ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その66)
クレルのデビュー作といえるPAM2とKSA100のペアが奏でる音は、
私にとっても格別魅力的だった。
試聴でクレルの、このペアが借りられることになると嬉しかった。
またクレルの音が聴ける──、ただそれだけで嬉しくなっていた。
そのくらい初期のPAM2とKSA100の音はよかった。
よかったけれど、この初期というのは、ふつう考えられているよりも短い、とだけいっておこう。
よくオークションに、初期のクレルということをアピールしているのを見かけるが、
オークションでは誰もが高く売りたいわけで、そのための煽り文句ぐらいに思っていた方が賢明だ。
それにごく初期のクレルのペアの音を聴いている人がどれだけいるのだろうか。
シリアルナンバーで確認しているわけでもないし、
本人はごく初期だと思い込んでいても、それはもうごく初期ではなく初期であったりする。
少なくともブログなどで、自分が持っているのは初期タイプだから、音がいい──、
そんなことを自慢している人のいうことを、私は信じていない。
クレルは、コントロールアンプはPAM2だけだったが、
パワーアンプはKMA200(モノーラルA級200W)、KSA50(ステレオA級50W)、
KMA100(モノーラルA級100W)と、ラインナップを充実させていった。
KMA200の凄みには、驚いた。
KSA50のKSA100よりも高い透明感のある音もよかった。
けれど、PAM2とKSA100の音が、私の耳(というよりも耳の底)には焼きついていた。
このクレルの音を、GAS、SUMOのアンプを男性的とすれば、
女性的であり、対照的でもあった、と書いた。
確かにそうなのだが、女性的という言葉からイメージするような、華奢な感じではない。
非力なわけでもない。
そういう次元での男性的、女性的といったことではない。
瀬川先生は、JC2、LNP2時代のマークレビンソンの音を女性的、
GASの音を男性的と表現されていたが、ここでの男性的、女性的とも、
GAS、SUMOの男性的、クレルの女性的は違う面を持つ。
でも、そういうことに気づくのは、
朦朧体といえる音の描き方を求めていることを意識するようになってからである。