Archive for 5月, 2021

Date: 5月 10th, 2021
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その13)

一年ほど前だったか、ソーシャルメディアに、こんなことがあったのを憶えている。

新しいスピーカーを導入して一年。
その一年間に、いろいろなことをやってきた。
使いこなしと呼ばれることをやってきたおかげで、ずいぶんといい音になってきた──、
そんなことが、そこには書いてあった。

これだけだったら、ここで取り上げたりはしない。
続けて、《自分の音が進化した》とあった。

進歩したではなく、進化した、とあった。
すごいことを書けるものだなぁ、と思った。

この人だけなのか、
それともいまでは、自分の音を進化した、と何の気なしに書けるものなのだろうか。

進歩と進化は、音の世界ではそうとうに違うことだ。
進化は、文字通り「化ける」。

またか、といわれそうだが、「音は人なり」である。
そして別項で書いているように「人は音なり」でもある。

私はそう考えているから、自身の音がほんとうに進化したのであれば、
それを鳴らしている人も進化していなければ、おかしい。

音だけが進化するなんてことはありえない。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その1)

TIDALを半年使っていて感じているのは、TIDALは大型書店のようだ、ということ。
いうまでもなくTIDALは音楽のストリーミングである。

だったら大型のレコード店なのでは? となりそうだが、
私の感覚としては大型の書店に近い。

大型の書店も大型のレコード店も、
そこには大量の本、レコード(録音物)がある(売られている)。

書店は、そこで売られているモノ(本)を手にとって、
内容をおおまかにではあるが確認できる。
いわゆる立ち読みによって、だ。

レコード店は、というと、CDがメインになってからは、
CDチェンジャーが置かれるようになった。
それでスタッフのオススメの何枚かは試聴できるようになったけれど、
あくまでも、試聴できるのは全体の1%にも満たない。
せいぜい十数枚程度である。

そのことに不満はなかった。
なかったけれど、いまTIDALを使うようになって、
気になるレコード(録音物)を、とにかく聴けるようになった。

一分程度聴く場合もあれば、一曲聴くこともあるし、
アルバムを終りまで、ということもある。

店ということで、書店とレコード店というふうにしたけれど、
大型の書店というよりも、大規模な図書館のほうが、イメージとしてはさらに近くなる。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: 中点

中点(消失点・その3)

われわれオーディオマニアは、なぜいじるのか。

アンプを替え、プレーヤーを替え、ときにはスピーカーすら替える。
こういった大きなところだけでなく、
ケーブルやアクセサリー類といったこまかなところもかえる。

さらにスピーカーの置き位置もミリ単位で調整していく。
やれることはそこかしこにあって、きりがないほどだ。

こんなことを飽きずに長年やっているのは、いい音を求めているからである。
けれど、それだけだろうか。

何かを探るためにやっているのではないだろうか。

昨晩の(その2)で書いているラジカセ程度の理想のオーディオ機器では、
そんなことはできない。

置いて鳴らすだけで、必ず、いつも同じで、いい音が完璧に鳴ってくるのだから、
そこに聴き手が使い手になる余地はまったく存在しない。

つまり何も探れない。
結果としての「いい音」だけである。

その結果は、必ずしも答ではない。
答としての「いい音」ではないわけだ。

結果も答も、自らの手によってなされたものであるならば、それでいいのだが、
ここでの結果としての「いい音」は、誰かの手によってなされたものであって、
自身の手によってなされた要素は、微塵もないだから、答としての「いい音」ではない。

そして、もうひとつ。
問いとしての「いい音」。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: 訃報

ロジャー・ラッセル氏のこと

古くからの友人であり、オーディオマニアであるKさんから、
Roger Russell氏が亡くなった、という連絡があった。

ロジャー・ラッセルの名前をきいて、
誰だっけ? という人がいまでも多いかもしれない。

マッキントッシュのXRTシリーズの産みの親といえる人物である。
彼自身のウェブサイトを参照してほしい。

“Stereo Speaker System for Creating Stereo Images”という内容で、
特許を取得している。
XRT20のことである。

菅野先生は、「音[オーディオ]の世紀(ステレオサウンド別冊・2000年秋発行)」で、
《1958年の45/45ステレオレコードの発売を契機として、当時の、たんにモノーラルスピーカーシステムを2台並べてステレオを聴く状況にたいする、疑問と不満を発想の原点として開発がスタートして以来、じつに、20年かけたステレオフォニックスピーカーシステムの完成であった》
と書かれている。

別項でビバリッジのスピーカーのことを書き始めた。
シリンドリカルウェーヴについて、書こうかな、と考えていたところに、
ロジャー・ラッセル氏の訃報。

正確なピストニックモーションの実現が、
ステレオフォニックスピーカーシステムの実現へとつながっていくとは限らない。

オーディオの技術とは、決して無機的なものではなく、有機的なものだ、ということを、
ロジャー・ラッセル氏の功績をふり返ってみると、改めて実感する。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

クルレンツィスのベートーヴェン(その3)

アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団によるベートーヴェンが出たのは、
いまからほぼ二十年ほど前のこと。

私がアーノンクールの、このベートーヴェンを聴いたのは、
発売後けっこう時間が経ってからだった。
それも吉田秀和氏の文章を読んだのがきっかけになっている。
     *
 しかし、アーノンクールできくと、もう一度、当初の目印“madness”が戻ってくる。それに、第二楽章のあの重く深い憂鬱、悲嘆を合せてみると──いや、この演奏を論じて、第三楽章スケルツォで随所にはさまれた例の「吐息」のモティーフに与えられたpppの鮮やかな効果、あるいは主要部とトリオの対比の見事さといったものも、全くふれずに終るわけにはいかない──、これは、フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏であり、その新しさは、ベ日トーヴェンの音楽のもつ原初的なすさまじさ、常軌を逸したもの、ドストエフスキーやムソルグスキーやニーチェを含む十九世紀の人たちだったら「神聖な狂気」と呼んだであろうような重大な性格を、もう一度、音にしてみせた点にあるといっていいだろう。くり返すが、これはモーツァルトの音楽とは全く違うものだ。
     *
吉田秀和氏の、この文章は、河出文庫「ベートーヴェン」で読める。

これを読んだからこそ、アーノンクールのベートーヴェンを聴きたくなった。
読んでいなければ、いまも聴いていないかもしれない。

吉田秀和氏の文章は、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団による七番を聴いてのものだ。

ベートーヴェンの七番は、カルロス・クライバーの素晴らしい演奏がある。
他にも、いい演奏はある。

それでも《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》といえるのは、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団だと、聴くと納得する。

フルトヴェングラーからアーノンクールまでに録音された七番のすべてを聴いているわけではない。
七番は好きだから、かなりの数聴いているつもりでも、
吉田秀和氏が聴かれた数からすれば、私の聴いてきたのはわずかといっていい。

その吉田秀和氏が《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれている。

ベートーヴェンの交響曲は、特に三番以降は、それまでの交響曲とはまったく違う。
モーツァルトの音楽とも全く違うものなのは、
アーノンクールの演奏を聴かずとも、ベートーヴェンの音楽を聴いてきた人ならばわかっている。

フルトヴェングラーの演奏が、そのことを明らかにした、ともいえる。
だから《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれているのだろう。

クルレンツィスの七番は、その意味では私は「新しい」とは感じなかった。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: 中点

中点(消失点・その2)

たとえば、こんなことを想像してみる。
ラジカセぐらいの大きさのモノで、
これ一台で、素晴らしい音を鳴らしてくれる。

サイズはラジカセ程度なのに、音の左右への広がりは大きく、
奥行きも見事に再現する。

すべての音をあますところなく、本来あるべき姿で鳴らす。

しかも、このキカイの優れているところは、どんな使い方をしようと、
常に最高の音を鳴らすことちだ。

高価なラックの上に置くことはないし、
ラジカセのように完全な一体型だから、ケーブルも必要としない。
高価なアクセサリーを何ひとつ必要としない。

電源に関しても、高性能なバッテリー搭載で、
AC電源の質に頭を悩ますこともまったくない。

そんな理想のオーディオ機器があったとしよう。

その一方で、現在のカタチのオーディオ機器がある。
プレーヤーがあって、アンプがあって、スピーカーが必要となる。
しかもケーブルも必要で、ほとんどの機種がAC電源を必要とする。

置き方ひとつで、音が変化する。
ケーブルを変えれば、音は変る。
アクセサリーをもってくれば、そのことでも音は変る。

変らないところがないくらいに、どんなこまかなことでも音は変っていく。
音楽を聴くキカイとしては、不完全といえよう。

ラジカセ程度の大きさで、理想のオーディオ機器と、
いまわれわれが使っている、いわば不完全なオーディオ機器で音楽を聴いて、
前者の、理想のオーディオ機器では視えてこない(聴こえてこない)ことがあるはずだ。

前者が聴かせるのは、モノゴトの結果だけであるからだ。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(白黒つけたがる人たち・その2)

MQAを全否定する人は、きっと白黒つけたがる人なのだろう。
MQAのことだけではない、
何に関しても白黒つけたがる人は、そのことでひとり納得するのだろうか。

納得するほうが、ずっとラクである。
けれど、多くはひとり納得なのではないだろうか。

白黒つけることは、区別をはっきりとつけることであるだけでなく、
片方を全否定することにもつながっていく。
その結果、生じるのが摩擦であり、さらには対立へと変っていく。

摩擦、対立が何を生むと、白黒つけたがる人たちは考えているのだろうか。

考えたくない、考え続けたくない──、
そういう人こそが白黒つけたがる人のように思えてならない。

Date: 5月 7th, 2021
Cate: ヘッドフォン

Beveridge Audioのこと(その4)

ビバリッジのスピーカーのことを思い出すたびに、わいてくる疑問が一つある。
ステレオサウンドの試聴室のことだ。

50号の新製品紹介記事で、ビバリッジは登場している。
このころの試聴室と私が働いていたころの試聴室は同じである。

六本木にあったころの試聴室は、その後の試聴室とは違う。
木の壁が二面、ガラス窓のある壁が一面、レコード棚の壁が一面である。

ビバリッジのスピーカーシステムが要求する対向する壁への設置、
ステレオサウンドの試聴室では左右で条件が揃わなくなる。

長辺の壁二面に設置した場合、木の壁とガラス窓のある壁とになる。
短辺の壁二面だと、木の壁とレコード棚のある壁とになる。

どちらの壁に設置したのだろうか。
そのあたりのことは50号の記事にはなかった。
もしかすると、輸入元の試聴室で聴いたのかもしれない。

ビバリッジのスピーカーシステムの、日本での知名度は低い。
私はステレオサウンドを読んできていたので知っているが、
それでも実物をみたことはない。

当時の販売店の広告にも登場していたので、
一部の販売店では高く評価されていたのかもしれない。
けれど、だからといって売れたのかは、別の問題だろう。

対向する二面の壁を必要とするのは、導入においてけっこうやっかいなことでもある。
専用リスニングルームであれば問題はなかったりするだろうが、
そうでなければなかなか対向する二面の壁、
それも左右で条件を同じにしようとするのであれば、大変なことだろう。

理想をいえば、しっかりした壁で、設置する壁にはビバリッジのスピーカー以外は置きたくない。
ビバリッジのシリンドリカルウェーヴの考慮すれば、
出来るだけ広い壁、つまり大きい平面バッフルを用意するようなものだ。

ビバリッジが謳うように、シリンドリカルウェーヴがきれいに、
その波面がひろがっていくのであれば、
そういうふうにしたいとなるのがオーディオマニアの心情だろう。

Date: 5月 6th, 2021
Cate: ヘッドフォン

Beveridge Audioのこと(その3)

その1)へのfacebookでのコメントに、こう書いてあった。

ソニーの盛田昭夫氏が、ビバリッジの開発者のHarold Beveridgeの自宅で、
その音を聴いて驚嘆し、販売製造権を買い取ろうとしたが、話はまとまらなかった──、と。

こんなことがあったとはまったく知らなかった。
ビバリッジは1974年創立である。
いつごろの話なのだろうか。

この話を読んで、1996年ごろにソニーがSS-R10を発表したことを思い出していた。
ペアで300万円するコンデンサー型スピーカーシステムである。

三年前の別項でも、唐突に登場してきた感がある、と書いた。
コンデンサー型マイクロフォンは長年手がけてきていても、
それまでのソニーのスピーカーの流れからすれば、SS-R10は唐突であった。

けれど盛田氏とビバリッジの、このエピソードを知っていれば、
それは唐突でもなんでもなかったことになる。

三年前の別項では、こんなことも書いている。

ステレオサウンド 5号、瀬川先生の「スピーカーシステムの選び方まとめ方」、
その中に、こう書いてあった。
     *
 コンデンサー型スピーカーについては、中〜高域の透明な美しさにくらべて、低音域の厚みが不足したり、力強さがないなどという意見がよく聞かれる。その当否は別として、QUADのスピーカーを中域から上で使うようにして、低域をふつうのコーン型のウーファーに分担させるという、ソニーの大賀氏のアイデアを実際に聴かせて頂いて仲々よい音質だったので、使いこなしのひとつのヒントとしてご紹介させて頂く。
     *
聴かせて頂いて、とあるから、大賀典雄氏のシステムだったのだろう。
つまり大賀氏は、この時期(1967年ごろ)、QUADのESLを鳴らされていたことになる。

三年前は、大賀氏とコンデンサー型スピーカーとが結びついたわけだが、
盛田氏もそうたったのか。

同じコンデンサー型スピーカーといっても、
QUADのESLとビバリッジのシステムとでは、構成も規模も使い方もずいぶん違う。
そして放射パターンが大きく違う。

そうであっても、共通するよさはあるわけで、
そこにビバリッジの場合は、独特の放射パターンによる再生音場が加わる。

もっと詳しいことを知りたいところだが、
盛田氏も大賀氏も、この世を去られている。

Date: 5月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(余談)

e-onkyoのサイトでは、
ジャンル関係なしのアルバムランキングとシングルランキング、
ジャンル別のアルバムランキングとシングルランキングが載っている。

クラシックの、今日現在のシングルランキングの五位に、
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”が入っている。

どれだけ売れての五位なのかまだはわからない。
そう多くはないのかもしれないが、この結果は嬉しい。

Date: 5月 5th, 2021
Cate: ヘッドフォン

Beveridge Audioのこと(その2)

ビバリッジは、私がステレオサウンドで働きはじめたころには、
輸入元のカタログには載っていたのだろうが、輸入されていなかったに近い。

だからステレオサウンドでも聴くことはなかった。
なのでとっくに解散してしまっている会社だと思い込んでいた。

ところが、“Beveridge Audio”で検索してみると、
すんなりウェブサイトが見つかる。
まだ活動しているし、スピーカーシステムを作っている。

それでもアメリカ、イギリス、スウェーデンだけでの販売のようだ。
facebookにも、Beveridge Audioのページがある。

最後の投稿が、いまのところ2015年4月なので、細々と活動しているのかもしれないが、
facebookには、System 2SW-1の内蔵アンプの回路図などが公開されている。

シリンドリカルウェーヴのスピーカーといえば、
マッキントッシュのXRTシリーズを思い浮べる人は多いだろう。

シリンドリカルウェーヴといえば、そういえるが、
ビバリッジと同じとはいえない。

ビバリッジはコンデンサー型のフルレンジユニット、
マッキントッシュのXRTシリーズは、ドーム型トゥイーターの多数使用による。
似て非なるものともいえる。

スピーカーシステムとしての優劣を語りたいのではなく、
ビバリッジならではの放射パターンと設置。
それらによってつくり出される再生音場は、
ヘッドフォンでのみ音楽を聴いている人たちに、どう響くのだろうか。

そこに興味があるし、私もビバリッジの再生音場を一度経験してみたい、と思っている。

Date: 5月 5th, 2021
Cate: ヘッドフォン

Beveridge Audioのこと(その1)

ビバリッジ(Beveridge)というアメリカのブランドが、
昔、輸入されていた。
R.F.エンタープライゼスが輸入元だった。

ステレオサウンド 50号の新製品紹介で取り上げられていた。
コンデンサー型のスピーカーシステム、System 2SW-1だった。
サブウーファー込みで、ペアで2,500,000円だった。

いまでこそペアでこのくらいの価格のスピーカーシステムは珍しくなくなった。
けれど当時は、かなり高価なスピーカーシステムだった。
ちなみに同時期のJBLのパラゴンは、1,600,000円である。

その後、ビバリッジは管球式コントロールアンプ、RM1+RM2を出す。
RM1+RM2は、山中先生が、特に高く評価されていた。

どちらも聴いてみたかったけれど、いまだ聴く機会はない。

RM1+RM2の設計者、ロジャー・モジェスキーは、
その後独立して、ミュージックリファレンスを興し、
RM4(管球式ヘッドアンプ)、RM5(管球式コントロールアンプ)を出している。

ビバリッジのスピーカーは、いまでも聴いてみたい。
ビバリッジのスピーカーは、聴き手の前面に設置するわけではない。
左右の壁に対向するように設置する。

コンデンサー型スピーカー・イコール・平面波と考えがちだが、
フルレンジのコンデンサー型ユニットの前面に紙にプラスチックを含浸させた素材で、
音響レンズの一種、というか、コンプレッションドライバーのイコライザーに相当するものを配置、
この音道をとおることで、コンデンサー型ユニットから発せられる平面波を球面波へとし、
水平方向180度の円筒状の波形(シリンドリカルウェーヴ)をつくりだしている。

こういう放射パターンをもつスピーカーだからこそ、の置き方でもあり、
こういう置き方を実現するための放射パターンともいえる。

ステレオサウンド 50号では、
井上先生が、音像自体が立体的に奥行きをもって浮び上ってくる、と言われている。
さらに、オペラを聴くと、歌手の動きが左右だけでなく、少し奥のほうに移動しながら、
右から左へと動いた感じまで再現し、その場で実際にオペラを観ている実在感につながる、と。

山中先生も、通常のスピーカーの、通常の置き方よりも、
楽器の距離感を驚くほどよく出し、協奏曲での、独奏楽器とオーケストラとの対比がよくわかる、
という評価だった。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: きく

試聴と視聴と……(その3)

瀬川先生が書かれている。
     *
スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなくその音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
(「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ──あなたはマルチアンプに向くか向かないか──」より)
     *
これで五回目の引用だ。

何をいまさら──、という人もいよう。
けれど、人は大事なことから忘れていくものである。

この大事なことを忘れたまま、
(しちょう)に、試聴、視聴、はたまた為聴をあてめはるのかを考えたところで、
なにになろうか。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(MQAとMQA Studio)

MQAに関心のある人ならば、MQAとMQA Studioとがあるのに気づかれているはずだ。
e-onkyoでもそうなのだが、MQAとMQA Studioがしっかりと区別されている。

MQA対応のD/Aコンバーターでは、
MQA再生を示すLEDの色が、MQAでは緑、MQA Studioでは青になる。

TIDALでも、MQAのタイトルは緑の丸、MQA-Studioのタイトルには青の丸がつく。
MQA-CDの場合、再生してみると、緑がつくディスク、青がつくディスクとがある。

これまではMQAとMQA Studioに音の差があるのか、
比較することはできなかった。

e-onkyoでもMQA-CDでも、どちらかだし、
MQAとMQA Studio、両方があるわけではなかったからだ。

それがTIDALには、いくつかのタイトルで、MQAとMQA Studioの両方がある。
しかもサンプリング周波数が同じタイトルがある。

44.1kHzがMQAで、48kHz、96kHz、192kHzがMQA Studioというのもけっこうある。
こういうのは音の違いがあってあたりまえだから、いい。

気になるのは、
同じサンプリング周波数で、MQAとMQA Studioに音の差があるのかだ。
すべてを聴いているわけではないが、
サンプリング周波数が同じでもMQAとMQA Studioだと、差が認められる。
とはいえ、大きな差ではない。

MQAとMQA Studioが、同じサンプリング周波数であったならば、MQA Studioをとるが、
ほとんどのMQAタイトルではどちらか片方だけなのだから、
気にしても仕方ないことでもある。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その3)

4月30日に購入したオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”を、
さっき聴いた。

最初の音が鳴ってきて、えっ、と思った。
モノーラルだったからだ。

私がこれまで聴いてきたのはステレオ録音だった。
どういうことなの? と調べてみると、
オーマンディは1954年11月28日、1967年10月18日に“Vocalise”を録音している。

ということは、五味先生が聴かれていた“Vocalise”は、モノーラルのほうである。
今回e-onkyoで購入したほうである。

私がこれまでCDで聴いてきた“Vocalise”はステレオだから、
同じ演奏ではなかったわけだ。

五味先生はステレオ録音のほうは聴かれていないように思う。

五味先生は《こんなにも甘ったるく》と表現されていた。
今回聴き較べてみると、ステレオのほうがさらに甘ったるい。