Archive for 7月, 2022

Date: 7月 9th, 2022
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その14)

先日公開した「所有と存在(その18)」。

好きな音楽をおさめたディスク(LP、CD)が増えていくとともに、
火事になったら……、地震が来たら……、
そんな心配を持つようになった、と書いた。

なにもディスクだけではない、
オーディオ機器に関しても、その心配は常につきまとう。

オーディオ機器となると、一人で持ち出せる大きさ、重さではなかったりするから、
まずはディスクを、と心配するわけだが、
火事がおこり、目の前でそれまで使ってきたオーディオ機器が消失してしまうのは、
現実におこってしまったら、たいへんな衝撃のはずだ。

25のときに、EMTの927Dstを手に入れた。
音も見事だが、自室におけば、その存在感は大きい。
けれど、927Dstを緊急時に持ち出せるかといえば、
火事場の馬鹿力があるとすれば可能かもしれないが、
持ち出せるモノとは思えなかった。

オーディオという趣味は、安全な空間を必要とする。
火事がこようが、地震がこようが、何があってもリスニングルームは無事。
そういう空間を持てるのであれば、私のような心配はしなくてもすむ。

けれど災害は人の想像力を超えた規模で起りうる。
絶対安全な空間など、ほぼない、といっていい。

そして、オーディオは部屋に縛られる趣味ともいえる。

そんなことに頭を悩ませていたころに、AKGからK1000が登場した。
そのころはK1000が欲しいな、だった。

K1000の登場から二十年以上。
K1000の後継機が三年前に登場した。
時を同じくして、私の音楽の聴き方に変化が訪れた。

MQAとTIDALである。
iPhoneとなんらかのD/Aコンバーター兼ヘッドフォンアンプがあれば、
そしてK1000もしくはK1000の後継機が揃えば、
部屋に縛られることから解放される。

スピーカーで音楽を聴こうとするから、
定住することが求められるのだが、上記のシステムならば、
もうそんなことはない。

終のリスニングルームとは、そういうことなのだろうか。

Date: 7月 8th, 2022
Cate:

音の種類(その6)

つぼみのままの音がある。
花を咲かせる音がある。
花が散り、実を結ぶ音もある。

つぼみのままの音は、音楽をつぼみのままで終らせる。
花を咲かせられる音は、音楽という花を咲かすことができる。
実を結ぶ音は、音楽という「実」を聴き手に与えてくれるはずだ。

つぼみを眺めるだけ(愛でるだけ)の音、
花を眺める(愛でる)音、
「実」を食すことのできる音。

Date: 7月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

A Little Less Conversation: ELVIS VS JXL

エルヴィス・プレスリーは,1977年8月16日に亡くなっている。
日本でもニュースで大々的に報じられていた。

とはいえ私はプレスリーのファンではまったくなかったし、
むしろ太ってしまった過去の人という印象しか持っていなかった。

1977年といえば、中学三年だった。
クラスにはビートルズを熱心に聴いている同級生が数人いた。
けれど、彼ら(彼女ら)もプレスリーには関心がなかったようだった。

8月16日は夏休みだったから、直後に同級生と会うことはなかった。
それもあったと思うけれど、夏休み明け、プレスリーのことを話題にする同級生はいなかった。

プレスリーの歌をまったく耳にすることがなかったわけではない。
“Love Me Tender”とか、そうやってそうとうに有名な曲は聴いたことはある。
あくまでもきいたことはある──、そのくらいだった。

私がエルヴィス・プレスリーをかっこいいと感じたのは、
それからずっと時が経ってのことだった。
2002年、ナイキのCMで使われていた“A Little Less Conversation”。
この曲が最初だった。

JXLによるリミックスのシングルCDを買ってしまった。
この曲で、熱心なプレスリーの聴き手になりました──、
そんなことはなかった。

“A Little Less Conversation”から二十年。
いま映画「エルヴィス」が上映されている。
ものすごく観たかったわけではなかったけれど、
とにかく映画が観たかった、大きなスクリーンで映画を観たかったから、
火曜日に「エルヴィス」を観てきた。

観てきた人ならば気づいているだろうし、
プレスリーの熱心なファンならば、そんなこと知っているよ、と言うだろうが、
私は「エルヴィス」を観たあとに、検索してみて初めて知った。

エルヴィス・プレスリーはトレッキーであった、と。
しかもそうとうなスタートレックのファンのようである。

このことだけで充分である。
プレスリーさん、あなたもトレッキーですか。
そんなことを心の中で呟きながら、
帰宅してすぐにTIDALで、プレスリーをまとめて聴きはじめた。

幸いなことにプレスリーはRCAに多くのアルバムを残している。
それらのアルバムはMQA Studioで聴ける。

「録音は未来」である。

Date: 7月 7th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 世代

アナログディスク再生の一歩目(その4)

オーディオ雑誌で、真空管アンプならではの音、とか、
真空管でなければ出せない音、といったテーマの企画が載ったりする。

真空管だけではなくて、ホーン型だったりもする。

ようするに方式とか素材によって得られる音がある、ということなのだが、
こういう記事では、だからといって、真空管アンプでは出せない音、とか、
ホーン型では出せない音ということについては言及しない。

オルトフォンのMC20MKIIを使うようになって、
MM型とMC型とでは本質的な違いがあることを、より強く感じるようになった。

MC20MKII以前、MC型カートリッジのいくつかは聴いている。
そのときに感じたことは、自分用として使うようになると、強い実感をともなってくる。
MC型カートリッジでなければ出せない音の骨格というものがある。

方式や素材で音は判断できないのわかっている。
それでもどうしても残ってしまうものがある。
どんなに技術が進歩しても、MM型からMC型のよさは得られない──、
と断言してもよい。

どちらがカートリッジの発電方式として優れているかどうかではなく、
その方式にはその方式ならではの「音の芯」のようなものがはっきりとあるからだ。

MC20MKIIが、私にとってのアナログディスク再生の最初の一歩目ではない。
エラックのSTS455Eを使っていたし、それ以前はプレーヤー付属のカートリッジを、
ごく短い期間とはいえ使ってもいた。

それでも、いまふり返ってみて、私にとってのアナログディスク再生の一歩目は、
やはりMC20MKIIということになる。

Date: 7月 6th, 2022
Cate: ディスク/ブック

MAGIC VIENNA: Works by Johann and Josef Strauss

“MAGIC VIENNA: Works by Johann and Josef Strauss”。
ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団によるアルバム。

このアルバムのことは知ってはいたけれど、
ディスクを買ってまで──、と思うことがなかった。

このアルバムも、TIDALで初めて聴いた。
楽しい演奏である。
もっと早く聴けばよかった、と思うほど、音楽が澱むことなく展開していく。

聴いていて、
オーケストラがクリーヴランド管弦楽団だからこそ、この演奏なのか、と思っていた。

セルはウィーン・フィルハーモニーも指揮している。
シュトラウスの作品なのだから、ウィーン・フィルハーモニーとの演奏だったら──、
まったく思わないわけではなかった。

けれど一瞬、そうおもったけれど、ウィーンとだったら、
ここまでの演奏はできなかったかも……、とおもいなおした。

セルとウィーンとによるシュトラウスも聴いてみたいけれど、
いかなセルとはいえ、
ウィーン・フィルハーモニーの伝統に引っ張られてしまうのではないだろうか。

“MAGIC VIENNA”には、そんなところは、当然だがまったく感じられない。
だからこそ、このアルバム・タイトルなのか、と思うし、
ここでのオーケストラは、オーディオでいえばスピーカーにあたる。

そこには相性が、どうしても存在する。
鳴らす人との相性、
鳴らす音楽との相性、
どう鳴らしたいか、との相性。

その相性いかんによって、マジックがおこせる(おきる)かどうか。
そんなことを考えていた。

Date: 7月 6th, 2022
Cate: トランス, フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(パワーアンプは真空管で・その20)

直列型ネットワークを自作して、
トゥイーターとウーファーの接続の順番を入れ替えての結果を聴いて、
そういえば、あのスピーカーはどうだったのだろうか、と考えたのが、
BOSEの901である。

901はフルレンジユニットを九本直列接続している。
通常のユニットとは違い、901に使われているユニットのインピーダンスは0.9Ω。
つまり0.9Ω×9=8.1Ωとなる理屈である。

では、この九本のフルレンジユニットをどういう順番で接続しているのか。
901の中を見て確認したことはないなぁ、と思っていた。

おそらくだろうが、正面の一本がプラス側の最初にきて、
それから後面の四本+四本へと直刷接続されていることだろう。

直刷型ネットワークにおけるウーファーの位置づけにあたるのは、
901では正面の一本だと考えれば、
プラス側から後面の四本+四本と接続していき、
最後に、つまりマイナス側に正面の一本となるようにしたほうが、
好結果が得られるのではないだろうか。

実際に901でこのことを試したわけでもないし、
もしかすると最初から、こういう接続になっている可能性もあろう。

私の周りで901を使っている人はいないから確かめようはないが、
もしそうでなかったとしたら、接続の順番を逆にするだけで、
そうとうに901の音は変るはずだ。

内部をいじるのは好まないというのであれば、
スピーカーケーブルのプラスとマイナスを入れ替える。
このままでは逆相スピーカーになってしまうから、
システムのどこかがバランス伝送ならば、そこのところでプラス・マイナスを入れ替える、
D/Aコンバーターに極性の反転スイッチがあるならば、それを利用すれば、
システム全体としては正相となる。

Date: 7月 5th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 世代

アナログディスク再生の一歩目(その3)

オルトフォンのMC20とMC20MKII。
型番だけから判断すると、MC20MKIIはMC20の後継機、改良モデルということになる。

けれど音を聴いてみればわかることなのだが、
MC20MKIIはMC30の弟分といえる。

MC30で初めて採用されたセレクティヴダンピング方式を、
MC20に導入したモデルといえはたしかにそうなのだが、
MC20のボディは青色、MC20MKIIはメタリックな銀色で、
ボディの色ひとつとっても、MC30(メタリックな金色)に近い。

音もそうである。
MC20とMC20MKIIを比較試聴したことがある。

MC20は、いいカートリッジではあったけれど、
リファレンス的とでもいいたくなるほど、音楽を聴いた時の面白みにやや欠ける。
優等生といえば優等生である。
ケチをつけることではないのだが、その枠から一歩脱してほしい、と思う私にとっては、
MC20よりもMC20MKIIが魅力的にきこえた。

知られているように、MC20を設計したのは日本人である。
トリオで光電カートリッジを手がけていた中塚氏がオルトフォンに移籍しての設計である。

MC20があったからMC30が登場してきたし、MC20MKIIもそうである。
だからMC20が、ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」入りしたのは納得できる。

それでもオルトフォンがSPUシリーズに肩を並べる魅力的なMC型として、
しかも最新型のMC型として成功したといえるのは、MC30とMC20MKIIからである。

そういうMC20MKIIを手にして感じたのは、
音の中身(中味)の本質的な違いである。

一枚のレコードを聴いた、
音楽を聴いたという充実感があった。

Date: 7月 4th, 2022
Cate: 世代

世代とオーディオ(蛍とホタルガ)

さきほどfacebookを眺めていたら、おもしろい投稿があった。
渋谷にヒカリエという商業施設がある。

そのヒカリエの通路には、季節の風物をアニメーションで表示する電飾がある。
いまは季節柄、蛍が表示されている──、と書きたいところだが、
その電飾に描かれているのはホタルガである、とのこと。

蛍とホタルガは、違う。
ホタルガは光らない。
見た目が少しばかり似ているとはいえるけれど、
蛍とホタルガは別物であるのは、
どちらも生きている蛍とホタルガを見ている人(世代)ならば、すぐにわかる。

この電飾のアニメーションを担当している人は、若い人なのだろうか。
蛍もホタルガも見たことがない人なのだろうか。

それでも調べればすぐにわかることじゃないか、とも思うし、
この電飾のアニメーションに関わっている人は一人ではないはず、とも思う。

何人かの人が関わっているだろうに、誰も蛍とホタルガの違いを知らなかったのか。
そして調べよう(確認しよう)としなかったのか。

蛍を描写して風情を演出したかったのだろうが、
ホタルガでは風情なんて感じられないわけで、
この仕事に携わった人たちは、蛍というキーワードだけで風情を感じられるのだろうか。

蛍をよく知らない人は、ヒカリエのホタルガを蛍と思い込むかもしれない。
知っていて当然とおもっていたことが、二世代も違うとそうでないことを、
オーディオのことだけでもずいぶんとあった。

これからもそういうことはいろいろと出てこよう。

ヒカリエのホタルガは、
笑って見過すのが大人の対応だよ、としたり顏でいう人もいるだろう。
揚げ足とって、何が楽しい? とそういう人はいうだろう。

けれど、それを放置しておくと、どうなっていくのかを、
オーディオの世界で見てきているから、ついこうやって書いてしまう。

Date: 7月 4th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 世代

アナログディスク再生の一歩目(その2)

オルトフォンのMC20MKIIの内部インピーダンスは3Ω、
推奨負荷抵抗値は10Ω、出力電圧は0.09mV(5cm/sec)である。

エラックのSTS455Eの出力電圧は5.5mV(5cm/sec)である。
MC型とMM型だから、出力電圧の違いはしかたないとはいえ、
MC20MKIIの出力電圧は、ここまで低い。

だからヘッドシェルもオーディオクラフトのAS4PLにした。
シェルリード線は通常両端に接点があるわけだが、
AS4PLはシェル側はハンダ付けしてあった。

接点が一箇所減る。
これだけでも出力電圧が低いMC20MKIIには有利に働くはずだし、
それにシェルリード線も太めのモノだった。

シェルリード線の長さは短い。
それでも太ければ、それだけ細いリード線よりも低抵抗である。
その差はごくわずかであっても、なんとなく精神衛生上よく感じた。

MC20MKIIとAS4PLの組合せは、当時高校二年生だった私にとって、
なんだか誇らしく感じられた。

MC20MKIIには上級機のMC30があった。
99,000円していた。
当時としては、そうとうに高価なカートリッジだったし、
それだけでなく出力電圧がMC20MKIIよりも低かった。

0.08mV(5cm/sec)という値だった。
MC20MKIIとの差は0.01mVなのだから、誤差みたいなものという見方もできたけれど、
MC30は価格もだが、使いこなしという点でも高校生が手を出してはいけないモノ、
そんな感じがしていたので、高校生だった私にとって、
MC20MKIIは最良のカートリッジであった。

それだけに、ついに本格的なオーディオマニアの仲間入りができた──、
そんなふうにもおもっていたものだった。

Date: 7月 3rd, 2022
Cate: 夢物語

真夏の夜の戯言(その6)

モノーラル音源からの完全な、
それぞれの楽器の音の分離が可能になったとして、
いずれ将来的にはすべての処理がデジタル信号処理で行われるはずだが、
そこまでの過渡期として、一時的には、一度アナログに変換して、
それぞれの楽器の音をスピーカーから鳴らして、
それらの集合音をマイクロフォンでとらえるということが行われるように考えている。

完全な分離が可能になっとしても、それぞれの楽器の音はモノーラルなのだから、
つまりは点音源といえる。
その点音源の楽器の音を、オーケストラの位置に配置したところで、
そのままではモノーラル音源の集合体で、そこには楽器のハーモニーは存在しない。

技術が進歩すれば、モノーラル音源の各楽器の音からも、
複数のヴァイオリンやヴィオラ、チェロが鳴っているようにできるだろう。

けれど、そこまでは道のりがどの程度かかるのか。
意外に早いのかもしれないし、かなり時間を必要とするのかもしれない。

ならば各楽器の音を分離できた時点で、
スピーカーの集合体というオーケストラを組み、
それぞれの楽器の位置に配置されたスピーカーから、割り当てられた楽器の音を鳴らす。

それをもう一度マイクロフォンでとらえる。
元の録音がなされた同じホールでの収録がいいのか、それとも別の音響特性のところがいいのか。
ふつうに考えれば、同じホールでやるのがいいと思われる。

スピーカーにどんなモデルを使うのか。
楽器によってスピーカーを変えた方がいいのか。
それから楽器ごとのスピーカーの数はどうするのか。
かなりの試行錯誤が求められるだろうが、うまくいけば……、と思っている。

一度録音した音源を、スピーカーから再生してもう一度録音するという手法は、
以前からあるものだ。

ある有名なジャズのライヴ録音はモノーラルで収録されているけれど、
複数のスピーカーから再生して、その音を収録することで、
モノーラル録音だとは思われていない例があるし、
別項で書いているパヴァロッティの映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」では、
同じような手法がとられている。

スピーカーの数を増やすのか、マイクロフォンの数を増やすのか、
両方の数の兼合いのうまいところが見つかれば──、
そんなことを考えるのはけっこう楽しいものだ。

Date: 7月 2nd, 2022
Cate: 夢物語

真夏の夜の戯言(その5)

音の分離技術は、日々進歩しているようだ。
たとえば市販されているCDからヴォーカルだけを検出する、
もしくはヴォーカルだけ削除する、ということが現実のものとなっている。

しかも検出の精度がどんどん高くなっている。
ということは、モノーラル音源をステレオにすることが現実味を帯びてきたことでもある。

それもモノーラルで録音されたオーケストラであっても、
ステレオに分離できるように、そう遠くない将来可能になるような気がしている。

モノーラル音源から、それぞれの楽器の音を検出し分離していく。
第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス……、
というふうにである。

オーケストラのすべての楽器の音を分離できたら、
録音された状況と同じ配置に、それぞれの音を配置していく。
そして合成することで、モノーラル音源をステレオに分離することは、
理屈の上では可能のはずだ。

正確な音の分離には、そうとうな時間と手間が必要となるだろうし、
それぞれの楽器の音源の配置にも、そうとう慎重に行う必要があるはずだ。

その際に録音現場の残響をどう処理するのか。
実際に行おうとすると、次々に細かな問題が出てきて、
それを処理していくだけでも大変なことになると思う。

それでもいまのデジタル信号処理による音の分離は、
少なくともそういう夢を見させてくれるだけのレベルに達してきている。

モノーラルからステレオへの技術の実現は、
意外にも早く訪れるのかもしれない。

Date: 7月 1st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その3)

一昨日のスピーカー、昨日のアンプ、
今日のプレーヤー関係の殿堂入りの機種の発表を見て、
改めて、この「オーディオの殿堂」という企画の無理な面を感じざるをえなかった。

「オーディオの殿堂」は、
いわば50号の旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞の焼き直しともいえる。

50号は1979年夏に出ている。
いまから四十年以上前である。

この企画に登場しているオーディオ機器は、まさしく「オーディオの殿堂」といえた。
オーディオの歴史を一端を窺い知れる面もあった。
勉強にもなった、といえる。

過去には、こんなスピーカーやアンプがあったのか。
もちろん知っている機種もあったけれど、初めて知る機種も少なくなかった。

ジェンセンのG610Bは、50号で初めて、その存在を知ることができた。
50号の特集は、何度も読み返した。

似た企画、同じような企画である「オーディオの殿堂」には感じられなかったことが、
いくつもあった。

50号をひっぱり出してくるまでもない。
それほどわくわくしながら読んだ50号なのだから、しっかりと憶えている。

ならば、今回も旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞をやればよかったのか──、
そうとは思わない。

旧製品のステート・オブ・ジ・アートは、1979年ごろだったから可能だった企画である。
それに50号の一年ほど前まで、「クラフツマンシップの粋」という連載が続いていた。
この連載があったからこその旧製品のステート・オブ・ジ・アートでもあった。

今回の「オーディオの殿堂」には、それもない。
たとえあったとしても、これまで市場に登場してきたモデル数をふり返れば、
いかに難しい企画というか、無理な企画というのが誰の目にも明らかだったはずだ。
結果、中半端な印象を拭えないし、偏ってもいる。

なぜ、いまになっての「オーディオの殿堂」なのか。