二度目の「20年」(ライバルのこと・その3)
オーディオにおいてのライバルとは、
結論めいたことを先に書けば、互いの音を糧とする(できる)の間柄のはずだ。
片方だけが相手の音を糧に、という間柄ではライバルとはいえないわけで、
あくまでも互いの音を、ということが大事なことだ。
私が「ライバルがいなかった」というのは、このことがとても大きいからだ。
オーディオにおいてのライバルとは、
結論めいたことを先に書けば、互いの音を糧とする(できる)の間柄のはずだ。
片方だけが相手の音を糧に、という間柄ではライバルとはいえないわけで、
あくまでも互いの音を、ということが大事なことだ。
私が「ライバルがいなかった」というのは、このことがとても大きいからだ。
CR方法は、スピーカーに関していえば、
ウーファー、スコーカー、トゥイーターすべての帯域のユニットに試しているし、
コーン型、ドーム型、ホーン型にもやってきた。
いずれの場合にも、効果ははっきりとある。
スピーカーユニットの型式で試していないのは、AMT型(ハイルドライバー)である。
ボビンにコイルが巻かれているタイプではない。
私がこれまでやってきたのは、いわゆるコイルに対して、である。
スピーカーのボイスコイル、ネットワークのコイル、トランスの巻線などである。
AMT型ユニットのボイスコイルに相当する箇所は、いわゆるパターンである。
これまでやってきたスピーカーユニットと同じような効果があるのか、
それともあまり効果なしなのか。
いますぐというわけにはいかないが、いずれやってみよう。
アルテックの604-8Gを、サブバッフル+三本の角柱で固定する。
これでしっかりと自立する。
このサブバッフルに、平面バッフルを取り付けるかっこうになるわけだ。
バッフルのサイズ、材質は、予算、スペースに応じて変更できる。
最初はそれこそ強化ダンボールでかまわない。
さほど高価なわけではないから、サイズの検討もやりやすい。
1m×1mぐらいから始めてもいいし、
いきなり部屋におさまる最大サイズをやってみるのもいいだろう。
ダンボールだから、大きすぎた、と感じたら処分も簡単だ。
それにバッフルそのものにユニットを取り付けるわけではないから、
バッフルにユニットの荷重がかからない。
これは平面バッフルのバッフルそのものの響きをよくするうえでは、
いい方向に働く、と思っていい。
604-8Gは15kgほどの重量がある。
これを平面バッフルだけで支えるとなると、
バッフルへのストレスとなると考えられる。
それをサブバッフルと三本の角柱で支えることで、
サブバッフルと平面(メイン)バッフルとは、機械的にしっかりと結合しなくてもすむ。
このメリットは大きい。
強化ダンボールである程度の手応えを感じたら、
好ましいと思う材質に変更してもいい。
タワーレコードから届いた新譜案内のメール。
そこに、フリードリッヒ・グルダの「デッカ録音全集」があった。
41枚のCDとBlu-Ray Audioで、7月下旬に出る。
192kHz、24ビットでのリマスターということだ。
Blu-Ray Audioで聴けるのは、
ホルスト・シュタイン/ウィーンフィルハーモニーとのベートーヴェンである。
それ以外は、44.1kHz、16ビットになるわけだが、
おそらくe-onkyo、TIDALでも扱うことになる、と思っている。
すべてが、となるのかどうかはなんともいえないが、
私としてはベートーヴェンのピアノソナタが、
192kHz、24ビットのMQAで聴けるようになれば、それでそうとうに満足できる。
その日がおとずれるのが、待ち遠しい。
一年半ほど前の記事を思い出していた。
タイトルは『「音楽は世界共通の言葉」という通説が間違っていた可能性』である。
詳細はリンク先を読んでほしい。
最後のところだけ引用しておく。
*
しかし、チマネ族が使う楽器の音の上限は4000Hzよりもかなり低いものが多いにもかかわらず、チマネ族も西洋人と同様に約4000Hzまでは正確に聞き取れた一方で、それ以上になると音の違いが分からなくなってしまったとのこと。
この結果についてマクダーモット氏は「音が4000Hzを超えると、脳のニューロンの反応性が低下し、音の違いを判別することが困難になるのではないでしょうか」との推論を述べて、人間の音感の限界は文化ではなく生物学的な制限に起因したものだとの見方を示しました。
*
推論であり、記事のタイトルにも《間違っていた可能性》とあるから、
数年後、十年後には、また別の推論が登場し、否定される可能性もある。
けれど、《音が4000Hzを超えると、脳のニューロンの反応性が低下》するというのは、
ひじょうに興味深い。
4000Hzは4kHz。
ここで述べてきているJBLのD130のトータルエネルギー・レスポンスで、
ほぼフラット帯域の上限が4kHzである。
4kHz以上の高域が不要とか、それほど重視しなくてもいい、といいたいわけではなく、
4kHzまでの帯域、40万の法則に従うなら100Hzから4kHzまでの帯域を、
きっちりとすることが、実のところ、想像以上に大事なことではないか──、
そういいたいのである。
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」といった知人宅では、
児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンは、ベートーヴェンの音楽ですらなかった。
菅野先生は、この二人のベートーヴェンを、けっこう大きめの音量でかけられた。
知人宅では、まず音量もあがらない。
もちろん、ボリュウムのツマミを時計回りに廻せば、音量はあがる。
けれど、しなびた音は、どこまでいってもしなびた音でしかない。
不思議なもので、まったく音量が増したように感じられないのだ。
赤塚りえ子さんのところでは、どう鳴ったのか、というと、
厳しいところを感じたりもしたけれど、少なくとも私の耳にはベートーヴェンの音楽であった。
知人宅のシステムは、赤塚さんのシステムよりも、
ずっと大型で、マルチアンプで規模も大がかりだった。
いろいろと音をいじってもあった。
本人いわくチューニングの結果としての音である。
知人宅のシステムも、もっとストレートに鳴らしていれば、
ここまで破綻することはなかったはずなのに、と思うけれど、
本人は「瀬川先生の音を彷彿させる」ほどの音に聴こえているわけだから、
その世界に閉じ籠もったままで、シアワセなのだろう。
私にはまったく関係ない、興味ない世界でしかない。
私は、ベートーヴェンの曲をかける時は、ベートーヴェンの音楽を聴きたい。
もっといえば、ベートーヴェンという花を咲かせたい。
ベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音の構築物である。
まさしく児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そうだった。
菅野先生のところで聴いた音は、そうだった。
それには、あの音量が必要不可欠のように思われる。
私のところでは、その必要な音量で、いまのところ鳴らせない。
赤塚さんのところは違う。
だから、この二人のベートーヴェンを聴いてみたい気になったのだろうし、
本筋は外していないだけに、これからチューニングをやっていけば──、
という可能性も感じていた。
ステレオサウンド 219号は、ちょっとだけ楽しみにしていた。
JBLのSA750の記事を読める、と思っていたからだ。
けれど発売日前に、友人のKさんが、
私が期待している記事は載っていないことを知らせてくれた。
219号にSA750は、一応載っている。
424ページに、編集部原稿で、簡単な紹介記事が載っているだけである。
アメリカでは1月に発表になっていた。
日本でも4月ごろには発表された。
記事には、2021年初夏から受付開始とある。
発売されるのは8月とか9月くらいになるのだろうか。
それにしても、なぜこんなに発売が遅れているのか。
1月の発表とともに、
SA750は、同じハーマン傘下のアーカムのSA30をベースにしている(はず)と、
ソーシャルメディアで少し話題になっていた。
スペック的には確かに同じといわれてもしかたないほどだ。
リアパネルの写真を比較すると、これまた同じことがいえる。
アーカムのSA30がベースでも、そっくりそのまま出してくることはない、とは思っている。
そのための時間が必要なのかもしれない──、
と219号の記事を読むまでは思っていた。
写真の説明文にこうある。
《この写真はCG画像で実際の製品とは細部が異なります。》
ということは、リアパネルの写真もCG画像なのか。
1月発表の段階で、プロトタイプは存在していなかったのか。
9月発売の220号には、載るであろう。
どんなふうに仕上げてくるのか。
もしかすると220号の表紙はSA750なのかもしれない。
audio wednesdayでは、たしか二回かけている。
でもそれ以外では、聴いていない。
先日、ひさしぶりに聴いた。
赤塚りえ子さんのところで聴いた。
セッティングがあらかた終って、あれこれ聴きたい曲を聴いていた。
6月2日は、赤塚さん、私のほかに野上さん、それともう一人、四人いた。
TIDALとroonがあるから、それぞれのiPhoneで選曲して鳴らせる。
そんなふうに、それぞれが聴いてみたい曲をかけていた。
私もいくつかの曲を聴いた。
そしてバーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーのマーラーの五番を聴いた。
前々回でも聴いている。
これを聴いていたら、
ふと児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンがどう鳴ってくれるのか、
という興味が沸き起ってきた。
TIDALに、この二人のベートーヴェンはある。
聴きたいと思った時に、手元にディスクがなくとも聴ける時代になっている。
私にとって、この二人のベートーヴェンの音は、
菅野先生のところで聴いた音であり、
このベートーヴェンが、菅野先生のところできいた最後の音であり、音楽である。
宿題としての一枚といえるディスクは、一枚だけではない。
それでも(その1)でふれた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題のような一枚である。
十年ちょっと前、
ある知人宅でかけてもらったことがある。
その知人は、別項で書いているように、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った男だ。
このCDを手に入れて、そう経っていなかった。
だからこそ、知人宅で、どんなふうに鳴ってくれるのか、興味もあった。
けれど、知人がかけた数枚のCDを聴いているうちに、
うまく鳴ってくれないだろうことは十分予想できた。
それでも持参したCDだし、うまく鳴らないとわかっていても、
どんなふうにうまく鳴らないのかには興味があった。
鳴ってきた音は、予想以上にひからびたような音だった。
生気もない音は,逆に、どうしたら、これだけのシステムでこういう音が出せるのか、
その秘訣をききたいものだ、と思うほどだった。
それでも知人は満足していたようだった。
知人の音の好みは知っていた、知っているつもりだった。
それでも、ここまでひどい音を出す男ではなかった。
なのに、現実は、瀬川先生の音を彷彿させる音とは、まったくかけはなれていた。
菅野先生は、児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」といって聴かせてくれた。
知人の音は、ベートーヴェンの音ではなかった。
知人の音を聴いたのは、これが最後である。
それ以来、誰かのリスニングルームで聴くことはしなくなった。
昨年12月、別項「2020年をふりかえって」で、
ステレオサウンド 217号の表紙がひどい、と書いた。
いま219号が書店に並んでいる。
手に取ることはしていないが、その表紙を見て、おっ、とおもった。
いままでのステレオサウンド表紙とは、違ってきているからだ。
手放しで褒めたくなるほどではないが、
217号の表紙からすれば、ずいぶんとよくなってきた。
217号の表紙がひどすぎた、ともいえるのだが、
それでも、今後のステレオサウンドは、いままでの表紙とは違う路線で行くのかと、
少しは期待している。
それでも一言だけいわせてもらうならば、季節感がそこにはない。
ない、というよりも無視している、と感じた。
219号は夏号である。
私は219号の表紙をみて、秋号? と感じていた。
家具の選択、背景の選択などで、夏号らしいの印象は実現できたはずだ。
もう、そんなことを、いまの編集部は考えもしないのか。
この項を書いていると、以前書いたことをまた書きたくなってくる。
いまから十年ほど前のステレオサウンドに、短期連載で、
ファインチューニングとつけられた記事が載っていた。
その記事の内容そのもののことではなく、
あくまでもタイトルのことである。
チューニングとついている。
けれど、記事の内容は、どこまでもセッティングである。
ファインセッティングというタイトルだったら、わかる。
けれどファインチューニングである。
誰がつけたタイトルなのだろうか。
担当編集者なのか。
一般的にはそうである。
だとしたら、この記事の担当編集者は、
セッティングとチューニングの違いがわかっていない、というよりも、
違いがあるとも思っていないのだろう。
この担当編集者は、井上先生の試聴に立ち合ったことがないのだろうか。
ないのであれば、しかたないかも……、と思わなくもないが、
それでも十年ほど前に、ステレオサウンドに井上先生の試聴に立ち合った人は、
もういなかったのか。
一人ぐらいはいたように思うのだが。
いたとしても、その人も結局はセッティングとチューニングの違いなんて、
考えたことがなかったのだろう。
考えていたとして、ファインチューニングのタイトルに、何の疑問を抱かなかったとしたら、
井上先生の試聴から何も学んでいなかった。
アンプの純度といえば、それは音の透明感ということになるだろう。
純度の高い音のアンプ、
そんな表現を見て、ほとんどの人が、透明度の高い音をおもい浮べるはず。
オーディオマニアとしての純度は、
そういう透明度ではない、と私は思いつつ、この項を書いている。
別項で書いている透明と澄明の違いにも似ている。
アンプの音の透明度は、まさしく透明であり、
オーディオマニアとしての純度とは、透明ではなく澄明である。
透明度の高さとは、そこから夾雑物、不純物を徹底して取り除いた結果としての透明度である。
澄明は、そういうことではない。
《フルトヴェングラーは矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった。音楽においてのみ、彼は首尾一貫し、円満で調和がとれ、非凡であった》と冷徹な観察をしているのは、フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのあるグレゴール・ピアティゴルスキーである(『チェロとわたし』白水社刊より)。
澄明とは、ピアティゴルスキーが語っていることである。
相反するもの、矛盾するもの、清も濁も、
そういったものが円満で調和がとれてこその澄明である。
音楽の聴き方は人それぞれだから、そんなことはない、という人もいるだろうが、
透明な音ではマーラーの音楽は、鳴ってこない。
マーラーに限らない、ベートーヴェンの音楽もワーグナーの音楽も、
そしてモーツァルトの音楽も、澄明な音だからこそ鳴ってくる。
オーディオマニアとしての純度とは、そういうもののはずだ。
昨日は6月2日、水曜日である。
喫茶茶会記とともにaudio wednesdayも、2020年いっぱいで、
最初の十年は終ってしまった。
もし喫茶茶会記がいまもあったなら、第一水曜日はaudio wednesdayである。
だからというわけではないのだが、
別項「セッティングとチューニングの境界(その24)」で書いているように、
赤塚りえ子さんのところに行っていた。
赤塚さんのところに向う電車のなかで、facebookを見ていた。
facebookには、過去の出来事を思い出させる機能がある。
一年前の6月2日のことが表示されていた。
2020年6月2日も、赤塚さんのところに行っていた。
赤塚さんのメリディアンの218(二台)、野上さんのが一台、私のが一台、
計四台の218をテーブルの上に集合させて撮影したりしていた。
一年前だったのか、今日も先週と同じように水曜日、audio wednesdayだな、
そんな偶然に少し驚きながら赤塚さんのところに到着。
今回もLANケーブルを持参した。
一週間前との同じケーブルである。
前回はネットギアのNighthawk Pro Gaming SX10とメリディアンの218間、
今回はNighthawk Pro Gaming SX10とroonのNucleus間を交換。
それから218の電源コードを交換。
218にも、さらにちょっとだけ手を加えている。
それからサブウーファーもあれこれやった。
音が全体的に澄んできた。
ちょうど一年間、セッティングをやってきた。
楽しい一年間だったし、Nucleusの実力も知ることができた。
218を、version 9にしておいてよかった、とも実感していた。
1970年代、80年代、オーレックスのコントロールのアンプの型番にはSYがついていた。
SY77、SY88、SY-Λ88、SY99といったぐあいにだ。
スピーカーシステムはSSではじまり、
プリメインアンプはSB、パワーアンプはSC、チューナーはST、
エレクトリックデヴァイダーはSD、アナログプレーヤーはSR、カートリッジはC、
カセットデッキはPC、であった。
SS、ST、SD、SRはなんとなくわかる。
SSはStereo Speaker、STはStereo Tunerだろうし、
SDはStereo Divider、SRはStereo Recordなのだろう。
Sはstereoだろうし、soundなのだろうとも思っていた。
わからないのはアンプである。
プリメインアンプのSBのBはBasicなのかと思う。
まったくわからないのはSYとSCである。
なぜコントロールアンプがSYなのか。
Yで始まる単語をあれこれ思い浮べても、ぴったりくるものがない。
SYに、特に意味はないのか。
先日、Yの字をみていてひらめいた。
アルファベットのYとしてみているから気がつかなかったのだが、
Yというアルファベットの形は、そのままコントロールアンプの役割の一つを表わしている。
カートリッジからの信号、チューナー、テープデッキからの信号などを扱う。
入力は複数ある。それらを選択して音量などを操作して出力する。
Yの上半分は入力、下半分は出力を表わしている。
そんなふうにみれば、SYなのに納得がいく。
先週に引き続き、今日もまた赤塚りえ子さんのところに行っていた。
このブログの最初のころから、
使いこなしとは、セッティング、チューニング、エージングからなっていて、
これらを混同しないようにすべきだ、と書いている。
オーディオには三つのingがあり、くり返しなるが、
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
この三つのingの割合は、その時によって違ってくる。
いま赤塚さんのところでやっているのは、セッティングである。
チューニングといえることは、あえてやっていない。
先週、ほんのわずかだけチューニングといえることをやったが、
それは私自身の確認のためにやったことであって、ほぼすべてセッティングをやっている。
エージングに関しては、私がタッチすることではない。
赤塚さんのシステムなのだから、
赤塚さんが聴きたい音楽を、聴きたい時間に、聴きたい音量で聴く。
これだけである。
この領域を、他の人にまかせてしまっては、
もう、そのシステムは、その人のものではなくなる、といってもいいだろう。
私にできるのは、セッティングとチューニングであり、
チューニングは、セッティングとエージングがあるレベルまで進んでからとなる。