宿題としての一枚(その6)
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」といった知人宅では、
児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンは、ベートーヴェンの音楽ですらなかった。
菅野先生は、この二人のベートーヴェンを、けっこう大きめの音量でかけられた。
知人宅では、まず音量もあがらない。
もちろん、ボリュウムのツマミを時計回りに廻せば、音量はあがる。
けれど、しなびた音は、どこまでいってもしなびた音でしかない。
不思議なもので、まったく音量が増したように感じられないのだ。
赤塚りえ子さんのところでは、どう鳴ったのか、というと、
厳しいところを感じたりもしたけれど、少なくとも私の耳にはベートーヴェンの音楽であった。
知人宅のシステムは、赤塚さんのシステムよりも、
ずっと大型で、マルチアンプで規模も大がかりだった。
いろいろと音をいじってもあった。
本人いわくチューニングの結果としての音である。
知人宅のシステムも、もっとストレートに鳴らしていれば、
ここまで破綻することはなかったはずなのに、と思うけれど、
本人は「瀬川先生の音を彷彿させる」ほどの音に聴こえているわけだから、
その世界に閉じ籠もったままで、シアワセなのだろう。
私にはまったく関係ない、興味ない世界でしかない。
私は、ベートーヴェンの曲をかける時は、ベートーヴェンの音楽を聴きたい。
もっといえば、ベートーヴェンという花を咲かせたい。
ベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音の構築物である。
まさしく児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そうだった。
菅野先生のところで聴いた音は、そうだった。
それには、あの音量が必要不可欠のように思われる。
私のところでは、その必要な音量で、いまのところ鳴らせない。
赤塚さんのところは違う。
だから、この二人のベートーヴェンを聴いてみたい気になったのだろうし、
本筋は外していないだけに、これからチューニングをやっていけば──、
という可能性も感じていた。