Archive for 8月, 2018

Date: 8月 15th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その10)

ワグナーとオーディオというタイトルなのに、
書いていることはワグナーと五味康祐になっている。

五味先生とワグナーということで、
私と同世代、上の世代で熱心にステレオサウンドを読んできた人ならば、
2号での小林秀雄氏との音楽談義を思い出されるはずだ。

そこで五味先生は、いわれている。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

そうかもしれない、と考えるのが実のところ正しいのかもしれない。
それに音楽、音、オーディオについて語っているところに、
こういった性に直結する表現が出てくることを非常に嫌悪される人がいるのも知っている。

以前、ステレオサウンドで、菅野先生が射精という表現をされた。
このことに対して、
ステレオサウンドはオーディオのバイブルだから、そんな言葉を使わないでくれ、
そういう読者からの手紙が来たことがあった。

私の、このブログをオーディオのバイブルと思っている人はいないだろうから、
気にすることなく書いていくけれど、世の中にはそういう人がいるというのは事実である。

そういう人にとっては、
小林秀雄・五味康祐「音楽談義」での《勃然と、立ってきたことがある》は、
どうなんだろうか。

《勃然と、立ってきた》とはあるが、その後のことについては語られていない。
だから、かろうじて、そういう人にとっても許容できることなのだろうか。

三十代ではじめて聴いて《勃然と、立ってきた》とあるから、
タンノイのオートグラフ以前のことだ。

五味先生のところにオートグラフが届いたのは1964年である。
五味先生は42歳だった。

Date: 8月 15th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その8)

黒田先生の著書「音楽への礼状」からの、ここのところを引用するのはこれで四度目だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。

世の中には、上っ面だけの音楽への礼状もどきがある。
どうも増えているようだ。

黒田先生の「音楽への礼状」は、まさに音楽への礼状である──、
と強く感じる世の中になってきているようにも感じている。

「音楽への礼状」のなかの、フルトヴェングラーへの礼状は、
そのなかでも「音楽への礼状」と感じている。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》
とある。

そうであってほしい、とおもう。
おもう、ということは、すでにそうではなくなりつつあるような気配を感じている。

時代の忘れ物に気づかなくなった人があらわれはじめ、増えてきたことこそ、
時代の軽量化なのではないだろうか。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その9)

五味先生はステレオサウンド 50号のオーディオ巡礼で、
森忠輝氏のリスニングルームを訪ねられている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。天井棧敷は、申すならふところのそう豊かでない観衆の行く所だが、一方、その道の通がかよう場所でもある。森氏は後者だろう。むつかしい〝パルシファル〟をこれだけ見事にひびかせ得るのは畢竟、はっきりしたワグナー象を彼は心の裡にもっているからだ。〝オイロダイン〟の響きが如実にそれを語っている。私は感服した。あとで聞くと、この数日後アンプの真空管がとんだそうだが、四十九番あたりの聴くに耐えぬ音はそのせいだったのかも知れない。
 何にせよ、いいワグナーを聴かせてもらって有難う、心からそう告げ私は森家を辞したのである。彼の人となりについては気になる点がないではなかったが、帰路、私は満足だった。本当に久しぶりにいいワグナーを聴いたと思った。
     *
40号代のステレオサウンドには、森忠輝氏の連載が載っていた。
オイロダインとの出合い、アナログプレーヤー、アンプの選択と入手についての文章を読んでいた。

森忠輝氏のアンプはマランツのModel 7とModel 9である。
森忠輝氏の心の裡にあるワグナー像を描くには、
森忠輝氏にとってはマランツのアンプしかなかったのだろう。

けれど、忘れてならぬのは天井桟敷の俯瞰である、ということだ。

ここでひとつ五味先生に訊ねたいことがある。
森忠輝氏のオイロダインで、クナッパーツブッシュのパルシファルは、どこまで聴かれたのだろうか。
レコードの片面だけなのか、まさかとは思うが、五枚全面聴かれたのか。

森忠輝氏の音量は、かなり小さい、と書かれている。
小さいからこそマランツなのか、と思うし、
おそらく聴かれたのはレコード片面なのだろう──、とそんなことを考えている。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その8)

長島先生は、最初からマランツのModel 7とModel 2の組合せだったわけではない。
ステレオサウンド 61号で語られているが、
最初はマッキントッシュである。真空管アンプではなくトランジスターアンプである。
     *
長島 つぎにアンプのマッチングを考えました。そのときマッキントッシュのMC2105を使っていたんですが、これはやさしいアンプですが、スピーカーが慣れてくるにしたがって、力量不足がはっきりしてきたわけです。そこでつぎにMC275に切りかえました。MC275でもエイジングがすすんでくるにつれて、こんどは甘さが耳についてきました。その甘さがほくには必要じゃない。だから、もっと辛口のアンプをということでマランツ2になり、ずうっと使ってきたマッキントッシュのC26プリアンプをマランツ7に変え、それでやっとおちついているわけです。
     *
長島先生が鳴らされていたスピーカーは、ジェンセンのG610Bなのはよく知られている。
G610Bの前は、タンノイだった。
GRFだった、と記憶している。

そのタンノイについて、61号では、
タンノイのやさしさが、もの足りなかった、と。
タンノイは、だから演奏会場のずうっと後の席で聴く音で、
長島先生は、前の方で聴きたい、と。

だから長島先生にとってG610Bであり、Model 7+Model 2なのである。

そういう長島先生なのだが、ステレオサウンド 61号の写真をみた方ならば、
マランツのModel 2の隣にMC275が置いてあるのに気づかれたはず。

使っていないオーディオ機器は手離す長島先生であっても、
MC275だけは手離す気になれない、とある。

簇生の美しさを出すためにぼかす甘さを求める聴き方もあれば、
簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いていくため甘さを拒否する聴き方もある。

それによってアンプ選びは違ってくる。
ここで書きたいのは、マッキントッシュとマランツの、どちらの真空管アンプが優秀か、ではない。
こういうことを書いていくと、わずかな人であっても、
マッキントッシュが優秀なんだな、とか、やっぱりマランツなんだな、と決めてかかる人がいる。

書きたいのは、なぜ五味先生がマッキントッシュだったのか、
その理由について考察なのである。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その7)

長島先生はステレオサウンド 37号で、
《レコードに入っている音が、細大洩らさず、あるがままの形で出てくる》といわれている。

五味先生はMC275とMC3500を聴き比べて、次のように書かれている。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
マッキントッシュのMC3500よりも、
マランツのModel 9のほうが、より《簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている》だろう。

けれど五味先生はMC3500ではなくMC275なのである。
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかして》描く、
そういうMC275を選ばれている。

簇生の美しさを出すためにぼかす──、
ここを忘れては、何も語れない。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その6)

SPA1HLによって、長島先生にとってModel 7がどういう存在なのかをはっきりと知った。
マッキントッシュ、マランツの真空管アンプを新品で聴くことはできなかった世代であっても、
SPA1HLを長島先生といっしょに、しかも解説つきでじっくりと聴くことができたからだ。

長島先生はステレオサウンド 38号で、
《決して神経を休めるという傾向の音ではありません》といわれている。
確かにそうである。
SPA1HLもそういうアンプである。

同じことを井上先生もいわれていたし、
ステレオサウンド別冊「音の世紀」でも、同じ意味あいのことを書かれている。
     *
 心情的には、早くから使ったマランツ7は、その個体が現在でも手もとに在るけれども、少なくとも、この2年間は電源スイッチをONにしたこともない。充分にエージング時間をかけ音を聴いたのは、キット版発売の時と、復刻版発売の時の2回で、それぞれ約1ヵ月は使ってみたものの、老化は激しく比較対象外の印象であり、最新復刻版を聴いても、強度のNFB採用のアンプは、何とはなく息苦しい雰囲気が存在をして、長時間聴くと疲れる印象である。
     *
決して神経を休めるという傾向の音ではないModel 7、
何とはなく息苦しい雰囲気が存在をして、長時間聴くと疲れる印象のModel 7。

どちらも同じことを語っている。
ただ聴き手が違うだけの話である。
音楽の聴き方の違いが、そこにある。

五味先生はワグナーをよく聴かれていた。
毎年NHKのFMで放送されるバイロイト音楽祭を録音されていたことはよく知られているし、
《タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである》
とも書かれているくらいだ。

ワグナーは長い。
どの楽劇であっても、長い。
その長さゆえ、五味先生はマランツを選ばれなかったのではないのか。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その5)

SMEのSPA1HLは最初オルトフォン・ブランドで登場した。
プロトタイプというか、プリプロモデルだったのか、
とにかくオルトフォンのSPA1HLを聴いている。

オルトフォンのSPA1HLとして登場した時、このフォノイコライザーアンプの事情は何も知らなかった。
オルトフォンの技術者が設計した真空管のフォノイコライザーアンプだと素直に信じていた。
だからオルトフォンのカートリッジに持っている音のイメージを、期待していた。

鳴ってきた音は、その意味では期待外れともいえたし、
期待外れだからといって、このフォノイコライザーアンプに魅力を感じなかったわけではない。
おもしろいアンプが登場してきた、と思った。

それからしばらくして、今度はSMEブランドで現れた。
ここで初めて、このフォノイコライザーアンプの事情を知る。

SMEのSPA1HLは長島先生といっしょに聴いた。
SPA1HLについて長島先生の詳しいこと詳しいこと。

思わず「長島先生が設計されたのですか」と口にしそうになるくらいだった。
そうなんだということはすぐにわかった。
パーツ選びの大変さも聞いている。

それに長島先生自身、SMEのアンプは、マランツの#7への恩返し、といわれていた。
オルトフォン・ブランドであろうとSMEブランドであろうと、
SPA1HLに、そのオーディオ機器ならではの音色の魅力というものは、
まったく感じなかった。

この点で期待外れと、最初の音が鳴った時に感じても、さまざまなレコードをかけていくと、
SPA1HLの実力は高いと感じてくる。

ただそれでもオーディオ機器固有の音色にどうしても耳が向いてしまう人には、
SPA1HLは不評のようだった。

SPA1HLをある人とステレオサウンドの試聴室で聴いている。
その人は、ほんとうにいいアンプだと思っています? ときいてきた。
その人にとってSPA1HLはどうでもいい存在のようだった。

私はSPA1HLを、何度もステレオサウンドの試聴室で聴いている。
SPA1HLを聴いて、
長島先生がマランツのModel 7をどう聴かれていたのかを理解できた、と思った。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その4)

話をすすめていく前にひとつ書いておきたいのは、
長島先生、山中先生、瀬川先生だけでなく、同時代のオーディオ評論家の人たちは、
そして五味先生もそうなのだが、
みな、マッキントッシュやマランツの真空管アンプが現役のころからオーディオに取り組まれている。

つまりみな新品のマッキントッシュのアンプの音、マランツのアンプの音、
真空管アンプではないが同時代のJBLのアンプの音などを聴かれている。

このことは後に生まれた世代にはかなわぬことである。
長島先生、山中先生は1932年、瀬川先生は1935年、
私は約30年後の1963年生れである。

同世代の人たちよりは程度のいいマッキントッシュやマランツを聴いているのかもしれないが、
それでも30年という時間のひらきは、なにをもってきてもうめられない。

完全な追体験は無理なのだ。
完全メインテナンスを謳っていようが、
それがどの程度なのかは、だれが保証してくれるのか。

周りに、マッキントッシュ、マランツの真空管アンプを新品の状態で聴いたことがある、
しかも耳の確かな人がいればいい。
けれど、そういう人がどのくらいいるか。

いわゆる自称は、ここでは役に立たぬ存在だ。

私がこうやって古いマッキントッシュやマランツの音に関することを引用しているのを読んで、
いや、そういう音じゃないぞ、と思われる人もいよう。
そのことを否定しない。

その人が聴くことができたマッキントッシュやマランツの真空管アンプは、
そういう音を出していたのだろうから。

でも、それが新品での音とどのくらい違ってきているのか。
そのことを抜きにして、自分が聴いた範囲だけの音で語るのは、私はやらない。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その3)

1981年夏のステレオサウンド別冊「世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」で、瀬川先生はマランツのアンプの音についてこう書かれている。
     *
 そうした体験にくらべると、最初に手にしたにもかかわらず、マランツのアンプの音は、私の記憶の中で、具体的なレコードや曲名と、何ひとつ結びついた形で浮かんでこないのは、いったいどういうわけなのだろうか。確かに、その「音」にびっくりした。そして、ずいぶん長い期間、手もとに置いて鳴らしていた。それなのに、JBLの音、マッキントッシュの音、というような形では、マランツの音というものを説明しにくいのである。なぜなのだろう。
 JBLにせよマッキントッシュにせよ、明らかに「こう……」と説明できる個性、悪くいえばクセを持っている。マランツには、そういう明らかなクセがない。だから、こういう音、という説明がしにくいのだろうか。
 それはたしかにある。だが、それだけではなさそうだ。
 もしかすると私という人間は、この、「中庸」というのがニガ手なのだろうか。そうかもしれないが、しかし、音のバランス、再生される音の低・中・高音のバランスのよしあしは、とても気になる。その意味でなら、JBLよりもマッキントッシュよりも、マランツは最も音のバランスがいい。それなのに、JBLやマッキントッシュのようには、私を惹きつけない。私には、マランツの音は、JBLやマッキントッシュほどには、魅力が感じられない。
 そうなのだ。マランツの音は、あまりにもまっとうすぎるのだ。立派すぎるのだ。明らかに片寄った音のクセや弱点を嫌って、正攻法で、キチッと仕上げた音。欠点の少ない音。整いすぎていて、だから何となくとり澄ましたようで、少しよそよそしくて、従ってどことなく冷たくて、とりつきにくい。それが、私の感じるマランツの音だと言えば、マランツの熱烈な支持者からは叱られるかもしれないが、そういう次第で私にはマランツの音が、親身に感じられない。魅力がない。惹きつけられない。だから引きずりこまれない……。
 また、こうも言える。マランツのアンプの音は、常に、その時点その時点での技術の粋をきわめながら、音のバランス、周波数レインジ、ひずみ、S/N比……その他のあらゆる特性を、ベストに整えることを目指しているように私には思える。だが見方を変えれば、その方向には永久に前進あるのみで、終点がない。いや、おそらくマランツ自身は、ひとつの完成を目ざしたにちがいない。そのことは、皮肉にも彼のアンプの「音」ではなく、デザインに実っている。モデル7(セブン)のあの抜きさしならないパネルデザイン。十年間、毎日眺めていたのに、たとえツマミ1個でも、もうこれ以上動かしようのないと思わせるほどまでよく練り上げられたレイアウト。アンプのパネルデザインの古典として、永く残るであろう見事な出来栄えについてはほとんど異論がない筈だ。
 なぜ、このパネルがこれほど見事に完成し、安定した感じを人に与えるのだろうか。答えは簡単だ。殆どパーフェクトに近いシンメトリーであるかにみせながら、その完璧に近いバランスを、わざとほんのちょっと崩している。厳密にいえば決して「ほんの少し」ではないのだが、そう思わせるほど、このバランスの崩しかたは絶妙で、これ以上でもこれ以下でもいけない。ギリギリに煮つめ、整えた形を、ほんのちょっとだけ崩す。これは、あらゆる芸術の奥義で、そこに無限の味わいが醸し出される。整えた形を崩した、などという意識を人に抱かせないほど、それは一見完璧に整った印象を与える。だが、もしも完全なシンメトリーであれば、味わいは極端に薄れ、永く見るに耐えられない。といって、崩しすぎたのではなおさらだ。絶妙。これしかない。マランツ♯7のパネルは、その絶妙の崩し方のひとつの良いサンプルだ。
 パネルのデザインの完成度の高さにくらべると、その音は、崩し方が少し足りない。いや、音に関するかぎり、マランツの頭の中には、出来上がったバランスを崩す、などという意識はおよそ入りこむ余地がなかったに違いない。彼はただひたすら、音を整えることに、全力を投入したに違いあるまい。もしも何か欠けた部分があるとすれば、それはただ、その時点での技術の限界だけであった、そういう音の整え方を、マランツはした。
     *
ここでも、マランツの音について説明しにくい、とある。
そして、それは言葉で説明できる個性、悪くいえばクセがないからで、
まっとうすぎる、立派すぎる、と。

SMEのフォノイコライザーアンプSPA1HLを聴いたとき、
そういうことなのか、と合点がいった。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その2)

ステレオサウンド 37号から「クラフツマンシップの粋」が始まった。
一回目は、やはりマランツの真空管アンプである。

長島先生と山中先生の対談による、この記事の最後に、
マランツサウンドは存在するか、について話されている。
     *
山中 製品についてはいま話してきたのでだいたい出ていると思うのですが、それでは実際にマランツの音とはどんな音なのかということですが……。
 全般的な傾向としては、一言でいってしまえば特にキャラクターを持たないニュートラルな音だと思うのですよ。色づけが少ないというか……。特に泣かせどころがあるとか、そういう音じゃないですね。
 よく、マッキントッシュサウンドとか、JBLサウンド、アルテックサウンドという言い方をしますね。そしてこの言葉を聞くだけでそれぞれの音がイメージできるほどはっきりした性格をもっていますね。しかしそういう意味でのマランツサウンドというのはあり得ないと思うのです。事実、マランツサウンドっていう言葉はないでしょう。
長島 俗に、管球式の音は柔らかいとか、暖か味があるとかいいますが、マランツはそういう〝臭さ〟を感じさせませんね。
 マランツの一群のアンプはぼくも使っているのですけれど、球の暖かさなんていうのは、はっきりいえば、少しも感じない(笑)。
山中 ともかく媚びるということがないですね。
長島 まったくその通りですね。
山中 マランツの音について話しているとどうも取り留めなくなってしまうのだけれど、音のキャラクター云々ということが出てこないでしょう。
長島 それでも厳としてあることはある。
山中 あるんですよね、マランツのサウンドというのは……。
長島 あるのだけれど非常に言いにくい……。
山中 それが実はマランツの秘密で、結局ソウル・マランツ氏の目差した音じゃないですかね。
長島 要するに、あまりにも真っ当すぎるので言うのに困ってしまう(笑)。あえてマランツサウンドってなんだと聞かれたら、筋を通して理詰めに追いあげたせのがマランツサウンドだと言うよりないですね。決して神経を休めるという傾向の音ではありません。レコードに入っている音が、細大洩らさず、あるがままの形で出てくるのですよ。
山中 だからこそ、この時代におけるひとつのプレイバックスタンダードであり得たのでしょうね。
     *
ことわるまでもなく、ここに出てくるマランツの音とは、
あくまでも真空管アンプ時代のマランツであり、いまのマランツにそっくりあてはまるわけではない。

そして、真空管アンプ時代のマランツの音に関しては、瀬川先生もほぼ同じことを書かれている。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その43)

オーディオの想像力の欠如した耳に、インプレッショニズムの音は響かないし、届かないだろう。

Date: 8月 12th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その1)

五味先生のタンノイ・オートグラフにつながれていたのは、
主にマッキントッシュのC22とMC275のペアである。
「人間の死にざま」を読むと、カンノアンプの300Bシングルに、
交換しても聴かれていたことがわかる。

コントロールアンプはマランツのModel 7とマークレビンソンのJC2もお持ちだった。
その他にデッカ・デコラのアンプも所有されていた。

マランツのパワーアンプはどうだったのか。
Model 2かModel 5、Model 8Bのどれかは所有されていたとしてもおかしくない。

所有されていないアンプも多数聴かれている。
その結果のC22とMC275である、とみている。

中学生だったころ、
マッキントッシュとマランツの真空管アンプを見較べて、マランツの方がよさそうに思えた。
そのころ、マッキントッシュ、マランツの真空管アンプを聴ける店は、熊本にはなかった。
周りにオーディオマニアが誰もいなかったから、
個人でどちらかを持っている人を探そうとは思わなかった。

ステレオサウンド 51号のオーディオ巡礼に、
ヴァイタヴォックスCN191を鳴らされているH氏が登場されている。

アンプはマッキントッシュからマランツのModel 7とModel 9のペアに交換した、とあった。
このときもまだどちらも聴いたことはなかったし、写真でだけ知っているだけでしかなかった。

それでも、そうだろう、と思いながら、オーディオ巡礼を読んでいた。
アンプとして、どちらが高性能かといえば、マランツに軍配をあげる──、
そういう見方を10代の私はしていた。

なので、五味先生はなぜマッキントッシュなのか、という疑問がなかったわけではない。
正確にいえば、マランツを選ばれなかった理由はなんのか、を知りたいと思っていた。

結局、それはワグナーを聴かれるから、というのが、私がたどりついた答である。

Date: 8月 12th, 2018
Cate: ジャーナリズム

ステレオ時代 vol.12

ステレオ時代 vol.12が書店に並んでいる。

特集は「デジタルとアナログの間で ステレオ時代的 PCMプロセッサー特集」であり、
表紙にはソニーのPCM-F1が取り上げられている。

その下に「追悼特集第二弾 ありがとう中島平太郎先生」とある。
今回も、これが目に留った。

前号が第一弾で、今号が第二弾。
第一弾が好評だったから──、という安易な気持でつくられた記事ではない。
それにステレオ時代 vol.12を手にとればわかるが、
誰の目にも第一特集は「ありがとう中島平太郎先生」なのは明らかである。

しかも前号よりも力の入った記事だ。
編集者のおもいがしっかりと伝わってくる。

「ありがとう中島平太郎先生」、
こういう記事は、広告にはほとんど、というかまったく結びつかない。

売れていない雑誌だからやれる記事──、
そんな言い方をする人はいるだろうが、ほんとうにそうだろうか。

売れている雑誌にはやれない記事なのか。
売れている雑誌(そんなオーディオ雑誌があるのか?)こそ、やるべき記事ではないのか。

Date: 8月 12th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その10)

ステレオサウンド 3号のQUADのページの下段には、解説がある。
この解説は誰による文章なのかはわからないが、8号の特集からわかるのは、
瀬川先生が書かれていた、ということ。

QUAD IIについては、こう書かれている。
     *
 公称出力15Wというのは少ないように思われるが、これは歪率0.1%のときの出力で、カタログ特性で、〝OVERLOAD〟とある部分をみると、ふつうのアンプなら25Wぐらいに表示するところを、あえて控えめに公称しているあたり、イギリス人の面目躍如としている。コムパクトなシャーシ・コンストラクションと、手工芸的な配線テクニックは、実に信頼感を抱かせる。
 イギリスでは公的な研究機関や音響メーカーで標準アンプとして数多く採用されていることは有名で、技術誌のテストリポートやスピーカーの試聴記などに、よく「QUAD22のトーン目盛のBASSを+1、TREBLEを−1にして聴くと云々」といった表現が使われる。
     *
岡先生もステレオサウンド 50号で、
《長年に亘ってBBCをはじめ、イギリスの標準アンプとして使われていただけのことはある傑作といえる。》
と書かれている。

その意味でQUAD IIは、業務(プロフェッショナル)用アンプといえる。
けれどQUAD IIはプロフェッショナル用を意図して設計されたアンプではないはず。

結果として、そう使われるようになったと考える。

同じ意味ではマッキントッシュのMC275もそうといえよう。
マッキントッシュにはA116というプロフェッショナル用として開発され使われたアンプもあるが、
MC275はコンシューマー用としてのアンプである。

それがCBSコロムビアのカッティングルームでのモニター用アンプとして、
それから1970年代初頭、コンサートでのアンプには、
トランジスターの、もっと出力の大きなアンプではなくMC275がよく使われていた、とも聞いている。

MC275もQUAD IIと、だから同じといえ、
それがマランツの真空管アンプとは、わずかとはいえはっきり違う点でもある。

Date: 8月 11th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その9)

オーディオ機器にもロングラン、ロングセラーモデルと呼ばれるものはある。
数多くあるとはいえないが、あまりないわけでもない。
スピーカーやカートリッジには、多かった。

けれどアンプは極端に少なかった。
ラックスのSQ38にしても、初代モデルからの変遷をたどっていくと、
何を基準にしてロングラン、ロングセラーモデルというのか考えてしまう。

そんななかにあって、QUAD IIはまさにそういえるアンプである。
1953年から1970年まで、改良モデルが出たわけでなく、
おそらく変更などなく製造が続けられていた。

ペアとなるステレオ仕様のコントロールアンプ22の登場は1959年で、
1967年に、33と入れ代るように製造中止になっている。

22とQUAD IIのペアは、ステレオサウンド 3号(1967年夏)の特集に登場している。
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 素直ではったりのない、ごく正統的な音質であった。
 わたくしが家でタンノイを鳴らすとき、殆んどアンプにはQUADを選んでいる。つまりタンノイと結びついた形で、QUADの音質が頭にあった。切換比較で他のオーソドックスな音質のアンプと同じ音で鳴った時、実は少々びっくりした。びっくりしたのは、しかしわたくしの日常のそういう体験にほかならないだろう。
 タンノイは、自社のスピーカーを駆動するアンプにQUADを推賞しているそうだ。しかしこのアンプに固有の音色というものが特に無いとすれば、その理由は負荷インピーダンスの変動に強いという点かもしれない。これはおおかたのアンプの持っていない特徴である。
 10数年前にすでにこのアンプがあったというのは驚異的なことだろう。
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瀬川先生が、こう書かれている。
ここで「選んでいる」とあるのは、QUAD IIのことのはず。

ただし52号の特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」では、
こうも書かれている。
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 マランツ7にはこうして多くの人々がびっくりしたが、パワーアンプのQUAD/II型の音のほうは、実のところ別におどろくような違いではなかった。この水準の音質なら、腕の立つアマチュアの自作のアンプが、けっこう鳴らしていた。そんないきさつから、わたくしはますます、プリアンプの重要性に興味を傾ける結果になった。
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実を言うと、これを読んでいたから、QUAD IIにさほど興味をもてなかった。