Archive for 7月, 2018

Date: 7月 5th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その1)

昨晩のaudio wednesdayは、
いつも鳴らしているアルテック中心のスピーカーではなく、
別項で書いているようにグッドマンのAXIOM 402を鳴らした。

別項ではAXIOM 401としていた。
402かもしれないと思って、喫茶茶会記の店主、福地さんに確認した。
福地さんを譲ってくれた人にきいたところ、401だということだった。
けれど実際にユニットを外して確認したところ、AXIOM 402だった。

401と402、裏側から見れば違いは一目瞭然なのだが、
表側からみると違いはわかりにくい。
どちらも30cm口径のダブルコーンのフルレンジユニットである。

ダブルコーンといってせ、サブコーンの形状、大きさによって、
設計思想は同じとはいえない。
なのでダブルコーンのユニットすべてに関心があるわけでもないが、
ダブルコーンのフルレンジユニットは好きなタイプである。

これまでもいくつかのダブルコーンのフルレンジユニットを聴いてきた。
とはいえ、これまで聴いてきたダブルコーンでいちばん大きかった口径は、
グッドマンのAXIOM 80の9.5インチ(約24cm)である。

30cm口径のダブルコーンは聴いたことがなかったし、
それをミッドバスユニットとして使用したり、
良質のトゥイーターを、ほんの少しばかり鳴らすような追加の仕方を前提とするならば、
話は違ってくるが、フルレンジ一発のシステムとしては、
本音をいえば、関心外だった。

AXIOM 80を特別な存在とすれば、20cm口径のダブルコーンまでが、
フルレンジ一発のシステムとしては関心の対象であった。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
編集長にいきなりなったわけではなく、その前は編集者であった。

私は編集者だけの経験しかないが、
それでも編集者と編集長の違いは、雑誌のあり方を含めてのことであることは感じている。

ステレオサウンドも雑誌のひとつである。
雑誌の編集長とは、将棋の棋士のようにも思う。

将棋の駒は、すべてが同じ動き(力)をもっているわけではない。
歩もいれば飛車、角行もいて、八種類。

これらの駒をどう活かしていくのかが、良き棋士なのではないか(将棋は素人なのだが)。
こう書いてしまうと、編集長の下にいる編集者がそれぞれの駒と受けとられるかもしれないが、
そうではなく、一冊の雑誌に掲載されるいくつもの記事こそが、それぞれの駒にあたる。

つまり編集長は棋士として、それぞれの駒(記事)を活かしていくことである。
ひとつの駒に力を一極集中してしまっては、勝負に勝てるわけがない。

いい記事をつくることは、いい編集者ならばできよう。
だからといって、編集者みなが、金将のような記事ばかりをつくっても、
いい雑誌になるとは限らない。

編集長がいるのは、そういう理由から、と考えることもできる。
編集長の仕事は、他にもあるのはわかっている。

ならば編集長(将棋の棋士)に求められるのは、先を読むこともそのひとつであろう。
行き当たりばったりに駒(記事)をいじっても、どうにもならない。

ステレオサウンド 207号は、特集としてスピーカーの試聴テストがあり、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」もあり、
その他にも二本の導入記、新製品紹介などの記事がある。

編集長(棋士)としての、それぞれの記事(駒)の配置だとしたら、
なぜ、avcat氏に謝罪したのか──、と思うわけだ。

逆から考えれば、謝罪したことで、
染谷一氏の編集長(棋士)としての資質を疑っているわけでもある。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その4)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」をひさしぶりに読み返していて、
ここをまた一度引用しておこう、とおもうところにであう。

これを引用するのは、これで三回目である。
     *
権力そのものではなく、権力の乱用が悪である。ビスマルクではなくして、ヒトラーが悪なのだ。思考する人間がつねに傾向や趨勢をのみを「思考する」だけで、平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。平衡状態はただ感知されるだけである。言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、およそ認識され、思考されうるものではない。
     *
このフルトヴェングラーの言葉すら、
受けての「理解」によって、どうなっていくのだろうか。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その6)

ロック・ポップス、ジャズに、ほんのわずか触れたけれど、
私が聴くのはクラシック音楽だから、
「無人島に……」という問いには、クラシック音楽について考えることになる。

その3)で、シェイクスピア全集にあたるのは、
ワーグナーの楽劇だろう、とした。

そういえば……、とフルトヴェングラーの「音楽ノート」をひっぱり出してきた。
     *
 たいていの人は(ヘルマン・ヘッセにしても、詩人といえば美しい言葉で美しい感情を表現することのできる人間であると考えている。私の見かたによれば、詩人、とりわけ劇作家とは人間を創造しうる人にほかならない。詩人が言葉をまったく必要としないとき、すなわち状況もしくは人間の行為や反応がすでに一切を言い尽くしてくれるとき、彼は最も偉大である。シェイクスピア、ヴァーグナー、グリルパルツァーなどはこのような詩人である。月並みのドイツ人は詩人としてのヴァーグナーとグリルパルツァーを看過している。ヴァーグナーあるいはグリルパルツァーが描く形象の深い真実は、それが語るものを通して示されると同様に、それが沈黙するもの、すなわち語らないものを通しても示される。これらすべての形象はいくらかのものを──場合によってはきわめて多くのものを──沈黙せねばならぬ。ただし、それらの本性のうちに宿る沈黙を通してであり、たとえばイプセンに見られるような文学上の「技法」によって沈黙するのではない。
     *
シェイクスピア全集にあたるものとして、
クラシック音楽においてはワーグナーの楽劇は的外れでは決してない。

だからマタイ受難曲とワーグナーの楽劇は、
必ず無人島にもっていくものとして除外して考えることになる。

Date: 7月 4th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その3)

セレッションのトゥイーター、
個人的には名トゥイーターといいたくなるHF1300。

いまBBCモニターのLS3/5Aの復刻モデルが、各社から出ている。
LS3/5Aに搭載されていたKEFのユニットは製造中止になって久しいから、
オリジナルの復刻にはユニットの復刻から、始めることになる。

そうやった復刻されたユニットを見ると、なかなかの仕上がりだ。
BBCモニターの復刻はLS3/5Aだけではない。

グラハムオーディオからはLS5/8とLS5/9も出ている。
LS5/1Aまでは期待しないものの、LS5/5は復刻されないものか。

LS5/5の復刻にはHF1300(正確には改良型HF1400)が不可欠だと、思っている。
ここが他のトゥイーター、どんなにそれが優秀であってもLS5/5の復刻とは呼べないはずだ。

ようするにどこかHF1300を復刻してくれないか、と思っているわけだ。
HF1300を単体のトゥイーターとして使ってみた(鳴らしてみた)ことはない。

自分でそうやって使う(鳴らす)ことで、確かめたいことがある。
それはHF1300独自の音色について、である。

ここでのタイトルは、
好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた、としている。
そうである。

そうなのは確かだが、HF1300は各社のスピーカーシステムに使われている。
組み合わされるウーファーもさまざまだ。

そこにおいて音色のつながりに不自然さを感じさせるスピーカーシステムはなかった。
ということは、HF1300はそれほど主張の強い音色をもっていないのではないか。
そう解釈することもできるからだ。

ステレオサウンド 35号「’75ベストバイ・コンポーネント」で、
井上先生は、
《英国系のスピーカーシステムに、もっとも多く採用されている定評のあるユニットだ。滑らかで、緻密な音質は、大変に素晴らしく他社のウーファーとも幅広くマッチする。》、
瀬川先生は、
《イギリス製のスピーカーシステムに比較的多く採用されている実績のある、適応範囲の広いトゥイーター。BBCモニターの高域はこれの改良型。高域のレインジはそう広くない。》
と書かれている。

HF1300は適応範囲の広いトゥイーターだということが読みとれる。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その3)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節を引用するのは、これで四回目だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
この項で、引用の理由は書かなくていいだろう。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その2)

以前のCDボックスは10枚組くらいだったのが、
いつのころからか、全集の名の元に50枚くらいは当り前になってきて、
80枚、それ以上の枚数のボックスも珍しくなくなってきている。

価格もそう高くはない。
一枚当りの価格は、そうとうに安くなっている。

CDボックスの多くはいわゆる再発にあたるわけだから、
安くなるのはわかるし、買う側にしてもありがたいことである。

あまりにも安いと、なんだか申しわけなく感じたりもするが、
それでも安価なのを否定はしない。

だからCDボックスが溜ってくる。
好きな演奏家のCDボックスであっても、一気にすべてのCDを聴いてしまえる人は、
どのくらいいるのだろうか。

50枚組のCDボックスを購入したとして、一日一枚ずつ聴いても二ヵ月近くかかる。
その二ヵ月間に、他のCDを一枚も購入しないということは、まずない。
しかも、その間に、別のCDボックスを購入してたりもする。

クラシックの場合、そのくらいCDボックスが次々に登場してくる。
だから未聴のCDボックスが溜ってくる。

CDボックスを、そんなふうに次々と買ってしまうのは、
ある年代よりも上であろう。

40代ならば、平均寿命まで生きられるとしたら、まだまだ残り時間はある。
50代ならば、そう長くはない、といえよう。

安岡章太郎氏の「ビデオの時代」に書かれているように《余生を娯しむには十二分のものがある》。
そんなことはみなわかっている。
なのに、CDボックスが出ると、つい購入ボタンをクリックしてしまう──、
クラシック好きの多くはそうだろう、と思っている。

CDボックスはインターネットで購入、
届くのを待つだけの人が多いはずだ。

レコード店で購入し、重い思いをして持って帰れば、
購入も少し控えるのかもしれないが、いまの時代はそうではない。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その6)

新宿珈琲屋のKさんの髪も長かった。

私は五味先生の「日本のベートーヴェン」に出てくる髪の美しい少女を、
髪の長い少女と手前勝手に想像しているのは、
私自身が少年だったころ、想いを寄せていた少女の姿からだけではなく、
実のところKさんのイメージもそこに重なってくるからだ。

新宿珈琲屋はカウンターだけの店だから、
《メニューを持って近寄って来る》こともないし、
《紺のスカートで去って行くうしろ姿》はない。

大きな店ではないから、
座っているところからすぐのところにKさんは立っていて仕事をしている。
頻繁に通っていたから顔は覚えられていた。
店に入ると、会釈を返してくれる。

とはいえKさんと話すことはほとんどなかった。
Kさんが淹れてくれるコーヒーを飲み、
後で鳴っているESLから流れてくるバロック音楽に耳を傾けて、
ただそれだけで店を出る。

あのころの私にとって新宿珈琲屋は、理想に近い居場所だった。
ずっと、あの場所にあるものだ、と信じ切っていた。

けれどあっけなく消失してしまった。
1983年12月だった、はずだ。
火事で無くなってしまった。

放火だといわれていた。
たしかにあの場所に木造長屋では、家賃収入も期待できない。
ビルに建て替えれば……、そんなウワサを聞いている。
地上げということをよく聞くようになっていたころだった。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その2)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

願望に基づく理解しかできない人がアマチュアであり、
願望と切り離したところで理解できるのがプロフェッショナルであるのは、
オーディオの世界でもいえるはずだ。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その5)

déjà vuを公開していたMさんは、私よりも10ほど若かったはずだ。
一方、スピーカーのネットワークで議論(のような)をやっていた二人は、
私よりも10ほど上であるから、Mさんよりも20ほど上なわけだ。

そんな人たちに向って、掲示板上とはいえ、諌めることは難しかった、と思う。
遠慮もあっただろうし、どうしたらいいのかわからないこともあったと思う。

同様のことで、録音で揉めていた二人もいた。
こちらは互いに面識もない人たちのようで、
かなりひどいやりとりになっていった、と記憶している。

録音の、それもマイクロフォンのセッティングについては、Mさんはほとんど知らなかったはずだ。
そこでの口出しは、さらに難しかったであろう。
このやりとりはどちらも感情的になっていった。

掲示板の運営・管理は、この例だけでも大変だな、と思う。
荒れるにまかせきった掲示板なら、それはそれでいいだろうが、
個人サイトの、しかもある思い入れをもって公開されているサイトでの掲示板は、
そういうわけにはいかない。

しかも皮肉なことに、掲示板がそういう意味で多少荒れた方が人が集まってくる傾向もあるようだ。
ここでも自由と勝手が勘違いされている。

掲示板とは、見知らぬ者同士の情報交換の場でもあるはずだ。
ここにも一週間ほどの
黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」で引用した黒田先生のいわんとされていることが関係してくる。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その4)

インターネットの掲示板とは、見知らぬ人と、それも複数の人と、
それぞれを隔てる距離、時間など関係なしに結びつけて話し合える場ではないのか。

議論もできる場であり、議論を深めていける場もある。
なのに残念なことは、それまではそんな雰囲気のあった掲示板が、
知名度が急に広まって多くの人がどっと押し寄せるようになると、
それぞれの自己主張の場と変っていくように感じている。

しかもいい大人が……、といわれる年代の人たちに、そういう人がどうも多いようだ。
その3)でふれたdéjà vuの掲示板もそうだったように記憶しいてる。

相手の意見に耳を傾ける、ということが、この人たちはできないのか。
そう思いたくなる(言いたくなる)ほど、一方的な書き込みをする人が現れる。

私が記憶している範囲では、こんなこともあった。
スピーカーのネットワークの次数とユニットの極性についてのことだった。
意見を戦わせていたのは、おもに二人。
どちらもハンドルネームだったが、当時ステレオサウンドに執筆していた人たちである。
そのことは常連のあいだでは知れ渡っていたはずだ。

一人は1970年ごろまでのスピーカーの教科書的書籍を元に書き込む。
もう一人は聞きかじりの知識のみで書き込む。

どちらかが全面的に正しくて、片方が全面的に間違っていたのであれば、
話は簡単に決着するのだが、両者とも部分的に正しくて、部分的に間違っている。

スピーカーの基礎知識があったうえで、
最新のスピーカーシステムがどうなっているのかを知っている人ならば、
この二人の議論が噛みあわないのはすぐにわかったはずだし、
それぞれの間違っているところを指摘することもできるのだが、
誰もそんな人はいなかったし、私も面倒でやらなかった。

二人とも知人ではあったし、一人はわりと頻繁に連絡をしていたので、
やんわりとそのことは伝えていた。

議論は尻すぼみになった記憶がある。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その1)

この二、三年、聴きたいのは平面バッフルの音だ。
理想をいえば2m×2mの大きさの平面バッフルを鳴らしたい、ところだが、
実際にそれだけの大型のバッフルをおさめられるだけの空間を持っていないし、
これだけの大型となると視覚的な問題も生じよう。

自分の身長よりも高い平面バッフル(に限らず通常のスピーカーであってもそうだ)は、
威圧感を無視できなくなる。
このへんの感じ方は人によって違ってくるだろうから、
どんなに高くても平気という人もいれば、
1.9m×1mの平面バッフルを使っていた経験からいえば、
実用的なサイズとしては1.2m×1.2mくらいだと感じている。

現実的にサブロク板を半分に切っての0.9m×0.9mが経済的ともいえよう。
けれど、このくらいのサイズとなると、低音のレスポンスの問題がある。
そこをどうするかも、あれこれ考えている。

そんなふうに考えているのは、
つねに心のどこかに平面バッフルの音を聴きたい気持があるからなのだが、
最近は少し違ってきている。

平面バッフルの音を聴かせたい、に変ってきている。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: audio wednesday

第90回audio wednesdayのお知らせ(AXIOM 401+Aleph 3+LNP 2)

明日(4日)のaudio wednesdayでは、グッドマンのAXIOM 401を鳴らす。
コントロールアンプにマークレビンソンのLNP2をもってくる。

LNP2はライン入力でもモジュール(増幅回路)を二段経由する。
アンプを経由すれば、音の鮮度や純度は、わずかとはいえ影響を受ける。

LNP2の使いこなしといって、TAPE OUT端子からパワーアンプへ接ぐ人がいる。
そうすればトーンコントロール回路を経由しない。
セレクターもメインボリュウムもパスできる。

音量調整は左右独立のインプットレベル調整のツマミでできる。
そうすれば音の鮮度、純度も通常の使い方よりも改善される──、
とそういう人は、そんなことを自慢気に言う。

そんなことはLNP2を使っている人、
LNP2に憧れてきた者ならばわかっていることだ。

それでもそんな使い方はしないのは、
別項で書いている「冗長と情調」に関係してくることを感じているからだ。

明日、どんな音が鳴ってくるのか、想像がつかないところもある。
それでも私にとっては、「冗長と情調」についてのヒントを得られる音が聴けるのではないか、
そんな期待を持っているし、そんなふうに鳴らしてみたい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その11)

導入記は、すでにあるオーディオ機器を購入してのものだから、
購入後ではあるけれど、購入時的な導入記もある、ということだ。

何かを、それまでのシステムに導入する。
いったいどれぐらい経ったら、購入時から購入後といえるようになるかは、
はっきりといえることではないし、人によって大きく違ってこよう。

わずか数ヵ月で購入後といえる視点をもつ人もいれば、
半年、一年、もくしはそれ以上の期間を必要とする人いるであろう。

購入時と購入後の視点をはっきりとわけるものは、
小沢コージ氏の文章中にある無意識インプレッションだと思っている。

ステレオサウンド 207号掲載の二本の導入記のうち、
原本薫子氏のそれは、力が入っているのがわかる。
それを腐すつもりは毛頭ない。

力がそうとうに入っているだけに、原本薫子氏の文章はまさに導入記といえる。
いえる、と書いてしまうのがまずければ、私にはそう感じる、といいかえよう。

つまり小沢コージ氏の文章にある
《クルマのハンドリングに関する真の評価は、そのドライバーが無意識的に走っている時にこそ行われるべきで、自分で「走るぞ!」と思っている時のステアリングの手応えや操縦安定性の評価など、あてにならないというのだ》
このことだ。

何も購入時の導入記があてにならない、といおうとしているのではなく、
いわゆる試聴テストではなく、こういう内容の記事であるからこそ、
「走るぞ!」(「聴くぞ!」)という、いわゆる蜜月をすぎたといえるようになってからの、
ようするに無意識インプレッションが、購入後の視点だと考える。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号。
巻末に「マッキントッシュ対マランツ」という特別テストが載っている。

副題として、〈タイムトンネル〉もし20年前に「ステレオサウンド」誌があったら……、
とついている。

1976年から20年ほど遡って、
当時のマッキントッシュのアンプとマランツのアンプの比較試聴である。

マッキントッシュはC8S+MC30、
マランツはModel 1+Model 6+Model 2である。

この記事を懐古趣味と一蹴するのは、簡単だ。
1976年はすでに40年前、そこからさらに20年なのだから、60年前のアンプについての記事を、
ここで取り上げるのは、ここでの試聴結果が、今回の謝罪の件にも関係してくるからだ。

機会があれば、ぜひ読んでほしい。
ここでは、菅野先生の発言のひとつだけを取り上げる。
     *
菅野 ほんと、そういう感じですよね。この二つは全く違うアンプって感じですな。コルトーのミスタッチは気にならないが、ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。
     *
岡先生は《うまい例えだな。これ、ひっくり返したら全然だめだからね》と返されている。
ほんとうにそうである。

クラシックをまったく聴かない人にはわからない例えだろうが、
言い得て妙とは、まさにこのことだ。

コルトーのところは、他のピアニストに変えることはできない。
ワイセンベルグは、ワイセンベルグに限らない。
この記事が1976年ということもあってのワイセンベルグである。

ここでコルトー的なアンプはマッキントッシュであり、
ワイセンベルグ的なのはマランツである。

そして、この例えをマッキントッシュ、マランツのアンプではなく、スピーカーに置き換えてみる。
ワイセンベルグ的(マランツ)をYGアコースティクスのHailey 1.2に、
コルトー的(マッキントッシュ)を、ステレオサウンド 207号で柳沢功氏が高く評価しているモノ、
フランコ・セルブリンのKtêmaにしてみよう。

私が染谷一編集長の立場だったら、avcat氏への説明に、この例えを使うかもしれない。
avcat氏がクラシックを聴かない人だったら、この例えは役に立たないが……。