Archive for 10月, 2016

Date: 10月 12th, 2016
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その66)

クレルのデビュー作といえるPAM2とKSA100のペアが奏でる音は、
私にとっても格別魅力的だった。

試聴でクレルの、このペアが借りられることになると嬉しかった。
またクレルの音が聴ける──、ただそれだけで嬉しくなっていた。

そのくらい初期のPAM2とKSA100の音はよかった。
よかったけれど、この初期というのは、ふつう考えられているよりも短い、とだけいっておこう。

よくオークションに、初期のクレルということをアピールしているのを見かけるが、
オークションでは誰もが高く売りたいわけで、そのための煽り文句ぐらいに思っていた方が賢明だ。

それにごく初期のクレルのペアの音を聴いている人がどれだけいるのだろうか。
シリアルナンバーで確認しているわけでもないし、
本人はごく初期だと思い込んでいても、それはもうごく初期ではなく初期であったりする。

少なくともブログなどで、自分が持っているのは初期タイプだから、音がいい──、
そんなことを自慢している人のいうことを、私は信じていない。

クレルは、コントロールアンプはPAM2だけだったが、
パワーアンプはKMA200(モノーラルA級200W)、KSA50(ステレオA級50W)、
KMA100(モノーラルA級100W)と、ラインナップを充実させていった。

KMA200の凄みには、驚いた。
KSA50のKSA100よりも高い透明感のある音もよかった。
けれど、PAM2とKSA100の音が、私の耳(というよりも耳の底)には焼きついていた。

このクレルの音を、GAS、SUMOのアンプを男性的とすれば、
女性的であり、対照的でもあった、と書いた。
確かにそうなのだが、女性的という言葉からイメージするような、華奢な感じではない。
非力なわけでもない。
そういう次元での男性的、女性的といったことではない。

瀬川先生は、JC2、LNP2時代のマークレビンソンの音を女性的、
GASの音を男性的と表現されていたが、ここでの男性的、女性的とも、
GAS、SUMOの男性的、クレルの女性的は違う面を持つ。

でも、そういうことに気づくのは、
朦朧体といえる音の描き方を求めていることを意識するようになってからである。

Date: 10月 11th, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(ミケランジェリというピアニスト・その1)

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。
私は、このピアニストがどうも苦手である。

素晴らしいピアニストだと、心から思っている。
彼の録音を聴いていると、完璧主義者といわれるのも頷ける。

それでもなんといったらいいんだろうか、
ミケランジェロの録音を聴いていても、肉体の復活を感じないからだ。
(ちなみにベネデッティ・ミケランジェリが姓としては正確な表記だそうだ)

そこが完璧主義と感じさせるのかもしれないと思いつつ、
ここがひっかかってきてしまい、いつもというわけではないが、
ふとした拍子に、演奏に聴き惚れるところから外れてしまい、
そのことが妙に気になってしまったりする。

こう感じてしまうのは、私が音楽の聴き手として未熟ゆえか、と思ったこともある。
もう十年以上前だった。
調べもののためにステレオサウンド 53号を読んでいた。
53号は冬号だから、音楽欄に「一九七九年クラシック・ベスト・レコード14」という記事がある。
ここでミケランジェリのドビュッシーの前奏曲集一巻がとりあげられている。

ここでの黒田先生の発言が、私の心情を代弁してくれているかのように感じた。
     *
黒田 ぼくは、じつはこのレコードを入れていません。というのは、いつもミケランジェリのレコードにものすごく感心するんだけれど、ただこうしたときに10枚の中にあげるかどうかとなると、とまどいというかためらいがつきまとうんですね。
 というのは、ひじょうにきわどいいいかたなんだけれど、ミケランジェリのレコードをきいていて、レコードの向こうにこのひとの生身の姿がどうしても浮かんでこないんです。現代というこの時代に、どんなありようで生きているのか、そうした生きた人間としての姿が、どうしても浮かんでこない。これはきわめて細かいところを、いわば部分拡大していっているわけだけれど、なんというかいま生きている人間があれこれ悩んだり苦しんだり闘ったりしながらピアノをひいている、といった感じがどうもしないんですね。
     *
黒田先生もそうだったんだ、と安心もした。

同時に、1979年にポリーニ/アバドによるバルトークのピアノ協奏曲も出ている。
ミケランジェリもポリーニも、イタリアのピアニストである。
ここで思い出すのは、黒田先生がステレオサウンド 39号に書かれた「ポリーニの汗はみたくない」だ。

Date: 10月 11th, 2016
Cate: アンチテーゼ, 録音

アンチテーゼとしての「音」(ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤)

ダイレクトカッティングで名を馳せたシェフィールドは、
オーケストラ録音にも挑んでいた。

これがどんなに大変なことは容易に想像できる。
けれどシェフィールドのオーケストラ物のダイレクトカッティング盤が魅力的だったかといえば、
少なくとも私にとっては、そうではなかった。

クラシック以外のダイレクトカッティング盤はいくつか買いたいと思うのがあったが、
クラシックに関してはそうではなかった。

今回、キングインターナショナルから発売になるダイレクトカッティング盤には、
心が動いている。

サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーによるブラームス交響曲全集(六枚組)。
レーベルはBERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS。

録音は2014年。
発売に二年かかっている理由はわからない。
けれど、なぜベルリン・フィルハーモニーがダイレクトカッティング録音に挑んだのだろうか。

ダイレクトカッティングを行うにはカッティングレーサーを、
録音現場(演奏会場)まで運ばなければならない。

スタジオ録音でも、日本ではカッティングレーサーはプレス工場に置かれていることも多かった。
東芝EMIが以前ダイレクトカッティング盤の制作に、
工場から赤坂のスタジオに移動したときには、調整の時間も含めて一週間を費やした、ということだ。
この手間だけでもたいへんなもので、また元の場所に戻して調整の手間がかかるわけだ。

それでもあえてダイレクトカッティング録音を行っている。
すごい、と素直に思う。

ダイレクトカッティングなので、生産枚数には限りがある。
全世界で1833セット(ブラームスの生年と同じ数)で、
日本用には特典付きの500セットが割り当てられている。

価格は89,000円(税抜き)。
安いとはいえない値段だが、
シェフィールドのダイレクトカッティングも、クラシックに関しては6,500円していた。
40年ほど昔でもだ。

アナログディスク・ブームだからということで、
売れるからアナログディスクのカタチをしていればいい、という商売っ気だけで、
アナログディスクのマスターにCD-Rを使ってカッティング・プレスするのとは、
まったく違うアナログディスクである。

どこかダイレクトカッティングに挑戦してほしい、とは思っていたけれど、
まさかベルリン・フィルハーモニーだったとは、今年イチバンの嬉しいニュースである。

Date: 10月 10th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるスピーカーの評価をめぐって・その12)

オンキョーのGS1について書いていてあわせて考えていたのは、
オーディオエンジニアということ。

エンジニア(engineer)は、技術者、技師と訳される。
オーディオエンジニアは、オーディオの技術者となるわけだが、
エンジニアは技術者──これは納得いくが、
エンジニアは開発者だろうか、エンジニアは実験者なのだろうか、とも思う。

どうも一緒くたに語られるところがあると感じている。
実験者も、技術をもっている。だから技術者と呼ぶことに抵抗はない。

だが私の場合、エンジニアの前にオーディオとつくと、
エンジニアの意味を考えてしまう。

特にオーディオメーカーのオーディオエンジニアとは、について考えてしまう。

Date: 10月 10th, 2016
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Casa BRUTUS・その3)

瀬川先生の新しいリスニングルームが完成して、
しばらくしたころFM fanに傅信幸氏のオーディオ評論家訪問記事が二回に渡って載った。

長岡鉄男氏、上杉佳郎氏が一回目、
二回目が菅野沖彦氏、瀬川冬樹氏だった。

その記事だったと記憶しているが、
家を建てるのにお金がかかりすぎて、リスニングルーム内の家具が買えなかった。
最初のうちは床に直に坐っていた。
見兼ねた友人たちが新築祝いとして買ってくれたのが、この椅子(ニーチェア)、とあった。

ニーチェアはあのころ一万五千円ほどだった。
東京で独り暮しをするようになって、最初に買った椅子がニーチェアだった。
瀬川先生と同じ椅子ということが、いちばんの理由だった。

瀬川先生の新しいリスニングルームにあった数少ない家具で、
目を引いたのはテーブルだった。
ガラスの天板の、そのテーブルの脚部はEMT・930stの専用インシュレーター930-900だった。

ステレオサウンド 53号での、オール・レビンソンによる4343のバイアンプ駆動の記事。
ここでアナログプレーヤー、コントロールアンプなどの置き台になっているのは、
モノクロの、あまり鮮明でない写真なので断定できないが、
どうもブックシェルフ・サイズのスピーカーのようである。

あのころは、家を建てるのはほんとうにたいへんなことなんだぁ、
しかもあれだけの造りのリスニングルームなのだから、さらに大変なことだったんだなぁ、
とは思っていた。

これから、家具を揃えられるのだろう……、
どんな感じのリスニングルームになっていくのだろう……、
と思い、楽しみにしていた。

いまは、瀬川先生の大変さがわかる、実感としてわかる。

Date: 10月 10th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるスピーカーの評価をめぐって・その11)

オンキョーのGS1のデザインをされた方が誰なのかは知らないし、
その人を批判したいわけでもない。

実験機としてのGS1を製品としてまとめあげる。
それもバラック状態のGS1の音と同じか、
できればよりよい音で製品としてまとめあげることのできる人は、そうそういない。
ほとんどいない、といってもいいだろう。

バラックの外側を囲ってしまう。
それだけで音は変化するものだし、ましてGS1はスピーカーである。

結局は体裁を整える、というレベルで留まっているGS1は、
果して製品といえるモノだろうか。

勘違いしないでいただきたいのは、
GS1の音そのものを否定しているのではない。
実験機としてのGS1はユニークなスピーカーだった。
けれど製品としてのGS1の評価は、違ってくる、ということだ。

そういうGS1を、オンキョーの営業の人たちは売っていかなければならない。
たいへんなことだった、と思う。
実験機と製品の違いがまずある。
そのうえで、製品と商品の違いがある。

私は、この違いをGS1の開発者の由井啓之氏はわかっておられたのか。
由井啓之氏がfacebookでGS1について書かれているのを見ると、
そう思う時がある。

そこにはオンキョーへの不満もあったからだ。
日本での評価への不満もあった。

だか日本での評価は高いものだった。
けれど売行きは決してよいものではなかった。
でもそれは致し方ない。製品といえるモノではなかったのだから。

由井啓之氏はGS1の開発者と名乗られている。
けれど、真の意味で開発者だったのだろうか。
実験者だったのかもしれない。

GS1は30年以上前に登場したスピーカーだ。
オーディオ雑誌で取り上げられることは、ほとんどない。
その一方でSNSでは由井啓之氏自身が語られている。

このこと自体は悪いこととは思わない。
けれどあまりにも由井啓之氏の一方的な見方が過ぎるように感じる。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるスピーカーの評価をめぐって・その10)

オンキョーのGS1の開発において、デザインはなされたのか、といえば、
なされていない、と言い切れる。

バラックの状態で開発が進んでいったGS1を製品化するには、
家庭におさまるモノだからバラックのままというわけにはいかない。
オンキョーの研究室内ではバラックでもかまわない。

そこは実験室だからである。
実験室で、バラックの状態でいい音が得られたとしても、それは製品にはほど遠い。
それはオンキョーもわかっていた。

製品にするためにデザインが施されている、と見えるのだが、
パッケージが施されただけ、といえる。
とってつけた外装パネルともいえよう。

だから外装(化粧)パネルの一枚である天板代りのガラス板を外すだけで、
音が良くなるし、このことからいえるのは、外装をすべてはぎ取った状態、
つまりバラック状態に戻した音こそが、GS1本来の音のはずだ。

本来ならばバラックだったGS1よりも、
いい音で鳴るためになされるのがオーディオにおけるデザインだと考える。

だが残念ながら、音を悪くしているのだから、
GS1になされたのはデザインではなく、デコレーションといえる。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Casa BRUTUS・その2)

(その2)を書くつもりはなかった。
Casa BRUTUSの紹介だけをしたかった。
できれば多くの人にCasa BRUTUS 200号を手にとってもらいたかっただけである。

なのに、こうやって(その2)を書き始めているのは、
facebookにもらったコメントを読んだからである。

読みながら思い出していたのは、瀬川先生のリスニングルームのことだった。
いま別項で「ステレオサウンドについて」を書いている。
53号について書き始めたところだ。
このころのステレオサウンドには「ひろがり溶け合う響きを求めて」の連載が載っている。
瀬川先生の新しいリスニングルームについての詳細である。

それまでの部屋とは大きく違う。
広さが違う。天井の高さも違う。
床の材質とつくり、壁は本漆喰と、
それまでのリスニングルームと、いわば箱の状態で比較すれば、
それは圧倒的に新しいリスニングルームが優っている。

ふたつの部屋のどちらを選ぶかと言われれば、誰だって新しいリスニングルームを選ぶ。
それでも新しいリスニングルームは、最後まで仕事場としての雰囲気が残っていた。
残っていた、というよりも、仕事場の雰囲気が支配していた。

ここがそれまでのリスニングルームと大きく違う。
それまでのリスニングルームも、仕事場を兼ねていたはずなのに、
そこは瀬川先生の、もっといえば大村一郎氏のプライベートな空間であり、
その雰囲気が色濃かった。

それが新しいリスニングルームからは、
そこに住まわれたのが三年ほどと短いことも関係してだとはわかっていても、
何か欠けている雰囲気が、払拭されずだった。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その25)

アルカイック(archaïque)、
古拙な。古風な。アーケイック。[美術発展の初期の段階、特に紀元前七世紀から紀元前五世紀頃の妓社美術についていう。生硬・峻厳・素朴・生命力のたくましさなどをその様式的特色とする]
と大辞林にある。

子項目としてアルカイックスマイルがある。
古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる。
と説明されている。

シングルボイスコイルのフルレンジスピーカーを聴いても、
私の耳は日本製のユニットよりも、海外製のユニット、
特にフィリップスのユニットの音に惹かれてしまう理由についてあれこれ考えていて、
長々と言葉を費やして説明するよりも、
何かぴったりくる言葉がないだろうかと考えていた。

私が20代までに聴いたフルレンジは、素朴といえる音をもっていた。
その中でも、フィリップスのユニットは、アルカイックな音といえる要素がある。

マルチウェイのスピーカーシステムではなく、フルレンジユニットである。
しかも同軸型ではなくシングルボイスコイルのフルレンジユニットである。

フレームも磁気回路も物量を投入したつくりではない。
コーン紙も特殊な素材を使っているわけではない。
真似をしようと思えばすぐにも真似できそうなつくりであっても、
出てくる音は誰にも真似ることのできないアルカイックな表情が、
フィリップスの当時のユニットにはあった。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Casa BRUTUS・その1)

いま書店にCasa BRUTUSが並んでいる。書店だけでなくコンビニエンスストアにもある。

Casa BRUTUSもステレオサウンドも、いま売られているのは創刊200号である。
Casa BRUTUS 200号の特集は「ライフスタイルの天才たちに学ぶ! 住まいの教科書」。

この特集の後半(117ページから)に、
「A ROOM WITH SOUND 音のいい部屋」という記事がある。

「心地いい音が部屋のアクセント。
オーディオが作り出すとっておきのクリエイターの空間を集めました。」
とも書いてある。

実は先ほど友人が、
「オーディオオーディオしていない、でも調和のきいた、オーナーの世界観が反映された見本のよう」
と教えてくれたばかり。

友人がいいたいことがわかる。
意外にも言っては登場されている方に失礼になるが、
そうはいっても大きくてもブックシェルフ型スピーカー、
多くは小型スピーカーなんたろうな、と高を括っていた。

Casa BRUTUS 200号を手にすれば、おっ、と思う人の方が多いはず。
JBLのパラゴンも登場している。
アルテックのA5とA7もあった。
もちろんブックシェルフ型、小型のモノも登場しているが、見ていて楽しい。

確かにオーディオオーディオしていない。
とてつもなく高価なオーディオ機器はないが、
だからこそというべきか、ステレオサウンドに登場するリスニングルームとは趣が異る。

オーディオマニアとして、どちらが参考になるかといえば、
見ていて楽しいかといえば、Casa BRUTUSである。

好きな音楽をいい音で聴きたいと思っている、
まだオーディオの世界に足を踏み入れていない人にとっては、どうだろうか。

そういう人が、ステレオサウンドに登場する(紹介されている)リスニングルームに、
どう反応するだろうか。
Casa BRUTUSの「音のいい部屋」には、どう反応するだろうか。

どちらがオーディオの世界に足を踏み入れるきっかけとなるだろうか。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その3)

点音源から発せられた音は球面波で拡がっていくため、
音源と距離が増すごとに音圧は低下していく。

伝声管が、数百m離れていても音を明瞭に伝えられるのは、
伝声管の中では、球面波ではなく平面波の状態に近いためだ。

そのため伝声管の径は音の波長よりも十分に小さい径でなければならない。
径が十分に小さければ拡がっていくことができないからであり、
平面波の伝搬と言え、遠くまで、文字通り声(音)を伝えることができる。

音速を340m/secとして、340Hzで波長は1m、3.4kHzで10cm、6.8kHzで5cm……となっていく。
十分に小さい径がどの程度なのか勉強不足なのではっきりといえないが、
伝声管の径は小さいほど高域まで伝えられる。

そうなるとどこまで細くしていくのがいいのか。
耳の穴と同じ径あたりが最適値なのではないだろうか。
この状態が、音響インピーダンスがマッチングがとれている、といってもいいはずだ。

耳の穴よりも径が細すぎては、隙間が生じそこから音が逃げていく。
音響インピーダンスがマッチングしていない、ということになるし、
径が太くても、管の中を伝わってきた音すべてが耳の穴に入るわけでもなく、
これも音響インピーダンスがマッチングしていない、となる。

伝声管は、スピーカーと対極のところにある、といえる。
スピーカーから放出された音は、そのすべてが聞き手の耳の穴に入るわけではない。
その意味では音響インピーダンスのマッチングは著しく悪い、とも考えられる。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その13)

BOSEの901は、前面に1、後面に8つのフルレンジユニットを持つ。
つまり直接音1、間接音8という比率に基づいたユニット配置である。

専用イコライザーを使うにしても、
グラフィックイコライザー、デジタル処理のイコライザーを持ってくるにしても、
前面のユニットと後面のユニットの補正は同じである。

パワーアンプ一台で九本のユニットを鳴らしているわけだからなのだが、
これを前面と後面とでパワーアンプを独立させたら……、と考える。

そうすれは前面のユニットと後面のユニットに、それぞれのイコライジングが可能になる。
さらにいえば後面の八本のユニットも、
内側にある四本と外側にある四本が同じイコライジングでいいのか、とも考える。

理想はユニット一本に一台のパワーアンプで、それぞれにイコライジングなのかもしれない。
そこまでいかなくともパワーアンプ三台用意して、
前面、後面内側、後面外側に独立したイコライジングを行う。

ただ現実にはユニットのインピーダンスが一本あたり0.9Ωなので、
後面のユニットに関しては0.9Ω×4=3.6Ωでいいとしても、前面はそうはいかない。

0.9Ωはほとんどショートに近い。
BOSEが前面のユニットのみ4Ω、もしくは8Ω仕様で提供してくれなければ、
実験を行うことは無理であるから、その音は想像するしかない。

私は901のイメージがずいぶん変ってくると思っている。
同時にBOSE博士が実現したかったのは、そこにあるのではないだろうか、とも思う。

製品化のためには九本のユニットを直列接続して、
専用イコライザーという形にまとめることが必要だったはずだが、
BOSE博士が頭で描いていた901の本来の姿は、もしかする……、と思わずにいられない。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その12)

BOSEの901には専用イコライザーが付属する。
セパレートアンプではコントロールアンプとパワーアンプ間に挿入すればいい。
プリメインアンプだったら、TAPE OUT/IN端子を使う。

いまのプリメインアンプで、TAPE OUT/IN端子をそなえたモノはどれだけあるだろうか。
901をグレードの高いプリメインアンプで鳴らすことは十分にある。
けれど、TAPE OUT/IN端子がなければ専用イコライザーの接続が難しい。

CDしか聴かないという人ならば、
CDプレーヤーとプリメインアンプ間に挿入すれば済むが、
他のプログラムソースも聴くとなると、そうもいかない。

それに最近ではデジタル処理のイコライザーも、興味深いモデルがいくつも登場している。
これらを使うには、セパレートアンプでなければならないのたろうか。

プリメインアンプにデジタルのTAPE OUT/IN端子がついていてれば、
すんなり接続可能になる。

けどいわゆるTAPE OUT/IN端子はなくなりつつある。
なにかいびつなものを感じるのだが……。

少し話が逸れてしまったが、901は専用イコライザーがなければ、
まともな音にならない。
いまはどうなのだろうか、専用イコライザーのクォリティも高くなってきたのだろう。

以前、専用イコライザーをグラフィックイコライザーに置き換えて、
井上先生が調整していった音を聴いている。
901に搭載されているフルレンジユニットは、
こんなに素直な音だったのか、と認識を改めるほど音は変った。

いまならば専用イコライザー、グラフィックイコライザーを使わずに、
デジタル処理のイコライザーをもってくることが考えられる。

デジタル処理によって、
アナログのグラフィックイコライザーでは無理だったパラメータも調整できる。
その音を聴いてみたい、と思うとともに、
さらにもう一歩すすめたイコライジングを施した901の音はどう変化するのか──、
そう思うことがひとつある。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その70)

同じ《STATE OF THE ART》賞でも、一回目の49号と53号とでは選ばれる機種数が大きく違う。
53号では17機種。

瀬川先生はアルテックのModel 6041の他は、
マークレビンソンのML6のことを書かれている。
個人的には、あと一機種担当されていれば……、と思っていた。

もう一本の特集、アンプテストで瀬川先生は53号ではまったく書かれていないからだ。
52号では特集の巻頭に「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」を書かれていた。
でも、これは仕方ないことだとわかっていても、もの足りなさを感じる。

けれど53号を読み進めていくと、瀬川先生はかなりの量を書かれていることがわかる。
53号には「ひろがり溶け合う響きを求めて」の三回目が載っている。
そして「JBL#4343研究」の三回目も載っている。

この「JBL#4343研究」は、4343のバイアンプ駆動である。
それもマークレビンソンのパワーアンプML2を六台用意しての、
4343を極限まで鳴らしてみようという試みである。

この他に「サンスイ・オーディオセンターの〝チャレンジオーディオ〟五周年」、
「ついにJBLがフェライトマグネットになる 新SFGユニットを聴いてみたら」、
この二本も、である。

これらをあわせると、かなりの量である。
読み応えもあった。

瀬川先生に関してだけではない、
52号から連載が始まったザ・スーパーマニアは、カンノ製作所の菅野省三氏が登場されている。

カンノアンプの名は、どこかで見て知っていたけれど、
詳細について知りたいと思っても、それ以上は知りようがなかった。
そのカンノアンプについて、単なる技術的な詳細だけでなく、
そのバックボーンについても知ることができた。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その69)

ステレオサウンド 53号の表紙はSUMOのThe Goldである。
1979年12月に53号は出ている。

この時点で、私が欲しかった(憧れていた)パワーアンプは、
マークレビンソンのML2が筆頭で、製造中止になっていたけれどSAEのMark 2500が次にいた。

このころの私は、男性的といわれる音を特徴とするボンジョルノ設計のアンプには、
優秀なアンプであり、ユニークな存在であっても、どこか無関係な世界のこととして捉えていた。

だから53号の表紙から六年後、このアンプを手にしていようとはまったく想像していなかった。

53号の特集は49号に続く、第2回《STATE OF THE ART》賞と、
52号から続きで、アンプテストの二本立て。

《STATE OF THE ART》賞で私の目を引いたのは、アルテックのmodel 6041だった。
理由は瀬川先生が書かれていたからだった。

いくつかの注文をつけられながらも、Model 6041を高く評価されていた。
     *
エンクロージュアのデザインにJBLの♯4343WXを意識したのではないかと思えるふしもあるが、その音質は♯4343とはずいぶん傾向が違う。というより、いくら音域を広げてもマルチ化しても、やはり、アルテックの昔からの特徴である音の暖かさ、味の濃さ、音の芯の強さ、などは少しも失われていない。
 ただ、604-8Hの低音と高音を補強した、という先入観を持って聴くと、620Bとかなり傾向の違う音にびっくりさせられるかもしれない。620Bよりもかなりクールな、とり澄ました肌ざわりをもっている。ところが♯4343と聴きくらべると、♯6041は、JBLよりもずっと味が濃く、暖かく、華麗な色合いを持っていて、ああ、やっぱりこれはアルテックの音なのだ、と納得させられる。
     *
これだけで、すぐにでも聴いてみたいと思った。
瀬川先生は、Model 6041のスーパートゥイーターを、
JBLの2405よりも聴き劣りする、と書かれている。

ならばこのスーパートゥイーターが改良されて、
モデルナンバーも6041IIとかではなく、6043にでもなれば、
相当に完成度の優れた、そして4343の独走態勢にストップをかける存在に成り得るようにも感じた。

4341が4343になり独走態勢に入ったように、
Model 6041もModel 6043になれば……、そんなことを思っていた。