Archive for 2月, 2017

Date: 2月 10th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(四回目)

KK適塾四回目の講師は、河北秀也氏と北川原温氏。

今回、もっとも記憶残っている言葉は「文化」である。

十数年前、菅野先生が話してくださったことがある。
日本が失われたのは、明治維新によってであり、
第二次世界大戦の敗戦でさらに失われた──、
そんなことを趣旨のことだった。

このことを、ますます実感する世の中になってきている。
今日も明治維新という言葉が出てきた。

なるほど、と思うより、やはり、と思ってしまう。

十数年まえよりも、世の中にほころびが目立つ始めたようにも感じている。
文化が失われることによって、文明にほころびが生じてしまう。

今日の話を聞いていて、そのことを考えていた。

Date: 2月 9th, 2017
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その21)

1970年後半に、FET一石使用のゼロバイアスのヘッドアンプの製作記事を、
オーディオ雑誌で何度か見かけた。

FETの他には抵抗とコンデンサー、
電源は消費電流が少ないこともあって、乾電池を使った製作例もあった。

それらの製作記事の詳細を憶えているわけではないが、
シンプルで音がいい、的なことが書かれてあったはずだ。

FETが一石ということは、これ以上増幅素子を削ることはできない。
増幅するには最低でも何らかの増幅素子がひとつは必要となる。

FET一石のゼロバイアスのヘッドアンプは、
シンプルなのかミニマルなのか。

増幅素子に限らず、抵抗やコンデンサーいって部品も少ない方が、
アンプとしてシンプルである、といわれがちだし、思われがちだ。

でも、ほんとうに能動素子、受動素子の数の少ないのがシンプルなのだろうか。
部品点数の少なさがシンプルであることに直接結びつくのだろうか。

ここで考えるべきは、素子の数といった視覚的なことではなく、
アンプとしての動作について、である。
さらにいえば、それぞれの部品の動作について、もである。

少なくともアンプについてシンプルということは、
目的を実現するための動作がシンプルであれば、そのために素子数が増えても、
そのアンプはシンプルということになる。

トーンコントロールやフィルターといったファンクションを削ったアンプが、
素子数をできる限り減らしたアンプが、
シンプルとは限らない。

Date: 2月 8th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その18)

ステレオサウンド 60号の特集で、JBLの4345についての座談会。
ここで使いこなしについて語られている。
     
菅野 瀬川さんがかなり満足される音で4345を鳴らしておられる現状というのは、おそらくJBLの連中が数年かかってやることをやっているのじゃないかと思うんです。使いこなしなどというたいしたことじゃないと思う。もしかすると、何もやってないでしょう。
 だからこそ、それを技術的に解決して、実現しようとしたら、確実に数年かかる。ユーザーの使いこなしって、そういうものだと思うんです。
 とにかく瀬川さんは、はたから見ると何だかわからないし、活字にも書けないという、きめの細かいことをやっているわけです。
瀬川 いえいえ、ただ接いだだけですよ。レベルコントロールはちょっといじってますけれどね。
菅野 本人は特に何かしているという意識はなくて、はたから見てもその通りでも、無意識のうちにやっていることって、すごくありますよ。
──そこを多少披露していただけませんか。
瀬川 それは無理なんですよ。荻昌弘さんだったかな、うまい店があって、そこのコックに、「こういうことを聞いちゃいけないんだけど、オムレツのつくり方のコツ教えてくれ」って言ったら、「いやぁ、コツなんてものは口で教えられるものじゃねぇ。無意識に身につくものなんだから、だんな、その気があったら一年間ここへ通ってごらんなさい」と言われたっていうんだ。
 ぼくも4345の使いこなしということで、具体的に言葉ではっきり言えることは、いまのところまだ新しくてミドルハイがこなれていないから、ミドルハイのところだけ-1から1・5ぐらい下げて、スーパートゥイーターは-1にしてみたり、ゼロにしてみたり迷っているというくらいで、あとは、置き方だって半ば無意識に、いまのぼくの部屋で最善のところに置いているんでしょうね。
 しかし少なくとも、さっきも言ったように、背面を硬い壁にしているということは多少影響していると思う。いろいろな場所で──たいてい後ろにいっぱいスピーカーが置かれていたり、後ろががらんどうの状態で──ブロックで持ち上げたりするでしょう。そうすると、うちで鳴っているような音は全然出てこないですね。低音がおかしな音になってしまう。
 一般的には販売店の評価でも、4345はまだよくわからないとか、低音がズンドコズンドコいうだけだとかいわれているようです。ぼくの場合には、床にぺったり置いて、背中も壁にぴったりつけて、ただそうやって置いているだけですけど、非常にローエンドのよく伸びた音がします。
菅野 瀬川さんが初めからぺたっと置いたというのは、あなたがほかのケースで──なにしろスピーカーの置き方に関しては、ぼくの十倍くらい凝るんだから──しつこく実験した挙げ句に、ぺったり起きのよさを聴きとり、このケースはぺったりだというのが無意識に思い浮かぶんですよ。同じぺったり置きにしていても、ちょっと意味が違うんですよ。
     *
レコード芸術の「MyAngle 良い音とは何か?」の最後のところとともに、
ここをじっくり読んでほしい。
ずっと以前に読んだ、という人も、もう一度じっくり読み返してほしい。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その17)

レコード芸術に、瀬川先生の連載が始まったのは1981年の夏だった。
「MyAngle 良い音とは何か?」というタイトルだった。
一回だけの連載だった。
     *
 二年、などというと、いや、三ヶ月だって、人びとは絶望的な顔をする。しかし、オーディオに限らない。車でもカメラでも楽器でも、ある水準以上の能力を秘めた機械であれば、毎日可愛がって使いこなして、本調子が出るまでに一年ないし二年かかることぐらい、体験した人なら誰だって知っている。その点では、いま、日本人ぐらいせっかちで、せっぱつまったように追いかけられた気分で過ごしている人種はほかにないのじゃなかろうか。
 ついさっき、山本直純の「ピアノふぉる亭」に女優の吉田日出子さんが出るのを知って、TVのスウィッチを入れた。彼女が「上海バンスキング」の中で唱うブルースに私はいましびれているのだ。番組の中で彼女は、最近、上海に行ってきた話をして、「上海では、日本の一年が十年ぐらいの時間でゆっくり流れているんですよ」と言っていた。なぜあの国に生れなかったんだろう、とも言った。私は正直のところ、あの国は小さい頃から何故か生理的に好きではないが、しかし文学などに表れた悠久の時間の流れは、何となく理解できるし、共感できる部分もある。
 いや、なにも悠久といったテンポでやろうなどという話ではないのだ。オーディオ機器を、せめて、日本の四季に馴染ませる時間が最低限度、必要じゃないか、と言っているのだ。それをもういちどくりかえす、つまり二年を過ぎたころ、あなたの機器たちは日本の気候、風土にようやく馴染む。それと共に、あなたの好むレパートリーも、二年かかればひととおり鳴らせる。機器たちはあなたの好きな音楽を充分に理解する。それを、あなた好みの音で鳴らそうと努力する。
……こういう擬人法的な言い方を、ひどく嫌う人もあるらしいが、別に冗談を言おうとしているのではない。あなたの好きな曲、好きなブランドのレコード、好みの音量、鳴らしかたのクセ、一日のうちに鳴らす時間……そうした個人個人のクセが、機械に充分に刻み込まれるためには、少なくみても一年以上の年月がどうしても必要なのだ。だいいち、あなた自身、四季おりおりに、聴きたい曲や鳴らしかたの好みが少しずつ変化するだろう。だとすれば、そうした四季の変化に対する聴き手の変化は四季を二度以上くりかえさなくては、機械に伝わらない。
 けれど二年のあいだ、どういう調整をし、鳴らし込みをするのか? 何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。
 あきれた話をしよう。ある販売店の特別室に、JBLのパラゴンがあった。大きなメモが乗っていて、これは当店のお客様がすでに購入された品ですが、ご依頼によってただいま鳴らし込み中、と書いてある。
 スピーカーの「鳴らしこみ」というのが強調されている。このことについても、改めてくわしく書かなくては意が尽くせないが、簡単にいえば、前述のように毎日ふつうに自分の好きなレコードをふつうに鳴らして、二年も経てば、結果として「鳴らし込まれて」いるものなので、わざわざ「鳴らし込み」しようというのは、スピーカーをダメにするようなものだ。
 下世話な例え話のほうが理解しやすいかもしれない。
 ある男、今どき珍しい正真正銘の処女(おぼこ)をめとった。さる人ねたんでいわく、
「おぼこもよいが、ほんとうの女の味が出るまでには、ずいぶんと男に馴染まさねば」
男、これを聞き早速、わが妻を吉原(トルコ)に住み込ませ、女の味とやらの出るのをひとりじっと待っていた……とサ。
 教訓、封を切ったスピーカーは、最初から自分の流儀で無理なく自然に鳴らすべし。同様の理由から、スピーカーばかりは中古品(セコハン)買うべからず。
 今月はこれでおしまい。
     *
最後のところを引用した。
ソフトウェアの達人といわれていた瀬川先生が、これを書かれている。

《何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。》

近ごろ、やっと瀬川先生の真意がわかってきたように思っている。
ひとり勝手に思っているだけにしても、
世の中、スピーカーをダメにする「鳴らし込み」は、むしろ増えているのではないだろうか。

瀬川先生のいわれる「鳴らし込み」の前提として求められるのは、セッティングである。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その16)

「オーディオの想像力の欠如が生むもの(その19)」で、
オーディオの想像力の欠如が、セッティング、チューニングの境界をさらに曖昧にしている、
と書いた。

もっといえば、オーディオの想像力の欠如のままでは、チューニングは無理である。

鍛えられているかどうかよりも、
オーディオの想像力があるかどうかのほうが、重要だとも思っている。

オーディオ業界にいる人たちすべてがオーディオの想像力をもっているとは思っていない。
むしろ持っている人の方が少ないのではないか──、そんな気さえすることがある。
オーディオ評論家と名乗っている人たちに関しても、そうである。

オーディオの仕事をしていない人たちに、オーディオの想像力がないのかといえば、
そうではない。
むしろ、オーディオを仕事としている人たちよりも、オーディオの想像力をもつ人は多いかもしれない。

オーディオ歴の長い人ほど、オーディオの想像力をもっているかといえば、
これもそうとはいえない。

オーディオの想像力について書いていくことは難しい。
だから、別項で「オーディオの想像力の欠如を生むもの」を書いた。
オーディオの想像力そのものについて、いまのところはうまく書けなくとも、
オーディオの想像力が欠如するということについては、書ける。

くり返そう、
オーディオの想像力が欠如していては、チューニングは無理である。
けれど強調したいのは、チューニングができなくとも、いい音を出すことはできる、ということだ。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その15)

鍛えられていなくとも、オーディオはできるし、楽しめる。
ただ(その6)で書いた、どこをいじるか。
その個所を直感で決め、わずかな時間と手間で、そこでの不満を解消できるかどうかは、
鍛えられているからこそ、と断言できる。

鍛えられていなくとも、偶然でも、私と同じ個所をいじることはあろう。
それでも、そこをどうするかは違ってくるだろうし、
同じことをやれたとしても、別の場合には、偶然はそうそう重ならない。

偶然に頼って、というのは、鍛えられていない人のやり方である。

オーディオの再生系にはいじるところが、それこそ無数にある。
しかもそのいじり方もひとつではない。
どこをいじるのか、どういじるのか。組合せの数はさらに増える。

そこにぽんと放り出されたら……。
オーディオはどこをいじってもは音が変る。
だからこそやっかいでもある。

そのため見当違いであっても、そこに固執しがちになることがある。
とはいえ、それもまた楽しいといえる面があるのがオーディオなのだから、ややこしい。

オーディオは趣味で、本人が楽しんでいるのであれば、
第三者がとやかくいうことではない──のかもしれないが、
それでもいいたいのが、それがチューニングといえるのだろうか、である。

ここでは、オーディオは趣味だから……、は通用しなくなる。
本人がチューニングと思っていじっていれば、それはチューニングではないか。
そう考える人はいるけれど、私は違う。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その14)

「オーディオは趣味なのだから……」
鍛えるとか、鍛えられるとか、そんなことは趣味であるオーディオには無縁のこと。

──こういう考えがあってもいい。
こういう考えの人にとってのオーディオの師とは、
オーディオの楽しみを教えてくれた人、ということになる。

二年前の春、映画「セッション」(原題:WHIPLASH)について書いた。
この映画についての否定的な意見を、そのころfacebookでよく見かけた。

しかも面白いことに映画を観た上で書いているのではなく、
予告編だけを見てのものだったり、
誰かがこの映画について書いたものを読んでの否定的な意見が大半だった。

音楽をやるのに、この映画で描かれているようなことは必要ない。
楽しく、音楽を学んでいければいいのに……、
そんな感じが根底にある意見をいくつも見た。

鍛え鍛えられる──、
そんなことからは無縁でいたいのだろうか、とそれらの意見を見ていて思った。

オーディオの楽しみ方、関わり方は、人それぞれであっていい。
けれど、それは音楽との関わり方にも深く関係することである。

(その11)と(その12)で、私は恵まれていた、と書いたのは、そういうことである。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その13)

オーディオの使いこなしに限らない、
何かを身につけるには、正しいやり方による修練でなければならない。

独学だということを誇らしげにいう人もいるが、
そういう人の多くは独学ゆえの未熟なやり方であり、
そんなことをくり返し長い期間を続けてきても、
あるレベル(そう高いレベルではない)までは行けても、
それ以上のレベルには、独学だけではどうにもならない。

独学そのものが、独学のすべてがそうだというわけではないが、
独学は往々にして苦手なところを避けがちであり、
本人にそういう気持はなくとも、楽な方へと流れてしまいがちでもある。

だからといって、誰かについて学べばいいのか、というと、そうでもない。
誰を師とするかが、ここでは重要である。

鍛えられていない人を師とすれば、そこまで、である。

師をもつオーディオマニアは、意外に多い。
○○さんがオーディオの師です、という人はけっこういる。

○○さんは、決して有名な人ではなかったりする。
何も有名な人が師だからいいというものでもないし、
無名の人にも、優れたオーディオマニアはおられる。

けれど、○○さんが師です、といっている人を見ていると、
○○さんがどのくらいのオーディオマニアであったのか、間接的に知ることになる。

○○さんが師です、といっている人のやり方が、とても偏っていることが多いからだ。
○○さんが師です、という人の理解が悪くて、そうなっているのかもしれない。
○○さんは、素晴らしいオーディオマニアの可能性だってある。

○○さんを知らないのだから、どちらなのかははっきりとわからない。
素晴らしいオーディオマニアであっても、○○さんはおそらく鍛えられていない人だとは思う。

鍛えられている人ならば、人を鍛えることができるはずだからだ。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その6)

その3)でアナログプレーヤーを、
置き場所で左右前後に動かしてみると、音の変化ははっきりとしたものがある、と書いた。

何も特別なラックでなくとも、この音の変化は容易に聴きとれる。

こういう例もあった。
サイドボードの上にアナログプレーヤーが置かれていた。
サイドボードもしっかりとした造りではなく、
アナログプレーヤーの置き台としては望ましいとはいえなかった。
けれど、そこしか置き場所がないのであれば、その範囲で音が良くなるようにするしかない。

アナログプレーヤーの右奥の角をサイドボードの右奥の角と一致するように設置した。
サイドボードには側板があって、強度的にこの部分がしっかりしている。
そこにできるかぎりトーンアームの回転軸をもってくる。
ただこれだけで音の明瞭度は増す。

別のところでは国産の縦型ラックがあった。
システムコンポーネント用といえるラックで、特別にしっかりしたつくりでもなく、
キャスター付きのモノだった。

アナログプレーヤーを、ここでも右奥にずらす。
たったこれだけのことだ。
それまでの位置と右奥にずらしたときの音を聴いて、
オーディオに関心のなかった人が、
「クリフォード・ブラウンのフレーズがはっきりした」といってくれた。

私はトーンアームの回転軸を、
アナログプレーヤーの中心と考えている、と書いている。

これは、上記のことからもそうだといえる。
つまりアナログプレーヤーの中心とは、
完全な静止が理想であっても、現実にはそんなことは無理である。
だからできるかぎり静止状態にしておきたい個所、
他の個所よりも最優先で静止状態にしておきたいところであり、
それはトーンアームの回転軸であり、
その2)で書いているスタビライザーの少し意外な使い方も、
このアナログプレーヤーの中心と関係してくる。

少し意外な使い方に関しては、
ステレオサウンドの古い号にも書いてあるし、このブログの別項でも以前書いているし、
facebookでは写真を公開している。

Date: 2月 5th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その5)

「オーディオ(音)は自己表現だ」と強く主張する人がいる。
誰か特定の人を指して書いているのではなく、
そう主張する人は意外にも多い。

「オーディオ(音)は自己表現だ」をきくたびに、げんなりする。
昔はそうではなかった。
「オーディオ(音)は自己表現だ」をきいても、げんなりすることはなかった。

それがここ十年くらいか、げんなりするようになってきている。

「音は人なり」といわれている。
「音は人なり」をきいてげんなりするかといえば、そんなことはない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」と「音は人なり」。
似ているけれど、同じことをいっているわけではない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりするのは、
これを口にする人によっては「音は人なりだろ」といいたげなのが感じとれたりするからなのかもしれない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりすることが増してくるにつれて、
仏像について考えることも増えてきている。

いい音を求めていく行為は、仏像を彫っていく行為に近いような気がしはじめている。

Date: 2月 5th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その5)

2月1日のaudio wednesdayでは、この部分、
片持ちになっている先端(プレーヤーボードの右奥の角)に下に、ものをかませることにした。

あらかじめ、喫茶茶会記のアナログプレーヤーについて細部を見ておけばよかったのが、
それを怠ったため、当日になって三点支持だったことに気づいた。
最初からわかっていれば、手頃な角材でも用意してくるのだが、そういう用意はない。

喫茶茶会記にも使えそうな角材はなかったので、アルミケースを使うことにした。
高さが数cmほどたりないので、厚手のフェルトを二枚折り重ねて高さを、なんとか合せる。

なのでがっちりとプレーヤーボードの右奥の角を支えているわけではない。
軽く支えている程度ではあるし、アルミケースも共振体になってもいるが、
それでもはっきりとした効果が、音になって聴きとれる。

片持ち部分を片持ちにしないだけでも得られる変化であり、
よりきちんとした支えにすれば、変化はもっとはっきりしたものとなる。

同じことが十年以上前にもあった。
あるオーディオ店で、あるスピーカーが鳴らされていた。
決してうまく鳴っているといえなかった。

オーディオ店は営業時間だったが、平日ということもあってか、
客は私ら以外にはいなかった。
店のスタッフがひとり、私らが四人で、そのうちの一人がスタッフと顔なじみということもあって、
なんのすこしだけセッティングを変えることになった。

どこをいじってもよかったのだが、いちばん気になっていたところ、
エンクロージュア上部にあるトゥイーターの後部が片持ちになっているところを、
柔らかい素材を使って、軽く後部先端を支えた。

あまり強く支えてしまうと、別のテンションをがかかってしまうため、過度にやり過ぎないことである。
この効果は、やはり大きかった。

ちょうどアコースティックギターが鳴っていたのが、
エレキギター的な音に聴こえていた。
たったこれだけのことでアコースティックギターとして鳴ってくれる。

このときかかった時間も数分程度で音の変化は大きく、
多くの人の耳にもはっきりとわかるぼどである。

腕自慢をしているのではない、
片持ちが音に与える影響と、そこを対処することによる音の変化の確実さを知ってほしいだけである。

もちろん製品によっては、そういったことをわかったうえであえて片持ちにしているモノがないわけではない。
いわゆる音づくりのための片持ちがあるのは理解しているが、
そうではない片持ちの方が多いというのが現状だ。

Date: 2月 4th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その4)

アナログプレーヤーの中心は? ときかれて、どこだと答えるか。
アナログプレーヤーの中心をどう定義するかによっても違ってくるが、
ターンテーブルの中心と答える人が多いのではないだろうか。

ターンテーブルプラッターは回転しているわけだから、
そのセンターはまさしく中心といえる。

そういう考えからすれば、
今回使用したガラード401用のプレーヤーボードは、
その中心が三点支持の中、それも中心に近いところに位置している。

手前が二点、後方が一点の三点支持により形成される三角形の右側には、
片持ちの三角形が存在することになる。

しかもこの三角形はトーンアームがロングアームということもあって、
標準長のトーンアームの場合よりも面積は広いものとなる。

世の中に完全剛体の材質があれば片持ちの構造の影響も抑えられるだろうが、
現実にはそんな材質はないし、アナログプレーヤーの周りをさまざまな振動が囲っている。

一枚の板の一辺を固定して振動させれば、もっとも振幅が大きくなるところはどこだろうか。
その部分にトーンアームを取り付けるということはどういうことなのか。

私はアナログプレーヤーの中心は、
ターンテーブルの中心ではなく、トーンアームの回転軸だと捉えている。

今回の片持ちの構造だと、
私が考えるアナログプレーヤーの中心が大きく揺すられることになる。
もちろんその振動は目で捉えられるわけではないが、
振動モードを解析してみるまでもなく、片持ちの先端がどういう状態なのかは容易に想像がつく。

Date: 2月 4th, 2017
Cate: audio wednesday

第74回audio wednesdayのお知らせ

3月1日のaudio wednesdayのテーマは未定です。
音出しの予定ですが、アナログディスクでの音出しになるか、
それともCDによる音出しかは、まだ決めていません。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その3)

今回使用したアナログプレーヤーは、いわゆる自作プレーヤーということになる。
ガラード401が取り付けられている木製ボードと、台座から構成されていて、
台座は三点支持であるから、ボードとも三点で接している。

ボード手前の両端と後側の一点の三点である。
後側の一点は左側に寄ったところであり、
おそらくこのプレーヤーを自作した人は重量バランスを配慮しての、
こういう三点の配置にされたのだろう。

三点支持のオーディオ機器は多い。
けれど三点支持はガタツキがなく、楽ではあるが、必ずしも音の面で有利とはいえない。

三点支持によって形成される三角形の中に、オーディオ機器が収まっている関係であれば、
三点支持は確かにいい。
けれど実際にはそんな三点支持はほとんどない。

今回のプレーヤーにおける音質上の問題点は、ここにある。
どうしても三点支持にするのであれば、私なら前後を逆にする。
手前側を一点にして、後側両端の三点支持とする。

このプレーヤーキャビネットを製作された人は、
アナログプレーヤーを前後左右に動かして、それぞれの音を確かめられていないのかもしれない。

アナログプレーヤーは置き場所によって音が変ることはよく知られている。
けれど同じ置き場所(ラックや置き台)であっても、
ラックなら棚板の大きさに少し余裕があるから、前に動かしてみたり、左右に動かしてみたりできる。
斜めに動かすこともできる。

動かせる範囲は狭い。
狭いけれど、ここでの音の変化は決して小さくない。
しっかりした置き台であろうと、少しヤワな置き台であっても、
重量級のプレーヤーであろうと、軽量級のプレーヤーであろうと、
はっきりとした変化が聴きとれる。

この経験がある人ならば、少なくとも三点支持で後一点で、
しかもトーンアームの軸があるところを片持ちにすることはしないはずだからだ。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その2)

水とみかんだけの一日だったわけだから、空腹だったのは間違いないはずだ。
けれど空腹感はなかった。

いつもなら水とみかんだけで過していたら、強い空腹感が襲ってくる。
でも昨日はそんなことはないまま一日が過ぎていった。

胃が空であることを報せてくれるのが空腹感のはずだ。
なのに空腹感がないということは、どういうことなのだろうか、と考えていた。

空腹と空腹感は、どういう関係なのだろうか。
昨日は食事とはいえない内容だったけれど、ふだんは食べている。
一日くらい、水分とみかんだけでも不足はないということで、空腹感がなかったのだろうか。

だとしたらふだん感じている空腹感とは何なのか。
ほんとうに空腹だから感じていたのか。
もしかすると習慣が感じさせているということも考えられるか。

空腹でなくとも空腹感がある、ということが、
俗に言う別腹なのだろうか。
だとしたら空腹感を生み出しているのは胃ではなくて、別のところなのか。

この分野の専門家ならば、初歩的な疑問を書いているのかもしれない。
空腹と空腹感の違いを考えていると、
音に関しては、どういうことになるのだろうか。