Archive for 9月, 2015

Date: 9月 10th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(余談)

ステレオサウンド 1976年別冊「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の表紙は、
GASのThaedraとAmpzillaを真正面からとらえたものである。
撮影は安齊吉三郎氏。

表紙のThaedraとAmpzillaは、型番の書体が違う。
Ampzillaの書体はサイケデリック調の書体である。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の1976年度版は、
カラー口絵のページもある。
こちらの撮影は亀井良雄氏。

GASのペアは301ページにある。
ここでのAmpzillaの書体は表紙のモノとは違い、
Thaedraと同じ書体が使われている。

試聴記と解説があるモノクロのページのAmpzillaは、サイケデリック調の書体である。

試聴に使われたAmpzillaは、どちらの書体のモノだったのだろうか。

ちなみにどちらの書体であっても、AMPZiLLAと書かれている。
Ampzillaでもなく、AMPZILLAでもない。
iだけが小文字である。

1979年に登場したAnpzillaの上級機にあたるGodzilla。
こちらも正しくはGODZiLLAと、iだけが小文字だ。

Thaedraはすべて大文字でTHAEDRAだ。

Date: 9月 10th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その9)

ステレオサウンド 1976年別冊「世界のコントロールアンプとパワーアンプの巻末、
ヒアリングテストの結果から私の推奨するセパレートアンプは、試聴記とは違い、
各人自由な書き方をされている。

黒田先生は音太郎と音次郎の仮空の対談形式で書かれている。
音太郎は、積極的な性格の持主で、レコード新譜をジャンルにこだわらずにあれこれ聴いている。
新しいレコード、新しい音楽を意欲的に聴いている設定。
音次郎は、静的な美しさを求める傾向があり、最新レコードよりも、
1965年ごろまでに録音されたレコードを、ひとり静かに聴くのを好む設定である。

このふたりの対談は、もっとも気に入ったアンプを挙げることから始まる。
音太郎は──、というよりも、音次郎もGASのThaedraとAmpzillaを挙げている。

音太郎は、GASのペアの良さを、鮮明さにあるという。
《レコードに入っている音で、ききてがききたいと思う音はすべてきけるような気がする》し、
《新しいレコードの音に対しての順応性も高い》からである。

音太郎と正反対に近い性格設定の音次郎もGASのペアを選ぶのは、
《響きがひじょうにすっきりしているのに、ききてをつきはなすようなつめたさがない》ためと、
《少し前に録音されたレコードをきいても、そのよさをとてもよくだしてくる》からである。

ここからも黒田先生がGASのアンプを欲しがられていることが伝わってくる。

ただAmpzillaの欠点というか難点として、
試聴記でも音太郎・音次郎の対談でも、冷却ファンの音がうるさいことが気になることを挙げられている。

けれど、この試聴から二年後、黒田先生が購入されたのは、
ソニーのTA-E88とスレッショルドの4000 Customのペアである。

TA-E88と4000 Customは、1976年別冊のころはまだ登場してなかった。
黒田先生がどういうふうに聴かれたのかははっりきとしないし、
このふたつの組合せの音は聴いたことがない。

それでも思うのは、瀬川先生が書かれていたことだ。
《テァドラ/アンプジラをとるか、LNP2/2500をとるかに、その人のオーディオ観、音楽観のようなものが読みとれそうだ。もしもこれを現代のソリッドステートの二つの極とすれば、その中間に置かれるのはLNP2+マランツ510Mあたりになるのか……。》
このところである。

TA-E88と4000 Customの音は、ふたつの極の中間に置かれるのではないか、ということだ。

Date: 9月 9th, 2015
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その2)

黒田先生は「サンチェスの子供たち」でもっともよく聴くのは、
第一面第一曲の「サンチェスの子供たち序曲」と第二面第三曲の「コンスエロの愛のテーマ」と書かれている。

「サンチェスの子供たち序曲」は14分07秒かけて演奏される。
どんな曲か。
     *
「サンチェスの子供たち序曲」は、ギターを伴奏に、ドン・ポッターがスパニッシュ・フレイヴァーのメロディーをうたって、開始される。そこでうたわれる、チャック・マンジョーネの書いたヒューマニスティックな詩がまた、じつにすばらしい。ドン・ポッターがうたい終ると、打楽器群がリズムをきざみはじめ、ブラスが鋭くつっこんでくる。少し音量をあげめにしてきいていると、そこは、オーディオ的にもまことにスリリングだ。音楽のつくりは決して複雑ではないが、この音楽は、音楽の性格として、細部まで鮮明にききとれた方がはるかに音楽的たのしみが大きくなるものだ。
     *
瀬川先生による試聴会で「サンチェスの子供たち」がかけられたときも、
やはり「サンチェスの子供たち序曲」だった。

この曲をかけられる前に簡単な説明があった。
黒田先生が書かれていることは同じことだった。
だから初めて聴く曲とはいえ、
ギター伴奏の歌が終ればドラムが鳴り出すことはわかっていた。
そしてブラスも加わる。

《オーディオ的にもまことにスリリングだ》と書かれているように、
ほんとうにそうだった。
この部分がそういうスリリングなところだと文章で知ってはいても、
実際に鳴ってきた音は、ほんとうにスリリングだった。

ドン・ポッターが歌う。
 Without dreams of hope and pride s man will die
 Though his flesh still moves his heart sleep in the grave
 Without land man never dreams cause he’s not free
 All men need a place to live with dignity

 Take the crumbs from starving soldiers, they won’t die
 Lord said not by bread alone does man survive
 Take the food from hungry children, they won’t cry
 Food alone won’t ease the hunger in their eyes

 Every Child belongs to man kind’s family
 Children are the fruit of all humanity
 Let them feel the love of all the human race
 Touch them with the warmth, the strength of that embrace

 Give me love and understanding, I will thrive
 As my children grow my dreams come alive
 Those who hear the cries of children, God will bless
 I will always hear the children of sanchez

黒田先生は《わざわざ日本語におきかえることもないと思うので》、そのまま書き写されている。
辞書をひきながら意味を知ろうとした。
     *
このヒューマンな内容の詩と、その音楽と、目を閉じて、キリストのような髭をたくわえた顔をほころばせているチャック・マンジョーネの表情とが、もののみごとに一致している。その詩も、その音楽も、その表情も、大好きだ。大好きだから、うたわれる詩にじっと耳をかたむける。演奏される音楽をせいいっぱいききたいと思う。ジャケットに印刷されているチャック・マンジョーネの表情に目をこらす。むろん、再生装置が不充分だと、そのレコードにおさめられている音楽が十全にたのしめないというわけではない。ただ、ききては、もっとききたいと思う。さらに、よりいっそう、もっとききたいと思う。大好きな音楽だからだ。そこではじめて、音楽をきくための「道具」である再生装置が、関与する。
     *
ここに書かれていることは、すこしも大袈裟ではない。
「サンチェスの子供たち」を聴いたあと、
あらためて黒田先生の《「サンチェスの子供たち」を愛す》を読んだものだ。

瀬川先生の試聴会のあとに「サンチェスの子供たち」を買った。
輸入盤を買った。

Date: 9月 9th, 2015
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その1)

チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」の存在を知ったのは、ステレオサウンドだった。
ステレオサウンド 49号での、黒田先生の《「サンチェスの子供たち」を愛す》を読んで、だった。

こんな書き出しではじまっている。
     *
 なにかというとそのレコードをきく。今日はたのしいことがあったからといってはきき、なんとなくむしゃくしゃするからといってはきき、久しぶりに友人がたずねてきてくれたからといってはきき、つまりしじゅう、のべつまくなしにきくレコードがある。そういうレコードは棚にしまったりしないで、いつでもすぐかけられるように、そばにたてかけておく。そうなるともう、そのレコードにおさめられている音楽を、音楽としてきいているのかどうか、さだかでない。
 もしかすると、ききてとして、多少気持のわるいいい方になるが、そのレコードできける音楽に恋をしてしまっているのかもしれない。さしずめコイワズライ、熱病のような状態だ。若い恋人たちが、さしたる用事があるわけでもないのに、愛する人に会おうとするのに、似ている。きいていれば、それだけで仕合せになれる。
     *
黒田先生にとって1978年後半の、
そういうレコードがチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」だった。

「サンチェスの子供たち」は同タイトルの映画用の音楽であり、
いわゆるサウンドトラック盤である。

黒田先生は、
《今のチャック・マンジョーネがいい。今のチャック・マンジョーネにあっては、ともかく、自分のいいたいことと、それをいうべきわざとのバランスがとれている。どこにも無理がない。ひとことでいえば、のっている──ということになるのだろう。そして、そういう今のチャック・マンジョーネの頂点にあるのが、まちがいなく「サンチェスの子供たち」だ。》と書かれている。

いいレコードだ、ということが素直に伝わってくる。
でも、当時高校一年の私はすぐには買わなかった(買えなかった、ともいえる)。

「サンチェスの子供たち」は二枚組だった。
黒田先生は輸入盤で3600円だった、と書かれていた。

東京ではこの値段で買えたであろうが、
地方ではもう少し高かったように記憶しているし、まず輸入盤をおいている店も少なかった。

「サンチェスの子供たち」を聴いたのは、自分で買ったものではなかった。
熊本のオーディオ店が定期的に瀬川先生を招いての試聴会を行っていた。
そこで「サンチェスの子供たち」を聴いた。

Date: 9月 9th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その8)

GASのThaedraとAmpzillaが表紙になったステレオサウンド別冊がある。
1976夏に出た「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」である。

最新コントロールアンプ/パワーアンプ 72機種のヒアリング・テストということで、
試聴は井上卓也、岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹の四氏が、
外観とコンストラクションについて、岩崎千明、山中敬三の二氏、
それぞれ担当、座談会形式で記事が構成されている。

試聴記は見開き二ページで載っている。
瀬川先生は、男性的な音ということで好みとしては女性的な音のアンプを選びたい、とされているが、
《自分の好みは別として、とにかくすごく見事なアンプだと思うし、本当に良い音だと思う。耳の底にしっかりと残る音ですね。》
と高い評価だ。

黒田先生は《ぼくは非常にほしくなったアンプです》と発言されている。
瀬川先生にとって男性的であることが購入対象からはずれるのに対し、
黒田先生は男性的であることが、ほしいと思わせることにつながっている。
     *
 瀬川さんはこのアンプの音を男性的とおっしゃったけれども、それに関連したことから申し上げます。これはぼくだけの偏見かもしれないけれど、音楽というのは男のものだという感じがするんです。少しでもナヨッとされることをぼくは許せない。そういう意味では、このシャキッとした、確かに立派な音といわれた表現がピッタリの音で、音楽を聴かせてもらったことにぼくは満足しました。
     *
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の巻末には、
ヒアリングテストの結果から私の推奨するセパレートアンプというページがある。
瀬川先生はGASのペアは推選機種とされている。
     *
 耳当りはあくまでもソフトでありながら恐ろしいほどの底力を感じさせ、どっしりと腰の坐った音質が、聴くものをすっかり安心感にひたしてしまう。ただ、試聴記の方にくわしく載るように、私にはこの音が男性的な力強さに思われて、個人的にはLNP2とSAE♯2500の女性的な柔らかな色っぽい音質をとるが、そういう私にも立派な音だとわからせるほどの説得力を持っている。テァドラ/アンプジラをとるか、LNP2/2500をとるかに、その人のオーディオ観、音楽観のようなものが読みとれそうだ。もしもこれを現代のソリッドステートの二つの極とすれば、その中間に置かれるのはLNP2+マランツ510Mあたりになるのか……。
     *
井上先生、岡先生の評価も高い。
岡先生は《これほど音楽の中身を洗いざらいさらけ出してくれるようなアンプは、非常に珍しい》とし、
《曖昧さのない、決まりのはっきりとした音》ゆえに高く評価されている。

井上先生は弱点と指摘しながらも、
GASのペアは、小音量と普通の音量で聴いた時に、音楽的バランスが崩れなかったとして、
立派なアンプだと評価されている。

Date: 9月 8th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その7)

黒田先生は、《いくつかの気になるパワーアンプをききくらべてえらんだ》と書かれている。
いくつかの気になるパワーアンプの具体的な型番についてはなにひとつ書かれていないが、
おそらく、そのひとつにAmpzillaは含まれていたであろう。

あとはマークレビンソンのML2、マランツのP510M、
これらの《いくつかの気になるパワーアンプ》のひとつだったと思われる。

いくつのパワーアンプを聴かれたのかもわからないが、
とにかく黒田先生はスレッショルドの4000 Customを選ばれた。
     *
 ひとことでいえば、スレッショールドのモデル4000というパワーアンプの音を、とても気にいっているわけだが、だからといって、そのパワーアンプのきかせる音にコイワズライをしているかというと、そうではない。決してその音に不満があるからではない。同じようなことは、JBLの♯4343の音についてもいえる。JBLの♯4343は、ぼくがこれまでにきいたスピーカー・システムの中で、ぼくなりにもっとも納得できる音をきかせてくれたスピーカーだが、にもかかわらず──というべきか、そのためにJBLの♯4343というスピーカー・システムに惚れこむことはできない。
(「サンチェスの子供たち」を愛す より)
     *
《いくつかの気になるパワーアンプ》の中から4000 Customを選ばれたからといって、
黒田先生は4000 Customに惚れ込まれていた、とはいえないことが、この文章からわかる。

4000 Customの音に対しても、JBLの4343の音に対しても、
黒田先生は決してコイワズライになることはないのだろうか。

《「サンチェスの子供たち」を愛す》の終りに、こう書かれている。
     *
 チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」は、輸入盤で三六〇〇円だった。スレッショールドのモデル4000を買う金があれば、「サンチェスの子供たち」の二枚組のレコードを、二〇〇組以上買える。しかし、主は「サンチェスの子供たち」で、従はスレッショールドのモデル4000だ。そこのところをとりちがえると妙なことになる。「道具」は「もの」だ。「道具」という「もの」を、いかに気にいって使ったとしても、そこでとどまる。そういう「もの」に対して、今日はどうもキゲンがわるくてね──とか、なんともかわいくて手ばなせないんだよ──といったような言葉がいみじくもあきらかにする擬人化した考え方は、人形を恋する男のものといえなくもない。
 よく、「自然をありのままに見る」というが、これは人間には不可能な理想を、ただいっているにすぎないのではないか──といった人がいた。この見事な言葉は、人間は知っているものを見る──といったゲーテの言葉と対応する。ききては、知っているものしかきけない。沢山のことをよく知っていれば、不充分な音から山ほどのものをきける。なにをききたいかがわかっているからだ。たいして知らなければ、きけるものにも限度がある。そこで再生装置によりかかっても、再生装置は「道具」でしかないから、そのときの使い手に可能な範囲でしか働かない。
「道具」に恋したら、恋された「道具」が本来の実力以上のものを発揮して、使い手に奉仕すると考えるのは幻想でしかない。いいかげんにあつかえばその本来の実力さえ示さないということはあるかもしれないが、だからといってあれこれ気をつかわねばならないとすれば、その「道具」は充分に「道具」たりえていないということになるだろう。
     *
黒田先生が《人形を恋する男のもの》といえなくもない、
そういうところを私は持っている。
私というオーディオマニアは、もっている。

私だけでないはずだ、オーディオマニアであり続けている人はそうなのではないだろうか。
黒田先生には、そういうところはまったくなかったのかとういと、決してそうではない。

まったくない人が、あれだけオーディオにのめり込まれるはずがない。
オーディオには、心しないといけない大切なことがある。

《「サンチェスの子供たち」を愛す》の終りには、こうも書いてある。
     *
 再生装置は音楽の従順な僕(しもべ)であらねばならない。レコードをきいていて、再生装置のことが意識されるとしたら、それは決して幸福な状態とはいえない。もうしばらくすれば、スレッショールドのモデル4000に対しての、あるいはソニーTA-E88に対しての意識は、かなり薄らぐと思うが、今のところ、なにかというと意識する。ただ、その意識することが不快だというのではないということは、いっておかねばならない。不快どころかむしろたのしい。ああ、いいな、やっぱりいいなと、うれしくなったりする。だからかえって、心しないといけない。いいな、やっぱりいいなと、ひとりでにこにこしているとき、再生装置は、ききてと音楽の間で自己主張しすぎた存在になっている。それを是認するのは、はなはだ危険だ。
     *
黒田先生が、スレッショルドの4000 Customを、
《いくつかの気になるパワーアンプ》の中から選ばれたのは、そういうことなのだと思う。

Date: 9月 7th, 2015
Cate: 香・薫・馨

陰翳なき音色(その1)

カルロ・マリア・ジュリーニのブラームスの交響曲第二番は、
EMIからフィルハーモニア管弦楽団との録音が1960年、
ドイツ・グラモフォンからロスアンジェルスフィルハーモニーとのデジタル録音が1980年、
1991年にウィーン・フィルハーモニーとの録音が、ドイツ・グラモフォンからでている。

最初の録音から二度目の録音までは20年、
二度目の録音から三度目の録音までは11年と、約半分の短さである。

ウィーン・フィルハーモニーとの録音もいうまでもなくデジタル録音である。
ロスアンジェルスフィルハーモニーとの録音がアナログ録音であったのなら、
ジュリーニとしては短いといえる11年での再録音もわからないではない。

いまもレコード芸術では恒例の企画となっている名曲・名盤300選(500選)は、
私がレコード芸術を読みはじめた1980年代のはじめのころ始まった、と記憶している。

数号にわたりこの企画が特集記事として掲載され、
一冊のムックとして出版もされていた。

この企画で黒田先生がブラームスの第二番で、
ジュリーニのロスアンジェルス・フィルハーモニーとの盤を選ばれている、ときいた。

私が読んで記憶にあるのは、トスカニーニ、バルビローリ、フルトヴェングラーを選ばれているものだった。
だから私が熱心に読んで記憶しているのとは、違う年の企画での話なのだろう。

そこには、ロスアンジェルス・フィルハーモニーではなくウィーン・フィルハーモニーだったら……、
と思わなくもない、そんなことが書かれていた、とのこと。

黒田先生以外で、ジュリーニ/ロスアンジェルス・フィルハーモニーを選んでいる人たちは、
そんなことは書かれていなかった、つまりロスアンジェルス・フィルハーモニーへの不満はないことになる。

この話をしてくれた人は、黒田先生と同じ意見ではなく、他の人たちと同じで、
ロスアンジェルス・フィルハーモニーの演奏に、
黒田先生が感じられているであろう不満(もの足りなさか)はない、とのことだった。

私はジュリーニ/ロスアンジェルス・フィルハーモニーとのブラームスの二番に関しては、
黒田先生と同じ側である。

Date: 9月 6th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その6)

1978年当時、マークレビンソンのアンプは、
コントロールアンプがLNP2とML1、パワーアンプはML2のみだった。

つまり「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」ではなく、
「スピーカーはJBL、アンプはマークレビンソン」とすることでも、いいともいえる。

むしろ「スピーカーはJBL、アンプはマークレビンソン」のほうが、
メーカー名、ブランド名に統一され、型番が出てこなくなるわけだから。
にも関わらず黒田先生は「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」と書かれている。

ステレオサウンド 48号の「旗色不鮮明」での「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」の発言者は、
黒田先生本人とまではいえなくとも、黒田先生のこのときの心情の顕れでもあったように思う。

黒田先生がAmpzillaを高く評価されていたことは、
当時のステレオサウンドの別冊からわかる。

だから「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」は、
黒田先生は4343をAmpzillaで鳴らされようとされているのか──、
そう受け取れる。

黒田先生は、よほどAmpzillaを気に入られているんだ、と私は思っていた。
だが黒田先生はAmpzillaにされることはなかった。
ステレオサウンド 49号を読めば、黒田先生が選ばれたのはGASのペアではなく、
ソニーのTA-E88とスレッショルドの4000 Customだっことがわかる。
     *
 その「サンチェスの子供たち」のレコードを手に入れてしばらくして、アンプをとりかえた。コントロールアンプをソニーのTA-E88にして、パワーアンプをスレッショールドのモデル4000にした。スピーカーは、これまでのままのJ♯4343だ。
 スレッショールドのモデル4000は、とても気にいっている。その音に対してのしなやかな反応は、じつにすばらしい。さりげなく、これみよがしにならずに、しかし硬い音はあくまでも硬く、やわらかい音はあくまでもやわらかくだしてくる。いくつかの気になるパワーアンプをききくらべてえらんだので、それにいかにも高価格なのでえらぶにあたっても慎重にならざるをえなかったが、まちがいはないと思ったが、自分の部屋にもちこんで、さらにそのよさがあらためてわかった。「いやあ、俺もこれで、やっと実力が発揮できるよ」と、JBL♯4343がつぶやいているような気がしなくもなかった。
(「サンチェスの子供たち」を愛す より)
     *
スレッショルドの4000 Customは、49号の新製品紹介のページに登場したばかりのモデルだった。

Date: 9月 6th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その5)

「アンプジラ」はメーカー名、ブランド名でもないことは、
黒田先生のことだから承知のうえで、書かれたのだと思う。

そんなのは勢いで書いたから、「アンプジラ」だけ型番になってしまっただけではないか、
そう思う人もいるかもしれないが、
黒田先生の原稿を読んだことのある人なら、
そういう書き方から遠いところで書かれているのが黒田先生だと知っている。

ステレオサウンド 31号「はやすぎる決着」では、原稿を書くことについて書かれている。
     *
 陽がおちてからは原稿を書かない。原稿はたいてい午前中に書く。夜は、音楽会にいったり、芝居にいったり、映画を見にいったり、外出しない時には、レコードをきいたり、本を読んだり、あるいは翌日書こうと思っている原稿のための下調べをしたりしてすごす。だから、こんな時間に(すでに零時をすぎて、ポリーニをきいたのが昨日になってしまっている)、机にむかっているというのは、例外的なことだ。なぜ、こんな尋常ならざる時間に原稿を書きはじめたかというと、おいおいおわかりいただけると思うが、それにはそれなりの理由がある。
 このように文章を書き、しかもそれを活字にするということは、一種の呼びかけだと思う。書いたものを読んでくださる人への呼びかけだと思う。それが男性なのか女性なのか、ぼくより若い人なのか年配の方なのか、悲しいかなわかりかねる。わからないながらも、呼びかける。ただそこで、相手がわからないからといって、呼びかけが独善的にならないように、気をつけなければならない。ひとりよがりのつぶやきは呼びかけとはいえない。夜は、今日はたまたま雨がふっているのでかすかに雨だれの音がきこえるが、そのひっそりとした気配ゆえに、自分の世界にとじこもるのには適当だが、どうやら呼びかけに適した時間ではないようだ。だから、よほどのことでもないかぎり、夜は、原稿を書かない。
 ただ、今夜は、いささか事情がちがう。というより、そのひとりよがりにおちいりやすい時間を利用して、敢えてひとりよがりのおのれをさらし、ひとりよがりについて考えてみようと思うからだ。多分、朝になって読みかえしたら、赤面するにきまっていることを書いてしまうにちがいない。この原稿を、夜があける前に、封筒に入れて、ポストにほうりこむことにしよう。あとは野となれ山となれといった、いささかすてばちな気持になることが、この場合には必要だ。
     *
その黒田先生が「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」と書かれているのは、あえて、であるはずだ。
「スピーカーはJBL」とある。

この文章が載ったステレオサウンド 48号は1978年に出ている。
当時のJBLのラインナップはJBLとJBL Proとにわかれていて、
コンシューマー用モデルはパラゴンを頂点に、L300、L200、L212といったフロアー型から、
L26A、L36A、L40といったブックシェルフ型を含めて10機種ほどあった。
プロ用モデルは4350Aがあり、4343、4333A、4331Aなどの他に、
4301、4311といったブックシェルフ型、また4681、4682を含めて、こちらも10機種ほどあった。

「スピーカーはJBL」といっても、20機種のうちのどれかとなる。
けれど「スピーカーはJBL」のあとに「アンプはアンプジラ」が続くことで、
ここでの「スピーカーはJBL」は、絞られてくる。

4301という、65000円(1978年、一本の価格)の2ウェイのブックシェルフ型を、
598000円のパワーアンプAmpzilla IIで鳴らすことはないわけではないが、
それでも、こういう組合せは、いわぱ実験的なものであり、
家庭における組合せではまずありえないといえるわけで、
「スピーカーはJBL」とは、コンシューマー用であれば、L200、L300、パラゴンあたりであり、
プロ用であれば4331A、4333A、4343、4350Aといったところになる。

「スピーカーはJBL、アンプはGAS」であったら、ここまで絞ることはできない。
GASのアンプは3ランクあったのだから、
Grandsonであれば4301、4311との組合せはありえるからだ。

「アンプはアンプジラ」ではなく「アンプはGAS」とするならば、
しかも読み手に、どの機種(どのランク)であるのかを意識させるには、
「スピーカーはJBLの4343、アンプはGASのアンプジラ」と書く必要がある。

「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」と
「スピーカーはJBLの4343、アンプはGASのアンプジラ」、
書き手としてどちらを選ぶかとしたら、
「アンプジラ」がメーカー名でもブランド名でもないことは承知のうえで、
「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」になる。

別の選択はないのか。
たとえば「スピーカーはJBL、アンプはマークレビンソン」である。

Date: 9月 5th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その3)

ふたりの絵描きは、アンプにもたとえられよう。

マッキントッシュの真空管式パワーアンプ、MC3500とMC275。
このふたつのアンプのことを「五味オーディオ教室」を読んで知った。

MC3500は、 
《たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。
絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。》
MC275は、
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。》

MC3500は、ここでの花が造花であれば、造花として忠実に描くことだろう。
《音のすみずみまで容赦なく音う響かせている》のだから。

MC275は、たとえ造花であっても《簇生の美しさを出す》、そんな鳴り方をしてくれることだろう。

このふたつのアンプは、ずいぶん前のこと。
いまのアンプの多くは、世の趨勢はMC3500の側にある。

どんな音であっても、些細な音であっても、
音のひとつひとつを大事にするのであれば、つまりおろそかにしないのが正しいのであれば、
MC3500はMC275よりも優秀なアンプということになる。

事実、優秀なアンプといえるだろうし、
そういう意味では、現代にはもっともっと優秀なアンプが存在している。

情報量が多くなることで、ときとして人は音を「聴こえる」としか感じなくなるのかもしれない。
もしくは「聴かされている」となるかもしれない。

音はきくものである。
スピーカーから出てくる「音」は、聴く対象である。
ならば「聴こえる」、「聴かされている」としか感じなくなる音は、正しいといえるのだろうか。

石井幹子氏の言葉」を読み返した。
かわさきひろこ氏の言葉」も読み返した。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その15)

つきあいの長い音こそが、ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもたらすのかもしれない。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その14)

つきあいの長い音は、ハーモニーの陰翳とでも言うほかない音のニュアンスを聴かせてくれようになる。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: ショウ雑感

2015年ショウ雑感(その1)

三週間後の25日(金曜日)から、インターナショナルオーディオショウが開催される。
9月25日といえば、グレン・グールドの誕生日でもある。

グレン・グールドにさほどの関心もない人にとっては、こんなことはどうでもいいことにすぎないが、
私にとっては、今年はちょっと違うな、と、それだけで思わせてくれる。

三週間後に実際に行けば、例年と同じように開催されていたとしても、
受け手の心情が、わずかとはいえ例年とは違っているのだから、
私としてはそれで充分である。

9月25、26、27日がインターナショナルオーディオショウ、
10月16、17、18日がオーディオ・ホームシアター展(音展)、
10月17、18日は、これまでのハイエンドショウトウキョウは開催中止となったが、
TOKYO AUDIO BASEが開会される。

私が楽しみにしているのは、オーディオ・ホームシアター展のNHKのブースである。
今年もきっと8Kのデモをやってくれると期待している。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その1)

佐野研二郎氏の著書「伝わらなければデザインじゃない」が、
無期限の発売延期になったというニュースが昨日あった。

延期になった理由は私にはどうでもいい。
このことが考えさせたのは、今回の騒動の元となった2020年東京オリンピックのエンブレムは、
それでは何なのか、である。

「伝わらなければデザインじゃない」は発売延期になったのだから、
もう手にすることはないだろう。
どんなことが書かれているのかもわからない。

だから、あくまでも本のタイトル「伝わらなければデザインじゃない」に絞って考えても、
あのエンブレムはデザインではない、ということになる。

使用中止の理由として、国民の理解が得られなかった、とあったのだから、
つまりは「伝わっていない」からである。

もちろん人によって(デザイナーによって)、
ごく少数の人たち(たとえそれが仲間内であっても)伝われば、デザインである、という考えをあるはず。
それはそれでいい。

ここではあくまでも佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」ということである。
少なくとも佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではない、ということになる。
制作していた時点ではデザインであったのか。
それが発表され、理解が得られない(伝わらない)ことで、デザインでなくなったのか。

「伝わらなければデザインじゃない」であるのなら、
2020年東京オリンピック・エンブレムは何なのか。

デコレーションでないことは確かである。
アートということになるのか。

佐野研二郎氏の肩書きはアートディレクターのようだから、いわゆる「アート」なのかもしれない……、
と思いつつも、エンブレムはあくまでもデザインとしての依頼のはずだから……、となる。

佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」という著書の存在がなければ、
デザインと呼べた。けれど、発売延期になったとはいえ、その存在はあるわけだから、
佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではないわけで、
デザインではないエンブレムの正体不明さだけが残る。

私のなかには残っている。
そして考えるのは、やはりオーディオのことだ。
オーディオは、コピー技術・コピー芸術といえる。

アナログからデジタルになり、コピー技術、コピー精度は飛躍的に向上している。
だから、どうしても今回の騒動はオーディオと無関係なこととは思えないのだ。

Date: 9月 3rd, 2015
Cate: オーディオ評論, デザイン

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(2020年東京オリンピック・エンブレムのこと)

佐野研二郎氏デザインのエンブレムは使用中止になった。
八月は、否が応でも、この騒動が目に入ってきた。

あれこれ思い、考えた。
思い出したこともいくつもある。

そのひとつが、菅野先生の文章である。
著作集「音の素描」のオーディオ時評VIIIである。

さほど長くないので引用しておく。
     *
 夏になると人々はサングラスをかけはじめる。もっとも最近は、サングラスがオシャレの一つの道具で、別に夏ではなくても、それほど日射しが強くなくても、年中使っている人がいる。夜でもかけている人がいるが、あれは一体どういうつもりなのだろうか? このサングラスというものをかけてみると、視覚の感覚がずい分変わることに驚かされたり興味を感じたりするだろう。フィルターを通して光の波長をコントロールするのだから、裸視での色彩感とはずい分ちがったものになるのは当然だ。
 そして、不思議なことに、長くこれをかけていると、我々の色彩感はそれになれて、かけはじめた時に感じた色彩の不自然さを感じなくなってしまう。それも、たかだか二、三時間で充分。もし二、三日かけっぱなしにしていれば、そのフィルターを通した色彩こそ本物で裸視の色彩のほうが不自然だという、おかしなことにもなるのである。
 あるへっぽこ画家が、妙なことを思いついた。彼はありとあらゆるサングラスを買いこんで自由自在に色盲の世界を楽しんだ。そうして見た色を彼はキャンバスにぬりつけてみた。キャンバスに向うときにはサングラスをはずすのである。こうして彼は、そこに彼のセンスでは画けない色彩の世界を発見し、その馬鹿げた遊びに夢中になったのである。まともなサングラスでは面白くないから、いろいろな色ガラスを彼は使い始めた。彼のキャンバスには赤い空や黄色い雲や、そして緑色の人の顔が画かれた。
 知ったかぶりの彼の友人達は、それを天才的な色彩感覚だと無責任にほめそやした。事実彼の絵は売れ始めたし、多くの展覧会に入選し、賞ももらった。彼の天才? の道具であるサングラスには、その辺の露店で売っている数百円の色眼鏡もたくさんあって、幸か不幸かそれらの眼鏡の中には像を著しく歪ませるものも少なくなかった。線がひん曲がったり、顔がゆがんだりする奴だ。水平線がうねうね曲ったりした。彼はすっかり悪乗りしていい気分になってその歪んだ形をキャンバスに画いた。右眼が化物のようにでっかくて左眼が縦長のような顔も画いた。魚眼レンズにも当然興味を持った。こうして画かれた彼の絵は、かつてモンマルトルの貧困な一画家から身を起こし、世界的な大画伯として君臨した真の天才の作品にまで喩えられる始末。
 彼の周囲の無責任で手に負えない気取り屋たちにとっては、事実、その大天才の作品と彼の絵との差はわからなかった。彼らはその差を外国人と日本人との差、社会的評価の差としか考えなかった。
 かつて彼と共に苦労したもう一人の画家は、ひたすら写実に徹し、自分の眼で見た、自分の脳裏に焼きついた印象をまったく無視して、キャンバスのスペースに絵筆の技術と謙虚な写実の努力をもって画き続けていた。しかし、その作品は周囲から見向きもされないのである。彼は不幸にして生まれついての色盲であったから、その写実性と、キャンバスに画かれた色彩とは、なんとも様にならない不調和でしかなかった。彼の努力にもかかわらず、その作品は誰も認めなかった。実際その絵は決して優れたものではなかったが、少なくとも前者の作品より誠実であった。
 馬鹿馬鹿しい話しだが、オーディオのもっているいろいろな問題は、この二人の絵画きの話と照し合せてみる時、何かそこに考えさせられるものを含んではいないだろうか。忠実に音を伝達すべきオーディオ機器の理想と、レコード音楽や再生の趣味性の持つ諸問題のほんの一例かも知れないが、考えるに価することのように思えるのである。
     *
ここに出てくるサングラスの別の名詞(パソコンとアプリケーションとインターネット)に、
画家をデザイナー(アートディレクター)と置き換えて読めば、
今回の騒動をある部分を予感しているようにも思えてくる。

「音の素描」をaudio sharingで公開するために10年以上前に入力作業をやっていた。
やりながら感じていたのは、そのまま当時の事象にあてはまるという驚きだった。

今回、改めて、オーディオ時評VIIIを読み返した。