スピーカーの述懐(その56)
スピーカーが、どんな表情で鳴っているのか(歌っているのか)。
怒り顔で鳴っているのか、苦虫を噛み潰したよう顔で、なのか、
寂しそうな表情なのか、まったくの無表情なのか、
それとも微笑んでるのか。
そのことに無頓着で、スピーカーを鳴らした、とは言えない。
スピーカーが、どんな表情で鳴っているのか(歌っているのか)。
怒り顔で鳴っているのか、苦虫を噛み潰したよう顔で、なのか、
寂しそうな表情なのか、まったくの無表情なのか、
それとも微笑んでるのか。
そのことに無頓着で、スピーカーを鳴らした、とは言えない。
スピーカーからの音を聴いているとき、
目の前を人がよぎれば、音は変化して聴こえる。
どんなに音に無頓着な人でも、
目を閉じて聴いていたとしても、
スピーカーと自分との間を誰かか歩いていくわけだから、
音が変化するのは、わかるものだ。
ただスピーカーによって変化量は違ってくる。
Ktêmaは、その変化量が少ない。
音が変化しないわけではないが、極端に変るスピーカーもけっこう数多く存在するなかで、
Ktêmaは変化量の、かなり少ないスピーカーといえる。
エンクロージュアの形からくる効果なのか、独特のユニット配置からくることなのか、
これら二つがうまく作用してのことなのか、
いまのところなんとも言えないし、どういうことをもたらしているのか、
そのこともわからないが、
これからKtêmaを聴く機会がある人は、このことにも関心を払ってほしい。
別項で、
音は、オーディオはどこまで行っても通過点である、と書いたばかりだ。
このことは言い換えれば、ゴールはない、ということでもある。
オーディオマニアの中には、ゴールに最短距離で進んでいると豪語する人がいる。
その人はそれでいい。とやかくいうことでもない。
私とは、音、オーディオの捉え方がまるで違うのだろう。
くり返す、
音は、オーディオはどこまで行っても通過点である。
だからこそ「終のスピーカー」を求めていたのかもしれない。
4310から続くシリーズは、いまも作られている。
4311になり、いまは4312となり、型番末尾にアルファベットがつくようになった。
ロングセラーモデルといえるわけだが、ロングライフモデルとも思っていた。
けれど最近は、少し考えを改めた。
なぜJBLは、4312SEからウーファーにローパスフィルターを足すようになったのか。
4310から4311、4312の途中までの特色は、
ウーファーにはネットワーク(フィルター)が介在しないことでだった。
このことによる音の特徴はあったわけで、それをJBLは辞めてしまった理由について考えると、
時代にそぐわなくなったということもあるだろうが、
長く使っていることて生じる劣化もあるのではないのか。
ローパスフィルターを必要としない設計のウーファーは、
ボイスコイルボビンとコーン紙の接合にコンプライアンスを持たせる。
このコンプライアンスによってメカニカルフィルターを形成しているわけだが、
この部分は経年変化によって、どう変化していくのだろうか。
硬くなっていくとしたら、メカニカルフィルターが効かなくなってくるわけで、
スコーカーの帯域までウーファーからの音がかぶってしまうようになるし、
反対に柔らかくなれば、メカニカルフィルターの効きが、より低い周波数に移行することになり、
スコーカーの受持帯域との間にギャップを生じることになるはずだ。
実際のところ、どうなのだろうか。
私の周りには、以前鳴らしていたことはある人はいるけれど、いまも鳴らしている(長いこと使っている)人はいないから、
確かめようがないが、初期特性を維持したまま鳴っているとは考えにくい。
このことを配慮しての4312SEなのかもしれない。
昨晩、(その1)を書いたあとにステレオサウンド 233号のベストバイを読み返した。
DD67000もS9900も、選ばれていない。
そういう時代なのか……、と思いながら、
この結果からして、すでにJBLのフラッグシップモデルは不在ともいえるのかもしれない、とも感じていた。
現時点でのフラッグシップモデルが製造中止になれば、
その下のモデルがフラッグシップモデルとして繰り上がるわけで、
フラッグシップモデルがJBLからなくなるわけではない。
そんなことは承知の上で、DD67000とS9900がなくなることは、
個人的にJBLのフラッグシップモデルの不在となる。
1976年に4343が登場したのと同じ頃に、「五味オーディオ教室」に出逢い、
オーディオの世界に入っていた私には、
常にJBLにはフラッグシップモデルと素直に呼べるスピーカーシステムがあった。
そんな時代も、終るのだろうか。
ソーシャルメディアを眺めていたら、B&OのBeogram 4000の写真が表示された。
サンローランから、Beogram 4000Cとして、10台のみ発売になる、というニュースだった。
日本語で、これを伝えているサイトでは550,000円としていたが、
サンローランのウェブサイトを見ると、5,500,000円と一桁違う。
完全な新品ではない。
これを高いと感じるのか、安いとするのか。
人それぞれの価値観によって違ってくるだろうが、
私がまず思ったのは、故障したらどうなるのかだ。
B&Oが完全に修理してくれるのか。
もともと故障しやすいモデルであるし、
カートリッジもB&Oのモノしか使えないから、
カートリッジの針交換は、どうなるのか。
そんなアフターサービスのことをまず思った。
このモデルをためらいなくポンと購入できる人は、そんなことを心配しないのか。
トロフィーオーディオとして飾っておくだけのモノならば、
それでもいいのだろうけど。
JBLのDD67000とK2 S9900の製造中止のニュース。
どちらも元となったモデルから数えればかなりのロングセラーモデルであり、
両機種の製造中止そのものは特に大きな驚きではないが、
これらに代わるフラッグシップモデルのウワサが聞こえてこない。
そこにもやもやしたものを感じる。
別項で書いているが、JBLの次期フラッグシップモデルは、
JBL ProfessionalのM2をベースにしたモノになるのでは?
という予想をした。
結局、いまのところ、それにあたるモデルは登場していないが、
それでもいつかは世に現れるであろう、と期待している。
でもフラッグシップモデル両機種を製造中止にしたニュースに触れると、
それも期待できないのでは──、と思えてくる。
今年秋のインターナショナルオーディオショウに新しいフラッグシップモデルが登場するのか、
まったくそうではないのか。
2月のaudio wednesdayでは、Ktêmaを正面、もしくは少しずれた位置で聴いた。
3月の会では、右チャンネルのKtêmaのほぼ真横で聴いている。
こんな位置で聴いていても、なんとなくステレオ的に聴こえていた。
同じことを、来られた方からも聞いている。
これはKtêmaだからなのか。
それもある。
けれどそれだけではない。
四谷三丁目の喫茶茶会記でも、同じ体験をしている。
スピーカーは、もちろんKtêmaではなかった。
アルテックの2ウェイに、JBLの075を足したシステムだった。
この時、少しばかり席を外して戻ってきたとき、ドア付近で立って聴いていたのだが、
その時の感じが、今回に近かった。
この時は左チャンネルのスピーカーよりも外側で聴いていたのだが、
コンサートでその位置からステージを見ているような感じで、音が定位していた。
不思議な感じだった。
この時感じたことを、ブログに書こうと思いつつも、そのまま書かずにいた。
今回、同じ感覚を味わって書いている。
スピーカーも違う、アンプも違う、部屋も違う。
共通していたのは、メリディアンのULTRA DACでMQA-CDを鳴らしていたことだ。
音は残らない。
どんなにいい音を出しても、それが残るわけではない。
だから、いいと思う。
私がいま鳴らしている音も、私が死ねばそれで終り。
システムはそのまま残ったとしても、
そうだからいって、私が鳴らしていた音が出てくるわけではない。
しばらくはなんとなく、そんな感じの音は出ていても、
それは遅かれ早かれ消えてしまう。
音とは、オーディオとはそういうものだということは、以前から感じていた。
audio wednesdayで音を鳴らすようになって、よけいに感じている。
毎月第一水曜日に鳴らす音は、その場かぎりの音である。
どんなにいい音で鳴っても、システムそのものもその日かぎりだったりするから、
儚さを感じるかといえば、そうでもない。
音は、オーディオはどこまで行っても通過点である。
いい音が鳴ってきた日の音は、はっきりと通過点となる。
そうしていくつもの通過点がある。
それらの通過点を、そのまま通過点として点在させているだけなのか、
それとも通過点を結んでいけるのか。
「音は人なり」とは、こういうことでもあるはずだ。
3月5日のaudio wednesdayでも、今回の仮想アースをやっていた。
外した音、取り付けた音の確認は準備中にやっているので、
当日来られた方に比較試聴は体験してもらっていない。
今回は、アインシュタインのコントロールアンプのアース端子に接いだ。
今回使ったモノは、2月29日に、改めて作ったヴァージョン。
前回のモノと大きな違いはないが、今回のモノの方が効果は大きいように感じられる。
こうやっていくつかのヴァージョンを作って、比較試聴を行えば、
なぜ、これがいい方向に作用するのかの仮説は立てられるかもしれない。
今回、来られた方から、イタリアのスピーカーだから、
イタリアのオペラや音楽はかけられないんですか、ときかれた。
特に考えていなかった。
スピーカーには、その国ならではの音がある、と昔はよく言われていた。
ステレオサウンドでも、60号でアメリカン・サウンド、
61号でヨーロピアン・サウンド、
62号でジャパニーズ・サウンドを特集記事としていた。
このころは、そういった色合いが、各国のスピーカーから、その音から感じとれた。
それからずいぶん時間は経つ。
そういったことがまったくなくなったとは思っていない。
それでも、今回Ktêmaを鳴らすにあたって、
イタリアのオペラや音楽、イタリアの演奏家を特に選ぼうとは、
まったく考えていなかったのは、
私にとって、Ktêmaはイタリアのスピーカーというよりも、
フランコ・セルブリンのスピーカーという色の方が濃く感じられるからだ。
Ktêmaに使われているスピーカーユニットが、
すべてイタリア製ならば、少し違ってきただろうが、
いまの時代、そうでもない。
ただしイタリアということを完全に無視していたわけではない。
カンタービレ(cantabile)ということは、強くあった。
歌うように、美しく鳴らす。
このことが私にとっては、
イタリアのオペラ、音楽、演奏家のディスクをかけることよりも、
ずっと大事なことであり、意識していた。
3月5日のKtêmaでの「直立猿人」の鳴りは、
インターナショナルオーディオショウでのアーク・ジョイアのブースでしかKtêmaを聴いていない人には、
想像がつかないだろう。
そのくらい見事な鳴りだった。
Ktêmaも素晴らしかったわけだが、決してそのことだけで得られた音ではない。
「直立猿人」もMQA-CDだ。
MQAということ、それに加えてメリディアンのULTRA DAC、
それにアンプもあっての「直立猿人」だったと言える。
ステレオサウンド 234号の313ページの字詰めのひどさは、紙の本でも同じとのこと。
ステレオサウンドも、いまではDTPで制作されているはず。
今回の字詰めは、いわゆる誤植とは違う。
どんなに校正しても、なぜだか誰も気づかずに、本になってしまう誤植というものはある。
でも今回の字詰めは、どんな人が見ても、すぐにわかることだ。
これにどれも気づかないというのが、不思議でならない。
今の時代の校正は、私がいた頃とは違っているのだろうが、
それでも何回かはチェックの目が入るはずである。
一回、誰か一人が見て終りではないはずだ。
少なくとも数人、数回見ているはずと思う。
なのに、編集経験者、校正経験者でなくともすぐに見つけられる字詰めのひどさ。
だらけきっているのだろうか。
4月2日のaudio wednesdayも、フランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らす。
三回続けて鳴らせることになり、試してみたいことができた。
タイトルの+1.0を見て、ピンときた人もいるだろう。
今回の試みがうまくいくのかいかないのか。
半々ぐらいかな、と思っている。それでもやってみたいのは、
うまくいったとしてもそうでなくても、Ktêmaというスピーカーを、
より理解することにつながると感じたからだ。
ステレオサウンド 234号をKindle Unlimitedで読んでいるところなのだが、
一点、すごく気になるところがある。
313ページ、本文上段の後ろから七行目、字詰めがひどすぎる。
これは編集者じゃなくともすぐに気がつく酷さである。
なぜ、これがそのままになってしまっているのか。
それとも、この字詰めの酷さは、Kindle Unlimitedだけのだろうか。
紙のステレオサウンドは、まともな字詰めなのか。