色づけ(脚色と潤色)
これから先、どれほど技術が進歩しようと、
録音、再生、そして伝送の過程において、
なんらかの欠如が生じて、なんらかの色づけがなされるものである。
録音にしても、よりよい録音ばかりを聴くわけではない。
モノーラルの古い、それもかなり古い録音も聴く。
場合によっては、かなり具合の悪い録音を聴くこともある。
しかもそれらの録音は、
古い録音から新しい録音まで、いまでは百年ほどの隔たりがある。
さらに録音された場と再生の場は同じではない。
さまざまな条件が違いすぎるし、再生の場も再生する人の数だけ存在する。
音量ひとつとっても、まったく同じ音量で聴かれることなんて、まずない。
そうやって、われわれは録音された音楽を、自分だけの空間で聴いている。
しかも「音は人なり」である。
これを否定する人がいるのはわかっている。
それはそれでいい。
私とは、音楽、オーディオについて語る機会はない人だからだ。
「音は人なり」である。
結局のところ、鳴らす人の「色」が、
さらに録る人の「色」が、
再生にも録音にも生じてくる。
色づけは、ないほうがいい、とは私だってそうだ。
けれど、録音、再生、伝送の、すべての箇所に、色づけが生じる。
大きかったり小さかったり、
時にはそれが心地よかったり、耳障りだったりする。
そういった色づけを全面否定したところで、
オーディオは案外つまらなくなる。
技術の進歩は、色づけを排除していく方向であって正しい。
だからといって、それが絶対なのか、ということに疑問をもたない技術者は、
不遜な人となっていくようだ。
ふと思う。
その色づけも、脚色と潤色とがあるのではないか、と。