように長期の連載、五十巻をこえる単行本という作品はあった。
「サザエさん」は四コマ・マンガなので、同列には比較できないところもあるのはわかっている。

それでも、背景の描写の緻密化と連載の長期化は、無関係とは思えない。

Date: 12月 16th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その23)

トロフィーオーディオとして選ばれたスピーカーは、
いかなるモノであったとしても、
そして、そのスピーカー(トロフィースピーカー)で聴く人がどういう人であったところで、
心に近い音は、絶対に聴くことはできない。

Date: 12月 15th, 2021
Cate: ディスク/ブック

バーンスタインのブラームス第一番

TIDALで音楽を聴くようになってから、
クラシックに関しては、同じ曲を、別の演奏家で聴くことがものすごく増えた。

いままでもこういった聴き較べはしていたといえばそうなのだが、
それほど積極的ではなかった。

なのにTIDALでは、そうとうにやっている。
12月はブラームスの交響曲第一番を、ほぼ毎日聴いていた。

バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーを聴いたのがきっかけだった。
この録音を、発売当時に聴いて、バーンスタインに夢中になった。

ドイツ・グラモフォンではブラームスの前に、
同じウィーンフィルハーモニーとによるベートーヴェンの交響曲全集があった。

高く評価されているのは、知っていた。
聴いてみたい、という気持はったけれど、すぐには手を出すことはなかった。

なのにブラームスに関しては、発売されてすぐに買って聴いた。
いまも聴いているわけだから、その時も、素晴らしい演奏だ、と感じていた。

特に四楽章を聴いて、バーンスタインって、こんなに素晴らしい指揮者だったのか──、
お前の認識不足だよ、といわれようが、そう感じたことを、いまもはっきりと憶えている。

素晴らしいだけではなく、美しいのだ。
オーケストラがウィーンだから、ということもあるのはわかっている。

今回久しぶりにバーンスタインのブラームスを聴いて、あらためてそう感じて、
それがきっかけで、他の指揮者のブラームスの一番を次々と聴いていくことになった。

いままで聴いてきた指揮者だけでなく、初めての演奏(録音)もけっこうあった。
いいな、と感じた演奏を聴き終ったあとには、
バーンスタインをまた聴いていた。

そんなことを飽きもせず、12月の半分を過ごしていた。
結論は、やっぱりバーンスタインのブラームスはいい、ということ。
それも四楽章の美しさは、私にとって格別だ、ということ。

三十数年前に感じたことを確認しただけ、ともいえる。

Date: 12月 15th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その16)

Kindle Unlimitedで読めるようになるまで待つつもりだったけれど、
ステレオサウンド 221号のベストバイで、JBLの4309がどう扱われているのか、
それだけが気になって、このところだけを立読みしてきた。

4309の評価はまずまず高かった。
黛 健司氏が、220号での新製品紹介記事に続いて、コメントを担当されている。
まぁ、そうだろうな、と思う。

その文章には、八城一夫、ベーゼンドルファーと出てくる。
ベストバイの一機種あたりのコメントの文字数は少ない。
その制約のなかでの表現なのはわかっている。

それでも、八城一夫、ベーゼンドルファーが、何を意味しているのか、
すぐにわかるのは、私ぐらいがぎりぎりの世代であろう。

私より若い世代になると、何のことだろうか──、となるであろう。
いうまでもなく菅野先生録音のことである。

オーディオラボのレコード(録音物)を聴いてきた、
少しでもいい音で鳴らそうとしてきた人ならば、
八城一夫、ベーゼンドルファーが意味するところを掴める。

こういう書き方をした黛 健司氏に対して何かをいいたいわけではない。
この文章をそのまま掲載したステレオサウンド編集部に、何か言いたいわけでもない。

ただ、そのまま掲載したということが意味するところを考えてみてほしい。
それで意味がわかる人が多い、という判断なのだろう。
つまり、ステレオサウンドの現在の読者の中心年齢層がどこなのか、である。

Date: 12月 14th, 2021
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その17)

清潔な音をめざし、清潔な音を出している──、
そう自負している者は、
清潔であることを損う音は、一切出したくなかった。

つまり聴きたくなかったわけだ。

汚れた音、不清潔な音、雑な音──、
そういった類の音はいっさい出したくない(聴きたくない)。

そのため、そういった類の音を排除するようにつとめる。
けれど、ほんとうに排除できるのか。
本人は、排除できると思っていたであろうし、
排除できていた、と思い込んでいた。

でも、それは清潔な、と本人が思っている音で、覆い隠していただけかもしれない。
いくらは排除できていたとしても、残っていたのが、
澱のようにその奥(底)に、溜っていたようにも感じることがあった。

ほんとうのところは、清潔な音をめざしていた本人も、
その音を幾度となく聴いた私にもわからないのかもしれない。

Date: 12月 14th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その74)

オーディオの想像力の欠如した者は、過去と直向きになれそうにない。
直向きになれる者の背中にだけ未来がある。

Date: 12月 13th, 2021
Cate: 日本のオーディオ

S氏とタンノイと日本人(番外)

別項「ワイドレンジ考(その83)」で、
登場したばかりのタンノイのKingdom Royalの外観にがっかりしたことを書いている。

オリジナルのKingdomは、いまでも自分の手で鳴らしてみたいスピーカーの最右翼である。
それに外観も気に入っている。

Kingdom Royalの音は聴いていない。
Kingdomよりも、いい音に仕上がっているのかもしれない。
そうであったとしても、私はKingdomの方が断然いい。

タンノイは、なぜ、こんなふうにKingdomを変えてしまったのか。
それがずっと心にひっかかっていた。

ソーシャルメディアを眺めていると、
オーディオ関係の写真が、けっこう登場してくる。

つい先日、ある写真が、そんなふうに目に留った。
Kingdom Royalがあった。
二基のKingdom Royalのあいだには、エソテリックの一連の製品群がある。

この一枚の写真をみて、納得がいった。
お似合いなのだ。

褒め言葉で、「お似合い」を使っているのではない。

Date: 12月 12th, 2021
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その16)

その15)は、もう五年前。

その冒頭に、
グッドマンAXIOM 80からJBLへ。
岩崎先生も瀬川先生も、この途をたどられている、と書いた。

岩崎先生とAXIOM 80が結びつかない──、という人はいてもおかしくない。
でも、岩崎先生はJBLのパラゴンを鳴らされていた同時期に、
QUADのESLも鳴らされていた。

そのことを知っていれば、それほど意外なことではないはずだ。
とにかく瀬川先生もAXIOM 80だった。
そしてJBLへの途である。

岩崎先生も瀬川先生も、
最初のころは、JBLのユニットを使っての自作スピーカーである。

瀬川先生は、JBLの完成品スピーカーシステムとして4341を選択されている。
岩崎先生はパラゴンである。
その前にハークネスがあるが、これはエンクロージュアの購入である。
そしてパラゴンのあとにハーツフィールドも手に入れられている。

ハーツフィールドは、瀬川先生にとって、憧れのスピーカーである。
そしてパラゴンに対しては、ステレオサウンド 59号で、
《まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。》とまで書かれている。

岩崎先生は、(その1)で引用したスイングジャーナルでの4341の試聴記である。
正しくは4341の試聴記ではなく、スタックスのパワーアンプの試聴記なのだが、
その冒頭を読んでいると、4341の試聴記なのかと思ってしまう。

4341の音を、
《いかにもJBLサウンドという音が、さらにもっと昇華しつくされた時に達するに違いない、とでもいえるようなサウンドなのだ》
とまで高く評価されている。

それだけではない、岩崎先生の4341の音の表現は、
瀬川先生の音の表現に通ずるものが、はっきりと感じられる。

Date: 12月 12th, 2021
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その11)

グラハムオーディオのLS5/1の復刻が、
なぜか日本の輸入元のウェブサイトに載っていて、
その価格が3,000,000円なのは高い、と思うけれど、
グラハムオーディオのサイトにLS5/1が載っていないということは、
もしかするとLS5/1の復刻モデルは、日本にある1ペアだけなのかもしれない。

何の確証もないので、他にも存在している可能性もある。
けれど、仮に1ペアだけしか存在してなくて、
その1ペアが日本にある、ということであれば、3,000,000円(税抜き、ペア)も、
希少価値を重視する人にとっては、むしろ安いと感じられるのかもしれない。

Date: 12月 11th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その15)

来週月曜日に、ステレオサウンド 221号が出る。
けれどKindle Unlimitedで221号が読めるようになるのは先のことで、
たぶん来年になってからのはず。

なので217号から220号までの四冊をKindle Unlimitedで読み返して、
2021年に登場した新製品で、どれをいちばん聴きたいのかをふり返っていた。

私が聴きたいと思ったのは、JBLの4309である。
220号の新製品紹介で、黛 健司氏が書かれている。

4309の黛 健司氏の文章は、いい。
黛 健司氏の文章すべてがそうだとは言わないけれど、
読んでいると、瀬川先生の文章をよく読んでいる人の文章であり、
ただ読んでいるだけでなく、よく研究している人の文章でもある、と感じることがある。

4309の文章が、まさにそうだった。
ゆえに聴きたい、と思わせてくれた。