Archive for 5月, 2017

Date: 5月 23rd, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その16)

その人個人の説をつらぬいたオーディオの入門書は、主観的にならないのか。
オーディオの入門書ならば客観的であるべき──、と考える人はいると思う。

そういう人たちがつくり手側にいるから、あたりさわりのない入門書まがいの本が出てくる。

考えてほしいのは、オーディオの入門書はオーディオの解説書か、ということだ。
解説書であるならば、客観的なことが書けよう、解説書なのだから。

だが入門書は、解説書ではない。
同じ意味では、評論は解説ではない。
評論に客観性を求める人がいるが、
そういう人は評論を解説だと勘違いしているのではないのか。

オーディオ評論とオーディオ解説をいっしょくたに捉えて、
オーディオ評論に対して主観的すぎる、客観的でない、ということ自体がおかしい、と私は思っている。

オーディオのシクミについて分かりやすく解きました──、
それは解説書である。どこまでいっても解説書であって、入門書とはいえない。

入門書とは、オーディオの入門書とは、(その14)で引用している瀬川先生のあとがきにすでに書かれている。
その中の「第二に」のところを.もういちど読んでほしい。

これからオーディオの世界に入ってこようとしている者が、
オーディオという広い・深い趣味の世界を覗くことはまず無理である。
誰かの目を借りて、その広い・深い世界を覗きこむことしかできない。

誰の目を借りるのか。
これは読み手側にとって大事なことであり、
書き手側にとっては読み手の目となることをどれだけ意識しているのか、
そのために大事なことは、その人個人の説をつらぬくこと、それ以外になにがあるのか。

Date: 5月 22nd, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その15)

いま書店で購入できるオーディオの入門書で、
ひとりの筆者による本はあるのだろうか。
あったような気はするが、誰が書いていたのかを目を通していたはずなのに思い出せない。

思い出せないというのは、その入門書が「コンポーネントステレオのすすめ」とは、
根本的に違っているから、と私は思っている。

瀬川冬樹が書いていないから「コンポーネントステレオのすすめ」とは違う、とか、
「コンポーネントステレオのすすめ」的内容でないから──、そんな理由からではない。

あとがきにある
《「結局瀬川個人のものの見方しかないのだから当りさわりのない入門書ではなく、瀬川個人の説をつらぬきなさい」と強くはげましてくださった坂東清三氏》、
これにつきる。

当りさわりのない入門書だから、「コンポーネントステレオのすすめ」とは違うのである。
筆者個人の説をつらぬきとおしていないから「コンポーネントステレオのすすめ」とは違う。

この項で取り上げた岡先生の「レコードと音楽とオーディオと」も、まさしくそういう本である。
当りさわりのない入門書ではない。
岡俊雄個人の説をつらぬきとおしている入門書である。

「コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきの最後に、
参考書として二冊を挙げられている。

一冊は、オーディオに関する全般的な知識の体系化に──、ということで、
オーム社から出ていた「オーディオ百科」(全四巻、荻昌弘篇)。

もう一冊は、レコードに関するユニークな解説書として──、ということで、
岡先生の「レコードと音楽とオーディオと」。

私をオーディオの世界に導いてくれた入門書も、
五味康祐個人の説がつらぬきとおされていた。

Date: 5月 21st, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その7)

井上先生がフランスのスピーカー、キャバスを選ばれたのは、
日本語の「色」とフランス語の「色」が近いという理由からではない。

声の臨場感、生々しさ、それに定位をシビアに要求した場合に、
中高域を受け持つユニットの振動板が金属であれば、どうしても金属製の音は避けられない。
そこで高分子系のマイラー、フェノールの振動板のユニットをもつモノとして、
第一に選択されたのがロジャースのLS3/5Aで、
この延長線上でもう少しスケール感の出せるスピーカーとしてのBrigantinである。

このころの私にとってBrigantinは、JBLの4343以上に気になる存在だった。
JBLは地方の、少し大きなオーディオ店にはたいてい置いてあった。
一方のキャバスはどこにもなかった。

当時のキャバスの輸入元は成川商会。
JBLの輸入元の山水電気との規模の違い、
ブランドの知名度の違い、それらが重なってのことなのだろうが、
Brigantinを聴くことはついになかった。

聴きたくとも聴けなかったスピーカー、
スピーカーにかぎらず、アンプもカートリッジもそうだけど、
特にスピーカーは聴けなかったものの存在は、時としてずっと心に残ってしまう。

Brigantinが、そうだった。
そうだったからレコード芸術での内田光子のインタヴューを読んで、
日本語の「色」とフランス語の「色」の話が、私においてはBrigantinとつながっていき、
内田光子のインタヴューの、そのところだけを強く憶えてしまっていた。

そして考えるのは、ヤマハのNS5000の試作機が、
日本語の歌において精彩を欠いていたのは、「色」の再現ができていなかったのか。

NS5000は昨年発売になっている。
2016年のインターナショナルオーディオショウでのNS5000の音については、
私にとってはどうでもいい音になってしまっていた。
その後もじっくり聴く機会はないから、これ以上のことは書かないし、
日本語の歌がきちんと鳴るようになったのかも確認していない。

Date: 5月 21st, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その6)

十年は経っていないと思う。
七、八年前のレコード芸術(だったと記憶している)に、
内田光子のインタヴュー記事が載っていた。

来日時のインタヴューのはずだから、2009年のころだろうか。
掲載誌のレコード芸術が手元にないので、はっきりとはいえないが、
このあたりのインタヴューで間違いないと思う。

そこでのインタヴューで、内田光子は、
言葉と「色」は深く結びついている、と語っていたのが強く記憶に残っている。
言葉と「心」も切り離せない、ともいっていた。
そしてヨーロッパの言語の中で、日本語に近いのがフランス語である、とも。

内田光子は他のインタヴューでも語っているが、
日本語を特殊な言語として、英語がイエス、ノーをはっきりと相手に伝える言語に対し、
日本語は八方丸くおさめるための曖昧なところを残す言語である、と。

レコード芸術でのインタヴューは言語の「色」なのだから、
日本語とフランス語の「色」が近い、ということだろう。

なぜ、このインタヴューの、この部分を憶えているのかというと、
オーディオとの関係においてである。

私が最初に手にしたステレオサウンドは40号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」に、井上先生による組合せがある。

フランスのキャバスのスピーカー、ブリガンタン(Brigantin)を、
AGIの511とQUADの405、それにカートリッジはAKGのP8ESで鳴らす、というものだった。

この組合せは、女性ヴォーカル、それも日本人による日本語の歌をひっそりと聴く、というものだった。
ジャニス・イアンのレコードも含まれていたから、
必ずしも日本語の歌というわけではないが、
そこでの組合せの記事で山崎ハコの印象が強かったため、そんなふうに受けとめてもいた。

Date: 5月 21st, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その5)

ヤマハ、こういった場でのプレゼンテーションはソツがない。
かけるディスクの選択もそういえる。

でも2015年のインターナショナルオーディオショウでの一枚だけは、
少し気になるところというか、疑問に感じるところがあった。
山口百恵の歌だった。

よく知られている曲ではなく、私は初めて聴く山口百恵の歌だった。
まったく冴えない音が鳴っていた。

初めて聴くわけだから、録音のせいかもと思うわけだが、
他のディスクの鳴り方からすると、そうとも思えない。

山口百恵の歌がうまく鳴らなかったから、
ヴォーカルの再生がNS5000の試作機は苦手としていたのか、というとそうではない。
誰だったのか忘れてしまったが、外国人歌手による歌はなかなかよかった。
それに、これも誰だったのか忘れてしまったが、
日本人による日本語の歌でも、歌謡曲と呼ぶよりもJ-POPと呼んだほうがいい、
そういった歌においては、えっ、と思うほど、山口百恵の歌の時とは違う鳴り方をしていた。

山口百恵の歌での精彩のなさが、そこにはないのだから。
実はプレゼンテーションが始まる前、
つまり開始時間の前に、数曲鳴らされていた。
その中にも、日本語の歌はあった。

クラシックの歌い手による日本語の歌で、
実はこれもうまく鳴っていなかった。
山口百恵の歌を聴いていて、この時の音を思い出すほどに、同じように精彩の欠けた鳴り方だった。

思うに、日本語の発音として、
クラシックの歌い手と山口百恵は問題なく、
J-POPの歌い手においては、いわゆる巻舌っぽい日本語であった。

Date: 5月 21st, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その25)

その15)で黒田先生の、ステレオサウンド 59号の文章を引用している。

もう少し、別のところを引用したい。
     *
 なんといったらいいのでしょう。すくなくともぼくがきいた範囲でいうと、これまでマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせた音は、適度にナルシスト的に感じられました。自分がいい声だとわかっていて、そのことを意識しているアナウンサーの声に感じる嫌味のようなものが、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせる音にはあるように思われました。針小棒大ないい方をしたらそういうことになるということでしかないのですが。
 アメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュによれば、現代はナルシシズムの時代だそうですから、そうなると、マーク・レヴィンソンのアンプは、まさに時代の産物ということになるのかもしれません。
 それはともかく、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプをぼくがよそよそしく感じていたことは、きみもしっての通りです。にもかかわらず、きみは、雨の中をわざわざもってきてくれたいくつかのコントロールアンプの中に、ML7Lをまぜていた。なぜですか? きみには読心術の心得があるとはしりませんでした。なぜきみが、ぼくのML7Lに対する興味を察知したのか、いまもってわかりません。そのことについてそれまでに誰にもいっていないのですから、理解に苦しみます。
(中略)
 ML7Lの音には、ぼくが「マーク・レヴィンソンの音」と思いこんでいた、あの、自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配が、まるで感じられません。ひとことでいえば、すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音でした。それでいて、ひびきの微妙な色調の変化に対応できるしなやかさがありました。そのために、こだわりが解消され、満足を味ったということになります。
     *
黒田先生が、よそよそしく感じられたマークレビンソンのアンプとは、
LNP2やJC2のことである。

59号で聴かれているML7は、回路設計がジョン・カールからトム・コランジェロにかわっている。
JC2(ML1)とML7の外観はほぼ同じでも、
回路構成とともに内部も大きく変化している。

そこでの大きな変化は、とうぜん音への変化となっていあらわれている。
黒田先生が「マーク・レヴィンソンの音」と思いこまれていた
《自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配》、
こういう音を出すアンプが、健康な心をもった聴き手に合うか(向いているか)といえば、
《すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音》のML7の方がぴったり合うし、
黒田先生がML7に惚れ込まれ購入されたのも、至極当然といえよう。

Date: 5月 20th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その24)

小林利之氏の文章を読んですぐには、そうとは思えなかった。
カラヤン好きの知人がいて、彼を見ていると、どうにもそうは思えないことも関係していた。
数年後、1987年1月、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートにカラヤンが登場した。

それまではマゼールだった。
ボスコフスキーが1979年秋にニューイヤーコンサートを辞退してからの七年間、マゼールだった。
私がNHK中継で見るようになったのも、マゼールの時代だった。

いつまでマゼールなのだろうか、と思いながら見ていた。
そこにカラヤンの、いきなりの登場だった。

このころのカラヤンは相当に体調が悪かったともきいている。
それでもカラヤンは登場している。
カラヤンのニューイヤーは、これ一回きりである。

カラヤンもそうなるとわかっていたのかもしれないし、
ウィーン・フィルハーモニーのメンバーもそう思っていたのかもしれない。

1987年のニューイヤーコンサートから、録音も再開されるようになったし、
毎年リリースされるようになった。

カラヤンのニューイヤーコンサートを聴いて、
小林利之氏の文章を思い出してもいた。
確かに、カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全ではないものの同意できるようになった。

カラヤン好きの知人は、そういえばクーベリックはほとんど聴いていなかったなぁ、と思い至った。
小林利之氏は、クーベリックの演奏もカラヤン同様に、と書かれていた。
カラヤンとクーベリックの演奏を、好んで聴く人は、健康な心を持っているのかもしれない。

ならば、ここでの組合せに選ぶアンプも、そういうアンプを持ってこよう。

Date: 5月 20th, 2017
Cate: Reference

リファレンス考(その9)

コンシューマーオーディオのバランス伝送は、
コントロールアンプとパワーアンプ間で始まった。
それからCDプレーヤーの出力もバランス対応のモノが登場しはじめた。

そうなってくるコントロールアンプはバランス出力だけでなく、
バランス入力も備えるようになってくる。

最近ではMC型カートリッジのバランス接続が流行しはじめているようだが、
これは、それまで片側が接地されていたのを浮しただけともいえ、
バランス接続というよりもフローティング接続といったほうがいい。

MC型カートリッジのバランス化は、ハイフォニックが1980年代後半に行っていた。
カートリッジ内の発電コイルの中点からリード線を引き出し、
トーンアームもそれに応じて内部配線を通常の四本から六本にしたワンポイント型、
昇圧トランスも一次側巻線にセンタータップを設けたモノが用意され、
カートリッジ、トーンアーム、昇圧トランスと一式揃えることで、
バランス伝送を行うというものだった。

いまバランス接続(伝送)といっている方式は、
SMEの管球式フォノイコライザーSPA1HLのころからある。

SPA1HLは昇圧トランスを内蔵していた。
一次側巻線の片側は接地されていなかった。
入力端子は一般的なRCAコネクターで、トーンアームの出力ケーブルに二芯シールドケーブル、
もしくは同軸ケーブルならばその上に銅箔テープかアルミホイルを巻いてアースに落とすか、
このふたつで対応できる。

SPA1HLが登場したころ、SMEのトーンアームのケーブルも二芯シールド型が出てきた。
このケーブルのシールドはRCAプラグの外側には接続されていない。
リード線が引き出されていて、つまりアース線が三本になり受け側のアース端子に接ぐ。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: デザイン

表紙というデザイン(その1)

ステレオサウンドの表紙といっても、最初に書くのは別冊の表紙についてである。

1976春に瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」が出た。
表紙にはビクターのスピーカーシステムSC3II、B&Oのアナログプレーヤー、
エンパイアの4000D/IIIカートリッジ、SMEの3009/SII Improved、
QUADのコントロールアンプ33とチューナーFM3、マランツのModel 510Mパワーアンプ、
B&OのBeomaster 4000レシーバー、ヤマハのカセットデッキTC800GL、
これらを正面から撮った写真をぴっちりとレイアウトしてある。

「コンポーネントステレオのすすめ改訂版」も同じデザインで、
スピーカーはJBLの4343、ダイヤトーンのDP-EC1アナログプレーヤー、
テクニクスのプリメインアンプSU8080、コントロールアンプはマークレビンソンのJC2、
パワーアンプはヤマハのB2、チューナーはトリオのKT9100、
オルトフォンのカートリッジMC20にソニーのカセットデッキTC-K7にかわっている。

「続コンポーネントステレオのすすめ」も同じだ。
こちらはスピーカーがパイオニアのS933、アナログプレーヤーはB&O、
ラックスのプリメインアンプL3、オンキョーのレシーバーTX55、
QUADのコントロールアンプ44、マイケルソン&オースチンのTVA1パワーアンプ、
オルトフォンのカートリッジMC30、テクニクスのトーンアームEPA500、
ヤマハのカセットデッキK1である。

目次には表紙デザイン=塚本健弼、表紙写真=亀井写真事務所とある。

1977年12月に出た「コンポーネントステレオの世界 ’78」も基本的には同じ表紙である。
スピーカーはJBLの4333A、アナログプレーヤーはソニーのPS-X9、
パイオニアのプリメインアンプA0012、ヤマハのチューナーT2、
テクニクスのコントロールアンプSU-A2、QUADの405パワーアンプ、
SMEのトーンアーム3009 SeriesIIIにスタントンのカートリッジ881S、
それにミニスピーカーとしてヴィソニックのDavid50で、
「コンポーネントステレオのすすめ」と少し違うのは、
それぞれのオーディオ機器の周りに切取り線といえる点線で囲ってある。

もちろん表紙デザインは塚本健弼、表紙撮影は亀井良雄と同じである。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その23)

スピーカーは決った。
次に決めるのはアンプである。

何を持ってくるか。
スピーカーは現行モデルだから、妄想組合せとはいえ、
アンプも現行モデルの中から選びたい。

どのアンプがぴったりくるであろうか。
想像するしかないのだが、楽しい時間である。

昔、瀬川先生が、アンプ選びが難しいのは、
人にたとえればスピーカーはその人の外面であり、
アンプは人の内面に関係してくるようなものだから、といわれた。

そういうところは確かに、アンプの違いによる音の違いには、ある。
ここで、またふと思い出すのは、小林利之氏が書かれていたことだ。

ステレオサウンド 30号で、
クーベリック/ベルリンフィルハーモニーによるドヴォルザーク交響曲全集について書かれている。
その最後に、こうある。
     *
カラヤンと同様にクーベリックも健康な心を持ったファンに推めたい演奏をする指揮者である。ということは、心にかげりを持つタイプの聴き手には、あまりにもそれらは美しく優しいから屢屢たえがたい苦痛を覚えさかねないのである。そして音楽は、いつも健康な心の人のためだけあるものではないのだから、いろんなタイプの演奏が求められてしかるべきだ。クーベリックがあれば、あとはいらぬなどと言い切ることは、したがって不可能なことなのである。
     *
ずっと以前に読んでいて、記憶にのこっていた。
でもステレオサウンドの何号に載っているのか思い出せずにいた。
別項のために30号をひっぱり出していて、あぁ、ここだった、と、やっと続きを書けるようになった。

カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全には同意できないけれど、なるほどそうかもしれない、と思う気持もある。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: Reference

リファレンス考(その8)

試聴室でのリファレンス機器に求められるのは、
安定動作の他にもいくつかある。

1970年代までは機器同士の接続はアンバランス接続のみ、といえた。
パワーアンプでバランス入力を備えているモノもわずかとはいえあったが、
アンバランス入力も備えていて、試聴はアンバランスで行われていた。

SUMOのThe Power、The Gold、それからマークレビンソンのML2も、
バランス入力をもっていた、というよりも、バランス入力が標準だったといえる。

コントロールアンプとパワーアンプ間をバランス接続するようになったのは、
コンシューマーオーディオでは、1980年代に入ってから、
アキュフェーズからC280、サンスイからB2301が登場してからだった。

C280はバランス出力を備えたコントロールアンプ、
B2301はバランス入力を備えた、というより、全段バランス構成(SUMOのアンプもそうである)。
でも、この時点では、アキュフェーズにはバランス入力をもつパワーアンプ、
サンスイにはバランス出力のコントロールアンプがなかったこともあり、
バランス接続の音、アンバランス接続の音がどう違うのかは、
このふたつのメーカーの組合せによって行われた。

バランス入出力にはXLR端子が使われる。
1番がアースで、2番、3番がホットもしくはコールドと標準である。
アメリカとヨーロッパでホットとコールドは入れかわるが、
アースが1番なのは共通している。

ところがアキュフェーズとサンスイのバランス接続には問題があった。
どちらだったのかは忘れてしまったが、
1番をアースにせず、3番をアースにしていたからだ。

つまり通常のバランスケーブルで、このふたつのアンプを接続すると、
アンバランスになっていた、というオチである。

このことはすぐに直されているから、市販されたモノではこんなことは起っていないはずだ。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その4)

(その3)に対して、facebookでコメントがあった。
三人の方からのコメントのうち二人のコメントに、作品という言葉があった。

作品か……、と思った。
コメントをそのまま引用しない。
上記リンクのfacebookは非公開にしている。
コメントを書かれる方も非公開ということで、ということだってある。

もちろん公開してもいい、という方もおられるだろうが、
あくまでもaudio sharingのfacegookグループは非公開であるから、
そこでのコメントを、ここでそのまま引用することは控えている。

コメントを読まないとわかりにくいところもあると思う。
非公開にしているけれど、参加希望があれば原則として誰であろうと承認している。

オーディオ機器を作品と呼ぶ場合があるし、そう呼ぶ人もいる。
呼ぶ人には、作り手側の人も使い手側の人もいる。

どのオーディオ機器を作品と呼び、呼ばないのか、
その線引きは人によって違うし、曖昧でもある。

オーディオ機器は工業製品である。
以前書いているが、レコード(アナログディスク、CD,ミュージックテープなど)も工業製品である。
大量にプレスもしくはダビングされて製造されるのだから。

同じ工業製品であり、オーディオ店、レコード店で販売される時点では商品である。
けれどオーディオは製品でもある。
レコード(録音物)はどうかというと、
音楽雑誌、オーディオ雑誌で批評の対象となる際に、製品批評とも商品批評ともいわない。

そういう違いが生じるのは、
オーディオ機器と言う工業製品とレコードという工業製品とでは、
価格の設定に大きな違いがあるからだ。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: 広告

新製品と広告(補足)

3月末に駅に掲示してあったテクニクスの広告について書いている。
私が見たのは中野駅だったが、いくつかの駅でも掲示してあったようだ。

そのテクニクスの広告が、記事になっている。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その14)

少し長い引用だが、まず読んでいただきたい。
     *
この本を書くきっかけは、音楽が好きで、レコードやテープやFM放送を少しでも良い音で再生したいと思うごくふつうのオーディオの愛好家のために、いままでのような『学問』ではなく、オーディオ装置の購入から運用までのほんとうの基本の部分を、広く浅く、しかも堅くるしくならないような、眺めて楽しい本を作ってみたいという、本誌編集長とわたくしの考えが一致したところから始まった。白状すればそれはいまから二年以上もまえのことだった。ところが生来怠けもののわたくしが、多忙にかまけて手をつけずにいるあいだに、どんどん月日が流れてゆき、編集長もついにしびれをきらして、ホテルにカンヅメという強行手段に出て、とうやら日の目をみることになったというのが実情である。
 この本の計画を立てるに際して心がけたことは、次の四つであった。
 第一に、この本はオーディオのマニアのための本にしないこと。言いかえれば、再生音楽を楽しむためにオーディオシステムを購入するが、そのための知識は最少限に止めたいと考えておられる音楽の愛好家に読んで頂くための本にすること。
 第二に、少なくともわたくし自身がこの道に30年近くも遊んでなお飽きないどころか、ますますオーディオの深さに魅入られているということが証拠であるように、オーディオの世界は際限のない広さ・深さを持っているのだから、たとえ手引書であっても、オーディオを単なる実用のものというとらえ方でなく、その気になりさえすればひとり人間が一生の伴侶とするに十分に応えてくれるほど楽しいものだということを、ぜひとも匂わせたかった。いまや大型電気メーカーをも十分に潤すほどの大きな産業にまで普及したオーディオだが、とうぜんのことながら、もはや趣味の世界とは無縁の、いわば家庭電化製品と同列にオーディオがとらえられ、そういう形で売られている。しかし本書はあくまでも、オーディオと音楽の接点から深い趣味の世界を覗いて頂きたいという意図で書いた。
 第三に、図や写真をできるだけ多く使って、視覚的に文章を補足すること。とうぜん、数式などは避けること。それは一般愛好家に理解して頂くため方法であるにしても、オーディオの魅力が単に音楽を良い音で鳴らすというにとどまらず、精密なメカニズムの美しさを十分に表現したかったためでもある。したがってカラー写真の仕上りにもできるだけ留意して頂いている。
 第四に、おそらくいままでの入門書と最もちがうところは、パーツの選び方の項目がある意味でひどく抽象的な表現にならざるをえなかったことかと思う。いろいろな機会に、パーツを選ぶための「カタログの数字の読み方」を教えてほしいという質問を受ける。しかしわたくしは、カタログ上の数値は、ものの質の良さを読みとるにはほとんど役に立たないという考え方をかたくなに守っている(実際、わたくし自身が自分のためのオーディオパーツを選ぼうとするとき、カタログのデータはほとんど無視して、ただ実物に触れ、音を鳴らしてみて、現物で納得して購入している)ので、もっともらしい解説を書く気にならなかったためである。データ上の数値は、むしろパーツを購入してからあと、接続や使いこなしの上で役に立つにすぎないものがほとんどなのだ。したがって本書で重点を置いたのは、購入前の考え方のまとめかたと、購入後の使いこなしの二点であって、パーツを選ぶ際には、眺め、触れ、聴くしかないというわたくしの主張から、むしろ聴きくらべの注意の方に主力をそそいだつもりである。

 この本の完成までには、いうまでもいことだが多く方々のお力添えを頂いている。ものを書き始めて25年にもなりながら生まれて初めて一冊ぜんぶ書き下ろしという体験で、途中で方向を見失いそうになっていたとき、「結局瀬川個人のものの見方しかないのだから当りさわりのない入門書ではなく、瀬川個人の説をつらぬきなさい」と強くはげましてくださった坂東清三氏には、ほんとうにお礼を言わなくてはならない。
     *
瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきからである。
「コンポーネントステレオのすすめ」は1975年12月に出ている。
好評だったので、1977年に改訂版が、1979年に「続コンポーネントステレオのすすめ」が出ている。

「コンポーネントステレオのすすめ」は入門書である。
瀬川冬樹によるオーディオの入門書であり、
「コンポーネントステレオのすすめ」がどういう内容の本であるのかは、
あとがきを読めばわかる。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その3)

思い出してみると、ステレオサウンド時代、
試聴用にメーカー、輸入元に依頼することを、製品手配といっていた。
商品手配といったことはなかった。

これは私だけでなく、他の人も同じである。

製品か商品か。
そんなこと、どうでもいいことじゃないか、といってしまえば、
それでオシマイになってしまうような些細なことであろう。

でも、決してそういう違いではないということを知っていた人は昔からいる。
     *
 ほんとうに、いま、目の前で演奏しているとしか思えないほど、迫真的な音がスピーカーから再生されるのを聴けば、誰だってびっくりする。また、そんな音を自分のスピーカーから鳴らしてみたい、と思う。ナマそっくりの音を再生する。また再生してみたい。これはオーディオの大きな部分を占める楽しみにちがいない。
 けれど、オーディオの楽しみはそればかりではない。仮に音量(音の大きさ)の問題ひとつだけとりあげてみても、実演よりもはるかに大きな、また逆にはるかに小さな音量でも、音楽は別の魅力で聴こえてくる。スピーカーを通してしか、再生装置を通してしか、味わうことの出来ない魅力、それこそオーディオの魅力、ではないだろうか。あるひとつのオーディオ製品があってこそ、楽しめる音の世界がある。その製品がもしも無かったとしたら、そういう楽しい世界がありえなかったような、そんな製品がある。そのことは、いままであまり明確にされていなかったのではないだろうか。
 製品あってのオーディオの魅力、を語るためには、当り前のことだがその製品について、できるだけ詳しく語らなくてはならない。けれど反面、それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している。そのことは重々承知のうえで、あえて、そこを避けて通ることをしなかった。
     *
これは、瀬川先生の「続コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきからの引用だ。
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
とある。

「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年秋ごろに出ている。
1980年に読んでいる。
あとがきのところも読んでいる。

けれど、そのころ(17歳だった)は、
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
このところに目は留っても、このことについて深く考えることはしなかった。