妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その23)
スピーカーは決った。
次に決めるのはアンプである。
何を持ってくるか。
スピーカーは現行モデルだから、妄想組合せとはいえ、
アンプも現行モデルの中から選びたい。
どのアンプがぴったりくるであろうか。
想像するしかないのだが、楽しい時間である。
昔、瀬川先生が、アンプ選びが難しいのは、
人にたとえればスピーカーはその人の外面であり、
アンプは人の内面に関係してくるようなものだから、といわれた。
そういうところは確かに、アンプの違いによる音の違いには、ある。
ここで、またふと思い出すのは、小林利之氏が書かれていたことだ。
ステレオサウンド 30号で、
クーベリック/ベルリンフィルハーモニーによるドヴォルザーク交響曲全集について書かれている。
その最後に、こうある。
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カラヤンと同様にクーベリックも健康な心を持ったファンに推めたい演奏をする指揮者である。ということは、心にかげりを持つタイプの聴き手には、あまりにもそれらは美しく優しいから屢屢たえがたい苦痛を覚えさかねないのである。そして音楽は、いつも健康な心の人のためだけあるものではないのだから、いろんなタイプの演奏が求められてしかるべきだ。クーベリックがあれば、あとはいらぬなどと言い切ることは、したがって不可能なことなのである。
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ずっと以前に読んでいて、記憶にのこっていた。
でもステレオサウンドの何号に載っているのか思い出せずにいた。
別項のために30号をひっぱり出していて、あぁ、ここだった、と、やっと続きを書けるようになった。
カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全には同意できないけれど、なるほどそうかもしれない、と思う気持もある。