Date: 5月 18th, 2017
Cate: オーディオ評論
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ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その3)

思い出してみると、ステレオサウンド時代、
試聴用にメーカー、輸入元に依頼することを、製品手配といっていた。
商品手配といったことはなかった。

これは私だけでなく、他の人も同じである。

製品か商品か。
そんなこと、どうでもいいことじゃないか、といってしまえば、
それでオシマイになってしまうような些細なことであろう。

でも、決してそういう違いではないということを知っていた人は昔からいる。
     *
 ほんとうに、いま、目の前で演奏しているとしか思えないほど、迫真的な音がスピーカーから再生されるのを聴けば、誰だってびっくりする。また、そんな音を自分のスピーカーから鳴らしてみたい、と思う。ナマそっくりの音を再生する。また再生してみたい。これはオーディオの大きな部分を占める楽しみにちがいない。
 けれど、オーディオの楽しみはそればかりではない。仮に音量(音の大きさ)の問題ひとつだけとりあげてみても、実演よりもはるかに大きな、また逆にはるかに小さな音量でも、音楽は別の魅力で聴こえてくる。スピーカーを通してしか、再生装置を通してしか、味わうことの出来ない魅力、それこそオーディオの魅力、ではないだろうか。あるひとつのオーディオ製品があってこそ、楽しめる音の世界がある。その製品がもしも無かったとしたら、そういう楽しい世界がありえなかったような、そんな製品がある。そのことは、いままであまり明確にされていなかったのではないだろうか。
 製品あってのオーディオの魅力、を語るためには、当り前のことだがその製品について、できるだけ詳しく語らなくてはならない。けれど反面、それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している。そのことは重々承知のうえで、あえて、そこを避けて通ることをしなかった。
     *
これは、瀬川先生の「続コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきからの引用だ。
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
とある。

「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年秋ごろに出ている。
1980年に読んでいる。
あとがきのところも読んでいる。

けれど、そのころ(17歳だった)は、
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
このところに目は留っても、このことについて深く考えることはしなかった。

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