Archive for 10月, 2015

Date: 10月 12th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(その14)

音は消えていってしまう。
それをマイクロフォンでとらえ電気信号に変換して、テープレコーダーが磁気に変換してテープに記録しないかぎり、
音は消えていく宿命である。

音が電波に変換される。
この電波もまた誰かが受信しないかぎり音にはならないし、
受信されても音に再び変換されるわけだから、ここでも録音しないかぎり消えていく。

エアチェックして記録として残すことについて、少し考えてみたい。
     *
菅野 これも個人によって全く考え方がちがうと思いますね。たとえば、自分があまり関心のないジャンルというものがある。ぼくにとってはFMチューナーがそうです。ぼくはFMチューナーで、レコードに要求するだけの音を聴こうとは思わないんですよ。まあ、そこそこに受信して鳴ってくれればいい。だから大きな期待をもたないわけで、FMチューナーなら、逆に値段の高いものに価値観を見出せないわけです。
 亡くなられた浅野勇先生みたいにテープレコーダーが大好きという方もいる。「もうこのごろレコードは全然聴かないよ、ほこりをかぶっているよ」とおっしゃっていたけれど、そうなると当然レコードプレーヤーに関しては、大きな要求はされないでしょう。やはりテープレコーダーの方によりシビアな要求が出てくるはずですね。
 そのようにジャンルによって物差しが変わるということが全体に言えると同時に、今度はその物差しの変わり方が個人によってまちまちだということになるんじゃないでしょうか。
柳沢 ぼくもやはりFMチューナーは要求度が低いですね。どうせ人のレコードしか聴けないんだから……といった気持ちがある。
瀬川 そうすると、三人のうちでチューナーにあたたかいのはぼくだけだね。ときどき聴きたい番組があって録音してみると、チューナーのグレードの差が露骨に出る。いまは確かにチューナーはどんどんよくなっていますから、昔ほど高いお金を出さなくてもいいチューナーは出てきたけれども、あまり安いチューナーというのは、録音してみるとオヤッということになる。つまり、電波としてその場、その場で聴いているときというのは、クォリティの差がよくわからないんですね。
     *
この座談会はステレオサウンド 59号「ベストバイ・コンポーネント その意味あいをさぐる」からの引用だ。
チューナーの音は、チューナーからの信号をアンプに入力して聴くよりも、
いったん録音してそれを聴く方が、チューナーの差がはっきり出てくる──、
それまでチューナーの聴き比べをやったことはなかった私には、意外な事実であり新鮮な驚きだった。

Date: 10月 11th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(その13)

聴きたいと思ったレコードを自由に買えるのであれば、
レコードによる放送を録音する必要はなかったし、ライヴ録音ものばかりを録音していたことだろう。

それにそれだけの経済的余裕があれば、テープを使いまわしすることもない。
録音したものは、気に入ったものだけでなく、そうでないものも消さずに置いておける。

カセットテープでも本数が増えると収納について悩むけれど、
オープンリールテープは、もっと嵩張る。
そのためにしかたなく消去ということをやっていた人もいるはずだ。

そして消した後に後悔することもあったはずだ。

そのことについて座談会で瀬川先生は語られている。
     *
二年とか四年とかのサイクルなら消してもなんとも思わないけれど、十年経ってあの時消さなければよかったなァというのは必ず出てくる。一度録ったものを、繰り返して聴くということの意味は、そういう所にも出てくるんで、その時になっても、よかったなァと思うのが本物ということですね。
     *
そうだと思うし、さらに二十年、三十年、さらにもっと経つと、ここに変化が出てくる。
このへんのことについても語られている。
     *
 最後に一つ、お話しておきたいのは、この前、「週刊朝日」だったかで明治時代の写真を日本中から集めたことがありましたよね。
 要するに、家の中に眠っている写真を何でもいいから、日本中から集めて。そうしたら、しまっていた人でさえ気がつかなかったようなすばらしい資料がたくさん集まったわけですね。
 今エア・チェックでやっていることって言うのはそれに似ていると思うんですよ。一人一人は何気なく自分が聴きたいから、あるいは、そういう意志もなしに、習慣でテープのボタンを押してしまって、録っちゃったみたいなこともある。これだけFM放送がはんらんしてくると、それぞれ、みんな録る番組が違うと思うんですよ。しかし、どこかにみんな焦点が合っている。これから十年、二十年たって、あるいは五十年くらいたって、かつてこんな番組があったのか、誰かこれ持ってないかなと言うときに、ちゃんと残っていたら、これは大変な資料になると思うんです。
 エア・チェックには楽しさの他に、そうした意義があると思う。そこに、エア・チェックのスゴサみたいなものをぼくは強く感じるわけです。
     *
ここでの瀬川先生の発言は、当時の人よりもいまの人たちのほうが強く実感できているはずだ。

Date: 10月 11th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(その12)

別冊FMfan 10号の特集は創刊10周年記念でもあり、「エア・チェックのすべて」である。

巻頭には五味先生が登場されている。「FMエア・チェック・マニア言行録」と題して、
五味先生のリスニングルーム訪問と五味先生のNHK訪問の二本立てからなっている。

いまでは考えにくいことだろうが、
このころはエアチェック(FM放送)が特集となることもあった時代だ。
それほどエアチェックが盛んだった。

エアチェックとは、本来はプロ用の言葉である。
放送局からの電波が正しく送信されているのかをチェックするから、エアチェックなのである。

それがいつしか一般の人たちが、
家庭で放送されたものをテープ録音することを指す言葉として使われるようになっていった。

いまでこそFM局はいくつもあるが、
1970年代は東京でもNHK FMと東京FMの二局のみだった。
アメリカのような音楽ジャンルの専門局など夢のまた夢として語られている時代だった。

とはいえ、むしろだからこそなのかもしれない、
FM放送を受信して、テープに録音するという行為(エアチェック)を熱心に行っている人の数では、
アメリカ以上に多いのではないか、ともいわれていた。

私も高校生だったころ、エアチェックをやっていた。
私が住んでいた熊本には民放のFM局はなかった。
NHKのみがエアチェックの対象だった。

カセットデッキは一台だけだったこともあって、
バイロイトの放送の録音には挑戦しなかった。
レコードを自由に買えていたわけではないので、もっぱらレコードが放送されたのを録音していた。
そして気に入ればレコードを購入していた。

レコードを買いたくなることもあれば、
録音したものでいいや、と思うものもあるし、
消去して他の録音に使うこともあるのは、多くの人は同じだろう。

エアチェックしたものは、消すことができる。

Date: 10月 10th, 2015
Cate: オーディオマニア

夏の終りに(情熱とは・その1)

情熱とは? なんだろうと考えることがないわけではない。
オーディオへの情熱を持っているのだろうか、という自問自答とセットでもある。

情熱を辞書でひくと、
激しく高まった気持ち。熱情。
そう書いてある。

だから熱情を、ひく。
物事に対する熱心な気持。情熱。
そう書いてある。

熱心について、また辞書をひく。
物事に情熱をこめて打ち込むこと。心をこめて一生懸命すること。また、そのさま。
そう書いてある。

ここでの物事は、オーディオ、そして音楽をいうことになる。
つまりは、オーディオに激しく高まった気持ちをこめて打ち込むこと、となる。

「激しく高まった気持ち」を、オーディオに対して一度も持ったことがない、とはいわないが、
「激しく高まった気持ち」を、常に、今も持ち続けている、とはいえない。

情熱とは? と考えるときに思い浮べる人がいる。
そのひとりが、マルコ・パンターニだ。

Date: 10月 9th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(その11)

別冊FMfan 10号(1976年6月発売)に、「われらエア・チェック族」という記事がある。
瀬川先生を司会に、六人の読者による座談会だ。

以前書いているし、瀬川先生のリスニングルームの写真を見ている人は、
左右のスピーカーの中央にアンペックスのAG440B-2が置かれてあったことを記憶されているだろう。

瀬川先生は、このアンペックスのプロ用のオープンリールデッキで、主に何を録られていたのか。
アンペックスは据え置き型だから、これを外に持ち出して……ということは、まず考えられない。
やはりFM放送の録音なのか。

座談会の冒頭で、ひと頃、いっしょうけんめいにエアチェックをやっていたと発言されている。
     *
あとから聴いてみて、これだけは取っておきたいと思うのは、一年に十本あったかどうか、みたいな気がするわけです。だから、ただ録ってみるだけでは受け身な行為にすぎない。そこでただ単にパシッブなままでいるのか、それとも、よりアクティブな楽しみ方を見つけていくのか、恐らく皆さんは、そのステキな方向を見つけた方々だと思いますが、そこにどういう楽しみ方があるのか、話しているうちに、いろんな話題が出てくることと思います。
     *
FM放送の録音は、どうしてもパッシヴな行為に流れがちである。
どんなに音の良いチューナーを用意し、オープンリールデッキ、カセットデッキを揃え、さらにはアンテナにも十分な配慮をする──、
それでも、それだけではアクティヴな行為とは言いがたい。

そこになんらかの、その人なりの楽しみ方があってアクティヴな行為へとなっていくものだろう。

この座談会が行われた1976年は、ステレオサウンド 38号が出た年でもある。
38号にある瀬川先生のリスニングルームには、パイオニアのチューナーExclusive F3がある。
これでFM放送を受信されていたのだろう。

アンテナは……、というと、フィーダーアンテナだと、この座談会で白状されている。
そういえば菅野先生もフィーダーアンテナだということを、何かで読んでいる。

瀬川先生の当時の住居では、このアンテナでもマルチパスは少なく、感度も十分だったそうだ。
弁解にもなるけれども、とことわったうえで、アンテナは理屈通りにはいかないもので、
やってみてよければ、それでいいと発言されている。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: audio wednesday

audio sharing例会(予定)のお知らせ

毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会は、
四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースを借りている。

喫茶茶会記のスピーカーはふたつある。
ひとつは渋谷のあるジャズ喫茶で鳴らされていたモノが、
そのジャズ喫茶の閉店によって喫茶茶会記で鳴らされる。

アルテックのユニットを使ったモノである。
かなり使い込まれていて、今回エンクロージュアを新調することになった。
今月中には新しいエンクロージュアが届く予定だそうだ。

どんな音になるのか、
実際にエンクロージュアが届き、ユニットを装着してみなければわからないが、
せっかくの機会だから、いくつかアンプを持ち込んでみようという話になった。

11月か12月のどちらかの例会で行う予定である。
アンプは常連のKさんのコレクションをいくつかをお借りして、ということになる。
最新アンプの比較試聴とはまったく違う、
眉間にしわ寄せて聴くというものとも違う、
アンプによって、新調されたスピーカーがどう鳴ってくれるのかを楽しもうというものである。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド創刊号

今朝、本が届いた。
オーディオ関係の雑誌が段ボール箱で届いた。
どんな本が入っているのかは知らなかった。

箱を開けて積み重ねてある本を一冊一冊取り出して、パラパラめくっていた。
一冊目、二冊目、三冊目……、中ほどに来たときに、えっ、と思った。

ステレオサウンドの創刊号が、そこにあった。
しかもおどろくほどきれいな状態の創刊号である。
49年前のステレオサウンドであり、私にとって20数年ぶりに手にする創刊号である。

久しぶりに創刊号を読んでいた。
巻頭には五味先生の「オーディオと人生」が載っている。
「オーディオと人生」はオーディオ巡礼でも読める。何度も読んでいる。
それでもまた読み返していた。
     *
体験のある人なら分ってもらえると思うが、当時はベートーヴェンに私はきき耽った。おもに交響曲と、ピアノやヴァイオリン協奏曲、それにパデレフスキーやシュナーベルの弾くピアノ・ソナタ、カペエのクヮルテットなどだが、弦楽四重奏曲ばかりはトーキー用スピーカーでは醍醐味が味わえない。ピアノ・ソナタも同様である。クレデンザで、竹針を切って鳴らすほうがしんみり、曲趣を味わえる。そこで今度はサウンドボックス用のラッパをこしらえようと、ラッパの開口部までの拡がり(断面積)を数式で割出そうと受験勉強ほったらかしで頭を痛めた。——そういう当時の《青春時代》といったものが、ベートーヴェンのレコードを聴くと四十過ぎの現在でも、彷彿と眼前に泛んでくる。《音楽は過去を甦えらせる》というのは本当だ。過去ばかりか、感動を甦えらせるものだ。
     *
《音楽は過去を甦らせる》とある。
同じことを「芥川賞の時計」でも書かれている。
     *
音楽は、誰にもおぼえがあるとおもうが、むかしそれを聴いた頃の心境や友人や出来事を甦えらせる。何年ぶりかに聴く曲は、しらべとともに《過去》をはこんでくる。
     *
つねに音楽が《過去》をはこんでくるわけではないし、甦らせるわけではないが、
たしかに《過去》をはこんでくることがあるし、甦らせることもある。

音楽は《過去》に光をあてている、ともいえるかもしれない。
その光は一条の光であり、一瞬の光でもある。

音楽によって、どちらの光は違ってくるのかもしれない。
どちらの光かによってはこばれてくる《過去》、甦ってくる《過去》は違ってこよう。

読み返しながら、こんなことを考えていた。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: 表現する

音を書くということ

オーディオ評論の難しさのひとつに、
音を言葉で表現することがある。

音を言葉で完全に表現することが仮にできたとしても、
それでオーディオ評論として成立するわけではないのだが、
それでも音を、文字でどう表現するのかのは、大きな課題である。

音を言葉で表現できるのか、できるとしてもどこまで可能なのか。
結論を書けば、音そのものを言葉にすることは不可能だと、私は思っている。

それでは、音を言葉にするということは、いったいどういうことなのか。
昨夜、ふと思いついたことがある。
思いついただけで、だから書いている。

音を書くということは、
音のしずくを言葉のしずくで表現する、ということだと思った。

音のしずく、言葉のしずくは沈く(水に映って見える)へとつながっているのではないだろうか。

Date: 10月 7th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・余談として)

私がオーディオに興味を持った1970年代後半、
ヤマハのスピーカーユニットはトゥイーターのJA0506とウーファーのJA5004ぐらいしかなかった。

そのヤマハが1979年にスピーカーユニットのラインナップを一挙に充実させた。
20cm口径のフルレンジユニットJA2071とJA2070、
トゥイーターはJA0506の改良型のJA0506IIの他に、
同じホーン型としてJA4281、JA4272、またドーム型のJA0570、JA0571、JA0572。
スコーカーはホーン型のJA4280、ドーム型のJA0770、JA0870。

コンプレッションドライバーはJA4271、JA6681、JZ4270、JA6670があり、
組み合わせるホーンはストレートホーンのJA2330、JA2331、JA2230、
セクトラルホーンのJA1400、JA1230が用意されていた。

ウーファーは30cm口径のJA3070、
38cm口径のJA3881、JA3882、JA3871、JA3870と揃っていたし、
これらの他にも音響レンズのHL1、スロートアダプター、ネットワークもあった。

このラインナップに匹敵するモノを、いまのヤマハに出してほしいとは思っていない。
ただひとつだけNS5000と同じ振動板の、20cm口径のフルレンジユニットを出してほしいと思っている。

JA2071とJA2070のコーン紙は白だった。
NS5000の振動板も白(微妙な違いはあるけども)である。
素性のとてもいいフルレンジユニットとなりそうな気がする。

それはこれからにとって必要なモノだと考えるし、
出来次第では重要なモノ、さらには肝要なモノへとなっていくことを夢想している。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その1)

ステレオサウンドで働くようになってすぐに編集部の先輩からいわれたことがある。

「ステレオサウンドという本はオーディオ界で誰もが知っていてメジャーな存在だけど、
 オーディオそのものがマイナーな存在だからね」

確かにそうだと思って聞いていた。
私が働くようになったのは1982年からだから、すでにオーディオブームというものは終熄していた。

10年以上前のことになるが、菅野先生からいわれたことがある。

「世の中で起っているさまざまなこと、世界の広さからすれば、
 オーディオは、このコップ一杯の水くらいのことなんだよ」

その通りだとは思って、このときも聞いていた。

編集部の先輩も菅野先生も、そういわれたあとに特に何もいわれなかった。
だからその先にあることを、いわんとされることを、聞いた者としては考えていく。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その16)

金子ケーブルが最終的にどういうモノになっていったのかは知らない。
ただかなり太くなっていったのではないかと思う。
その音は、推測するにスタティックな印象のケーブルであったのではないだろうか。

金子ケーブルは振動を徹底的に抑えるために太くなっていった、と私はとらえている。
もっとも、これだって、図書館に行きステレオのバックナンバーを丹念に読んでいけば、
もしかすると違っているのかもしれないが、極端に違っていることはないはずだ。

この金子ケーブルのアプローチは、
いわばケーブルは必要悪という考え方からのものといえる。
金子ケーブルだけでなく、多くの日本製のケーブルはそういうところがある。

つまり理想のケーブルはとはケーブルが存在しないことである。
けれどそれは現実としては無理なことであり、
ならば10mケーブルよりも1mのケーブル、1mケーブルよりも10cmのケーブルの方が、
音がいい、言い換えれば理想のケーブルのあり方にすこしでも近づける、ということになる。

日本のケーブルは、材質の純度を極端に高める方向に向って行った。
これなどは、まさしくケーブルの存在をゼロにちかづけたいがためであり、
ゼロにできなければケーブルの存在を稀薄にしていきたい、
ケーブルとは、音の上で透明な存在であるべき、ということになる。

これに対して海外製のケーブルの多くは、
ケーブルのキャラクターを積極的に認めているのではないか、と思えるところがある。
ケーブルも、オーディオコンポーネントのひとつであり、重要なアクセサリーでもある。

ケーブルとしての理想を追求はするけれども、
ケーブルの理想のあり方としてイメージしているところが、
日本のケーブルメーカーと海外のケーブルメーカーとでは違っているのではないか。

こう考えた場合、同じようにケーブルが太くなっていくとしても、
日本のメーカー的考えによるものと海外のメーカー的考えによるものとでは、
ひとまとめに考えるわけにはいかなくなる。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その9)

鮮度とは、新鮮さの度合と辞書にはある。
ということは音の鮮度とは、音の新鮮さの度合であり、
鮮度の高い音とは新鮮さの度合の高い音ということになる。

ここでの新鮮とは、どういう意味になるのか。
いままで聴いたことのない、新しい魅力をもつ音としての新鮮さもあれば、
肉や魚や果物などに使う場合の新鮮さとがある。

特にことわりがなければ、音の鮮度がいい、とか、鮮度の高い音という場合には、
後者の意味合いで使われる。

つまり、この意味合いで使われるのは、実演奏での音(コンサートホールでの音)ではなく、
スピーカーやヘッドフォンから鳴ってくる音に対して使われる。
再生音にのみ使われる。

肉や魚、果物などの鮮度がいいという場合には、
それらの肉や魚はすでに死んでいるからこそ、鮮度がいいとか悪いとかいう。
果物にしても、すでにそれらがなている木から捥ぎ取られているからこそ、
鮮度が高いとか悪いとかを気にするわけだ。

再生音も、いわば捥ぎ取られた音といえるし、
すでに死んでいるともいえる。
こんなことを特に意識していなくとも、オーディオに夢中になっていれば、
そのことは無意識のうちにわかっているのであろう、だから音の鮮度ということが気になる。

だが、ここで音の鮮度とは、もうすこし違う意味合いがあることに、
GASのTHAEDRAをボンジョルノのパワーアンプにつないで聴いた者は気づくのかもしれない。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その4)

同時にもうひとつ思い出していたことがあった。
KEF Model 105の後継機であるModel 107のことだ。

105と107はウーファーが異る。
中高域は105のスタイルを受け継いでいるが、
107の低域部はウーファーユニットが見えない構造をとっている。

エンクロージュアの形状は前面を傾斜させた105のスタイルから、
縦長のスタイルに変更されている。
そのためもあって、105のスタイルを見馴れている目には、
107は背高のっぽにうつるし、首(中高域部)だけが箱の上にのっかっているだけのようにも見える。

105では30cm口径のコーン型ウーファーによるダイレクトラジエーションだった。
107では25cm口径のウーファーを二発、エンクロージュア内におさめている。
低音は床に向って放射される。

KEFではCC(The Coupuled Cavity)方式と呼んでいた。
107には、それまでのKEFのスピーカーにはなかったアクティヴイコライザーが付属していた。

このModel 107なのだが、なぜか聴いた記憶がない。
発売されていたのは知っていた。
107が発売になったころはまだステレオサウンドにいたから、
聴いていて当然なのに、その記憶がない。

当時は、KEFも、こんなスピーカーを出すようになったのか……、と少し落胆した。
このことだけは憶えている。
でも、いまは少し違う見方をしている。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: オーディオマニア

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵(その1)

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵。

ドン・ジョヴァンニはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に、
マントヴァ侯爵はヴェルディのオペラ「リゴレット」の登場人物である。

ふたりは似ているようでいて、決定的にちがう。

このふたりについて黒田先生が書かれていた。
ステレオサウンド 47号掲載の「さらに聴きとるものとの対話を」で、
「腹ぺこ」のタイトルを文章で、ドン・ジョヴァンニについて書かれていた。
マントヴァ侯爵については、最後のほうで、ドン・ジョヴァンニとの比較対象として触れられている。
     *
 ドン・ジョヴァンニに似たタイプの、しかしドン・ジョヴァンニとは決定的にちがうマントヴァ侯爵という男がいる。ヴェルディのオペラ「リゴレット」の登場人物だ。彼は、夜会に出席している美女達たちをながめながら、「あれかこれか」と、いともくったくなくうたう。しかし、彼は、ただの好色漢でしかない。「あれかこれか」という、すくなくとも選択の意識が、マントヴァ侯爵にはあるが、ドン・ジョヴァンニにはそれがない。だから、ドン・ジョヴァンニは地獄におちるが、マントヴァ侯爵は、すくなくともオペラが終るまでは、生きのびていて、ベッドにひっくりかえって、鼻歌などうたっている。
 しかし、マントヴァ侯爵の姿は、妙にうすぎたない。ドン・ジョヴァンニの輝きは、マントヴァ侯爵に感じられない。マントヴァ侯爵は、女性に対して、ドン・ジョヴァンニのようにはハングリーではない。一種の退屈しのぎというか、ひまつぶしに女性を誘惑しているだけだ。
     *
黒田先生は、音楽についてのドン・ジョヴァンニは、ありえないか──、をテーマにされている。
そして《みんながハングリーでなくなったということが、ここでもいえるように思う》と書かれている。

みんながハングリーでなくなったのは、音楽だけではなく、オーディオに関してもいえるのではないか。

ドン・ジョヴァンニは、
イタリアで640人、ドイツで231人、フランスで100人、トルコで91人、スペインで1003人、
合計2065人の女性と交渉をもっている。
それでもドン・ジョヴァンニは女性を求め続け、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」では地獄に堕ちる。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その6)

感じただけで、実際にAPM8の音を聴くことはできなかった。
それもあってだろう、いつしか忘れてしまっていた。
思い出したのはダイヤトーンのDS10000を聴いたときだった。
五年が経っていた。

ダイヤトーンのDS10000はDS1000をベースにしていることはすでに書いた通りだ。
DS1000の音は、私にとっては井上先生がステレオサウンドの試聴室で鳴らす音とイコールである。

何度かのその音を聴いている。
DS1000の良さは、だから知っている。
ちまたでいわれているような音とは違うところで鳴る音の良さがある。

当時DS1000の評価は、すべての人が高く評価していたわけではなかった。
うまく鳴っていないケースも多かったというよりも、
うまく鳴っていないケースのほうが多かったらしいから、それも当然である。

それでも高く評価する人たちはいた。
誰とは書かない。
この人たちは、どれだけうまくDS1000を鳴らしたのだろうか、と疑問に思ってもいた。
それこそ聴かずに(少なくとも満足に聴かずに)、試聴記を書いているではなかったのか。

DS10000が出た。
価格はDS1000の三倍ほどになっていたし、
エンクロージュアの仕上げも黒のピアノフィニッシュになっていた。
専用スタンドも用意されていた。

音質的に配慮されたスタンドだということはわかっていても、
このスタンドに載せたDS10000の姿は、あまりいい印象ではなかった。
なんといわれていたのかはいまでも憶えているが、
いまもこのスピーカーシステムを愛用している人はきっといるはずだから、そんなことは書かない。

でも、DS10000から鳴ってきた音を聴いて驚いた。
DS1000の音はしっかりと把握していたからこそ、
そこでの「どこにも無理がかかっていない」と思わせる鳴り方に驚いた。
そして黒田先生のAPM8の試聴記を思い出してもいた。