Archive for 8月, 2020

Date: 8月 13th, 2020
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その6)

ステレオサウンド 55号と59号の中間、57号の特集はプリメインアンプだった。
ケンウッドのL01Aも取り上げられている。

瀬川先生の、57号での評価は高いものだった。
音の躍動感に、やや不足するものがあるのは読みとれるが、
《音の質の高さは相当なものだと思った》とある。

しかも、瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られたときに、
サンスイのAU-D907 Limitedを買ったことを話した。
瀬川先生は、L01Aのほうがあなたの好みだよ、といわれた。

L01Aは聴いたことがなかった。
それでも気になっているプリメインアンプだった。

それでもAU-D907 Limitedは175,000円、
L01Aは270,000円だった。

当時高校生だった私に、この価格差はそうとうに大きく、手の届かない製品であった。
でも、その時の口ぶりからもL01Aを高く評価されていることは伝わってきた。

なのに59号での結果である。
当時も、なぜだろう? とおもったものだ。
答はわからなかった。

いま、その理由を考えると、L01Aにはラウドネスコントロールはついていても、
トーンコントロールはなかった。

しかも57号に、
《ファンクションにはややトリオ独自の部分があり、例えば、テープ端子のアウト/イン間にイコライザーその他のアダプター類を接続できない回路構成》
とある。

瀬川先生は、59号でサンスイのAU-X11には1点をいれられている。
AU-X11にもトーンコントロールはついていない。
けれどテープ入出力端子に、トーンコントロール、イコライザーなどの周辺機器を接続できる。

このあたりに、L01Aへの0点の理由が隠れているような気がしてならないし、
AU-X11にトーンコントロールがついていたら、2点以上になっていたであろう。

Date: 8月 13th, 2020
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その5)

聴いてみたかったKT88のプッシュプルアンプといえば、
ユニゾンリサーチのプリメインアンプP70である。

でもエレクトリはユニゾンリサーチの取り扱いをやめてしまっている。
しかもユニゾンリサーチも、P70、P40(EL34のプッシュプル)の製造をやめている。

P70を聴く機会はなかった。
エレクトリがとりあつかいをやめた理由も、ウワサではきいている。

どんな音だったのか。
周りに聴いている人もいない。

でも、P70のアピアランスは、気に入っている。
優れたデザインとは言い難い。
それでも、コーネッタを接いで鳴らすには、いい感じじゃないだろうか。

そう思いながらも、P70にはトーンコントロールがなかったなぁ……、となる。
1970年代後半ごろから、トーンコントロールをパスするスイッチが、
プリメインアンプにつくようになってきた。

さらにはトーンコントロールを省く製品も出てくるようになった。
いまではトーンコントロールがついている製品のほうが、
高額な価格帯になるほどに少数となってくる。

プリメインアンプにはトーンコントロールは要らないのか。

ステレオサウンド 55号の特集ベストバイで、
瀬川先生はケンウッドのL01Aを、プリメインアンプのMy Best 3の一つにされている。

55号のベストバイでは、誰がどの機種にどれだけ点数を入れたのかまったくわからない。
51号もそうだったのを反省してなのか、55号では各製品ジャンルのMy Best 3が載っている。

瀬川先生のプリメインアンプのMy Best 3は、L01Aの他に、
サンスイのAU-D607とラックスのL58Aである。

ところが59号のベストバイで、瀬川先生はL01Aには一点も入れられていない。

Date: 8月 12th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(2020年)

年末にベートーヴェンの「第九」の演奏会が催される。
戦後から続いている。
けれど、今年はどうなるのか。

パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツカンマーフィルハーモニーが、
12月に来日し、東京オペラシティで、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏を行なう予定だ。
生誕250年の記念公演である。

9月からチケットの予約が始まる予定なのだが、可能なのだろうか。
特に「第九」は行えるのだろうか。

オーケストラだけでなく四人のソリストに合唱団が、ステージいっぱいに並ぶ。
そして歌う。

この演奏会だけではない。
日本では各地で、「第九」の演奏会が予定されているだろう。

けれど、今年は、この盆も帰省をためらう人がいる。
正月もそうなるだろう。

「第九」は、どうなるのだろうか。
日本の年末の風景が、ここも変るのだろうか。

Date: 8月 12th, 2020
Cate: 新製品

新製品(JBL 4349)

“JBL’s Next Great Studio Monitor is Here”

JBL SYNTHESISのウェブサイトに、いまアクセスすると、
このフレーズとともに、新製品4349が表示される。

昨年からウワサになっていたJBLのスタジオモニターの新製品である。
4349という型番から、4343に憧れてきた人ならば、
4343の後継機4348のニューヴァージョンか? と思うかもしれない。

私も、一瞬そう思った。
4349が発表されたのは7月末だった。
日本で正式に発表されるのを待つつもりだったが、まだである。

いまのJBLの開発ポリシーからいえば、4ウェイのシステムを出してくる可能性は低い。
それでも4349という型番に期待してしまった。

結果は、というと、2ウェイの中型システムである。
別項でJBL PROFESSIONALのM2について書いている。

この製品からいえるのは、JBLのスタジオモニターがこれから目指す方向である。
M2の4300シリーズ版といえるのが、4367だが、4349は、さらにM2に近くなっている。

外観的には、M2のウーファーより下の部分を取り払ったかのようなプロポーションである。
けれどウーファーの口径は15インチから12インチになっている。

M2の完全なるコンシューマー用を期待している者にとって、
いささか期待外れの感はあるものの、聴いてみたいスピーカーではある。

でもこれ以上に興味のわくスピーカーも、
JBL SYNTHESISのサイトをみているとあった。
SCL4である。
壁埋めこみ型の2ウェイである。

ウーファーは7インチ、トゥイーターはホーン型の2ウェイ。
音がどうなのかはなんともいえないが、見た目がシーメンスのオイロダインっぽいのだ。
もうこれだけで、おもしろそうに思えてくる。

Date: 8月 12th, 2020
Cate:

オーディオと青の関係(その24)

twitterで、(その23)へのコメントがあった。
マランツの1970年代前半のスピーカーユニットのコーン紙も青色だった、というものだった。

マランツのスピーカーシステムといえば、
エド・メイが手がけた一連のシリーズが、私の場合、すぐに浮ぶが、
それ以前にもスピーカーシステムを出していたのは知っていた。

マッキントッシュ、ボザークといった東海岸のメーカーらしく、
ユニットを多数使うところは同じだった。
とはいえ実物を見たことはないし、写真もモノクロのものばかりだった。

いまの時代、便利だな、と感心するのは、
インターネットですぐに検索できるだけでなく、
当時はモノクロ写真しか見ることのできなかったモノ、
内部を見たことのない製品、
それらがカラー写真で見れたり、内部の写真があったりする。

確かにマランツのスピーカーのコーン紙は青色だった。
しかも、写真で見る限り、BOSEのコーン紙の青色とよく似ている。

BOSEも東海岸のメーカーである。
もしかするとコーン紙の製造メーカーは、マランツとBOSEは、そのころ同じだったのか。
そうだとすれば、他にも青色のコーン紙のスピーカーはあった可能性がある。

Date: 8月 11th, 2020
Cate:

オーディオと青の関係(その23)

アメリカのオーディオは青を好むのだろうか。
「青なんだ」と最初に思ったオーディオ機器の最初は、BOSEの901IIIだった。

901搭載のユニットのコーン紙は青色だった。
901も最初モデルは違っていたはずだ。
II型からなのか、III型からなのかは知らないが、
少なくともIII型は、すでに青色のコーン紙だった。

同口径で、見た目は似ているユニットであっても、
101MMのそれは黒色だった。
BOSEの他のスピーカーで青色のコーン紙のモデルは、301MMIIぐらいしか思い浮ばない。

901IIIのころ(1976年ごろ)、
スピーカーのコーン紙といえば、黒色がほとんどだった。
黒色といっても、真黒なわけではなく、濃淡の違いはあったし、
それ以外の違いもあったけれど、おおまかに黒だった。

黒以外の場合は、白色はあった。
よく知られるところではヤマハのNS10Mのウーファーがそうだったし、
はっきり白色でなくとも、乳白色のコーン紙のユニットは、いくつかあった。
JBLのLE8T、ローサーのユニット、フォステクス、コーラルにもあった。

振動板の材質が紙ではなく金属の場合も黒ではなかった。
紙の振動板で、黒、白色以外で、
はっきりと色をつけたユニットとなると、901IIIの青が最初ではないだろうか。

他にもあったのかもしれないが、
ちょうどオーディオに興味を持ち始めたころの901IIIの青色のコーン紙は、
私にとっては鮮烈な印象であった。

とはいえ、当時は、なぜ青色なのか、ということについては考えもしなかった。
ただ青色ということだけが、記憶にはっきりと残っている。

Date: 8月 11th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その5)

こういうふうに聴こえる(感じとれる)というのは、
コーネッタでのケイト・ブッシュの再生が理想に近い、ということではない。

むしろ、コーネッタというスピーカーの演出によるものだ、と理解した方がいい。
同軸型ユニット、
それもアルテックとは違い、ウーファーのコーン紙が中高域のホーンの延長となっている、
そしてフロントショートホーン付きのエンクロージュアという、
現在の精確な音をめざしているスピーカーからすれば、古い形態のスピーカー、
むしろラッパと呼んだほうがぴったりくるものである。

そういうラッパ(スピーカー)で聴いての感じ方なのだから、
こういう聴こえ方でなければだめだ、とはまったく思っていない。

それでも、こういう聴こえ方が体験できる、ということに、
オーディオを長年やってきてよかった、と思う。

8月のaudio wednesdayの翌日に、
音を表現するということ(間違っている音・その11)」を書いたのは、
こういう音を聴いたからである。

もしかすると、こういう聴こえ方は、これっきりかもしれない。
それでもいい、と思っている。
とにかく私にとって、得難い体験であった。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その4)

8月のaudio wednesdayでは、
“Hounds of Love”と“Big Sky”の二曲を聴いた。
どちらもMQAで、12インチ・シングルヴァージョンである。

最初は“Hounds of Love”だけのつもりだった。
12インチ・シングルヴァージョンの“Hounds of Love”は、
通常のヴァージョンと比較してドラムスの鳴り方が違う。
ずっと迫真的に鳴ってくれる。

といっても、それはあくまでも12インチ・シングルを鳴らしての印象であり、
同じ曲であっても、CDで聴くと、そこは少しばかり後退する印象でもあった。

つまりコーネッタの低音の鳴り方にとって、やや意地の悪い曲である。
無理は承知で鳴らしたわけだ。

ここに関しては、予想通りもう一息だった。
悪くはなかったけれど、そこまで求めるのはコーネッタには酷でもあろう。

そのかわりというか、“Hounds of Love”で、
目をつむって聴いていると、舞台がそこにあるように感じられた。
まったく変な表現になるが、
そこでケイト・ブッシュが音楽によるパントマイムをやっているかようだった。

舞台があって、ケイト・ブッシュの演出がしっかりと感じられた。
ただ単に音がよく鳴っていた、というのとは違う。

コーネッタよりも、ずっと、音の良さという意味ではうまく再生するスピーカーはある。
それでも、そういうスピーカーでも一度も感じたことのない舞台が、そこにある。

なんとも奇妙な感じだった。
音を聴いているというよりも、舞台がまぶたの奥に浮んでくる感じだった。

この不思議な感じを確かめたくて、続けて“Big Sky”も聴いた。
まったく同じ印象だった。

7月に続いて、そうか、ケイト・ブッシュはイギリス人なんだ、と思っていた。
シェークスピアの国、演劇の国の人なんだ、と。

8月のaudio wednesdayで一緒に聴いて人たちが、どう感じていたのかは知らない。
私と同じように感じていたのか、まったく違うのか。

たぶん、こんなふうに聴こえたのは、私のひとりよがりなのだろう。
それでもいいのだ。
いままでにない聴こえ方で、ケイト・ブッシュが聴けた、ということ。

これだけで、コーネッタを手に入れた価値があったというものだ。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その3)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4で、
菅野先生はHPD295Aの低音について、
《解像力が少し弱くてあまりリズミカルには躍動しない》といわれているし、
瀬川先生も低音は《少し重くなります》という評価だった。

これはブックシェルフ型エンクロージュアに入れての評価ではなく、
2.1m×2.1mの平面バッフルに取り付けての試聴の結果である。

7月のaudio wednesdayで鳴らした時も、
低音に関しては同じ印象を受けた。

量的には出ているけれど、確かに解像力が弱い、やや不明瞭になる、とはいえる。
それでも低音は、意外にものびているからこそ、
もう少し澄んだ低音を響かせてくれれば──、とないものねだりをしたくなる。

だから菅野先生は、ジャズのベースがドスンドスンという響きになる、と、
瀬川先生はジャズを鳴らすには方向が違うような気がする、といわれている。

コーネッタにおさめた状態でも、HPD295Aは、まさにそうだった。
でも、それが特に不満というわけではなかった。
ただ、ケイト・ブッシュには向かないだろう、ということだった。

ケイト・ブッシュは、リンゼイ・ケンプに弟子入りしている。
パントマイムを、デビュー前にやっていた。
そのことは、ケイト・ブッシュのミュージックビデオを見ると伝わってくる。

20代のころ、ケイト・ブッシュについて、なんでもいいから知りたい時期だった。
レーザーディスクも、テレビを持っていないにも関らず買った。
友人宅に持っていき、見ていた。

ストーリー仕立てといっていいのだろうか、そういうミュージックビデオもあったし、
舞台を思わせるミュージックビデオもあった。

後者のそれを見ていて、
これがケイト・ブッシュが表現したかった世界? と思うこともあった。
動くケイト・ブッシュを見る楽しみはあった。
けれど、当時の私にとっては、それ以上ではなかった。

LPやCDで音だけで聴いているほうが、
ずっとケイト・ブッシュの魅力を堪能できる。
それはいまも変らないが、コーネッタで聴いて、少し変ってきた。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(その3)

「正しい音なんて、ない」と断言する人が、
若い人にも老いた人にもいる。

「正しい音なんて、ない」という人は、
「好きな音と嫌いな音があるだけ」ということが多い。

さらには「好きな音を正しい音と思っているだけだ」ともいう。

「正しい音なんて、ない」を真理とはまったく私は思っていない。
思っていないから、こんなふうに言い切ってしまえたら、
どんなにラクだろうな、と思う。

「正しい音なんて、ない」。
そう言い切ってしまうことは、
オーディオについての根底からの理解を諦めてしまっていることにほかならない。
考えることを放棄してしまっただけでしかない。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その2)

コーネッタというスピーカーの形態が、
ケイト・ブッシュの再生に適している、とは、これまで思ったことがない。

コーネッタを今回手に入れたのは偶然のようなものだし、
手に入れるまで、ずーっと欲しい、と思い続けていたときでも、
コーネッタでケイト・ブッシュを聴きたい、と思っていなかった。

でせ、音だけは聴いてみたいことには、わからない。
このあたりまえのことを、あらためて感じている。

「五味オーディオ教室」には、ステージということについて何度も書かれている。
     *
 私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
 わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
ここ以外にも、ステージの再現については書かれている。
このステージは、いわゆる音場感とはちょっと違う。

音場感がうまく再現されていたとしても、
そこにステージを感じとれるかどうかは、また別のことである。

ケイト・ブッシュの音楽は、マルチ・マイクロフォン、マルチ・トラックによる録音だ。
そこに、クラシックでいうところのステージがある、とはケイト・ブッシュ好きの私でも思っていない。

なのに、今回コーネッタでケイト・ブッシュを聴いていて、
そのステージ的なもの、ある種の舞台を感じとっていた。

聴いていて、不思議な感じだった。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: ディスク/ブック

J.S. Bach: Six Suites for Viola Solo

コーネッタは、弦の鳴り方がいい。
ヴァイオリンもいいけれど、個人的にはチェロの鳴り方が特に気に入っている。

7月のaudio wednesdayではフルニエをかけた。
8月のaudio wedneadayではデュ=プレのドヴォルザークの協奏曲をかけた。

どちらもチェロらしい響きを聴かせてくれる。
重くならなず、軽やかに鳴ってくれる。

特にデュ=プレのチェロを聴いていると、
イギリス同士で相性がいいのだろうか、と思ってしまうほどだが、
過去にステレオサウンドの試聴室で聴いたいくつものタンノイ、
知人宅で聴いたタンノイでは、特にそういう印象はなかったから、
これはフロントショートホーン付きのタンノイならではの特長のようにも感じている。

こんなふうに鳴ってくれると、今度はヴィオラのソロを聴いてみたくなる。

キム・カシュカシャンがいる。
ECMから“J.S. Bach: Six Suites for Viola Solo”が出ている。

バッハの無伴奏チェロ組曲のヴィオラ版である。
CDで出ているが、やはりここはMQAで聴きたい。

Date: 8月 9th, 2020
Cate:

中島みゆきの「帰省」

中島みゆきの「短篇集」。

この「短篇集」で、「帰省」という歌を、はじめて聴いた。

歌詞の前半は、大都市の殺伐とした風景を描写している。
後半からは、変る。
     *
けれど年に2回 8月と1月
人ははにかんで道を譲る 故郷(ふるさと)からの帰り
束の間 人を信じたら
もう半年がんばれる
     *
8月と1月。
盆と正月である。

人は、年に二回、帰省することで忘れかけていたことを自然と思い出す。
けれど、今年は違う。

コロナ禍で、帰省をあきらめている人も多くいる。
妹夫婦も、今夏は帰省しない、といっていた。

ニュースでは、東京から帰ってきた人の家に、
心無い貼紙がしてあった、といっている。

「帰省」で描かれた風景は、今年の盆からはずっと減ることだろう。
正月もどうなることか、わからない。
来年のことも、だ。

このままずっと続いていけば、帰省ということが、世の中から消えてしまうのかもしれない。
コロナ禍がますますひどくなっていった、としよう。

そんな近い将来、たとえば50年後あたりになると、
「帰省」を聴いても、その風景を思い浮べられない人のほうが圧倒的に多いのかもしれない。

そうはならないであろう、と思いつつも、
変らないことは、この世にはない、という現実が、目の前にあるだけだ。

Date: 8月 9th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その5)

ステレオサウンド 59号の特集ベストバイの巻頭鼎談で、
瀬川先生がこんなことを発言されている。
     *
瀬川 そうすると三人のうちでチューナーにあたたかいのはぼくだけだね。ときどき聴きたい番組があって録音してみると、チューナーのグレードの差が露骨に出る。いまは確かにチューナーはどんどんよくなっていますから、昔ほど高いお金を出さなくてもいいチューナーは出てきたけれども、あまり安いチューナーというのは、録音してみると、オャッということになる。つまり、電波としてその場、その場で聴いているときというのは、クォリティの差がよくわからないんですね。
     *
FM放送をカセットテープに録音したことは、
カセットテープに、どちらかといえばあまり関心のなかった私でも、もちろんある。
それでもチューナーの違いを、カセットテープに録音してみたことはない。

その3)でふれたコメントにあった、
自分のシステムの音を録音すると、癖が二倍に強調される、ということ。

瀬川先生のチューナーの違いが、録音することで露骨に出る、ということも、
同じことなのだろう、とも考えられる。

録音することによって、チューナーのグレードの差が縮まって聴こえる、
同じように聴こえるのであれば、
自分のシステムの音を録音して、音の癖が半分くらいになってしまうのであれば、
リモート試聴の可能性はしぼんでいってしまう。

けれど、現実にはそうではないことが起っている。

リモート試聴ということをいえば、
たとえそうであっても、その場で聴こえるこまかな音の違いまでは聴き分けられないだろう、
そんなことで反論する人が、きっといる。

でもきちんとした試聴室、もしくは自分のリスニングルームで、じっくりと聴ける環境ならば、
確かにそうである、と返事をするが、
オーディオショウのブースで聴ける音で、ほんとうに微妙な音の違いまで、
正しく聴き分けている、と自信をもっていえる人は、
音の怖さというものを、理解していないどころか、
体験すらしていない人といっていいだろう。

オーディオショウで聴ける音は、あくまでも参考程度でしかない。
だから、リモート試聴ということを、これから先考えていかなければならないし、
そこで重要となるのは、リファレンスをどうするかということだ。

Date: 8月 9th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(実際の購入・余談)

この一年くらいで、すごく気になっているのは、
「オーディオのプロが自腹で購入」といったいいまわしが増えてきたことだ。

記事の意図としては、オーディオのプロが購入するくらいだから、
この製品はほんとうにいいんですよ、ということなのだろうが、
それ以前に、私がひっかかるのは、「自腹で購入」のところだ。

オーディオのプロだろうが、そうでなかろうが、
オーディオ機器を買う、ということは、自分のお金で買う、ということ以外、
なにがあるのだろうか。

誰かに買ってもらった、としよう。
それは買う、とはいわない。買ってもらった、である。
オーディオメーカーから提供してもらって使っているのも、買う、とはいわない。

買う、ということ自体が、くり返すが自分のお金で、ということが前提としてあるわけだ。
にも関らず「自腹で購入」なんてことを見出し、タイトルに使う。

自腹で購入ではなく、自家用として購入、とかだったら、なにもいわない。
けれど「自腹で購入」なのだ。

「自腹で購入」で使われるのは、私が目にした範囲では、
ほぼすべてインターネットで公開されている記事だった。
これらの記事をつくっている人たちの正確な年齢はしらないけれど、
ほかの記事の内容(レベル)からいっても、私よりけっこう若い世代のように感じている。

その世代の人たちには「自腹で購入」といういいまわし、
違和感をおぼえないのだろうか。