Archive for 12月, 2017

Date: 12月 14th, 2017
Cate: 岩崎千明

537-500と岩崎千明氏(その4)

昔は、メーカーのショールームがあたりまえのように存在していた。
自社製品の試聴だけでなく、
積極的にオーディオに関するイベント・試聴会を行っているメーカーも少なくなった。

オーディオ評論家による試聴会も、ほぼ月一回行われていて(しかも複数のオーディオ評論家)、
当時熊本に住んでいた私は、
東京で暮らしているオーディオマニアをどれだけ羨ましく思ったことか。

ラックスも積極的だったことがある。
その時の話を、友人のKさんから聞いている。

あるときラックスのショールームに来ている人から、
JBLのホーンについての質問があった、とのこと。

蜂の巣、スラントプレートの音響レンズ付き、ラジアルホーン、ディフラクションホーン、
JBLのホーンはアルテックも種類が多かった。

それぞれのホーンの違いは、どういうものか、という質問だった。
岩崎先生の答は「見た目の通りの音がする」ということ。

見た目には形状だけでなく、大きさも含まれている。
材質、色、質感もふくめての見た目であり、
確かに見た目のままが音として現れている、といえよう。

質問した人は、もう少し具体的な答が欲しかったのかもしれないが、
ホーンの見た目が、そのホーンの音であるは、何もJBLのホーンについてだけいえることではなく、
すべてのホーンについていえることでもある。

Date: 12月 14th, 2017
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その39)

つきあいの長い音は、身近にいるようでいて、遠くにあるのだろうか。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Seriesとベストバイ)

ステレオサウンドの定番企画でベストバイは、
35号、43号、47号の三回は価格帯を設けずの選定だった。

51号から価格帯を分けての選択となっていった。
価格帯の分け方は難しい。

たとえば10万円未満と10万円以上のところで線引きしたとする。
99,800円のモノは下の価格帯に、
10万円を1,000円でも超えていれば上の価格帯に、と分けられる。

この二機種の価格差はどれだけあるのか、
そのことによって内容の差がどれだけ生じるのか。
そういう難しさが価格帯の設定にあることは、昔から編集部もわかっていたことだ。

いま書店に並んでいるステレオサウンドをパラパラと見てきた。
タンノイのLegacyシリーズが気になったからだ。

ベストバイにもLegacyシリーズは登場している、
つまりベストバイ・コンポーネントとして選ばれている。

けれどArden、Cheviot、Eatonが、同じ価格帯にいる。
タンノイのLegacyシリーズのために価格帯の線引きを考え直せ、なんてことはいわない。

けれど、この時代、価格帯を分けることの無理な面が露呈してきつつあるのではないか。

タンノイのArden、Cheviot、Eatonは、43号からベストバイに登場している。
もちろん今回のArden、Cheviot、Eatonは復刻版なのはわかっていても、
同じ型番、ほぼ同じ外観のArden、Cheviot、Eatonが、
同じ価格帯のベストバイ・コンポーネントであることには、どうしても違和感をおぼえる。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その38)

つきあいの長い音に映るのは、ひとりで音楽を聴く行為ゆえの何かなのだろうか。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その5)

「菅野沖彦の音を超えた」──、
そういった人もいる、と聞いている。

これを言ったのが誰なのかも聞いている。
会ったことはないけれど、インターネットではけっこう名の知られている人だ。

あくまでも又聞きだから、その人がなぜそんなことを言ったのか、
推測で書くしかないけれど、そうとうな自信をもってのひと言だった、らしい。

その人が使っている装置の総額は、
菅野先生のシステムの総額をはるかに超える。
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれているモノばかりで、
ケーブルもそうとうに高価なモノである。

その人がいったのは、システムの総額のことではない。
音のことである。

その人は、菅野先生の音を聴いている。
そのうえでの「菅野沖彦の音を超えた」──、
菅野先生の音を、ひじょうに断片的な聴き方をしての、この発言なのか。

私が菅野先生の音を聴いたのは、もう十年ほど前のことだ。
その一、二年あとに、これを聞いている。

私は、その時の菅野先生の音を聴いて、
「オーディオはここまでの再生が、やはり可能なんだ」と勇気づけられた。

オーディオの限界をどう感じるかは、人によってすいぶん違うようだ。
私は、ずっと、そうとうに高いところに限界はある、というか、
ほとんど限界はないのかもしれない、
つまりそうとうな可能性をもっている──、そんな直感が、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から持っていた。

それでも現実の音は、必ずしもそうではない。
けれど、菅野先生の音を聴いて、直感は間違ってなかった、と感じた。

その菅野先生の音を超える音を出した、という人がいる。
世の中には上には上がいる、ということはわかっている。

けれど「菅野沖彦の音を超えた」と自慢げに誰かに言っている人の音が、
菅野先生の音を超えている、とは私には思えない。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: 電源

実感した電源ノイズ事情(その2)

実は今日の昼も行ってきた。
片チャンネルから出ていたノイズを抑えるためであり、
この点に関しては、あのへんに原因があると思えたし、
事実そのとおりで、うまくいった。
昨晩やらなかったのは、ML7Aの天板を開けることができなかった(工具がなかった)から。

ただ、今度はノイズフィルターを通していても、両チャンネルからノイズが出る。
壁のコンセント直よりは、ノイズの質はまだいいし、量も少ないが、はっきりと出る。

電源のノイズが昨晩とはまた違っているためであろう。

山手線内の繁華街、
こういう場所の電源の汚れ(ひどさ)は、私の想像を超えている。

ノイズ対策は、音との兼合いがある。
ただただノイズをなくしていく手法だけでうまくいくとはいえない面がある。

とはいえ、今回のような状況では、
そうとうに積極的に電源からのノイズを抑えていく必要がある。

今度はコモンモードノイズ対策をした電源ケーブルを、近日中に持っていく。
どの程度の効果があるのか、
それに持っていった日の電源からのノイズは、また変化している可能性もある。
つまりノイズが出なくなっていることもあれば、
同じかもしくはひどくなっていることだって考えられる。

とにかく試してみるしかない。
どの程度ノイズを抑えられるのか、
うまく抑えられたとして、音への影響はどう出てくるのか。

こういう環境だからこそ確かめられる。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: 電源

実感した電源ノイズ事情(その1)

私が勤めていたころのステレオサウンドは、
窓から顔を出せば東京タワーがはっきりと見える場所にあった。
井上先生が、そのころよくいわれていたのは、ノイズ環境のひどさだった。

スイングジャーナルは東京タワーの、ほぼ真下といえるところにあったから、
ステレオサウンドの試聴室の方が条件としては悪い(ひどい)、といわれていた。

いまから約30年前の話だ。
いまやノイズ環境はひどくなるばかりといっていい。
デジタル機器が氾濫しているし、電源の状態も悪くなることはあっても、
もうよくなることはないであろう。

昨日、渋谷の明治通り沿いにあるギャラリー・ルデコでの写真展(4F)に行っていた。
マークレビンソンのML7A、No.27、スピーカーはアンサンブルのReferenceという組合せで、
音楽が流されている空間だった。

片チャンネルからバズのようなノイズが出ていた。
ノイズがどう変化するのかいくつか試したなかで、
ML7Aの電源コードを、壁のコンセントから直に取るようにしたところ、
両チャンネルから、ノイズが出るようになった。

いままでのノイズにプラスして、である。
ML7AはADCOM製のノイズフィルター内蔵のACタップから取られていた。
元に戻すと、片チャンネルだけのノイズになる。

つまり電源からのノイズが、音として聞こえてきたわけである。

ステレオサウンドの1981年の別冊「’81世界のセパレートアンプ総テスト」では、
コントロールアンプの測定で、パルス性のノイズを電源に加えた場合に、
出力に表れるかどうかということをやっている。

パルス性ノイズがそのまま出てくるアンプもあった。
ML7は優秀で、まったく出てこなかった。

それだけ現在の電源ノイズは、ある意味、すごい(ひどい)といえる。

Date: 12月 12th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その5)

長島先生は「ステレオへの分離」と書かれている。

モノーラル録音されたものをステレオにするということは、
分離でいいのだろうか、と考える。

長島先生が書かれているやり方では、
調査に音楽学者、歴史学者、が各社、エンジニア、レコーディング・ディレクター、
その他大勢の有能な人びとがあたることになる。

そうとうな時間と手間が必要となる調査である。
「2016年オーディオの旅」では、
述べ数百人の人たちが二年間かけて、
フルトヴェングラーのベートーヴェンの五番の修復が行われた、とある。

そのくらいかかるものかもしれないし、もっと人も少なく、時間も短くなるかもしれないし、
その逆だって考えられる。

まだ誰もやっていないのだから、なんともいえない。
ただそう簡単にはいかないことだけは、確かだろう。

だから思う。
人工知能が行ったら……、と。

画像処理技術の進歩を見ていると、
音を音として扱うよりも、画像として扱ったらいいのでは……、
まったくの素人は思うことがある。

コンピューター(人工知能)にとっては、
元が音であろうと画像であろうと、デジタル信号であることは同じである。

ならば人工知能の深層学習、独自学習によって、
モノーラルの音源をステレオへと分離するのではなく、
モノーラル音源を元に、新たにステレオ音源を創成することができるのではないのか。

Date: 12月 12th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その4)

ステレオサウンド 50号(1979年春)、
長島先生の「2016年オーディオの旅」の中に、
フルトヴェングラーのベートーヴェンの第五が、ステレオで再生される話が出てくる。

フルトヴェングラーの録音は、いまのところすべてモノーラルばかりである。
ステレオ録音だ、といわれていたスカラ座とのワーグナーも、
結局はモノーラルだった。
他にもウェーバーの「魔弾の射手」はステレオといわれていたが、
CDを聴くかぎり、そうといえない。

フルトヴェングラーのステレオ録音は残されているのかもしれないし、
まったく存在しないのかもしれない。

ただ市販されているディスクは、疑似ステレオをのぞけば、すべてモノーラルである。
そのフルトヴェングラーの録音が、ステレオだけでなく、最新録音のように聴こえてくる。

「2016年オーディオの旅」は創作だ。
ここに登場する主人公に、フルトヴェングラーのステレオを聴かせてKが説明する。

どのような状況で録音が行なわれたかの調査、
使用された楽器、楽器の配置、ホールの構造、材質などが綿密に調べられ、
録音器材に関しても同じことが行われる。

その調査結果を元にして、録音された信号の変化を割り出す。
そして残されているマスター(モノーラル)から、ステレオの分離が行われる──、
というものだった。

ほんとうにそんな時代が来てほしい、と、読んだ人なら、
クラシック好きの人ならみなそう思ったはずだ。

フルトヴェングラーのベートーヴェンやワーグナー、ブラームスなどが、
ステレオで聴けたなら……。

フルトヴェングラーだけではない、他にも聴きたい演奏家は大勢いる。

現実には2016年は過ぎ去っている。
そんな技術は、いまのところない。

けれど最近の人工知能(AI)による画像処理技術のニュースを見ていると、
もしかして……、と思うことがある。

Date: 12月 12th, 2017
Cate: 菅野沖彦

音のマエストロ「菅野沖彦の世界」に行ってきて……(その3)

昨晩、杉並区の中央図書館のK様からメールをいただいた。

その1)と(その2)で指摘した試聴コーナーについて、書かれてあった。

展示コーナーに職員を除虫させるわけにはいかないため、
オーディオにあまり関心のない人、機械操作になれていない人でも簡単に操作できること、
CDの盗難防止を配慮しての、ラジカセとヘッドフォンという選択ということだ。

このふたつの理由もあってのことだとは思っていた。
でもCD盗難に関しては、パソコンにリッピングして……、という手もあるのに、と思ってもいた。

今回の展示は図書館という公共の場でのものである。
著作権に触れるようなことはできない、とのことだった。

(その1)で、ステレオサウンドは協力しなかったのか、と書いたが、
決してそういうことはなかった、とのことである。

中央図書館にいかれた方は、少しがっかりされたかと思う。
けれど、今回の展示会を企画されたKさんは、オーディオマニアである。

マッキントッシュのスピーカーシステムに、マッキントッシュのアンプで鳴らされている。
菅野先生を尊敬されている。
そういう人がやっている企画である。

図書館という公共の場で、
しかも音を出すことが困難な場での苦労はあるのはわかっている。

特別展示「菅野沖彦の世界」は1月20日まである。
あと一ヵ月以上ある。

展示物もヴァージョンアップしていく、とのこと。
だから、すでに行ってがっかりした人も、もう一度足を運んでほしい、と思う。

今日(12日)発売のステレオサウンドに告知されているそうだが、
現在オーディオ・ラボのSACDを出しているオクタヴィア・レコードの江崎友淑氏による
「菅野録音の真髄」という講演も予定されている。

杉並区のウェブサイトには15日に告知される。

Date: 12月 11th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その4)

「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」と私にいってきた知人も、
私にしてみれば、「頂点まで最短距離で登っていった」という人と同類だ。

オーディオの頂点からすれば、瀬川先生の音というゴールは、
身近にあるように思えるのかもしれない。

知人は、別項でも書いているように瀬川先生の音を聴いたこともない、
瀬川先生と会ったことすらない。

仮に会っていて、瀬川先生の音を聴いていたとしても、
知人と「頂点まで最短距離で登っていった」といった人とは、やはり同類だ。

知人には、瀬川先生の音というドアはひとつしか見えてなかったようだ。
知人は、そのドアに気づいていたのか。

気づいていたとして、そのドアを開けようとしたのか、と思う。
ドアにたどり着くことが目的ではないはずだ。

そのドアを開け、さらに一歩進んだところから、
瀬川先生の音の世界は拡がっているのではないのか。

しかも知人は、間違ったドアを目指していた。

Date: 12月 11th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その7)

五味先生が「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」に、
マーラーの音楽について書かれている。
     *
よりよい音への貪欲さによることだが、貪らんで執拗な行為が、稚気を感じさせるには天性の童心がなくてはかなうまい。フォーレには、そういう童心はなかったとおもう。フォーレも執拗にパリ音楽院校長の職をはなれまいとし、きこえぬ耳で演奏会場に立った。だがマーラーとフォーレでは執念ぶかくとりついたその対象が、まるでちがう。マーラーの稚気はここに由来する。一皮剥けば、どろどろの血が奔き出してくる稚気だ。本来、執念深いユダヤ人がマーラーの中でいなくなることは、片時だってないのである。マーラーの交響曲をどれでもいい、聴いてみるといい。金管楽器の斉唱が必ずある。耳をつんざく咆哮で、どうしてそういつもむきに吹き鳴らすのかと言いたいほどだが、やがてつづく弦の旋律のこよない美しさは独特だ。時に耽美的で、悲痛で、全曲をそれは有機づけ、くさぐさなモチーフを敷衍させるうちにオーケストラが幾つかの動機でこれに絡みつく。動機はさまざまに変形され、響きわたると茫漠とした一つの世界がそこに展開される。そして突如、沈黙がおとずれヴァイオリンのソロが、トレモロで得もいえぬ甘美な、感傷的な調べをかなでる。それは木管に受けつがれ、絶妙な調和がそこにある、と、又もや冒頭の金管の動機がはげしく吹き鳴らされ、やや急しく弦楽器がこれにからみ、追いつき、さまざまな動機を飽和して曲は昂揚の頂点へのぼってゆく……そんなパタンのくり返しだ。本来淡泊な日本人のわれわれには、もうわかった、もう充分わかったと制したくなるほどだが、マーラーは止めない。執拗に執拗にパタンをくり返し、金管を咆哮させる。時には不協和音を殊更きかせるつもりかと怪しみたいくらい、弓ですべての弦を(それも強く!)こすらせる。マーラーならどの作品番号を取りあげてもこの執拗な——稚気などカケラもない〝闇〟が、ある。
     *
まさに、このとおりの音楽である、マーラーの交響曲は。
第二番の第一楽章もそうである。

マーラーは、くり返す。
くり返すから、長くなる。
二番の第一楽章も20分前後の時間を必要とする。

マーラーは苦手、マーラーは嫌い、
マーラーは聴きたくない、という人がいても、そうだろうと思うことだってある。

まして空気を揺らし、時には部屋をも揺らすような音量で鳴らすのだから、
マーラーを苦手とする人は、その部屋から逃げ出しても、そうだろうと思う。

それでも音量を下げようとは、微塵も思わない。

アルマ・マーラーは、もっと端的に語っている。
「形成を告知する混沌」だと。

だから、そこには尋常ならざるエネルギーが、どちらにも要求される。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その3)

行き着いたと思ったところに、その次に進む道が見えてくる。
しかも道は一本とは限らない。

それはオーディオも同じのはずだ。
なのに……、と思うことが、これまでも何度かあった。

ある人は「頂点まで最短距離で登っていった」と、私に言った。
あきれるをとおりこして、無表情で聞いているしかない。

この人には、道が一本しか見えなかったのか。
それとも一本しか見てこなかったのか。

本人は行き着くところまでいった、と思っている、
信じ込んでいるのだろう。

その人は、見たコトのないドアのあるところまでたどり着いていないだけなのかもしれない。
もしかすると、本人は前だけを見ているつもりでも、下だけを見ているのかもしれない。

ピュアオーディオとは、映像をともなわない、音だけの世界のこととしか使われている。

「頂点まで最短距離で登っていった」といった人がやっているのも、
その意味ではピュアオーディオといえる。

けれど、その人は「頂点まで最短距離で登っていった」といってしまった。
その時点で、別の意味でのピュアオーディオからは外れてしまった、ともいえる。
純粋な気持で取り組む意味でのピュアではなくなっている。

だから、自分のいるところを頂点だと勘違いしてしまうし、
見たコトのないドアにも気づかない。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: 映画

ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire)

1984年に公開された「ストリート・オブ・ファイヤー」。
先月やっとBlu-Rayでの発売。

アメリカでは数年前から出ていたのに、なぜか日本ではなかなか発売されず。

「ストリート・オブ・ファイヤー」は映画館で二度観た、初めての映画だった。
20代のころ、休日は映画館のハシゴをしていた。
一日に三本観ていた。

新宿が主だった。
紀伊國屋書店の裏にチケット売場があって、
そこには新宿の映画館の上映時間がホワイトボードに書いてあった。

それを見て、上映時間と終了時間を確認して、その日に観る映画と順番を決めていた。
とにかく一本でも多くの映画を観たい、と思っていた時期だった。

にもかかわらず「ストリート・オブ・ファイヤー」だけは一週間もしないうちに、
もう一度観に行った。
行きたくて行きたくて、新しい、まだ観てない映画よりも、
数日前に観たばかり「ストリート・オブ・ファイヤー」を優先してしまった。

あのころは、なぜ、そこまでして二度観たかったのか、わからなかった。
いまはわかる。

「ストリート・オブ・ファイヤー」は、
ダイアン・レイン演ずるエレン・エイムのステージから始まる。
ラストもエレン・エイムのステージで終る。

結局、エレン・エイムの歌を、もう一度聴きたかったのだ。
「ストリート・オブ・ファイヤー」が、初めて買ったサウンドトラック盤でもある。

まだLPの時代だった。

いまはHuluでも公開しているので、
iPhoneがあれば、いつでもどこででも観ることができる。

エレン・エイムの歌(ダイアン・レインが歌っているわけではない)を聴きたくなったら、
CDはあるから、それを聴けばいいのだが、
Huluで、そのシーンだけ観る(聴く)方が楽しい。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(余談)

オーディオ評論というテーマで、150本以上書いてきている。

書きながら、思い出したことがある。
(じろん)である。

小学生のころだった、初めて(じろん)という言葉を聞いた時、自論だ、と思った。
幸い、作文などで(じろん)を使うことはなかったから、間違いはバレなかった。
中学生になって、持論なんだ、と知った。

(じせつ)には、自説と持説がある。
けれど(じろん)には、持論だけで、自論はない。

オーディオ評論について考えることは、評論について考えることでもある。
評論には「論」がついている。
自論ではなく、持論の「論」がついている。