Archive for 5月, 2016

Date: 5月 18th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その10)

3月のaudio sharing例会で「マッスルオーディオで聴くモノーラルCD」をやった。
ここでは、マッキントッシュのMA2275の左チャンネルを低域に、右チャンネルを高域に割り当てた。
つまりバイアンプ駆動でネットワークは、アンプとユニットの間に介在していない。

ユニット構成はそのままでステレオにする場合、アンプをどうするのか。
もう一台ステレオアンプを用意して、モノーラル時と同じにバイアンプにするのか。
それともLCネットワークでいくのか。

理屈でいけば、もう一台アンプを用意してバイアンプ駆動にしたほうがいい。
それでも今回試したかったのは、
モノーラルからステレオへの移行期にオーディオをやっていたという仮定の元で、
どうステレオ化していくか、である。

LCネットワークで満足のいく結果が得られれば、それにこしたことはない。
けれどバイアンプとLCネットワークとでは経済的負担も違えば、
得られる結果も当然違う。

同じ結果が得られると考えること自体が間違っているわけで、
LCネットワークならではの良さがあますところなく発揮されれば、
どちらがいいということではなく、バイアンプもLCネットワーク、どちらもいいということになるし、
そういう結果をめざしていたからこそ、6dB直列型を試してみた。

結論をいえば、12dB並列型ネットワークの音だけを聴いていると、
やはりバイアンプにしたい、と思う。
一ヵ月前に、同じシステム(スピーカーの配置は違うが)で、その音を聴いているだけに、
よけいにそう思ってしまう。

6dB並列型にした音は、12db並列型よりもよかった。
それでも前回鳴らしたバイアンプの音を聴いていた人から「バイアンプにしましょう」という声があがった。

私もそれは同じだった。
けれどまだ6dB直列型の音が残っている。
この音を聴いてからである、バイアンプにするのかしないのかも。
実をいうと、バイアンプにするためのケーブル(フィルター内蔵)も用意していた。

このケーブルの出番はなかった。
6dB直列型の音は、そのくらいいい感じで鳴ってくれたからだ。
この音には、「バイアンプにしましょう」という声はあがらなかった。

Date: 5月 17th, 2016
Cate: 五味康祐

《一つのスピーカーの出す音の美しさ》(その3)

奇妙な夢、無気味な夢、不思議な夢……、
どんな夢でもいい、夢をみて、それを憶えておきたいがために、
長い昼寝をとり浅い眠りにつくことをあえてすることがある。

先日もそんなふうにして、ある夢を見ていた。
なぜか、私のところにさまざまなスピーカーシステムが届く、そんな夢だった。
しかも、どのスピーカーも大型のモノばかりで、JBLの4550をベースにしたシステム。
4550は15インチ・ウーファーを二発おさめるフロントロードホーン・エンクロージュア。

夢に出てきたのは、15インチ・ウーファーを四発おさめるもので、
その上に2350ホーンが三段スタックで置かれていた。
ドライバーは2440(2441)だった。

このスピーカーの他にもヴァイタヴォックスの劇場用であるBASS BIN、
アルテックの劇場用のA2、こういう大型のモノを筆頭に、
20組くらいのスピーカーシステムが届く。

これらのスピーカーを置くだけのスペースでも、どれだけの広さがいるのか。
そんな、絶対にありえなそうな夢だった。

そのひとつにタンノイのKingdomがあった。
現在のKingdom Royalではなく、以前の堂々としていたKingdomである。

最初のKingdom(18インチ・ウーファー搭載)があった。
その下の15インチ・ウーファーのKingdomもあった。12インチ・ウーファーのもあった。

まさに選り取り見取りである。
その中で、私はKingdomの前に立っていた。

他のスピーカーは、またどこかに行ってしまおうとも、
Kingdomだけは絶対に確保しておきたい、と思って、その前に立ったわけだ。

目覚めているときに、欲しい、と思ったことのあるスピーカーのいくつかは、
その夢の中にも登場していた。
なのに、夢の中の私は、Kingdomを選んでいた。

不思議な夢だった、と思いながら、
     *
今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十年余をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
この五味先生の文章を思い出していた。

タンノイのスピーカーは、そこそこの数聴いてきている。
けれど、自分のモノとしてきたことはない。

オートグラフが2000年にミレニアム・モデルとして復刻されたときは、欲しい、と思った。
けれど、手が出せなかった。

タンノイへの憧憬(これは私の場合、オートグラフへの憧憬である)を持ちながら、
タンノイを鳴らしてこなかったわけだ。

私はまだ《タンノイのほんとうの音を聴き出す》までに到っていないことを、
夢で再確認していたのかもしれない。

Date: 5月 17th, 2016
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(呼称)

CDが登場する以前、アナログディスクのことはLPと呼んでいた。
45回転の17cm盤のことは、シングル盤、もしくはEPと呼んでいた。

CDはコンパクトディスク(Compact Disc)の略である。
直径12cmで、LPよりもEPよりも小さく、片手で扱えるサイズだ。
確かにコンパクトであり、ぴったりの呼び方だと思う反面、
CDはサイズのことしか表していないことにも気づく。

CDという呼称が登場する前は、DAD(Digital Audio Disc)だった。
これだと、どういう方式で記録されているのかがわかる。

こんなことをいまごろ書いているのは、
LP、EPのことをアナログディスクと書くのであれば、
CDのことはDADと書くべきかも、と思っているからだ。

最近ではアナログディスクのことをVinylと呼ぶようにもなっている。
Vinyl(ヴィニール、ヴァイナル)は、盤の材質のことである。
アナログディスクをこう呼ぶのなら、CDはポリカーボネイト盤と呼ぶべきかもしれない、とも思う。

そう思いながらも、結局のところ、アナログディスクと書いているし、CDと書いている。

Date: 5月 16th, 2016
Cate: 対称性

対称性(その6)

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代後半、
B&Oは優れたデザインのオーディオ機器という評価を確立していた。

そのころのB&Oの広告、紹介記事には、
B&Oのオーディオ機器がニューヨーク近代美術館に永久所蔵されたことが載っていた。

ニューヨーク近代美術館がどういうところなのか、
まったく知識をもっていなかった中学生の私だったけれど、
それがすごいことであるのは、なんとなく感じていた。

それだけでなくB&Oのデザインの美しさがわかるようになることが、
デザインを理解することにつながっていくはずだ、
いつの日かB&Oのオーディオ機器を……、とも思っていた。

瀬川先生の著書「続コンポーネントステレオのすすめ」221ページの写真。
B&OのBeogram 4002とEMTの927Dstの写真が、そこにはある。

B&Oのオーディオ機器はニューヨーク近代美術館に永久所蔵されたけれど、
EMTのアナログプレーヤーが、ニューヨーク近代美術館に永久所蔵される可能性はほとんどない、といっていい。

このふたつのアナログプレーヤーを見ていると、
EMTの方が古くからある会社のように思えてくる。
だが実際にはB&Oの創立は1925年で、EMTは1940年である。

シュアーが同じく1925年、タンノイが1926年、エレクトロボイスとジェンセンが1927年、
デッカが1929年、ヴァイタヴォックスが1931年、ワーフェデールが1932年、
QUADが1935年、アルテックが1936年。

製品から受けるイメージからすると、
B&Oよりも古いと思いがちのメーカーが、B&Oよりも後の創立であることがほとんどだ。

B&Oよりも古いところといえば、セレッション(1924年)、オルトフォン(1918年)、
フィリップス(1891年)、トーレンス(1883年)といったところだ。

日本ではB&Oと同じ1925年に、ラックスの前身である錦水堂ラジオ部ができている。

B&Oより古い会社の方が少ない。

Date: 5月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その1)

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、
狭い部屋に大型スピーカーを押し込んで鳴らしている人を揶揄する、
プロフェッショナル用機器を家庭で使う人のことも揶揄する、
ホーンは拡声器でしかない、と揶揄する……、
もっと書いていけるけど、このへんにしておく。

こういうクレバーなオーディオマニアを自称する人からすれば、
たとえばアルテックのA7を六畳間で鳴らしている人は、どう映るであろうか。

ナロウレンジの劇場用スピーカーで、エンクロージュアの仕上げもホーンの仕上げも粗いところが残っている。
家庭で使うことなど全く考慮していないスピーカーであるけれど、
日本にはあえて、この劇場用スピーカーを家庭に持ち込んだ人は、けっこういる。

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、そういう人のことを、
古い、の一言で切って捨てるであろう。

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、A7を六畳間で鳴らしてみた経験を、
同じといえる経験を持っているのだろうか。

ある、と言える人でも、どこまで真剣に取り組んだのだろうか。

音楽出版からCDジャーナル別冊として1996年、「オーディオ名機読本」が出た。
この本の中に、アルテックのA7について書かれた文章がある。
篠田寛一氏が書かれている。
     *
 また、こんなこともあった。
 米国・アルテック本社の人間を連れて何人かのユーザーを訪問した時のことである。その中にA7を使っている学生さんがいた。木造アパートなのであまり大きな音は出せないが、卒業して故郷に持って帰るまでエージングも兼ねて聴いてるのだという。それでもA7ならではのエネルギー感は楽しめるという彼の部屋に入って驚いた。6畳ほどのスペースにレコードプレーヤーをはじめアンプ、それに机や本箱などがところ狭しと置いてある中にA7が鎮座しているのだ。立錐の余地もないとはこのこと。それにしても、一体どこで寝るのだろう。その答えは、天井とA7との間にある1m弱のスペースにあった。棚のように見える間隙を覆っていたカーテンを開けると、何とそこにベッドが置いてあるではないか。ちょうど、2段ベッドの下段にA7を置き、その上段で寝るというパターンである。ベッドに横になって聴いていると体じゅうに適度な振動が伝わってきてなかなか心地よいと笑いながら話してくれた。
 これにはアルテックの人間も唖然とした様子、最初のうちは声も出なかったようだ、業務用のA7を家庭で聴くことすら信じられないうえこの特異なリスニング環境だから声が出ないのも無理はないが、しばらくたってひと言「ファンタスティック」といっていた。もし、クレージーなんて言ったら叱りつけてよろうと思ったが、自社の製品をこれほどまでに熱烈に愛用してくれるユーザーに心から感激した様子だった。
     *
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、この人のことをなんというであろうか。
こういう経験をしてきたのだろうか、同じような経験をしてきたのだろうか。

こういう経験をしてこなかったこと、
考えもしてこなかった自分のことを、どう思うのだろうか。

このA7のユーザーがいた、
この人だけではない、他にも同じ人たちがいた時代が、日本にはあった。
熱い時代があったのは、確かなことだ。

Date: 5月 14th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(続・感服できる音こそ)

感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、

それから感謝できる音、
感服できる音。

これを書きながら、
「音は人なり」なのだから、
そこでの、感心できる音、感激できる音、感動できる音、
さらには感謝できる音、感服できる音にしても、
その「音」は己ということであり、己自身に感心したり感激したり、できるというのか。

そんなことも、実は考えながら書いていた。

もちろん「音は人なり」であっても、聴くのは音楽であり、
音楽に感心したり、感動したり、ときには感謝したり、するのだから、
矛盾はないだろう、ともいえる。

でも、これはどこまでも消極的である。
そういうのなら、感心を損なわない音、感動を損なわない音……、
こんなふうに書かなければならない。

こんなことを考えながらも、あえて、
感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、
感謝できる音、
感服できる音。
と書いたわけだ。

Date: 5月 14th, 2016
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(あるラジオを聞いていて)

数日前、ラジオでアナログディスクについて語られていたのが、偶然耳に入ってきた。
途中からだったし、短い時間だった。周囲の雑音も多いところだったから、
どこまで正確に聴きとれていただろうか、と思うところはあるけれど、
概ね、こんなことが話されていた。

在日ファンクのヴォーカル、浜野謙太という人が言っていたことだ。

CDはドメスティックな感じがして、家庭でひとりで聴く感じ。
アナログディスクはみんなに聴かせたい、みんなと聴く感じのするもの。

アナログディスク再生とCD再生。
そこには違いがある。
その違いをどう感じて、どう表現するか。

1982年にCDが登場して以来、
そういう文章、発言をどれだけ目にして耳にしてきただろうか。

それらをすべて読んできたとはいわないけれど、
かなりの数、見聞きしてきた。

それでも、今回の浜野謙太氏の発言は初めてだった。

CDは冷たい、アナログディスクはあたたかい──、
そんな表現だったら、取り上げたりはしない。

CDは、という括りには、リッピングしたデータも含まれているとは思う。
ヘッドフォン、イヤフォンで音楽を頻繁に聴く人は、この時代、多い。
この人たちをイメージしての、CDはひとりで聴く、という発言につながったのかも……、
そう考えもしたが、続くアナログディスクは……、の発言をきくとそうでもないという気がする。

私にとっては、アナログディスクもCDも、リッピングしたデータであっても、
その他のメディアであっても、家庭でひとりで聴くものであり、
その上でのCDとアナログディスクの違いがある。

多くのオーディオマニアは私と同じだと思う。
けれど在日ファンクの浜野謙太氏は、そうではない。

浜野謙太氏の捉え方は少数といえるのだろうか。
意外と多いのかもしれない。
どちらなのかは,いまのところわからない。

ただテクニクスのSL1200の人気、
SL1200のニューモデルの登場、
限定モデルがすぐに予約完売してしまったことなどが、
ここにつながっていくような気がしている。

そして、いまのアナログディスクブーム、そうなのかもしれない……、
そんな気もしてくる。

このことについては、もう少し考えていきたい。
とにかく浜野謙太氏の発言は、私にはとても意外だった。

Date: 5月 13th, 2016
Cate: audio wednesday

第65回audio sharing例会のお知らせ(LNP2になぜこだわるのか)

6月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

人によって評価のわかれるアンプである。
マークレビンソンのコントロールアンプLNP2は、1970年代後半、オーディオ界のスターといえた。
LNP2を評価しない人であっても、当時LNP2にまったく関心のなかった人はすくないと思う。

私は若い頃、このコントロールアンプが欲しくてたまらなかった。
手が出せそうになったころには、興味を失いつつあった。

LNP2からJC2へと興味が移っていったことも関係している。
JC2はアメリカから中古を取り寄せてもらった。

私のアンプ遍歴はマークレビンソンから離れていく。
ジェームズ・ボンジョルノのアンプへと変っていった。

LNP2は私の中では、すっかり過去のアンプになってしまった。
そのLNP2に、40をすぎたころから、興味を持ち始めてしまった。

ブランドのMark Levinsonではなく、個人としてのMark Levinsonがどういう人物なのか、
あれこれ知っている。
スターはスターでもトリックスターかも、と思う面もある。

カタカナで表記すれば同じスターでも、スター(star)とトリックスター(trickster)なのだけれども、
そんなことをつい思う。

トリックスターには詐欺師、ペテン師、手品師の意味がある。
もちろん、この意味で使っている。

でももう一つある。
神話や民話に登場し、人間に知恵や道具をもたらす一方、社会の秩序をかき乱すいたずら者。道化などとともに、文化を活性化させたり、社会関係を再確認させたりする役割を果たす。(大辞林より)

《社会関係を再確認させたりする役割を果たす》
いまになってLNP2がどういう存在だったのか、
いまにおいてはどういう存在なのかを考えることは、オーディオの《社会関係を再確認》することにもつながり、
その役割を果たしているかも、と思いもする。

でも本当のところは、LNP2の世界から完全に抜け出せていないだけかもしれない。
片足の足首から下が、まだ嵌っているのだろう。

今回はLNP2を、audio sharing例会の常連のKさんが貸し出してくださるので、
マークレビンソン製モジュールとバウエン製モジュールのLNP2の音を聴く会を行う。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 12th, 2016
Cate: 五味康祐

《一つのスピーカーの出す音の美しさ》(その2)

「世界のオーディオ」タンノイ号巻頭「わがタンノイ・オートグラフ」のあとには、
瀬川先生の「私とタンノイ」が続いている。

その冒頭に書かれている。
     *
 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
《音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。》
とある。

この瀬川先生の文章が、
五味先生の文章
     *
 今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十年余をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
私の場合、ここにかかってくる。

ほんとうの音を聴き出す──、
それができるようになるのに必要なのは、時間、それも永い時間なのだろう。

Date: 5月 12th, 2016
Cate: 五味康祐

《一つのスピーカーの出す音の美しさ》(その1)

《一つのスピーカーの出す音の美しさ》──、
もちろん五味先生の言葉だ。

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」タンノイ号の巻頭
「わがタンノイ・オートグラフ」の中に出てくる。
     *
 今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十年余をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
なにげない文章のように感じる人もいようが、
これは書けないな……、といつも思う。

私なら「タンノイのほんとうの音の聴き出すまでに」のところは、
引き出すまでに、とか、鳴らし出す、とか書いてしまう。
「聴き出すまでに」とは書かない(書けない)から、よけいにそう感じてしまう。

《一つのスピーカーの出す音の美しさ》もそうだ。
あくまでもここでは《一つのスピーカーの出す音の美しさ》であり、
《一つのスピーカーの出す音の良さ》ではない。

《一つのスピーカーの出す音の美しさ》、
実はなかなか聴けない。

Date: 5月 12th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(感服できる音こそ)

このブログを始めたころに、こんなことを書いている。
     *
20代のころ、音の表現として、
感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、があると思ってきた。

30代のころ、感動の先にもうひとつあると思ってきた。
40になって、気づいた。
感謝できる音、があることに。

感心と感激は、快感の域、
感動、感謝が幸福の域、と言い切る。
     *
いま思うのは、感服できる音、である。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(ブームだからこそ・その1)

私がDE ROSAのロードバイクを買ったのは、1995年5月だった。
20年以上前で、そのころといまとでは、はっきりとブームだといえる。

街に出れば、必ずロードバイクを見かける。
けっこうな数を見かけるし、けっこうな値段のモノを見かけるようになった。
自転車店の数もほんとうに増えた。
自転車関係の雑誌、ムックも増えている。

けっこうなことだと思いたい。
でも、街を走っている人の中には、明らかにバイクのサイズが合っていない人がいる。
20年ほど前もそういう人はいたけれど、いまの方が多く感じられる。

昔からいわれていた、初心者が来ると、
売れ残っているフレームを、サイズが合ってなくとも売りつける店がある、と。
そうかもしれないと思うし、そればかりでもないとも思う。

ロードバイクはそれ単体で見れば、ある程度のサイズの大きさがあったほうが、見栄えがいい。
ホイールサイズとの関係もあるのだから、そのことは解消が難しい。
そのためだろうか、自転車の見栄えを気にして、サイズが合っていなくともあえて購入する人もいるときく。
自転車店の人がよしたほうがいいとアドバイスしても、らしい。

飾って眺めておくだけの自転車(床の間自転車という)なら、そのほうがいいが、
自転車は公道を走るモノだ。
自転車しか走っていなくても、危険はある。
まして実際は歩行者もいるし、車も走っている。

そこをサイズの合っていない、つまり乗りにくさのあるロードバイクで走る……。

こればかりではない。
時速20km以下のゆっくりしたペースで走っているのに、
ドロップハンドルの一番深いところを握っている人も増えてきている。

ブレーキブラケットのほうが安全で快適なスピードなのに、と思う。

電車に乗れば輪行している人が増えた。
以前はほとんど見かけなかったことも関係しているのだろうが、
輪行バッグには前輪、後輪と外して、という人ばかりだった。

でもいまは前輪だけ外して、後輪は装着したままという人が多い。
後輪の脱着が苦手(できない)人が多いのか。

先日見かけた人は、エアロ仕様のロードバイクだった。
ハンドルもドロップハンドルではなく、タイムトライアル仕様である。

こんな仕様では、街では乗りにくいだろうにと思う。
このバイクに乗っていた人は、明らかにロードバイク初心者だった。

おぼつかなく、危なっかしい乗り方だった。
その人のバイクの値段は、かなりする。

街中では乗りにくくても、かっこいいバイクが欲しかったのかもしれない。
なのにペダルがビンディング式ではなく、一般的な自転車のペダルだった。

このバイクを売った店は、どこなんだろう……。

ブームは悪いことではない。
オーディオがブームだったから、「五味オーディオ教室」は出版された、といっていい。
オーディオがブームだったから、私は「五味オーディオ教室」と出逢えた。

ブームだから、そうでないころからすれば、売ることが楽なのかもしれない。
それだからこそ売る側の姿勢は、ブームでないころよりも問われている。

売る側とは、販売店だけではない、メーカー、輸入元も、オーディオ雑誌の出版社もだ。

いまオーディオテクニカのAT-ART1000について厳しいことを書いているのは、
アナログブームと言われていて、そういうことも含めて、だからだ。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: フィッティング

フィッティング(その3)

スピーカーで音楽を聴く場合、それはステレオフォニックな再生である。
左チャンネルのスピーカーから発せられた音は、聴き手の左耳でだけ聴いているわけではない。
右耳にも左チャンネルのスピーカーの音は届いている。

右チャンネルの音に関しても同じである。
右耳だけでなく左耳でも受けとめている。

これがヘッドフォン(イヤフォン)となると、
左チャンネルのダイアフラムから発せられた音は左耳だけが聴いている(受けとめている)。
右チャンネルのダイアフラムの音は右耳だけである。

スピーカーでの再生とヘッドフォン(イヤフォン)での再生との大きな違いは、
まずここにあるわけだ。

このことは音のフィッティングに大きく関係してくるし、
補聴器のフィッティング技術に関心をもつわけだ。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(余談)

5月のmuscle audio Boot Campで、直列型ネットワークの音を聴かれた方が、
自分のシステムを、6dB直列型ネットワークにしたい、ということになった。

その方は熱心なジャズの聴き手。
JBLのD130、LE85+2345、075というシステムである。
現在使用されているネットワークはもちろんJBL製で、N1200とN7000である。

2345はカットオフ周波数800Hzのラジアルホーンだ。
LE85のクロスオーバー周波数は500Hz以上となっている。

N1200は型番からわかるように1200Hzのクロスオーバーである。
今回、これも変更してみたい、ということである。
800Hzの6dB直列型にしたい、という要望だ。

2ウェイであるならば、今回muscle audio Boot Campで使用したネットワークで、
そのままいけるわけだが、3ウェイである。

3ウェイの6dB直列型にするという手もあるし、
D130とLE85を直列型ネットワークでまとめあげ、
この2ウェイに対して075を、コンデンサーで低域をカットするという手で追加するという案もある。

JBLの純正ネットワークとつねに比較することができるだけに、
この依頼はひじょうに楽しみである。

結果については、何ヵ月後かに書く予定だ。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その1)

インターネットを始めたのが1997年。
そのころからなんとなく感じていたのが、「複雑な幼稚性」である。

インターネットのサービスも、そのころとはずいぶん変化してきている。
SNSが登場し普及してくるようになって、「複雑な幼稚性」はより顕になってきた、と感じている。

ことにオーディオに関してだけでも、そうだ。
むしろ、オーディオだからこそ、なのかもしれない、と思ってしまう。