宿題としての一枚(その4)
宿題としての一枚といえるディスクは、一枚だけではない。
それでも(その1)でふれた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題のような一枚である。
十年ちょっと前、
ある知人宅でかけてもらったことがある。
その知人は、別項で書いているように、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った男だ。
このCDを手に入れて、そう経っていなかった。
だからこそ、知人宅で、どんなふうに鳴ってくれるのか、興味もあった。
けれど、知人がかけた数枚のCDを聴いているうちに、
うまく鳴ってくれないだろうことは十分予想できた。
それでも持参したCDだし、うまく鳴らないとわかっていても、
どんなふうにうまく鳴らないのかには興味があった。
鳴ってきた音は、予想以上にひからびたような音だった。
生気もない音は,逆に、どうしたら、これだけのシステムでこういう音が出せるのか、
その秘訣をききたいものだ、と思うほどだった。
それでも知人は満足していたようだった。
知人の音の好みは知っていた、知っているつもりだった。
それでも、ここまでひどい音を出す男ではなかった。
なのに、現実は、瀬川先生の音を彷彿させる音とは、まったくかけはなれていた。
菅野先生は、児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」といって聴かせてくれた。
知人の音は、ベートーヴェンの音ではなかった。
知人の音を聴いたのは、これが最後である。
それ以来、誰かのリスニングルームで聴くことはしなくなった。