Archive for 4月, 2015

Date: 4月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その2)

1979年のステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」タンノイ号で、
井上先生が、オートグラフの組合せをつくられている。

この記事の見出しにはこうある、
「オートグラフには、あえてモニターサウンドの可能性を追求してみたい」と。

どういう組合せかといえば、
パワーアンプにはマッキントッシュのMC2300、
コントロールアンプにはマークレビンソンのLNP2。
アナログプレーヤーは、ビクターのTT101ターンテーブルに、
オルトフォンSPU-AとRMA309とフィデリティ・リサーチのFR7とFR64のダブルアーム。

この組合せの音をこう表現されている。
     *
おそらく実際にこの音をお聴きにならないと従来のオートグラフのイメージからは想像もつかない、パワフルで引締まった見事な音がしました。
 オートグラフの音が、モニタースピーカー的に変わり、エネルギー感、とくに、低域の素晴らしくソリッドでダンピングの効いた表現は、JBLのプロフェッショナルモニター4343に勝るとも劣らないものがあります。(中略)
 引締まり、そして腰の強い低域は、硬さと柔かさ、重さと軽さを確実に聴かせ、東芝EMIの「マスターレコーダーの世界」第3面冒頭の爆発的なエレキベースの切れ味や、山崎ハコの「綱渡り」の途中で出てくるくっきりしたベースの音や、オーディオラボの菅野氏が録音した「サイド・バイ・サイド」のアコースティックなベース独特の魅力をソフトにしすぎることなくクリアーに聴かせるだけのパフォーマンスをもっています。
     *
いったいどんな音だったのだろうか、と思いながら、タンノイ号の、この記事を読んでいた。
だからステレオサウンドで働くようになってから、井上先生に、この組合せについてきいたことがある。

ほんとうに、記事に書かれているとおりの音が鳴ってきた、と話してくださった。
オートグラフは複合ホーンのエンクロージュアである。
低域はバックロードホーンになっている。

この構造上、どうしてもベースのピチカートは、ある帯域で尾をひくことがある。
「ベースのピチカートが、ウッ、ゥーンとなるところはあるけれど、聴いて気持ちよければいいんだよ」、
楽しそうにそういわれたことを思い出す。

「正しい音とはなにか?」を思考する者にとって、このオートグラフのベースのピチカートの音は、
絶対に受け入れられない音かというと、そんなことはないし、
井上先生のいわれることは納得がいく。

では、このオートグラフの音は「正しい音(低音)」なのか、
それとも「正しくない音(低音)」、もしくは「間違っている音(低音)」なのか。

私は正しくない、間違っている、とは思わないし、ある面、正しい、と考え、
「正しい」には、絶対的に正しい音というよりも、より正しい音がある、と考えている。

そして「より正しい音」ということが、私の場合、
自身のオーディオの出発点と深く関係しているのではないか──、
最近そう考えるようになってきている。

Date: 4月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その1)

別項「私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その8)」で、
グラフィックイコライザーのことを「正しい音とはなにか? を思考していくツール」だと書いた。

では「正しい音」とは、いったいどういうことなのか。

オーディオを趣味するならば、
「正しい音」を目指すのも目指さないのも、やる人の自由ともいえるし、
オーディオには好きな音はあっても、正しい音は存在しない、と考えることだってできるし、
その立場でオーディオを楽しまれている人の方が、
「正しい音とはなにか?」を思考する人よりも、多いのかもしれない。

ずっと以前、オーディオは家電なのか、ということについて書かれた文章を読んだ。
家電ならば、
炊飯器であればきちんと炊飯ができなければ、とうてい炊飯器とは呼べない。
米と水の文量は炊飯器を使う人にまかせられているけれど、
それさえ守られていれば、きちんとご飯が炊き上がる。
焦げ付くことも、芯が残ったり、反対にぐちゃぐちゃになったりすることはない。

洗濯機も掃除機も、その他の家電機器はみなそうである。
名のとおったメーカーの家電機器ならば、多少の性能の差はあっても、
本来の役目を果せない家電機器などない。

ところがオーディオは、そのあたりが微妙である。
コンポーネントということも、そのことをさらに微妙にしてさえする。

オーディオが家電ならば、レコードにスタインウェイのピアノの演奏が録音されていれば、
少なくともスピーカーから鳴ってくる音で、聴き手に、
そこで演奏されているピアノはスタインウェイであることを伝える(わからせる)ことが求められる。

ベーゼンドルファーで演奏されているのに、スタインウェイになっては困るし、
スタインウェイがヤマハになっても困る。
ヤマハはヤマハのピアノと聴き手に意識させるだけの音でなってこそ、
オーディオは家電のレベルに達するわけだが、
実際にはスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、
それぞれのピアノの音色を確かに響き分けられるとはかぎらない。

もちろん、ここには聴き手の使いこなしの問題も関係してくるのだが、
オーディオが家電と呼べるレベルに達しているならば、
使い手の技倆に関係なく、ピアノの音色をきちんと再現できてしかるべき──、
そういう考え方も成り立つ。

そして一方で、すべてのピアノの音色を、スタインウェイの音色で聴きたい──、
さらには理想のピアノは現実には存在しないから、私にとっての理想のピアノの音色を、
オーディオから鳴らしたい──、
そういう聴き手の要求にも応えていけるのもまたオーディオというコンポーネントである。

Date: 4月 7th, 2015
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その9)

手塚治虫のマンガで音楽に関係している作品で思い出すのに「0次元の丘」がある。
短篇だ。

シベリウスの「トゥオネラの白鳥」をめぐるストーリーで、
エドアルド・フォン・ ベルヌという指揮者が登場する。
主人公が、エドアルド・フォン・ ベルヌ指揮の「トゥオネラの白鳥」にだけ、ある反応を見せる。

ずいぶん昔に読んだ作品で、
そのころはシベリウスのという名前こそ知ってはいたけれど、
その作品は意識して聴いたことはなかった。
「トゥオネラの白鳥」がどういう曲なのかわからずに読んでいた。

だから気づかなかったことがある。
エドアルド・フォン・ ベルヌのことである。
クラシックを聴く人ならば、エドアルド・フォン・ ベルヌは、
エドゥアルト・ファン・ベイヌムのことだと気づく。

ベイヌムは「トゥオネラの白鳥」を指揮している。
間違いなく手塚治虫はベイヌム指揮の「トゥオネラの白鳥」を聴いていたはずだ。

となると「0次元の丘」における「トゥオネラの白鳥」、
それも特別な意味をもつ「トゥオネラの白鳥」はベイヌム指揮のもののはずでもある。

つい最近「0次元の丘」を読みなおして気づいた。
「0次元の丘」を読んだ人ならば、ベイヌムの「トゥオネラの白鳥」を聴きたいと思うようになるだろう。

手塚治虫はベイヌムの「トゥオネラの白鳥」を、「0次元の丘」で描いているように聴いたのか。

Date: 4月 7th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その8)

グラフィックイコライザーの使いこなしは、はっきりいって難しい。
そう簡単にうまく調整できるようになるとは思わない方がいい。

グラフィックイコライザーの有用性について書いている私にしても、
菅野先生のレベルにたどり着けるのだろうか……、と思ってしまう。

適当な使い方で、ひとり悦にいっているレベルで満足できるのであれば、
グラフィックイコライザーの使いこなしはそう難しくない、とはいえる。
けれどグラフィックイコライザーの本当の有用性は、そんなレベルのずっと先にある。

だから、グラフィックイコライザーを導入しても、最終的に外すことになっても、
それでいいではないか、とも思う。
ただ導入を決めたのなら、最低でも一年間はグラフィックイコライザーをシステムから外すことなく、
こまめに調整(いじって)みていただきたい。
最初から、うまくいくはずはない。

だから一年間は諦めずにとにかくグラフィックイコライザーと正面からつきあうしかない。
うまくいく日もあればそうでない日もある。そうでない日の方が多いだろう。

ひとついえるのは最初からいい音に調整しようと思わないことである。
まずは音の変化に耳を傾ける。
どんなふうに音が変化するのかを、身体感覚として得られるようになりたい。

そして、コントロールアンプにモードセレクターがあったほうが調整には役立つ。

もうひとついえるのは、好きな音に仕上げていくためのツールではない、ということだ。
正しい音とはなにか? を思考していくツールであり、
「正しい音」ということをつねに意識しておくことが重要だと、私は考えている。

Date: 4月 6th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その7)

グラフィックイコライザーの使用に否定的な人の中には、
専用のリスニングルームを建てるだけの経済的余裕のない者が頼る機器、
それがグラフィックイコライザーである──、そんなことをいう人もいる。

またこんなことをいう人もいる。
グラフィックイコライザーに頼る人は、指先だけで処理しようとする──、
確かにそういう人がいないわけではない。

いまでは各社から整音パネル、調音パネルなどと呼ばれるモノがいくつも出ている。
専用リスニングルームを建てられなくとも、
これらのモノを駆使することでグラフィックイコライザーは不要である──、
ほんとうにそうなのだろうか。

音響的に条件を整えていった上で、グラフィックイコライザーを使えば、
各周波数における補正量は抑えられるはずである。
ならばどちらかだけでなく、積極的にそれぞれの良さを認めて採り入れてみることを考えはどうだろうか。

私がグラフィックイコライザーの使いこなしの見事な例として挙げるのは、菅野先生の音である。
菅野先生の音を聴けば、グラフィックイコライザーは必要になる、と思える。

その菅野先生のリスニングルームだが、音響的には特別なことはされていないように見える。
左右のスピーカーの中央にある扉のガラスの一部にソネックスが貼られているくらいにしか見えないが、
ステレオサウンド、スイングジャーナルのかなり古いバックナンバーには、
昔の菅野先生のリスニングルームの写真が載っている。
それらを見較べてほしい。

壁の表面、それから天井と壁が交わるところなどを特に見較べれば、
菅野先生がグラフィックイコライザーだけに頼られているわけではないことがはっきりする。

整音パネル、調音パネルと呼ばれているモノの中には、なかなか効果的なモノはある。
けれどそれらをリスニングルームに林立させることに、音が良くなるのだから、といって、
ためらうことのない人もいれば、
できるだけ視覚的にそういったモノが目につかないようにしたい、
専用リスニングルームという感じをできるだけ抑えたい、という人だっている。

そういう人にとって、菅野先生のリスニングルームのいくつかの変化とグラフィックイコライザーの併用は、
良き参考例となるはずだ。

Date: 4月 6th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その13)

SFの世界では、人型ロボットだけでなく、クローン人間も登場する。
完璧なコピーといえるクローン人間が造り出せたとしても、
そのクローン人間の脳には、何が入っているのだろうか。

そのクローン人間の脳に、オリジナルの人間の脳の記憶の全てをコピーすることができたら……、
これはSFの世界での、自我とはなにか、というテーマとつながっていく。

体も完璧なコピー、記憶もそうである。そういうクローン人間がいたら、
オリジナルの人間と同じ自我が、そこに芽生えるのだろうか。

現在の録音・再生のシステムでは、いわゆる原音再生は無理である。
けれど将来、まったく違う理論と方法によって、
録音と再生の場が異っていても、原音再生が可能になったとしよう。
それも完璧なコピーといえる原音再生である。

完璧なコピーといえるクローン人間のような原音再生である。
そんなクローン人間ならぬクローン音が実現したとして、
クローン音には、自我があるのか、と思い、
次の瞬間には、元となる、いわゆる原音(生音)には自我があるのだろうか……、と考え込んでしまった。

音に自我などあるものか、といいきれない自分に気がつく。
いいきれないということは、音に自我、自我のようなものを感じとっているのだろうか、とまた考える。

自我があるとすれば、それは原音(生音)ではなく、再生音なのではないか。

Date: 4月 5th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その4)

あばたもえくぼ、という。
惚れてしまうと、欠点まで好ましく見えてしまう、という意味である。
痘痕(あばた)が靨(えくぼ)に見えてしまうのだから、そうである。

だが時として、えくぼもあばたとなってしまうことだってあるだろう。
嫌いになってしまうことで、いままで好ましく思えていたことが欠点に思えてしまう。
同じようなことが音に対しての反応としてあるような気がする。

つまり好きな音に対して敏感であるのか、嫌いな音に対して敏感であるのか。
好きな音に対して敏感であれば、多少欠点があったとしても、さほど気にならなくなる。
けれど反対に嫌いな音に対して敏感でありすぎると、
その部分にのみ耳の意識が集中してしまい、良さもあったとしても、そこに意識がいかない、
その音全体も否定しまうことになるのではないか。

どちらがよくてどちらが悪いというわけではないが、
嫌いな音に対して過剰なくらい敏感であるために、
音のバランスを失ってしまった例を、よく知っている。

彼には嫌いな音がある。
それは嫌いな音ともいえるし、苦手な音でもある。
それがどんな音であるのかは書かないが、その種の音に対して彼の耳は過剰なまでに敏感だった。
その種の音が出ていると、音を聴くのも苦痛であったようだ。

彼が、嫌いな音・苦手な音を出さないために、
グラフィックイコライザーの力を借りて大胆に調整を行ってしまうのは、だから理解できないわけではない。

だが、それでも……、というおもいがある。

Date: 4月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その8)

執拗さで思い出すのは、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」である。

そして「トリスタンとイゾルデ」といえば、ステレオサウンド 2号での、
小林秀雄「音楽談義」での五味先生の発言を思い出す。
このテーマだからこそ、思い出す。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである(いうまでもないとは思うけれど)。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

ワーグナーは慎重で綿密で、意識的大職人である、とも。
そうだと思う。
思うけれど、何も男が勃起するのは相手の挑発的行動に対してだけではない。

だから五味先生が「勃然と、立ってきた」のは、フルトヴェングラーの全曲盤だったからではないのか。
ドイツ・グラモフォンから、
フルトヴェングラーの全曲盤から約30年後に登場してきたクライバーでは、どうだったのかと思う。

クライバーのドイツ・グラモフォン盤が出た時、五味先生はすでに亡くなられていた。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も聴かれていない。

ただクライバーの「トリスタンとイゾルデ」に関しては、
1975年、バイロイト祝祭劇場でのクライバーの演奏は聴かれている。
高く評価されていた。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その10)

モノの蒐集にはふたつの楽しみがある、といえる。
ひとつはモノそのものの蒐集であり、もうひとつはそのモノに関する情報の蒐集である。

オーディオも自転車も魅力的なモノであり、
どちらも昔よりも現在の方が、情報蒐集はしやすくなっているし、情報の量も多くなってきている。

欲しいモノ、気になっているモノの情報を集めてくるのは、実に楽しい。
これだけでひとつの趣味といえるほど楽しく感じている人も少なくないだろう。
私も、そのひとりである。

より正確な情報を、しかもあまり知られていない情報を求めようとしているし、
そんな情報が入ってくれば、同好の士に教えたくもなる。
そうすれば、同好の士から情報を得ることもある。

そうやってさまざまな情報をあつめる。
そして試聴(自転車では試乗)する。
これも、ひとつの情報蒐集といえなくもない。

けれど、そうやって得た情報をもとに、
実際に購入するモノ選びにどれだけ役立つか、直結しているのか、といえば、
私の場合は、間接的には役立っているとはいえても、直結しているとはいえないところがある。

デ・ローザのオレンジ色のフレームがそうであったように、
結局のところ、「これだ!」と瞬間的に感じられるかどうかが決め手であり、
他のことは、買うための口実として機能するだけである。

そんな選び方は絶対にしない、という人もいる。
それはそれでいい。
ただ私はそうやって自転車を選んだし、オーディオも選んできている。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その3)

音の好みがまったくない、という人はいるのだろうか。
好みとは、好きな音もあれば嫌いな音もある、ということで、
つまりは音の好みがまったくないということは、
嫌いな音・苦手な音もなければ、好きな音もないということになる。

音の好みが激しい・極端な人もいれば、さほどでもない人もいるけれど、
まったくないという人には、いまのところお目にかかったことがない。

すくなくともオーディオマニアを自認する人は、必ず好みの音というものがあるし、
音の好みをわかっているからこそオーディオマニアなのではないだろうか。

味覚も聴覚も、その領域を拡げていくことが大事である。
子供のころ苦手だった味も、大人になるにつれて苦手ではなくなり、おいしい、と感じるようになるように、
音に関しても、同じことはきっとある。
それがオーディオマニアとしての成長である、といえる。

私にしても、中学生のころからすれば、受け入れられる音の範囲は確実に拡がっている。
拡げてきたともいえる。

それであっても、どうしても受けつけられない音はある。
以前書いているように、ダメな音はやっぱりあって、これはもう死ぬまで受けつけないであろう。

ただ、この手の音は、音の輪郭線を強調しすぎるため、
エッジがたつ、とか、鮮明になった、とう表現する人がいるようだが、
冷静に聴けば、支配的な音色がかなり強く存在していて、
どう聴いても音の良さにつながるものではない、と思っている。

Date: 4月 2nd, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その1)

五味先生の命日である昨晩、ひさしぶりに「音楽談義」をきいた。

「音楽談義」はステレオサウンド 2号の特別企画として、
《音楽談義》 小林秀雄 きく人 五味康祐、というタイトルで載っている。
二部構成になっていて、第一部は「音楽の本質について」、
第二部は「ワーグナーの人と音楽」である。

「音楽談義」のことは、まだ読者であったころに知っていた。
けれど2号(1967年3月発売)という古いステレオサウンドは、
私がステレオサウンドを読みはじめた1976年の時点ではすでに入手できなかったのだから、
「音楽談義」のことを知った1979年3月の時点では読みたくとも読めなかった。

私が「音楽談義」を読んだのはステレオサウンドで働くようになってからだった。

ステレオサウンドは1986年に創刊20周年を迎えた。
創刊20周年を記念して、「音楽談義」はカセットテープによるオーディオブックとして一冊の本となった。
(発売は1987年だった)
当時、原田勲社長は、社員全員に「音楽談義」をくばられた。
それが、いまも私のもとにある一冊である。

この時「音楽談義」をきいた。
会社の取材用の録音機であったソニーのWM-D6できいた。

カセットデッキはその時もそれ以降も所有してこなかったから、
「音楽談義」をきいたのは、その一度限りだった。

昨晩、約30年ぶりに「音楽談義」をきいた。
これだけあいだがあいていると、初めてきくような感覚もあった。

Date: 4月 2nd, 2015
Cate: audio wednesday

第52回audio sharing例会のお知らせ(続・五味康祐氏のこと、五味オーディオ教室のこと)

5月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

昨晩のaudio sharingの例会のテーマは、五味先生のことだった。
来月のテーマも、昨晩の続きとして、五味康祐氏のこと、五味オーディオ教室のことがテーマとなる。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 1st, 2015
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド

五味先生は1980年4月1日に亡くなられているから、
ステレオサウンドは54号までしか読まれていない(54号も微妙なところである)。

創刊20周年記念号は80号。
六年半後のことである。

創刊20周年記念として、小林秀雄・五味康祐「音楽談義」がカセットテープ(二巻)で出た。
このときは気づかなかった。

ステレオサウンドの創刊者である原田勲氏は、
五味先生に80号を手にとってもらいたかったはずだ、ということに、その時は気づかなかった。

五味先生が創刊20周年まで生きておられたら、
原田勲氏とどんな「談義」をされただろうか。