Archive for 11月, 2017

Date: 11月 14th, 2017
Cate: 広告

広告の変遷(ナガオカの広告)

広告のキャッチコピーで気に入っているものはいくつかある。
その中のひとつ、1974年ごろのナガオカの広告に「スピーカーの生あくび」というのがある。

モノクロの広告。
3ウェイ・スピーカーのイラストがある。

ウーファーが口、スコーカーか鼻、トゥイーターが左右にひとつずつあり、これが目。
眠そうな目をしたトゥイーターである。

いかにもスピーカーが生あくびしている風のイラストである。

スピーカーが生あくびしているような音は、
オーディオショウに行けば、けっこう聴ける。

Date: 11月 14th, 2017
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その7)

人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる過った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。
     *
瀬川先生がステレオサウンド 31号の特集で書かれている文章からの引用だ。
31号は1974年夏号。

31号は、ステレオサウンド時代に読んでいる。
その時(ハタチぐらい)には、ここに出てくる「人間のこころの機能」の重さに気づかなかった。

いまやっと気づく。
「人間のこころの機能」、
このことを無視したところに、オーディオの科学も存在しない。

こうやって毎日書いているから、気づけた「人間のこころの機能」である。

Date: 11月 14th, 2017
Cate: ケーブル

ケーブル考(銀線のこと・その16)

1980年代の後半になってからだったと記憶しているが、
ラジオ技術にアルミニウム線のことが記事になるようになった。
五十嵐一郎氏が度々書かれていた。

たしかオヤイデが純度の高いアルミの単線を扱うようになったからである。

五十嵐一郎氏の記事、
といってもアルミ線そのものの試聴記事というよりも、
新製品の試聴記事の中で、アルミ線について触れられていたのが主だった、と記憶している。

読みながら、アルミ線の音は、銀線の音にどこか共通するような印象を受けることが、
何度かあった。

ここでの銀線の音というのは、あくまでも私の中だけのものであって、
銀線ほど人によって印象は大きく違っているようだから、
銀線とアルミ線の音に共通するような因子がある感じる人もいれば、
そんなことはないという人もいるだろう。

そのくらい銀線の音の印象は違うのは、
当時銀線と謳われて市場に出廻っていたものは、それこそ千差万別だだったようである。
表面だけ銀という、なかばマガイモノの銀線もあったときいている。

それに銀線の純度もさまざまだったらしい。
もっとも純度が高いから、いい音がするとは思っていないけれど、
銀固有の音は、やはり純度が高いほど出てくるのだろうか。

とにかく五十嵐一郎氏のアルミ線の印象が、
少なくとも私の中では銀線の印象と重なっているところがあり、
そのことが銀線とアルミ線は、色が似ている、ということにつながっていった。

Date: 11月 14th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その32)

接点をこまめにクリーニングするということは、
クリーニングの度にケーブルを外しているわけである。
そのときに、RCAプラグがスポッと簡単に抜けてしまうとか、
スピーカー端子の締めがゆるいとか、
そういうことに気づかずに、ただクリーニングだけに気を取られていた知人は、
接点はクリーニングされていれば、それでいいんだ、と理解していたのかもしれない。

オーディオを通してであっても、
理解とは、人によってこんなにも違うのかと思うことが、少なくない。

知人は接点には気をつかっていると自負していた。
けれどクリーニングだけ、キレイにすることだけで、
しっかりと接触させるということに関しては、気が回らなかったのか、
無関心だったのか、とにかくゆるゆるの接続であった。

そういえば……、と思い出すことがある。
ある人からきかれた。

「昔のリンのLP12って、ターンテーブルの加工精度がひどかったんですか」と。
「そんなことはない」と答えたが、話をきいていくと、
きいてきた人の知人が、そんなことを言っていた、とのこと。

その人はLP12のターンテーブルが揺れながら回転していたから、
どうもそういう結論(加工精度が悪い)になったようだ。

私がLP12を見て、聴いたのは1980年になってからだった。
その数年前からLP12は輸入されていた。
そのころのLP12まで知っているわけではないが、
少なくともLP12は高い加工精度を特徴としていたフローティング型である。

LP12は加工精度が悪いといっていた人が、
自身でLP12を使っていたのか、それともどこかで見ただけなのかははっきりしないが、
おそらくフローティング型ゆえのサスペンションの調整が、
そうとうにひどかったのではないかと思われる。

Date: 11月 13th, 2017
Cate: カタチ

537-500におけるVery Near Field(その2)

以前、オーディオクラフトの試作スピーカーシステムAP320について書いた。

BBCモニターの音に惹かれていて、
ロジャースのPM510が欲しくて欲しくてたまらなかった当時の私には、
非常に気になるスピーカーシステムだった。

結局試作品だけで終ってしまった。
このAP320のことはステレオサウンド 65号掲載のオーディオクラフトの広告ぐらいしか情報がない。

AP320は、ソフトドーム型のトゥイーターを二基搭載している。
縦に一列、横に一列といった配置ではなく、前後に一列という、
おそらくそれまで例のない使用法である。

パッと見た目は手前のトゥイーターだけが目に入り、
後に配置されているトゥイーターにはすぐには気がつかないかもしれない。

手前のトゥイーターの周囲は、いわゆるバッフル板ではなく、
孔がいくつも開けられている。
パンチングメタルか、パンチングメタルのようなものである。

つまり後方のトゥイーターが発する音は、この孔を通して放射されるわけである。

二基のトゥイーターがどれだけ離されているのかはわからない。
10cm程度だとしても、それだけの時間のズレ、位相のズレは生じる。

ただ単に二基のトゥイーターを前後に配しただけでは、デメリットのほうが多いように思う。
けれど、そこに一工夫、いくつもの小孔を通して後方のトゥイーターの音は、
小孔の位置が仮想音源ともなる。

つまり実音源が前後にひとつずつあり、
手前の実音源の周囲に仮想音源がある。

たとえば小孔が開けられているものが、
537-500のようなパンチングメタルを何枚も重ねたものであったら、
そこにVery Near Fieldができるのではないのか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: カタチ

537-500におけるVery Near Field(その1)

537-500にしてもLE175DLHにしても、
パンチングメタルを複数枚重ねた音響レンズのところに仮想音源ができる。

昔の175は音響レンズが外せたそうだ。
外した音は、指向特性が鋭くなるばかりか、ホーンの奥に音像が定位するため、
ウーファーとの距離的ズレか気になってくる、といわれている。

175では試したことはないが、
スラントプレートの音響レンズも外した音を聴くと、同じ傾向を示す。

音響レンズは形状の違いはあっても、その位置に仮想音源ができる。
ということは、音響レンズの位置は、Very Near Fieldなのか、と思う。

スラントプレートの音響レンズよりも、
蜂の巣と呼ばれるパーフォレイテッド型は、Very Near Fieldがそこにできている──、
そう思えてならない。

もちろんダイアフラムのところにもVery Near Fieldもある。
実音源のところにVery Near Fieldがあり、仮想音源のところにもVery Near Fieldがある。

そう考えられるとしたら、537-500への考え方は修正の必要が出てくる。
いまでは音響関係のシミュレーションソフトがある。

ほとんどが研究開発用であり、個人が使うには高価すぎるものばかりだが、
これらのシミュレーションソフトを使って537-500を徹底的に解析していったら、
音響レンズ新たな発展を遂げるのだろうか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その4)

瀬川先生がマランツのModel 7を購入された時のことは、
ステレオサウンド 52号に書いてある。
     *
 余談が長くなってしまったが、そうして昭和三十年代の半ばごろまでアンプは自作するものときめこんでいたが、昭和36年以降、本格的に独立してインダストリアルデザインの道を進みはじめると、そろそろ、アンプの設計や製作のための時間を作ることが困難なほど多忙になりはじめた。一日の仕事を終って家に帰ると、もうアンプの回路のことを考えたり、ハンダごてを握るよりも、好きな一枚のレコードで、何も考えずにただ疲れを癒したい、という気分になってくる。そんな次第から、もうこの辺で自作から足を洗って、何かひとつ、完成度の高いアンプを購入したい、というように考えが変ってきた。
 もうその頃になると、国内の専業メーカーからも、数少ないとはいえ各種のアンプが市販されるようになってはいたが、なにしろ十数年間、自分で設計し改造しながら、コンストラクションやデザインといった外観仕上げにまで、へたなメーカー製品など何ものともしない程度のアンプは作ってきた目で眺めると、なみたいていの製品では、これを買って成仏しようという気を起こさせない。迷いながらも選択はどんどんエスカレートして、結局、マランツのモデル7を買うことに決心してしまった。
 などと書くといとも容易に買ってしまったみたいだが、そんなことはない。当時の価格で十六万円弱、といえば、なにしろ大卒の初任給が三万円に達したかどうかという時代だから、まあ相当に思い切った買物だ。それで貯金の大半をはたいてしまうと、パワーアンプはマランツには手が出なくなって、QUADのII型(KT66PP)を買った。このことからもわたくしがプリアンプのほうに重きを置く人間であることがいえる。
 ともかく、マランツ7+QUAD/II(×2)という、わたくしとしては初めて買うメーカー製のアンプが我が家で鳴りはじめた。
 いや、こういうありきたりの書きかたは、スイッチを入れて初めて鳴った音のおどろきをとても説明できていない。
 何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
 マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。いったい、いままでの十何年間、心血そそいで作り、改造してきた俺のプリアンプは、一体何だったのだろう。いや、わたくしのプリアンプばかりではない。自作のプリアンプを、先輩や友人たちの作ったアンプと鳴きくらべもしてみて、まあまあの水準だと思ってきた。だがマランツ7の音は、その過去のあらゆる体験から想像もつかないように、緻密で、音の輪郭がしっかりしていると同時にその音の中味には十二分にコクがあった。何という上質の、何というバランスのよい音質だったか。だとすると、わたくしひとりではない、いままで我々日本のアマチュアたちが、何の疑いもなく自信を持って製作し、聴いてきたアンプというのは、あれは一体、何だったのか……。日本のアマチュアの中でも、おそらく最高水準の人たち、そのままメーカーのチーフクラスで通る人たちの作ったアンプが、そう思わせたということは、結局のところ、我々全体が井の中の蛙だったということなのか──。
     *
この時、瀬川先生はModel 7の回路図も入手されていたのだろうか。
ここにははっきりと書かれていないが、
「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号での「私のマッキントッシュ観」では、こう書かれている。
     *
 昭和31年の2月、フランク・H・マッキントッシュは日本を訪問している。マッキントッシュ・アンプの設計者でありマッキントッシュ社の社長として日本でもよく知られていたミスター・マッキントッシュが、何の前ぶれもなしに突然日本にやって来たというので、『ラジオ技術』誌のレギュラー筆者たちが急遽彼にインタビューを申し込み、そのリポートが「マッキントッシュ氏との305分!」という記事にまとめられている。こんな古い記事のことをなんで私が憶えているのかといえば、ちょうど同じこの号が、おそらく日本で最初にマルチアンプ・システムを大々的にとりあげた特集号でもあって、「マルチスピーカーかマルチアンプか」という総合特集記事の中には、私もまた執筆者のはしくれとして名を連ねていたからでもあるが、しかしこのころの私はまた『ラジオ技術』誌のかなり熱心な愛読者でもあって、加藤秀夫、乙部融郎、中村久次、高橋三郎氏らこの道の先輩達によるマッキントッシュ氏へのインタビュウを、相当の興味を抱いて読んだこともまた確かだった。
 しかしその当時、マッキントッシュ・アンプの実物にはお目にかかる機会はほとんどなかった。というよりも日本という国全体が、高級な海外製品を輸入などできないほど貧しい時代だった。オーディオのマーケットもまだきわめて小さかった。安月給とりのアマチュアが、いくらかでもマシなアンプを手に入れようと思えば、こつこつとパーツを買い集めて図面をひいて、シャーシの設計からはじめてすべてを自作するという時代だった。回路の研究のために海外の著名なアンプの回路を調べたり分析して、マランツやマッキントッシュのアンプのこともむろん知ってはいたが、少なくとも回路設計の面からは、それら高級アンプの本当の姿を読みとることが(当時の私の知識では)できなくて、ことにマッキントッシュのパワーアップに至っては、その特殊なアウトプットトランスを製作することは不可能だったし、輸入することも思いつかなかったから、製作してみようなどと、とても考えてもみなかった。そうしてまで音を聴いてみるだけの価値のあるアンプであることなど全く知らなかった。これはマッキントッシュに限った話ではない。私ばかりでなく、当時のオーディオ・アマチュアの多くは、欧米の高級オーディオ機器の真価をほとんど知らずにいた、といえる。実物はめったに入ってこなかったし、まれに目にすることはあっても、本当の音で鳴っているのを聴く機会などなかったし、仮に音を聴いたとしても、その本当の良さが私の耳で理解できたかどうか──。
 イソップの物語に、狐と酸っぱい葡萄の話がある。おいしそうな葡萄が垂れ下がっている。狐は何度も飛びつこうとするが、どうしても葡萄の房にとどかない。やがて狐は「なんだい、あんな酸っぱい葡萄なんぞ、誰が喰ってやるものか!」と悪態をついて去る、という話だ。
 雑誌の記事や広告の写真でしか見ることのできない海外の、しかも高価なオーディオパーツは、私たち貧しいアマチュアにとって「すっぱいぶどう」であった。少なくとも私など、アメリカのアンプなんぞ回路図を調べてみれば、マランツだってマッキントッシュだってたいしたもんじゃないさ、みたいな気持を持っていた。私ばかりではない。前記の『ラジオ技術』誌あたりも、長いこと、海外のパーツについて正しい認識でとりあげていたとは思えない。そういう記事を読んでますます、なに、アメリカのオーディオ機器なんざ……という気持で固まってしまっていた。
     *
はっきりとはModel 7の回路図とは書かれてないが、
おそらくModel 7の購入にあたっては、回路図も入手されていたと思われる。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その19)

「狂気の如く」、「狂気の再現」と、
中野英男氏の文章にある。

1970年代のオーディオのキーワードは、
実のところ、「狂気」だと私はずっと感じてきている。
私だけではない、30年以上のつきあいのあるKさん。

私より少し年上で、10代のころJBLを鳴らしてきたKさんも、
同じように感じている。

JBLの4343、4350には、確かに狂気がある。
4344、4355になって、その狂気は薄れたように感じる。

マークレビンソンのアンプ、
JC2、LNP2、ML2、ML6あたりまでは、マーク・レヴィンソンの狂気があるし、
GAS、そしてSUMOのアンプには、ジェームズ・ボンジョルノの、
レヴィンソンとは違う狂気があって、それは音として顕れていた。

これだけではない、他にもいくつも挙げていくことができる。
けれどスペンドールのBCIIIは、私の頭の中では狂気と結びつくことはなかった。
音を聴いていないということもそうだが、BCIIの音からしても、
当時のイギリスのBBCモニターの流れを汲むスピーカーの音からしても、
そこに狂気がひそんでいる、とは考えにくかった。

けれど中野英男氏は、非常に限られた条件下とはいえるが、
「狂気の如く」「狂気の再現」とまで書かれている。

BCIIIも1970年代のオーディオである。
BCIIのまとめ方のうまさからすると、
BCIIIはやや気難しさをもつようにも感じるまとめ方のようにも感じるが、
それゆえに狂気につながっていくのだろうか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その10)

ステレオサウンド 31号(1974年夏号)に、
「音は耳に聴こえるから音……」という記事が載っている。

岡原勝氏と瀬川先生による実験を交えながらの問題提起である。
そこに、こういう対話がある。
     *
瀬川 最近特に感じるのですが、受け取る側も作る側も科学というものの認識が根本から間違っているのではないでしょうか。
 これはことオーディオに限らないと思いますが、一般的に言って日本人はあらゆるものごとに白黒をつけないと納得しないわけですよ。ふつう一般には、科学というものは数字で正しく割り切れるもので、たとえば歪みは極小、f特はあくまでフラットでなくては……というように短絡的に理解してしまっている。そのようには割り切れないものだという言い方には大変な不信感を抱くようなのですね。
 寺田寅彦や中谷宇吉郎らの、日本の本物の科学者というのは、科学を真に突き詰めた結果、科学さえも最後は人間の情念と結びつくというところまで到達していると思うのですが。
岡原 それで思い出したのですが、JISでスピーカーの規格を選定する時、大変困ってしまいまして、八木(秀次)先生にご意見を伺いにいったのです。
 すると『音響製品の規格を決めようとしているのでしょう。それならば聴いて良いものが良い製品だという規格を作ればいいのではないですか。』と仰るのですよ。
瀬川 さすがに本当の科学者ですね。しかし、八木先生のような現代日本最高の科学者にして初めて言える言葉ですね。
 ところが、今の科学というのは先に何か条件が決まっていて──しかもそれさえ誰が決めたのだか分らないようなものですが──まだ欠けたところが沢山あるが数字だけは整っているような条件にきちんと合わせてものをつくりさえすれば、それがいいはずで、それが良くないというのは聴いている人の方が悪いと言いかねない。それが今の大多数にとっての科学のような気がするのですが。
岡原 それは現在の科学は仮定の上に成り立っている学問だからなのですよ。
 ある境界条件を与え、その中だけならばそれでいいのかもしれないが、その条件の与え方そのものが間違っているのですよ。
 それより先にもっと大切なことがあるのに、それを無視して境界条件を決めてしまい、その中で完全なものができたと言っても仕様がない。
     *
この短期連載記事は、学ぶところが実に多い。
ステレオサウンドから出た瀬川先生の著作集には、残念なことに収められていない。

ここに出てくる八木先生とは、八木アンテナで知られる八木秀次氏である。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: 岩崎千明

537-500と岩崎千明氏(その3)

537-500といえば、
1970年代当時、オリンパスの上に乗っているホーンというイメージが強い。

Olympus S8Rは、ウーファーLE15AにパッシヴラジエーターPR15、
スコーカーは375とスラントプレートの音響レンズのHL93、
トゥイーターは075という3ウェイ・システム。

375をエンクロージュアから取り出し、
ホーンをHL93から537-500にしている人は、当時どのくらいいたのだろうか。

オリンパスの組格子のグリルと537-500のパンチングメタル。
材質は木と金属、色も違う。
孔の形状も違う。

そのコントラストが、うまくいっていたように感じる。
写真をみても、そう思うのだから、
実際にその姿を見て、しかもオリンパスを鳴らしている人だったら、
いつかはオレも537-500……、と決意するのではないのか。

これは誰がやりはじめたことなのだろうか。
おそらく375の強烈なエネルギーが、家庭用としては、
そして鳴らしはじめのころは、中高域のどぎつさ、刺々しさとして聴こえてしまうことを、
やわらげるためなのだろう。

JBLにホーンはいくつもあった。
プロフェッショナル用も含めると、けっこうな数になるが、
オリンパスの上に2397をもってきたら、音はともかくとして見た目はまったく似合わない。

ゴールドウィングの537-509にしても、
ハーツフィールドに収まっている状態では、見事に決っているけれど、
それでは、と……、オリンパスの上にのせてしまったら、どうなるか。

オリンパスの上にのせて似合う(様になる)ホーンは、結局537-500だけかもしれない。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その13)

「いろ(ジャズ)」のワイドレンジと、
「かたち(クラシック)」のワイドレンジとがある、と(その1)から書いてきている。

10月のaudio wednesdayで、グッドマンのDLM2からJBLの075へと変更した。
音が大きく変化したことは、
別項『アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音)』で書いている。

075にして、心地よい朝日のような明るさを感じた、とも書いた。
そのことと密接に関係しての「いろ(ジャズ)」のワイドレンジだと感じた。

明るくなることではっきりとしてくる色がある。
DLM2の音は見えにくかった(聴こえにくかった)、
もしくは見えてなかった(聴こえてなかった)色が、075は提示してくれる。

それは、昔からいわれているようにトゥイーターを替えれば、
トゥイーターの受持帯域だけでなく、中域も低域も変ってくる。

だから色が見えはじめてくる。
まだまだ十分な「いろ(ジャズ)」のワイドレンジではないが、
075によって、ひとつの手応えを得ることができた。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その9)

「急性心不全の患者がいたとします」──法事の席上で中年の医者が話しはじめた。
 故人は五十歳余りでこの世を去った銀行員である。東大を出て一流銀行に入りながら、これからという時に身体をこわし、不遇と憂悶のうちに身罷った。医師は故人の旧友。開業医を営んで三十年近くなる。彼には親友の死が「近代医学」に起因するもののように思われてならない。死因について、大学病院は種々の説明を加えたが、手遅れと化学薬品の副作用がその大きな部分を占めていたことは否定できなかった。
 医師は話を続ける。「心不全なんて病気は聴診器一本で九九%わかるんです。いや、一〇〇%と言い切っていいかもしれません。私の場合、心不全の徴候を見付けたときは確認のために一枚レントゲンを撮り、緊急処置を施して患者を休ませ、何日かして症状が治まったのち、もう一度治癒確認のため写真を撮り、余病の有無を調べてOKであれば退院させます。今迄それで失敗した例はありません。大家はレントゲンなんか撮らないんです。ところが、大病院の若い医者は、病因を確定するために十数枚、ときには七十枚もレントゲン写真を撮影する。聴診器による診断、人間の感性による診断を信用しないし、自信もないんです。その結果、患者の病因が確定するまでに数日、悪くすれば十日以上かかってしまう。心不全だということが証明されたときには、患者の身体が参ってしまっていることすらあります。手当の遅れに加え、検査疲れがひどいからです。検査薬の投与による余病併発だって考えられる。そうしたら大変です。余病の病名確定のため、また検査が始まります。医師にとって一番大切なことは、患者の苦痛を和らげ、生命を助けることである筈なのに、近頃の若い医者は病名の確定を最優先に考え、患者自身の生命を二義的に扱う傾向があるような気がしてなりません。残念なことです」
 ここ一、二年、私はことあるごとに「オーディオ機器の開発はもう一度原点に立ち返るべきだ」と言い続けてきた。ステレオは一体何のために開発されたのか。いうまでもなく、それは「音楽」を聴くために、「音楽」をよりよく味わうために開発されたのではなかったのか。ところが、最近のレコード、最新のオーディオ機器を聴くたびに、私はひどく不安な、たまらなく虚しい気持に襲われることが多くなった。「何か大切なものが失われている、失われかけている」そんな叫びをあげたくなることの多いこの頃である。
     *
中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」のなかから「或る医師の歎き」からの引用だ。

最近、テレビ朝日のドラマ「ドクターX」を見ている。
仕事関係の知人が、以前から「おもしろい」といっていた。
「見た方がいいですよ」ともいっていた。

といわれてもテレビを持っていないし、
日本のドラマを見るくらいなら、見たい海外ドラマがまだまだあるのに……、と思う私は、
医療ドラマならば、もっとおもしろいものが海外ドラマにいっぱいあるよ、と、
その知人に言い返していた。

数ヵ月前から、amazonのPrime Videoで「ドクターX」の配信が始まった。
テレビがなくとも見れるようになったから、試しにシーズン1から見始めた。
(シーズン4まで見終って、シーズン1の内田有紀の美しさは、
なにか特別なものがあるように感じた。)

「ドクターX」の舞台は大学病院である。
ドラマなのはわかっている。
それでも、病名確定のために、かなりの時間が割かれている描き方がある。

「或る医師の歎き」は、いまから40年ほど前のことである。
時代は変っているのはわかっている。
いい方にばかり変っているわけでもないし、
悪い方ばかりに変っている、とも思っていない。

けれど病院での検査は、40年前よりも増えている。
より正確な検査が可能になっている、ともいえる。

聴診器ひとつでわかることに、いくつもの検査をしているのではないか。
聴診器による診断は、人間の感性による診断である。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その11)

ある個人が、完璧な波形再現を目指してスピーカーの開発に取りかかったとしよう。
波形再現を目指しているのだから、耳で聴いての結果よりも、
まずマイクロフォンを使っての測定、そして波形の比較となる。

個人で無響室をもっている人は、まずいない。
個人の場合、自身のリスニングルームが測定の場となろう。
その時、部屋の音響特性の影響から少しでも逃れるために、
マイクロフォンをスピーカーのごく近くに置く。

1mでも、部屋の影響を無視できるわけではない。
もっと近づけて測定することになろう。
50cmか30cm、それとももっと近く10cmくらいのところにマイクロフォンを立てるかもしれない。

部屋が広ければ、そしてデッドであれば、
マイクロフォンの距離はそこまで近づけなくてもすむだろうが、
部屋が小さくなれば、それだけスピーカーとマイクロフォンの距離は近づく。

そうなってくると、Near Fieldと呼ばれるところにマイクロフォンが来ることだってある。
さすがにVery Near Fieldまでマイクロフォンを近づけることはないと思うが、
それだってまったくない、とはいえない。

Very Near Field、Near Field、Far Fieldの違い、
そこでの音のふるまいを十分に理解したうえで、マイクロフォンを立てての測定なのだろうか。

測定の難しさは、ここにある。
測定をしている本人が測定していると思っている現象ではなく、
違う現象を測定していることだってある。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その10)

スピーカーから出た音をマイクロフォンで拾い、その波形を測定する。
この時、メーカーならば、無響室にスピーカーを置き、
スピーカーの正面1mの距離にマイクロフォンを立てて測定する。

スピーカーの音圧は、距離の二乗に反比例することは知られている。
しかも、この現象は、音源から、ある一定以上離れたところから起る現象である。

音源に近いところでは、音圧がまったく変らないわけではないが、
変化はゆるやかで、しかも必ずしも低下するわけでもない。

音響学では、距離の二乗に反比例して音圧が低下する領域を、Far Field、
音源に近く、音圧の変化がゆるやかな領域を、Near Fieldと呼ぶ。
Near Fieldのことを、近傍音響ともいう。

さらにもっと音源に近づいた領域、
この領域の空気は、慣性をもったマスのような性質をもっている、とある。
この領域をVery Near Fieldと呼ぶ。

このことについて、私はこれ以上の知識をもたないが、
スピーカーにごく接近した領域と離れた領域とでは、
音圧ひとつとっても違う変化を見せる、ということは知っておいた方がいい。

それから1mぐらいの距離で測定する場合、
低音に関しては、ほんとうのところはわからない、とは昔からいわれている。
低音の波長は長いからであって、
スピーカーから1mの距離は、音速を340m/secとするならば、340Hzの波長である。
つまり1mの距離があれば、340Hzの音は一波長分確保されている。

けれどそれ以下の音に関しては、1mは一波長の中に、マイクロフォンがあるわけだ。
34Hzで10mの波長。20Hzならば17mの波長。
これだけの距離をとって測定することは、
そうとうに大きな無響室か、
広いグラウンドにスピーカーを植えに向けて埋めて、
グラウンド面を巨大なバッフルとして、上空高くにマイクロフォンを置いて、ということになる。

何がいいたいかというと、
スピーカーに接するかのようにマイクロフォンを置いて測定することの難しさというか、
不確実さがある、ということだ。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その15)

盃と酒。
酒に月が映っている。
その「月」を武士が呑む。

そういうシーンを、時代劇で何度か見ている。

盃は、(さかずき)であって(さかづき)ではない。
それでも、そんな時代劇のシーンを見ると、(さかづき)なのかもしれないとふと思う。

月はひとつしかない。
盃の中の酒にある月は、ほんとうの月ではない。
あくまでも映った月であっても、それを呑む。

盃だけでは、そこに月は映らない。
酒という液体があってこそ、月が映り、呑める。

盃は器だ。
オーディオも、その意味で器である。
月は、原音と考えることもできる。

酒は、なんなのか。