Archive for 10月, 2021

Date: 10月 24th, 2021
Cate: ケーブル

ケーブル考(その8)

ケーブルによる音の違いをあれこれ経験していくうちに、
増幅よりも伝送のほうが難しいのではないのか。

難しい、という表現が適切でないとしたら、
不明なことが多いのではないか、と20代のころから考えるようになってきた。

回路図上では、ケーブルは線で表現される。
実際のケーブルは同じようなモノといえる。

細い金属線で接続しても音は出る。
アンプはそうはいかない。

トランジスター一石のアンプであっても、
トランジスターのみで構成できるわけではない。
抵抗、コンデンサーといった受動素子も必要だし、設計も必要となる。
それに電源がなければ動作しないから、ここをどうするかのかも考えなくてはならない。

それでも伝送のほうが増幅という動作よりも、実のところ、
よくわかっていないのではないのか。

そんなことを以前から考えていた。

これはアンプを自作するしか試せないのだが、
コントロールアンプとパワーアンプの電源を共通とすることで、
ケーブルによる音の変化量と幅は、かなり抑えられるようになるのではないか。

これが私の仮説の一つである。

プリメインアンプは筐体が一つである。
それがセパレートアンプにすることで、
筐体はコントロールアンプとパワーアンプの(最低でも)二つとなる。
パワーアンプがモノーラル仕様なら三筐体になる。

私がいま考えているのは、そして実験してみたいのは、
コントロールアンプ(増幅部のみ)、パワーアンプ(増幅部のみ)、
それに共通電源部という三筐体という構成である。

セパレートアンプとすることで、
コントロールアンプとパワーアンプの電源が独立できているのを、
何も共通にすることはクォリティの低下を招くのではないか──。

Date: 10月 23rd, 2021
Cate: ケーブル

ケーブル考(その7)

接続ケーブルを、別のケーブルに交換すれば音は変化する。
その変化量が大きいか小さいかは別として、
そしてその変化量が聴きとれるかどうかも別として、音は必ず変化する。

その変化を楽しいと捉えることもできれば、面倒な、と思うことだってある。
ケーブルが同じであっても、コネクターの接点の状態によっても、音は変化する。

こんなことで変化しないでほしい──、というのが本音でもある。
それでも音は変る。
何をやっても音は変る。

それにしても、なぜここまで音の変化があるのだろうか──、と思う。
これは疑問である。

その理由を考えている。
いくつかの仮説は、私なりに持っている。

その一つについて、ここで書いておきたい。
ここで触れるのはラインケーブルについて、である。

CDプレーヤーとコントロールアンプもしくはプリメインアンプ、
コントロールアンプとパワーアンプ、そのあいだを接続するケーブルのことだ。

何をやったのかは詳しくは触れないが、ずっと以前にあることを試したことがある。
その時の音の変化は、予想よりも小さいものだった。

あれっ? と思ったものの、当時は、その理由について深く考えることはなかった。
それから二十年以上が経ち、ふと、あれって、もしかするとそういうことなのか──、
と思い出していた。

どういうことなのかと簡単にいえば、
それぞれの機器の電源が分かれているからなのではないか、である。

つまりCDプレーヤーにはCDプレーヤーの電源、
プリメインアンプにはプリメインアンプの電源、
コントロールアンプにはコントロールアンプの電源、
パワーアンプにはパワーアンプの電源が、
それぞれ独立してあることに起因している、という仮説である。

Date: 10月 22nd, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その2)

カラーレイション(coloration)とカラリゼイション(colorization)は、
同じように捉えがちの人もいるようだが、同じ色づけであっても、
その意味あいが違う、ということを(その1)で触れている。

カラリゼイションということで、私がまっさきに思い浮べるスピーカーは、
やはりアルテックだ。

往時のアルテックのことであり、
そのアルテックの604-8Gを搭載したUREIの813のことである。

UREIの813は聴く機会がなかった。
813Aもなかった。
私がステレオサウンドの試聴室で聴いたのは、813Bと、
そのコンシューマー・ヴァージョンの813Bxである。

813Bはアルテックの604ではなくなっている。

813の音は、ほんとうに聴きたかった。
瀬川先生は、「続コンポーネントステレオのすすめ」で、813についてこう書かれている。
     *
なにしろ、音がいくらでも湧き出てくるような、弾みのついた明るい響き。雄大なスケール感。まるでコダカラーのような、つまりどこか人工的な味わいであることは感じさせながらも、しかしこれはアメリカでしか作ることのできない色彩のあざやかさと豊富さ。
     *
ステレオサウンド 46号の特集の試聴記では、こう書かれている。
     *
たとえばブラームスのP協のスケールの雄大な独特な人工的な響き。アメリカのスピーカーでしか鳴らすことのできない豪華で華麗な音の饗宴。そしてラヴェル。「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」とでも言いたい、まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ。
     *
46号では、岡先生も、同じように評価されていた。

こういう良さが、813Bでは、少なくとも私は感じられなかった。
アルテックのユニットではなくなったからなのか。

UREIの813の音は、はっきりとカラリゼイションである。
しかもそのカラリゼイションは、
アルテックのユニットだからこその色づけだと感じるし、
五味先生が山中先生のリスニングルームで、ブルックナーを聴かれたことも思い出す。

Date: 10月 21st, 2021
Cate:

賞からの離脱(オーディオの殿堂・その2)

ステレオサウンドが予定している「オーディオの殿堂」は、
どういうやり方をするのだろうか──をあれこれ考えていると、けっこう楽しい。

まず投票方式はどうするのかだ。
投票用紙を兼ねるアンケートハガキをつけるのが、まず考えられる。
けれど、これでは電子ブックで購入している人が投票できなくなる。

電子ブック購入の人も投票できるように、となると、インターネット投票となるのか。
その場合、一人が何回も投票できるようにしてはまずい。
一人一回の投票のシステムをどうするのか。

うまいやり方があったとして、今度は、投票率をどれだけ高められるかである。
このことに関して書きたいことあるが、いまはまだ書かない方がいいと思っている。
ずいぶん後になったら書くつもりだが、いまのところは触れないでおく。

ただ言いたいのは、投票率を高くすることは、そう簡単ではない。
ステレオサウンドの場合、実際の選挙とは違うのだから、
投票してくれた人に景品を、ということができる。

さらに抽選で豪華賞品が当る、ということもやれる。
そうなるとメーカーや輸入元の協力が必要となってくる。

「オーディオの殿堂」は来年の企画である。
実際、どういう展開で行うのかは、いま考えているところなのかもしれない。

読者投票だけで、「オーディオの殿堂」が決定するわけでもないだろう。
その場合、以前のベストバイのように、
読者アンケートの結果は、それだけの集計結果の発表とするのだろうか。

他にも、どうするんだろうか……、と考えていることはあるが、
それよりも私が一番関心があるのは、
598のスピーカーの殿堂入りはあるのだろうか、である。

殿堂入りの条件がどうなるのかは、まったくわからない。
それでも、あの時代の598のスピーカーという存在は、
殿堂入りしてもおかしくない、というよりも、あえて殿堂入りさせるべきだと考える。

Date: 10月 20th, 2021
Cate:

色づけ(脚色と潤色)

これから先、どれほど技術が進歩しようと、
録音、再生、そして伝送の過程において、
なんらかの欠如が生じて、なんらかの色づけがなされるものである。

録音にしても、よりよい録音ばかりを聴くわけではない。
モノーラルの古い、それもかなり古い録音も聴く。
場合によっては、かなり具合の悪い録音を聴くこともある。

しかもそれらの録音は、
古い録音から新しい録音まで、いまでは百年ほどの隔たりがある。

さらに録音された場と再生の場は同じではない。
さまざまな条件が違いすぎるし、再生の場も再生する人の数だけ存在する。

音量ひとつとっても、まったく同じ音量で聴かれることなんて、まずない。

そうやって、われわれは録音された音楽を、自分だけの空間で聴いている。
しかも「音は人なり」である。

これを否定する人がいるのはわかっている。
それはそれでいい。

私とは、音楽、オーディオについて語る機会はない人だからだ。

「音は人なり」である。
結局のところ、鳴らす人の「色」が、
さらに録る人の「色」が、
再生にも録音にも生じてくる。

色づけは、ないほうがいい、とは私だってそうだ。
けれど、録音、再生、伝送の、すべての箇所に、色づけが生じる。
大きかったり小さかったり、
時にはそれが心地よかったり、耳障りだったりする。

そういった色づけを全面否定したところで、
オーディオは案外つまらなくなる。

技術の進歩は、色づけを排除していく方向であって正しい。
だからといって、それが絶対なのか、ということに疑問をもたない技術者は、
不遜な人となっていくようだ。

ふと思う。

その色づけも、脚色と潤色とがあるのではないか、と。

Date: 10月 19th, 2021
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(10月19日)

コーネッタは、中学生の頃から鳴らしてみたいスピーカーであった。
それがたまたま、思わぬ価格で入手できそうだったから、
ヤフオク!で入札して、幸運にも落札できた。

タンノイの同軸型ユニットには、フロントショートホーンが不可欠、
というのは私の持論だ。

理論的根拠は、特にない。
私が聴いたタンノイの音で、
素晴らしいと感じたのがすべてフロントショートホーン付きだったから、でしかない。

一年前にコーネッタを手に入れて、2020年12月までは、
毎月第一水曜日のaudio wednesdayで鳴らした。

今年から、私の部屋で鳴らしているわけだが、
まだ鳴らしていないディスクがある。

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーである。
デュ=プレのチェロを鳴らしたい──、そういう気持もあっての、
私にとってのコーネッタである。

いま出している音でも、ある程度の音で鳴ってくれるはず、である。
それでもまだ、という気持がある。

今日(10月19日)は、デュ=プレの命日。
一年後には、コーネッタで聴いているはずだ。

Date: 10月 18th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その20)

別項でJBLの新製品SA750のことを書いている。
今年の1月にSA750が、JBL創立75周年記念モデルとして限定発売されると発表された時は、
ここまであれこれ書くことになるとは思っていなかった。

まだ書きたいことは残っている。
どこまで書いていくのか、まだ決めていないが、
書いていけば書きたいことがさらに出てくるようにも感じている。

同時に、この項のテーマも思い出していた。
オーディオ評論家は読者の代表なのか──。

ここ十年くらいのステレオサウンドを見ていると、
オーディオ評論家は読者の代表ではない、といえる。

オーディオ評論家か読者の代表であるべきかどうか。
そのことも含めて、ここでは書いていく予定でいるが、
その前に、現状はどうなのか、といえば、上に書いているように、
読者の代表とは、私は感じていない。

自分が使っているオーディオ機器、
いいと思っているオーディオ機器を、
オーディオ雑誌で褒めてくれるオーディオ評論家は読者の代表だ、と、
そんなふうに短絡的に思える人はそれでいいけれど、
読者の代表かどうかは、そういうことで決るものではない。

その19)で、ステレオサウンド 50号での座談会、
そのなかでの瀬川先生の発番を引用している。

ここでまたくり返すが、《熱っぽく読んでもらう》ことの大事さである。
いまのステレオサウンドの読者は《熱っぽく読んで》いるのだろうか。

私は、ある時期まで《熱っぽく読んで》いた。
誰よりも《熱っぽく読んで》いた自負がある。

いまはまったくそんなふうに読めなくなってしまった。
いろんな理由が浮んでくる。

その一つが、オーディオ評論家が読者の代表ではなくなったからだろう。

Date: 10月 17th, 2021
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・番外)

ゴールドムンドのEidos 20とパイオニアのDV600のことは、
どこかで書こう、とは以前から思っていた。

思ってはいたけれど、どの項で書こうかな、とは迷っていた。
今回別項「JBL SA750」を書いていて、ここに書くことにした。

Eidos 20のベースがDV600だということがインターネットで騒がれたころ、
DV600を購入して、Eidos 20に近づけよう、という人が現れた。

同じことを、私も考えていた。
DV600を二万円を切る価格で買ってきて、徹底的に改造していく。
Eidos 20と直接比較試聴してどうこうとかではなく、
ゴールドムンドがEidos 20のベースモデルとして選ぶくらいなのだから、
かなり楽しめるだろうし、いい結果も期待できるであろう、と。

DV600の改造記のウェブサイトは、二つくらいあったように記憶している。
それらのウェブサイトを見るまでもなく、
実際にゴールドムンドのように筐体をまったく別物にする、というのは、
かなりの手間であることは、やる前からわかる。

Eidos 20の内部写真では、二枚のプリント基板はDV600そのままのように見える。
少しは手を加えていた可能性も考えられるが、
それほど手の凝んだことをやっていたわけでもないだろう。

電源トランスは違っていた。
けれどいちばん大きな違いは、やはり筐体である。

CDプレーヤーは、アナログプレーヤー以上に振動の影響を受ける。
以前、20万円ほどの国産CDプレーヤーを、廃棄寸前までいじった経験からも、
これははっきりといえる。

DV600の筐体は、ペナペナといっていい。
ゴールドムンドの筐体は、しっかりとしている。
それに仕上げがまるで違う。

Eidos 20とDV600の音を聴いたことはないが、
おそらくそうとうに違っていたと予想できる。

これを金属加工の専門家でない者がやろうとすると、かなりの手間となる。
どこかに加工を依頼することになるはずだが、けっして安くはないどころか、
そうとうに高くつくことになるはずだ。

しかも一台作って、すべてうまくいく、ということはなかなかない。
試作機を二台、三台ほど作ることになったら、かかる費用はどれだけになるのか。

それに自身の手間賃をどう捉えるか。
まったくゼロとするのか、時給換算してみるのか。

日本で二万円を切る価格で売られていたDV600をベースしたEidos 20が、
約六十倍の価格になる。

このことを、ぼったくりと言い切るのは簡単だ。
私も120万円は高いな、と思うけれど、ぼったくりか、というと、
そこまでとは思っていない。

DV600の二万円は日本での価格であって、
ゴールドムンドはパイオニアから直接購入しているわけでないのだから、
しかもヨーロッパでの価格だから、二万円ということはなかったはずだ。

それをベースに、筐体がまったく別物に仕上げられてスイスから送られてくる。
価格の違いは、そうとうに出てきても別におかしくはない。
でも、くり返すが120万円はやはり高い(とは思うが、ぼったくりではないとも思う)。

ぼったくりと主張する人はそれでもいよう。
そういう人は、自分でEidos 20に近づける工夫をやってみるといい。

Date: 10月 17th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(コメントを読んで)

(その21)へのfacebookのコメントで、
SA600の価格を現在の物価で換算すると、数百万円でしょう、とあった。

数百万円で、どのくらいの価格帯を想像するのかは人によって違ってくるだろうが、
百万円台を数百万円とする人は、ほとんどいないだろう。

私の感覚では、三百万円以上が、数百万円といったときの下限であり、
五百万円以上が、なんとなくではあるが数百万円となる。

SA600の1967年当時の、日本での価格は200,100円である。
1967年当時初任給は、検索すると26,200円だそうだ。
いまは200,000円ほどだから、単純計算では1967年当時の200,100円は、
1,500,000円を超えることになる。

ちなみにSA600が特集に登場しているステレオサウンド 3号の定価は580円である。

3号の特集に登場している国産プリメインアンプで、もっとも高価なのは、
ソニーのTA1120Aで96,000円だ。
SA600の約半分の定価である。

SA600に近い価格のアメリカ製のアンプは、
マランツのModel 7Tが160,000円、Model 15が195,000円、
マッキントッシュのC22が172,000円、MC275が274,000円、
JBLのSG520が248,000円、SE400Sが143,550円などがあった。

SA600は高価なプリメインアンプであったのは確かなのだが、
現在の物価では数百万円というふうには、まったく思えないし、感じられない。

コメントは、数百万円をアンプに出す人は、JBLのアンプを選ばないでしょう、
とも続く。

数百万円もするのであれば、私も同じ感覚だが、百数十万円ならば違ってくる。
真にSA600の現代への復活を感じさせてくれるJBLのプリメインアンプであるならば、
百数十万円を払う人は、けっして少なくないはずだ。

Date: 10月 17th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その21)

ゴールドムンドのEidos 20は、ステレオサウンドの新製品紹介記事で取り上げられている。
166号あたりだったと記憶しているが、手元にないので確認していない。

モノクロ1ページの扱いだったはずだ。
傅 信幸氏が担当されていたはずだ。

Eidos 20の中身がパイオニアのDV600であることは、
ステレオサウンドの記事の前からインターネットでは話題になっていた。

だからこそ記事では、そのへんのことをどう触れているのかは、
少なからぬ人が興味を持っていたと思う。

傅 信幸氏はまったく触れていなかったわけではないが、
あくまでもさらっとした触れ方だった、と記憶している。
少なくとも問題となるような書き方ではなかった。

ここでいう問題となる、とはクライアントから苦情がくる、という意味である。

ちなみにきいたところによると、
ゴールドムンドはパイオニアから直接DV600を購入できたわけではなかった、ようだ。
市販されたモノを購入してのEidos 20であったそうだ。

とにかくレッド・ローズ・ミュージックの件も、
ゴールドムンドの件も、オーディオ雑誌は問題というふうには取り上げなかった。

Eidos 20に関しても、記事の前に話題になってしまっていたから、
傅 信幸氏は触れざるをえなかったのではないのか。
話題になっていなかったら(発覚していなかったら)、
そのことにはまったく触れずにいたように思ってしまう。

こういうことはオーディオ雑誌にとっても、オーディオ評論家にとっても、
やっかいなことでしかない。
触れずにおくのが、いちばん楽である。

触れざるをえない場合でも、さらっと触れるだけにしておく。
説明から逃げる態度こそ、オーディオ業界で喰っていくため、とでも、
彼らは口を揃えるかもしれない。

つまり、JBLの新製品であり、
JBLの創立75周年モデルのSA750は、
こういったオーディオ業界が抱える問題点を具象化し提示したモデルといえる。

JBLというよりも、ハーマンインターナショナルという大企業は、
こういったオーディオ業界が抱えている問題をあえて指摘するために、
もしくはオーディオ業界を試すなのか。

そんなふうに思ってしまうのは、SA750が単なる新製品ではなく、
75周年モデルでもあり、SA600のオマージュモデルということが前提としてあるからだ。

SA750がオーディオ雑誌で賞をとったとしよう。
そのことをJBL(ハーマンインターナショナル)を含めて、
オーディオメーカーは、どう捉えるだろうか。

SA750は存在価値というより、そういう意味で存在意義がある、といえる。
少しでも、なにかをあぶり出してくれるのか、それともまったくなのか。

そのどちらかであってもSA750の存在意義は変らない。

Date: 10月 16th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その20)

JBLのSA750とアーカムのSA30。
十数年前のことを思い出す人も少なくないだろう。

マーク・レヴィンソンがマークレビンソンを辞め、チェロを創立。
そのチェロからも離れてレッド・ローズ・ミュージックを始める。

日本に最初に紹介されたレッド・ローズ・ミュージックの製品は、
オーディオ・プリズムの真空管アンプを、
マーク・レヴィンソンがチューンした、というモノだった。

それから数年後だったか、
レッド・ローズ・ミュージックのソリッドステートアンプも出てきた。

これが中国のDUSSUNというブランドのアンプそのままだ、
というウワサが出てきた。
アンプだけでなく、レッド・ローズ・ミュージックのスピーカーシステムも、
Aurum Cantusというブランドの製品そのままだ、というウワサもあった。

DUSSUNとAurum Cantus、どちらも中国のメーカーである。
Aurum Cantusのほうは、中国での価格がどの程度だったかは知らないが、
DUSSUNのアンプは、かなり安かった。

これらにレッド・ローズ・ミュージックのブランドがつくだけで、
けっこうな価格の製品になっていた。

マーク・レヴィンソンが、多少はチューンしていたというウワサもある。
でも、当時は、インターネットで検索してみても、
内部写真の比較ができなかったので、実際はどうだったのかはっきりとしない。

同じような例で、もっと知られているのがゴールドムンドのEidos 20の件である。
Eidos 20は百万円を超えるユニバーサルプレーヤーなのだが、その内部は、
パイオニアのユニバーサルプレーヤーDV600(実売は二万円を切っていた)である、と、
こちらも十数年前に、けっこう話題になった。

Eidos 20とDV600は内部写真が、当時でも比較できた。
まったく同じではない。
それに筐体は別物である。

レッド・ローズ・ミュージックを基準に考えると、良心的といえなくもない。

これらの件を、オーディオ雑誌はどう説明しただろうか。

Date: 10月 15th, 2021
Cate:

賞からの離脱(オーディオの殿堂・その1)

ステレオサウンド 220号の染谷編集長の編集後記に、
「オーディオの殿堂」を読者参加で企画している、といったことが書かれてあった。

これを読んで、二つのことをおもっていた。
また、賞を新たにやるのか──、というあきれからくるもの、
そして、五味先生が以前書かれていたことをやろうとしているの──、である。

「オーディオ巡礼」に収められている「ラヴェル《ダフニスとクローエ》第二組曲」、
そこに、こう書かれている。
     *
 モーリス・ラヴェルのものなら、およそ揃ってないレコードはなさそうなのである。店の名前は“Editions Durand & Cie”——もしかすれば有名な楽譜出版者ジャック・デュランの店だったかも知れないが(ディアギレフの依頼で作曲したバレー曲《ダフニスとクローエ》が、当のディアギレフの気に入らず、上演の躊躇されたとき、この曲を賛美し、ぜひ舞台にかけるよう取り計らったのが出版者デュランだったという)でもラヴェルの伝記などほとんど私は知らないし、まして対応に出てくれた品のいい爺さまが、ジャック・デュランの遺族かどうか、たずねようのないことである。店内のレコードを、あれこれ、ただ私は眺め、少なくともラヴェルに関するレコードなら、ラヴェル自身のピアノを弾いた稀覯盤は言うまでもなくステレオの今日にいたるまで、およそ市販されたいっさいのレコードが揃えられているようなのに感動したのだ。
 こういう店は、ラヴェルの育ったパリにならあってふしぎはないようなものの、たとえば鴎外や漱石の暮した東京で、その全著作を(初版本以来)揃えている書店があるだろうか? 岩波あたりになら揃っていそうにも思えるが、揃っているのは全集の底本としてで、多分、他社の出版したもの全てというわけではないだろう。本とレコードでは出版される数がちがう。すべてをそろえよという方が無理かも知れないが、しかし文化の底辺の広がり、その深さといったものを私はこのことに感じた。パリがいかに文化の都であるかという実証を見たおもいがしたのである。
 レコード店は日本の都会にならずいぶんあるだろう。有名店といわれるものも東京だけで三、四ある。だが、たとえばベートーヴェンのものであれば廃盤になったのも含め、すべて揃っているような店があるだろうか。曾てあったろうか?
 レコード屋はレコード・ライブラリでは勿論ない。売れそうな盤ばかり揃えていて結構であるし、稀覯盤に類するものは骨董品的値段がついて売られるのもやむを得ない。だが全国に一店くらいは、その店へ行けば少なくともベートーヴェンの全てのレコードは揃っている——売ってもらえずとも聴くことができる——そういう店があっていいはずなのである。ベートーヴェンでは量が厖大すぎるというなら一人の演奏家のものでもいい。パブロ・カザルス、あるいはジャック・ティボー、フルトヴェングラー……個人で、好きなそういう音楽家のレコードは可能なかぎり入手してきた愛好家はいるはずである。珍重すべきそんなレコードを多分、何枚となく秘蔵する個人はいるだろう。本来なら(個人でそうなら)商売ぬきでそういうレコードを集めているレコード店主がいておかしくないはずである。だがいたためしを私は知らない。また今となっては、集めようにも容易に全てを揃えることは不可能だろう。この不可能さに、パリと東京の、少なくともクラシカル音楽での教養の差、土壌の深さの違いといったものを痛感せざるを得ない。
 同じことがオーディオでもいえそうに思うのだ。
 レコード文化に比して、はるかにオーディオ(弱電技術によるそれ)は歴史が浅い。技術の進歩とともに——レコードとちがい——古いものは先ずクォリティもわるく今日の用をなさない。だがLPとなり、ステレオとなってからもほとんど変りばえのせぬものにスピーカー・エンクロージァがある。ユニットがある。私がタンノイ・モニター15に狂喜したのは昭和二十七年だった。JBLの15吋のウーファー(32オームという変なものだが)を使ったのは昭和三十一年。今もってこれらが音響学的に劣っているとはまったく思えないし、約四十年前のウェスターンのトーキー用スピーカーを入手したいと切望している愛好家を知っている。ウェスターンのスピーカーは今なおオーディオの先哲・池田圭先生宅で群小スピーカーを睥睨するごとき美音を響かせているそうである。
 ちっとも進歩していないのだ。
 まあウェストレックスは今日では手が出ないとしても、せめて、名器と称されたパーツ——マランツ7、マランツ9、マッキントッシュMC275、マランツ10B、エレクトロボイスのパトリシアン、デッカ・デコラ、パラゴン、クリプシュ・ホーン、スチューダーC37、アンペックス300、といったものが、そこへ行けば必ず比較試聴できるオーディオ店が一軒くらい日本にあってもよかったのではなかろうか?
 だがない。新品ならどんどん入って来、どんどん消えて行くが真に名品と世評の高かったものが揃っている店は、ない。
 そういう国で、われわれはドレガイイ、コレハワルイと御託をならべている。何と底の浅いオーディオ文化か。
 各メーカーの製品でなくてもいいのである。せめて、マッキントッシュが素晴しいと思うなら、マッキントッシュの市販したすべてのアンプを今もそろえている店が一軒くらいはなかったのか? JBLを推称するならJBLの全製品をそろえた店——少なくともその大方は店頭に並べられているような店が。
     *
《何と底の浅いオーディオ文化か》と嘆かれている。

「ラヴェル《ダフニスとクローエ》第二組曲」とステレオサウンド 36号に載っている。
36号は、1976年秋号である。
それから45年。

ようやく編集主幹であり、創刊者である原田勲氏は、
五味先生が嘆かれていたことを解消するために動き出すのか。

殿堂入りしたオーディオ機器をすべて集めて、
それらはすでに製造中止になって、そうとうに時間が経ったモノばかりとなるだろうから、
コンディションもすべて整えたうえで、
《そこへ行けば必ず比較試聴できる》場をつくる。

そう期待したいし、そうであるならば、なんと素晴らしいことだ。

ただただ読者の投票によって、殿堂入りのオーディオ機器を決める──、
そんな誰もが考えそうな底の浅い企画ではないからこそ、
事前に染谷編集長が編集後記で予告している、と信じたい。

Date: 10月 15th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その19)

(その18)へのfacebookでのコメントに、OEMのことが出てきた。
過去のオーディオ機器にもOEMだったモノはいくつかある。
それらは、当時、OEMであることが、オーディオ雑誌に載ってたりしていたのか、とあった。

私が読み始めたころは、載っていた。
隠すようなことではなかったからだろう。

OEMとは、original equipment manufacturingの略であることは知られている。
私の認識では、OEMとは開発・設計などは自社で行い、
製造を他社に依託することだ。

アンプを中心につくってきたメーカーがカートリッジを手がけようとする。
けれどまったく異る部門ゆえに、カートリッジ専門メーカーと共同で開発していく。
そして製造も、そのカートリッジ専門メーカーにまかせる。

これもOEMである。

だから何も隠すようなことではないから、
すべてではないだろうが、当時は割とオープンに知られていた。

けれどJBLのSA750はOEMなのかというと、そうではない。
すでに発売されている他社の製品をもってきて、外装のみをつくりなおしただけといえる。

少なくともステレオサウンド 220号掲載のSA750の内部写真と、
インターネットで見ることのできるアーカムのSA30の内部写真を比較すれば、
同一のアンプとしかいいようがない。

他社が開発したモノが優れていて、
自社ブランドで出すことになんのためらいのない場合、
それが他社ブランドで市場に出ていなければ、
そして独占的に自社ブランドのみで売るのであれば、それも一つのやり方とは思うが、
JBLのSA750は、そういう例でもない。

まるごとアーカムのSA30といえる内容でしかない。
アーカムとJBLは、いまでは同じハーマンインターナショナルの傘下なのだから、
こういうやり方もありなのか。

ありだよ、という見方をしたとする。
それでもSA750が、単なるJBLの新製品ということであれば、まだいい。
けれどSA750は、JBL創立75周年記念モデルである。

しかもSA600のオマージュモデルということになっている。

このことが、どうしてもひっかかる。

Date: 10月 14th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その18)

ベイシーの菅原正二氏は、JBLのSA750を購入されている。
ステレオサウンドの冬号(221号)の菅原氏の連載には、
SA750のことが登場してくるであろう。

おもしろく読めることを期待している。

菅原正二氏はオーディオ評論家ではないから、
アーカムのSA30がSA750のベースになっていることなんか、
音が良ければいい、ということになるはずだ。

そんなことにはまったく触れられてはずだし、
関心もないはずだ。

菅原正二氏の場合、それでいい。
くり返すが、菅原正二氏はオーディオ評論家ではないからだ。

説明することから逃げている──。
オーディオ評論家に感じている不満の一つが、このことだ。

Date: 10月 14th, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その8)

昨日(10月13日)から19日まで、東京の丸善本店のギャラリー(4F)で、
人・形展」が開催されている。

En氏の新作が展示されている。
人形はものを言わないし、動きもしない。
けれど、なんと多彩なのか、と人形展に行くたびに感じている。