Archive for 12月, 2015

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その5)

水もまた鏡の役目を果たす。
澄んだ水であれば、波立たない静かな水は、鏡のようである。-

水は映す。
水は、時として物や人を移しもする。
大量の水が流れれば、その流れは何かを移す。
水は移ろいゆく。

そして洗い流す。
なにもかも洗い流すことがある。
汚れも流れとともにもっていく。

洗練──、洗煉とも洗錬とも書く。
「れん」の漢字は違っても、「せん」は洗のみである。

洗練は、磨きに磨きぬかれていなければならない。
磨かれたモノもまた、何かを映すようになる。

そのために研いでいく(磨いていく)。
研ぐには水が必要である。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その2)

あの人は輝いている、という表現がある。
輝いているわけだから、光をはなっているわけだ。
その光は自らの光なのか、それとも近くに輝いている人がいて、
その輝きを反射させての輝きということだってある。

どちらが上とか下とか、そんなことではなく、
月のように太陽の輝きを反射しての人が、自らを太陽だと勘違いしてしまっては困る。

オーディオ評論家も同じである。
輝いている人(いまどのくらいいるのかは書かない)、そうでない人がいて、
輝いている人は自ら光を放っている人と、誰かの光を反射して、の人とがいる。

私はどちらもいていいと思っている。
けれど月であることを自覚してほしい人がそうでなかったりする。

これは読み手側の問題ともいえるところがある。
読み手側が、書き手側(オーディオ評論家)に勘違いを起こさせてしまっているところがある。

読み手側が、あの人は月であることをわかって読んでいるのと、
月であっても太陽であると思って読んでしまっていては、書き手も勘違いしてしまう。

そしてここでの読み手は、オーディオ雑誌の読者のことだけではない。
読者よりも先にオーディオ評論家の文章を読む編集者も含まれる。

オーディオ雑誌の編集者こそが、はっきりとわかっていれば、勘違いはそうとうに減るはずだ。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その2)

オーディオ評論家の誰それは耳が悪い、とか、クソ耳だ、とか、
そんな物言いをする人がいる、残念なことに少なからずいる。
これに関しては年代はあまり関係がないようだ。

まあ確かに、そういわれても仕方ない人が、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちの中にいることは、私も感じている。
いまだけに限らない、昔だってそういう人たちは確かにいた。
これに関しても年代はあまり関係ない、といえる。

どこのサイトなのかは書かない。リンク先も書かないが、
あるオーディオ雑誌の編集を過去にやっていた人が書いているウェブサイトがある。
そこにあるオーディオ評論家の話が出てくる。

このオーディオ評論家は、いまもオーディオ雑誌に書かれている人だから特定されるようなことは控えたい。
どのようなことを書かれているのかも詳細は、検索にされないように書かない。

私はこの話を、その場にいた人から直接聞いている。
その話が偽りでないことを知っている。

そのオーディオ評論家(誰もが知っている人)は、あるスピーカーシステムの試聴を行っていた。
あとからその場に入った人はすぐに、左右逆に鳴っていることに気づいた。
にも関わらず、そのオーディオ評論家は最後まで左右逆に接続されていることに気づかず、
「いい音だな」という評価を下していた。

初めて聴くディスクでの話ではない。その人の試聴用ディスクとして長年聴いてきているディスクでの話である。

こんな話を書くと、だからオーディオ評論家を含めて他人の耳なんて信じられない、
信じられるのは自分の耳だけ、といいたくなるのはわかる。

けれど、左右逆であることに気づかなかった人もまた同じことを言っているのである。
信じられるのは自分の耳だけだ、と。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 1年の終りに……

2015年をふりかえって(その2)

JBL PROFESSIONALのM2の存在を知ったのは、今年の春だった。
二年前にでていたモデルのことを、今年の春に知ったわけだ。

M2の存在を知ってからというもの、このスピーカーに搭載された技術が、
いつコンシューマー用モデルに使われるのか。
特にD2 Dual Driverを、なぜJBLはすぐにもコンシューマー用モデルに採り入れないのか。
このことが疑問だった。

来年のJBL創立70周年記念モデルまで採用しないのか、とまで思っていた。
そこに4367が、いきなり登場した。

見た目は4365とほぼ同じだし、型番も近いものだから、
D2 Dual Driverの採用はないものだと勝手に思っていた。
けれど、拍子抜けするくらいに、唐突に採用している。

去年からJBLの輸入元であるハーマンインターナショナルは、
インターナショナルオーディオショウに出展しなくなった。
もし出展していたら、今年のショウでは聴けたかもしれない。

4367の音は、まだ聴いていない。
聴いていないけれど、このスピーカーが悪いはずはない、という直感はある。
私としては、DD66000の登場よりも、4367の登場に昂奮している。

ただ残念なのは、そのデザインである。
D2 Dual Driverの写真を見ると、触りたくなるほどなのに、
スピーカーシステムとしての4367には、そんなことはまったく感じない。

そのためなのか、いまひとつ注目度が低いような気さえする。

スピーカーではもうひとつに気になった製品がある。
クラフトノーツというブランドのOT360である。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その25)

つきあいの長い音は、つきあいを深めていける音。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: 1年の終りに……

2015年をふりかえって(その1)

毎年12月になると、10大ニュース的なことを書こうと思う。
思うけれど、10もあげられずに、結局は書かずに年を越してしまっていた。

今年は思いつくままではあるが、いくつか書いていこう。
といってもオーディオの仕事をしているわけではないから、
今年登場したオーディオ機器のごく一部しか聴いていない。
なので、きわめて個人的な「今年をふりかえって」である。

まず挙げておきたいのは、ヤマハのNS5000のプロトタイプのお披露目である。
別項で書いているので、ここでは簡単に触れておく。

ヤマハのスピーカーの型番のNSはnatural soundを表している。
ヤマハのナチュラルサウンドとは、基本的に穏やかな音である。
そして適度にエッジをきかせている。

そのきかせ具合が、NS1000MとかNS500といったグループと、
NS690に代表されるグループとでは違ってくる。

今回のNS5000を聴いて感じたのは、エッジの強調具合に頼ることなく、
ヤマハが目指していたであろうナチュラルサウンドが実現しつつあるということだ。
とはいっても、音の輪郭がぼけているということではない。

NS5000の評価は、どうもあまり芳しくないようである。
インターネットでの匿名の印象記は、ひどいものが多かった。
たまたま私が目にしたものがそうだっただけかもしれないが、残念に思うし、
ヤマハが来年夏の発売までに、どうするのかが不安でもある。

私としてはいまの方向で自信をもって進めてほしいのだが、
批判的な意見を採り入れてしまい、違う方向に行ってしまっては……、と思っているからだ。

もうひとつスピーカーをあげれば、JBLの4397WXの登場だ。
4367とNS5000と同価格帯のスピーカーとなる。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その1)

オーディオについて書かれたもの、
オーディオ雑誌に載っている製品紹介、試聴テストの試聴記、
そういったものは必要ない、
それらはすべて他人の耳が聴いたものであって、信じられるのは自分の耳だけだから。

昔からいわれているし、いまもいわれていることだ。
正論といえば正論である。

オーディオは自分のリスニングルームで、
自分のスピーカーで自分ひとりで音楽を聴くものだから、
他人の耳なんかどうでもいい、自分の耳だけが信じられるのは当然すぎることである。

ステレオサウンド 38号でも、瀬川先生は
《あまり理屈をふりまわさないで、ご自分の耳にできるだけ素直にしたがいなさい、ということですね》
と最後にいわれている。
長島先生は
《表面的なきれいな音だけにこだわらずに、ご自分の音をさがしてほしいということでしょうか。オーディオ・システムというのは、あくまでも個人の、プライベートなものですから》と、
井上先生は
《ほとんどすべての人間が聴覚をもっていて、生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうして他人の手引きや教えばかりを求めるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんですよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです》と。

結局は、自分の耳で聴いて、それにしたがい、探し出すということにつきる。
それは百も承知で、ほんとうに自分の耳をそう簡単に信じていいものだろうか、ともつねに思っていた。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(五味康祐氏の文章を思い出している)

しつこいぐらいに書いているように、私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まった。
こう書いてあった。
     *
 むろん誰にだって、未来はある。私にもあった。私はその未来に希望を見出して働いて来た。五十の齢を過ぎて今、私の家で鳴っている音にある不満を見出すとき、五十年の生涯をかけ私はこれだけの音しか自分のものにできなかったかと、天を仰いで哭くことになる。この淋しさは、多分、人にはわからぬだろうし、筆舌に尽し難いものだ。
     *
13の時に「五味オーディオ教室」と出逢い、読んだ。
「五十の齢」は、当時の私にはずっとずっと先のこと、
ぼんやりとも想像することはできずにいた。

いま「五十の齢」を過ぎている。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その8)

オーディオ雑誌は出発物であって、それも紙を媒体とした出版物であるから、
紙に印刷できるのは、文字(言葉)と写真・図だけである。
視覚情報以外のものは、紙には印刷できない。

これは音を伝えたいオーディオ雑誌にとっては、大きな制約であり、不幸なこと、といえる。
だから1980年代にはCDマガジンという、CDを附録というよりもメインのメディアとした雑誌が登場した。

CDに続いてCD-ROM、DVDが登場し、
それらを附録とすれば、音だけでなく動画も収録でき、
静的な視覚情報だけだったころからすると、動的な視覚情報、聴覚情報も伝えられるようになった。

さらに紙の本は電子の本となって、
DVDにおさめていた動的情報を一体化できるようになった。

つまり紙の本からすれば、制約はかなり減ってきている。
これは喜ぶべきことなのか、
不幸なことがなくなってきた、といえるのだろうか。

電子書籍の機能を振るに活用すれば、紙の本では不可能だったことまで伝えられる。
けれど、それはオーディオについて語る上で、ほんとうにいいことなのだろうか。

オーディオ評論がある時期まで成り立っていたのは、紙の本しかなかったからだ。
視覚情報しか伝えられない紙の本で、いかにして聴覚情報の音を伝えていくか。
この制約があったからこそ、オーディオ評論は生れ、(ある時期までは)進歩していった。

附録をつけることに反対はしない。
ただ附録をつけることで、紙の本という制約から解放されると安易に考えないことだ。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: audio wednesday

第60回audio sharing例会のお知らせ

2016年1月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

何度か告知しているように、1月の会はアンプの比較試聴を行う。
といっても、厳密な意味での比較試聴ではなく、
もっと気楽な意味でのアンプの聴き較べと思っていただきたい。

今回はそうなるわけだが、いつかは厳密な意味での比較試聴というものを、
喫茶茶会記のスペースでできるだけ再現してみたい、と考えている。

ここでの比較試聴とは、私がいたころのステレオサウンドでの試聴が、
どんな感じで行われていたのかを、大事なポイントを抑えなから再現できないか、と思っている。

アンプの比較試聴でもいいし、カートリッジの比較試聴でも、
対象となる機器は特にこだわらない。

どれかに決めて、例えばカートリッジの試聴ならば、どういったことに気をつけて試聴を行っていたのか。
私がいたころ、カートリッジの試聴は井上先生だけだった。

この時の記事は私が担当だったから、どんなふうに試聴を進んでいったのかははっきりと憶えている。
どういうことに注意しながら、プレーヤー、カートリッジ、トーンアーム、レコードを扱っていたのか、
そのへんのことも細かなことまで憶えているから、というよりも身体感覚となっているから、
いくつかの制約の中であっても、再現できる自信はある。

人によっては、そんな細かなことにまで気を使ってやっているのかと思われるかもしれないし、
その程度なのかと思われるかもしれない。

どちらであっても、想像以上に試聴はしんどいものであることは伝えられるはずだ。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その24)

つきあいの長い音を得るには、調整だけでなく調教してこそだ、と思う。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その2)

長島先生が、どんなふうに言われていたのかを正確に引用するために、
ステレオサウンド 38号をひっぱり出していた。

38号の特集記事「オーディオ評論家 そのサウンドとサウンドロジィ」の巻頭は、黒田先生が書かれている。
「憧れが響く」とつけられた黒田先生の文章を、だからひさしぶりに読み返していた。

すると、調教という言葉が出てきた。
この黒田先生の文章を以前に読んでいたから、
調整なのか調教なのか、ということを思いついたと、だからいえるのかもしれない。

文章を書くことに慎重な黒田先生が、調整ではなく調教を使われている。
そこのところを引用しておく。
     *
 このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
 したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
 しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
 ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
     *
調整と調教の違いは、整えると教えるにある。
教えることで、そのモノと行動をともにすることができる、といえるのではないか。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(売れればいいのか)

附録をつければ、それで売上げが伸びるからこそ、
出版社はあれこれ附録をつけた雑誌を出すようになってしまっている。

出版界は厳しい状況にある、とよくいわれる。
そうだと思う。
だから、少しでも売上げが伸びるのであれば……、と思って附録をつける。

ステレオサウンド 197号の附録は、売上げにつながる附録とはいえないと私は思っているが、
私とは反対に、あの卓上カレンダーがついていたから買った、という人もいるであろう。

もしかしたらカレンダーによって、197号の売上げは伸びているのかもしれない。
けれど、読んでいる人はほんとうに増えているのだろうか。

本が売れればいい──、
そうやって附録をつけたりして売上げを伸ばしていく。
会社は利益をあげなければ継続していかないのだから、理解できないわけではない。

けれどそうやって伸びた売上げは、読まれることを増やしていることに必ずしもつながらない。
附録目当ての人は、附録が充実していればそれで満足する。

その7)に書いたように、
ステレオサウンドを毎号買ってはいるけれど、読んでいない、という人たちは確実にいる。

編集部としては、読まれていないステレオサウンドであっても一冊は一冊であり、
その一冊は毎号買われていくわけで、利益になっているわけだから、それでもいい──、
となるのだろうか。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが、こんなことをいっていた。

いわゆる売れ筋の曲のカップリングに、マイナーな、あまり知られていない曲を選ぶのは、
あえてやっていることであり、我々(レコード制作者)は聴き手に認知させる、
いわば聴き手を教育するということが求められている──、
そんな趣旨のことを読んだことがある。

売れ筋の曲(録音)に、さらに売上げを伸ばすように、
同じくらい売れ筋の曲(録音)をカップリングすることだってできる。
目先の利益のみにとらわれているのであれば、そのほうがいい。

けれどレコード会社の使命というものがある。
そのことを承知している人たちは、あえてマイナーな曲をカップリングして、
その曲が少しでも世の中に広まっていくようにこころがけている。

出版社としての使命は……、どうなっているのだろうか。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その7)

その6)にコメントがあった。
コメントをくださったGravitychildさんは、私と同じだった。

カレンダーにつられて数年ぶりにステレオサウンドを購入しようと思い書店に行かれている。
けれど、カレンダーのチープさにがっかりされ、買わずに書店を後にされている。

まったく私と同じ人が、やはりいるんだ、と思いながら読んでいた。
Gravitychildさんと私、
ステレオサウンド 197号を買おうと思っていたのに買わなかった人が、ふたりはいるわけだ。
ということは、同じ人がもっといるとみていいだろう。

Gravitychildさんも私も、以前は熱心なステレオサウンドの愛読者だった。
けれどいつのころからか買わなくなってしまった。

私の周りにも買わなくなった人はいるし、
買ってはいるけれど、惰性で買っているんだけどほとんど読んでいない、という人も何人かいる。

買わなくなった人を、今回のカレンダーは買わせるきっかけだったはずだ。
けれど、編集部は何を考えてなのだろうか、あの程度のカレンダーをつけてしまった。

ステレオサウンド編集部の人たちは、あのカレンダーを組み立てて、
編集部内の自分の机の上に置いているのだろうか、
もしくは自宅に持ち帰り、自分のリスニングルームに飾っているのだろうか。

飾っていない・置いていないとしたら、
なぜその程度のカレンダーしかつけないのか、と問いたくなる。

飾っている・置いているとしたら、
ほんとうにあの程度のカレンダーで満足しているのか、と問いたくなる。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: 音影

音影と陰翳礼讃

音像と音場。
これだけでなく、音影という、再生音の捉え方があると考えるようになった。

音像はおんぞうと読む、
音場は、おんじょう、もしくはおんばと読む。
ならば音影は、おんえいとなるわけだが、いんえいとも読める。

いんえいは、陰翳でもあり、
陰翳礼讃であり、
私の中では、音影と陰翳礼讃のつながりについて書いていくのが来年のテーマになりそうだ。