Archive for 3月, 2015

Date: 3月 22nd, 2015
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(アナログディスクの扱い・その1)

岩崎先生のリスニングルームに行ったことのある人たちから何度も聞く話がある。
岩崎先生のレコード(アナログディスク)の扱いである。

レコードは、特にマニアでない人でも、
盤面に触れないように縁を両手で挟んで、静かにターンテーブルの上に置く。
岩崎先生は違った。

盤面を指で持ってジャケットから取り出しターンテーブルの上に置く。
聴き終ったらジャケットにしまうのではなく、
次に聴きたいレコードを、さっきまでかけていたレコードの上に置く。
さらにその上に、次に聴きたいレコードが置かれる。

当然トーンアームの水平がとれなくなり、トレースが困難になると、
数枚のレコードはターンテーブルの上からとりのぞかれる。

しかもカートリッジは静かに盤面に降ろすのではなく、落下である。
カートリッジがレコード盤上で数回バウンドすることもある。
ボリュウムは、もちろん上げたままである。

いまレコードマニア、オーディオマニアと呼ばれる人は、
レコードをほんとうに丁寧に扱う。
クリーニングに関しても、あれこれ試されている人もいる。
とにかく神経質なくらいに丁寧に扱う。

そんな人にとっては、岩崎先生のレコードの扱いは、論外となる。
そんな扱いをしていたのか……、と思われるかもしれない。

けれど、岩崎先生のレコードの扱いについて話す人は、みな楽しそうに話してくれる。
なぜなのか。

そして、もうひとつなぜなのかは、
なぜ岩崎先生はそういう扱い方をされたのかだ。

丁寧に扱うことの大事さはわかっておられた。
それに右手の小指をプレーヤーキャビネットについて、
聴きたい箇所に静かにカートリッジを降ろすことも得意だった、という話も聞いている。

そういう岩崎先生が、そういうレコードの扱い方(それは聴き方でもある)をされていたのか。
この「なぜか」と、岩崎先生の音とが結びついていく感触を、話を聞くたびに感じている。

Date: 3月 22nd, 2015
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その1)

自動運転の車が現実のモノとなるのは、漠然とずっと遠い未来のことだと思ってきた。
自動運転の車は、映画、マンガ、小説などの世界にはずっと以前から登場していた。
いつかは登場してくるであろうけれど、ずっとずっと遠い未来のことであり、
生きているうちには登場しっこない、と思い込んでいた。

現実は、ある時点から加速していく。
自動運転の車は、すぐそこの未来のモノになっている。

自動運転を可能とするのは人工知能の進化である。
どこまで進化するのはわからないけれど、
自動運転ができるのであれば、人工知能が音を聴いて判断して調整することも、
そろそろ登場してもよさそうに思えてくる。

すでに、その兆しを感じさせるモノはいくつか登場してきている。
ここ数年で加速していくような予感すらある。

人工知能が近い将来そうなっとして、
私が期待したいのは人間とまったく同じ音の聴き方ではなく、
人工知能ゆえの音の聴き方である。

人間と違う聴き方を人工知能ができるようになれば、
それを人間である聴き手に提示してくれることも可能になる。

人工知能が、いままで気づかなかった音の聴き方を示唆してくれる可能性が考えられる。
私は人間とまったく同じ聴き方をする人工知能よりも、
違う聴き方をする人工知能に期待している。

Date: 3月 21st, 2015
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(続々・井上卓也 著作集)

井上先生の著作集がもうすぐ発売になる。
ステレオサウンドのサイトに、目次が公開されている。

あの記事が載って、あの記事は載らなかったのか、とは誰もがそれぞれに思っていることだろう。
私が、あの記事は載らなかったのか、ちょっと残念だな、と思ったのは、
私が担当した記事ではなく、組合せの記事である。

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界」での組合せの記事が載っていなかったのが、
井上先生のことを知らない読者に、どういう人だったのかを伝えるには、どうしても残念に感じてしまう。

井上先生の耳のよさは私がここでいうまでもないことで、
使いこなしに関しても、ここでくり返す必要はないだろう。
それだけに、井上先生といえば、ここに挙げたことを印象として思い浮べる人は少なくないはず。

けれど「コンポーネントステレオの世界 ’77」で井上先生を知った私には、
次の年にでた「コンポーネントステレオの世界 ’78」での組合せを見て、
井上卓也という人の想像力の広さに驚いていた。

’77年度版では女性ヴォーカルをしんみりと聴くための組合せだった。
’78年度版では180度違う音楽を聴くための組合せだった。
このふたつの組合せのダイナミックレンジの広さに驚いた。

オーディオに関心をもちはじめてまだ一年ちょっと私には、
このふたつの組合せを同じ人がつくっていることが、すごいと思っていた。
このときは、まだ井上先生が使いこなしにおいて卓抜なものをもっておられたことは知らなかった。
だから、より素直に組合せに驚けたのかもしれない。

このふたつの組合せだけではない、
’79年度版では平面バッフルにアルテックの604-8Gを取り付けた組合せもあった。

瀬川先生の組合せとは、ひと味ちがうおもしろさが、井上先生の組合せにあった。
組合せはオーディオの想像力の現れだと思っている私は、
だから井上卓也 著作集に、組合せ記事がなかったのが残念でならない。

Date: 3月 21st, 2015
Cate: 岩崎千明

西岸寺にて

audio sharingを公開していることもあって、
share(共有)のアイコンには関心をもつようにしている。

audio sharingのアイコンを考えたことがある。
share(共有)のもっとも象徴的なものは何かと考えた。

火だと思う。

火はいくつにわけても元の火が小さくなったり減ったりはしない。
共有する側の火も共有された側の火も同じ火である。

だから矢印よりも、火を使ったアイコンの方が共有であるとは思っても、
そこから先は気に入るアイコンをつくりだすことができずにいる。

今年も岩崎先生の墓参りに行ってきた。
線香を手に取りロウソクの炎に近づける。
線香に火がつく。
そして手を合せ目を閉じる。

今日まで、なぜ線香に火を着けることを考えたことがなかった。
そうするものだと思ってやっていただけだった。

今日、これは共有なのだ、とはじめて思った。
ロウソクの炎は故人の遺志なのだと思っていた。

ロウソクにロウソクの炎をうつすのであれば、
それは同じ炎だが、あくまでも線香である。

誰であっても故人の遺志をすべて引き継ぐことはできない。
引き継げるのは、一部である。
一部であるから線香なのではないのか。
そう思っていた。

今日来られた人たちみなが、岩崎先生の何かを引き継ぎ、共有されているように感じていた。
墓参は生きている人のためのものだという。
そうだと実感した。

Date: 3月 20th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その5)

音の透明度を高めていくことが、再現する楽器の音色の正確さを高めていく。
そう思い込んでいる人にとっては、
グラフィックイコライザーを挿入することによる音の純度の低下が(それがわずかであっても)、
楽器の音色の再現性を低下させる、ということになっているようだ。

確かにそれまでなかったグラフィックイコライザーを挿入すれば、
音の純度は低下するのは事実である。
だがそれはあくまでも、グラフィックイコライザーを挿入しただけで、
挿入していない音と単純に比較した場合のことでしかない。

グラフィックイコライザーは使いこなしてこそ判断すべきモノであることが、
ここでは忘れられて、音の純度の低下が論じられる。

ただやみくもにグラフィックイコライザーをいじっても、音は良くならない。
それでもやってみなければ何も始まらない。
根気のいる作業ではある。

それでもこつこつと調整をしていけば、音は整っていく。
そうして初めてグラフィックイコライザーを挿入した音、挿入しなかった音を比較すべきなのだ。

適切にグラフィックイコライザーによる調整がなされていたら、
楽器の音色の再現性はどちらが上になるのか。

100%と断言したいところだが、
理想的なリスニングルーム、理想的なオーディオシステム、そして理想的なプログラムソース、
そういった環境下では逆転する可能性もあるので、
ほとんどということにしておくが、
グラフィックイコライザーを適切に調整したほうが楽器の音色の再現性は高い。

もっといえば、個々の楽器の音色の違いが、より自然にはっきりと出てくるようになるし、
そこまで調整してこそグラフィックイコライザーを使いこなしている、ということになる。

つまりグラフィックイコライザーを挿入したときの音が、
挿入していない音よりも楽器の音色の再現性が劣っていれば、
まだまだ調整が適切になされていない、となる。

だからグラフィックイコライザーの調整に必要なのは、絶対音色感ということになる。

Date: 3月 20th, 2015
Cate: 4343, JBL

なぜ4343なのか(その3)

4341から4343への変化だけ見ていては断言できないことでも、
4343のあとに登場した4345、4344、4344の改良モデル、
そしてJBLスタジオモニターの4ウェイ最後のモデルとなった4348までの系譜をみれば、
4343が特別なモデルであったことがはっきりと浮び上ってくる。

4341、4345、4344も、優れたデザインとはいえない。
4348にしても、4344からすれば……、という程度に留まっている。
そんな系譜の中に、4343だけがまったく隙のないデザインに仕上げられているのはなぜなのかを考えれば、
それはやはりJBL創立30周年を記念しての、
デザイナーとしてのアーノルド・ウォルフの意図が隠されている、と私は確信している。

おそらく4343はアーノルド・ウォルフのデザインではない、と思っている。
以前も書いているように、ダグラス・ワーナー(Douglas Warner)だと思っている。
アーノルド・ウォルフの可能性も捨てきれないのだが、それでも……、である。

ダグラス・ワーナーは、
アーノルド・ウォルフが経営していたコンサルタント会社でウォルフの助手をしていた人物で、
L200は彼のデザインだということははっきりしている。
ウォルフがJBLの社長に就任した際に、
彼の会社をワーナーが引きつぎ、ワーナー・アンド・アソシエイツと改称している。

そういう男にアーノルド・ウォルフが4343のデザインをまかせた。
だから4343が生れた──。
私は、いまのところそうおもっている。

Date: 3月 19th, 2015
Cate: 4343, JBL, 五味康祐

なぜ4343なのか(五味康祐氏と4343・その2)

「人間の死にざま」に所収されている「ピアニスト」によると、
五味先生は、ステレオサウンドの試聴室で4343を聴かれていることがわかる。
コントロールアンプはGASのThaedra、パワーアンプはマランツの510、
カートリッジはエンパイアの4000(おそらく4000DIIIだろう)である。

このラインナップからすると、1976年暮から1977年にかけてのことだと思われる。
この組合せは、ステレオサウンドの原田勲氏によるものらしい。
《現在、ピアノを聴くにこれはもっとも好ましい組合せ》ということで、聴かれている。
アシュケナージのハンマークラヴィーアの第三楽章である。
     *
なるほど、うまい具合に鳴ってくれる。白状するが拙宅の〝オートグラフ〟では到底、こう鮮明には響かない。私は感服した。(中略)JBL〝4343〟は、たしかにスタインウェイを聴くに、もっとも好ましいエンクロージァである。(中略)〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。
     *
五味先生が、JBLのスピーカーについて、こんなふうに書かれているのは、
ステレオサウンド 47号のオーディオ巡礼を読んでいなければ、少し驚きである。

五味先生はいくつかのピアノをレコードを聴かれた後で、
オペラを聴かれている。
ワーグナーのパルジファル(ショルティ盤)である。
     *
大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中を楽器から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。
     *
ここまで読むと、47号のオーディオ巡礼を読んでいても、少し驚いてしまう。
そして嬉しくなった。

Date: 3月 19th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・音の尺度)

人は経験をつむ。
オーディオだけにかぎらず、さまざまなことで経験をつんでいく。
そうすることで、音を聴くときの尺度も自在になっていく。

自在になっていくことで、ふたつの尺度を、さらにはもっと多くの尺度をほぼ同時に扱えるようになる。
実際のところは瞬時に尺度を切り替えているのかもしれないのだが、
スピーカーの比較試聴のときのように一目盛り10cmの尺度と、
細かな調整のときの1mmの尺度と、たぶん脳内で合算しているような聴き方が身についてくる。

これが、構えずに聴くことなのかもしれない。

Date: 3月 18th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(音の尺度)

使いこなしの過程では、こんなことでこんなにも音が変化するのか、と驚くことが意外に多い。
そんなとき、驚くほど音が変った、とつい言いたくなるし、言ってしまうこともある。

そうすると、こんなことを言う人がいる。
「音は変るけれど、スピーカーを交換したほど音が変化するわけじゃない。
それだけのことで驚くほど音が変った、という人は、スピーカーが変ったら腰を抜かすんじゃないのか」
皮肉たっぷりにそういう人がいる。

この発言が、オーディオに関心のない人のものだったら、受け流せばいい。
けれど、キャリアが長くて、使いこなしもやっているという人がこういうことを言っているのを聞くと、
この人の音の聴く時の尺度は常に一定なのか、といいたくなってしまう。

オーディオマニアで、ある程度オーディオに熱心に取り組んできた人ならば、
試聴の際、音を聴く尺度は意識するしないに関わらず変化していることを感じている。

スピーカーを比較試聴する時の尺度が、一目盛り10cmだとすると、
アンプを比較試聴の時には一目盛り1cmぐらいになるものだし、
細かな調整のときにはもっと小さくなり、一目盛り1mmくらいになるものだ。

スピーカーの比較試聴もアンプの比較試聴も、
細かな調整の時も、常に同じ尺度で聴いていると言い張る人の「耳」を私は信用しない。
尺度は状況に応じて変っている。
それが人間の感覚というものだ。

だからこそ、驚くほど音が変った、と口走りたくなる体験をするわけだ。

またこういう体験をすることで、感覚の尺度を状況にあわせて変化させていけるようになる。

Date: 3月 18th, 2015
Cate: 4343, JBL, 五味康祐

なぜ4343なのか(五味康祐氏と4343・その1)

JBLの4343に夢中になった10代を過ごした。
4343への興味が若干薄れた20代があった。

40をこえたころから、4343への興味が強くなってきた。
そしていまも薄れることなく続いている。

10代のころ、ひとつどうしても知りたいことがあった。
五味先生は、4343をどう評価されていたのか、だった。

五味先生のJBL嫌いについては、あえて書くまでもないことだ。
そんな五味先生でも、瀬川先生が鳴らされているJBLの3ウェイの音は評価されていた。
(ステレオサウンド 16号掲載のオーディオ巡礼参照)

ステレオサウンド 47号からオーディオ巡礼が再開。
奈良の南口重治氏が登場されている。
南口氏のスピーカーはタンノイ・オートグラフとJBL・4350Aだった。

47号に書かれている。
     *
 JBLでこれまで、私が感心して聴いたのは唯一度ロスアンジェルスの米人宅で、4343をマークレビンソンLNPと、SAEで駆動させたものだった。でもロスと日本では空気の湿度がちがう。西洋館と瓦葺きでは壁面の硬度がちがう。天井の高さが違う。
     *
南口氏の4350の音も最初は「唾棄すべき」音と書かれていたが、
最後では違っていた。絶賛に近い評価の高さだった。

4343も4350も、新しいJBLの音だった。
瀬川先生も高く評価されていた、このふたつのスピーカーを、
鳴らす人次第とはいえ、五味先生も認められているのが、嬉しく感じたものだった。

JBLからでも、五味先生を唸らせる音が出せる──、
そう信じられたからだ。

それだけに、もっと4343について書かれた文章が読みたかった。
けれどずっと見つけられずにいた。

30代の終りごろに、やっと見つけた。
新潮社から出ていた「人間の死にざま」にあった。

Date: 3月 18th, 2015
Cate: 4343, JBL

なぜ4343なのか(その2)

41号からステレオサウンドを読みはじめて半年。
43号のベストバイの特集で、4343のところに瀬川先生がこう書かれている。
     *
 4341を飼い馴らすこと一年も経たないうちに4343の発売で、個人的にはひどく頭に来たが、しかしさすがにあえて短期間に改良モデルを発表しただけのことはあって、音のバランスが実にみごと。ことに中低域あたりの音域の、いくぶん冷たかった肌ざわりに暖かみが出てきて、単に鋭敏なモニターというにとどまらず、家庭での高度な音楽館商用としても、素晴らしく完成度の高い説得力に富んだ音で聴き手を魅了する。
     *
4343の前身モデルとしての4341があったこと、
4341がいつ発売されたのかは、43号を読んだ時点では知らなかったけれど、
とにかく短期間でJBLがモデルチェンジしたことを知った。

このころはJBLという会社が、どのくらいのサイクルでモデルチェンジをするのかは知らなかった。
JBLとしては、4341の全面モデルチェンジは早かった。

同じスタジオモニターの4333、4350はモデルチェンジして4333A、4350Aとなっていた。
4341は4341Aとはならずに、4343へとモデルチェンジした。

そして、4341と4343の使用ユニットはまったく同じであるにも関わらず、
なぜ4343は4341Aでも4342でもなく4343なのか。

その理由を考えると、やはり4343はJBL創立30周年モデルだったような気がしてならない。

4341から4343への、もっとも大きな変更点はデザインである。
4341はお世辞にも洗練された、とはいえなかった。
けれど4343は違う。

4343が登場したころのJBLの社長は、アーノルド・ウォルフだった。

Date: 3月 17th, 2015
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(ステレオサウンド 38号・その1)

別項で、二冊のステレオサウンド 38号のことを書いた。
一冊は割とキレイな38号で、もう一冊はボロボロになった38号。

この二冊を古書店にもっていったら、キレイな38号は高く買い取ってくれるだろうし、
ボロボロになった38号の買取り価格はかなり安くなるであろう。

ではキレイな38号の方が価値が高いのか、ということになる。
買い取った本を売る商売であれば、キレイな38号の方が価値がある、ということになる。
高い値段で売れるから、高く買い取る。
古書店にとっては、商品価値はキレイな38号の方が高い。

そして買う方にとっても、ボロボロの38号よりも、キレイな38号の方が、
多少高くともこちらを手に取って買っていくであろう。

古書は誰が読んだ本なのかは、ほとんどの場合わからない。
だからこそボロボロの38号よりもキレイな38号の方がいい。

けれど、私がどちらか一冊を手離すとしたら、ためらうことなくキレイな38号のほうだ。
ボロボロの38号はずっと手元に置いておく。

それは私にとってキレイな38号よりも、ボロボロの38号の方が大事だからである。
大事ということは、私にとって価値が高いということになる。

すでに書いているように、ボロボロの38号は、
岩崎先生によってくり返し読まれることによってボロボロになった38号である。

だが古書店に、ボロボロの38号をもってきて、
これは岩崎千明が読んでボロボロになった38号だ、と説明しても、
買い取る側の古書店にとっては、それがどんな意味をもってくるのかといえば、
ほとんど無意味ということになるだろう。

まずどうやって岩崎先生が読んだ38号と証明するのかがある。
証明できなければ、古書店にとっては、単なるボロボロの38号でしかない。
そんな38号を、キレイな38号よりも高く買い取ることは絶対にない。

Date: 3月 17th, 2015
Cate: 4343, JBL

なぜ4343なのか(その1)

来年登場してくるであろうJBL創立70周年記念モデルのことを、あれこれ好き勝手に想像していて、
あっ! と気づいたことがある。
4343のことだ。

1976年に登場している。つまりJBL創立30周年に登場していることに気づいた。
JBLが創立記念モデルを出すようになったのは、50周年の1996年のCentury Goldからである。

4343のころは、創立記念モデルということはまったく謳っていなかった。
30周年だから4343を出したわけではないことはわかっている。

それでも4343がJBL創立30周年1976年に登場したことは、確かなことである。

そして、私自身にとっても、1976年は「五味オーディオ教室」と出逢った年でもある。
4343は、それとも重なる。

Date: 3月 16th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その1)

喘息持ちなこともあって、小学生のころは学校をよく休んでいた、早退も多かった。
健康な人よりも、だからこのころはベッドの上で過ごすことが多かった。

こんなことを思い出すのは、
ベッドの上が、終のリスニングルームとなるのか、と考えるようになったからかもしれない。

ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記を思い出す。
五味先生のことが書いてあった。
     *
 五味先生が四月一日午後六時四分、肺ガンのため帰らぬ人となられた。
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。その何日かまえに、病室でレコードを聴きたいのだが、なにか小型の装置がないだろうか? という先生のご注文で、テクニクスのSL10とSA−C02(レシーバー)をお届けした。
 先生は、AKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。
     *
五味先生にとって、AKGのヘッドフォンが終の「スピーカー」ということに、
そして病室のベッドが終の「リスニングルーム」ということになったのか……、と考える。

どこでどんなふうに死ぬのかなんてわからない。
ベッドの上で死ねるかもしれないし、そうでないかもしれない。
それでも、ベッドの上で最期の時を過ごすようになるのは十分考えられることだ。

そこでどうやって音楽を聴くのだろうか。
ヘッドフォンなのだろうか。
ヘッドフォンという局部音場が、ベッドの上を終の「リスニングルーム」としてくれるのだろうか。

まだわからない。

Date: 3月 16th, 2015
Cate: JBL

D2 Dual Driverがもたらす妄想

オールホーンシステムは、その昔オーディオマニアのひとつの夢として語られていたこともある。
いまもオールホーンシステムを理想とする人はいる。

それでも低域まで、それも20Hzまでホーンに受け持たせようとすれば、
そうとうに大がかりなシステムになり、部屋ごと(家ごと)つくるシステムになってしまう。

20Hzまでホーンロードをしっかりとかけるためには、
低音ホーンのカットオフ周波数は20Hzの半分、10Hzにする必要がある。
こうなるとホーン長も開口部面積も、長く大きくなってしまう。

そこまで挑戦する人でも、
低音用のドライバーは、コーン型ウーファーを使う人が大半だった。
中低域より上の帯域にはコンプレッションドライバーを使う人でも、
低音だけはコーン型ウーファーだった。

オールホーン(コンクリートホーン)で知られる高城重躬氏が使われていたゴトーユニットのラインナップでも、
最も低い周波数といえば、SG555TT、SG555DXで、
カタログ発表値では100Hz以上になっていて、推奨クロスオーバー周波数は200Hz以上になっている。
ゴトーユニットには、だからSG38Wという38cm口径のコーン型ウーファー用意されていた。

けれどゴトーユニットとともにオールホーンシステムを目指す人にとって心強い味方といえるYL音響には、
D1250というコンプレッションドライバーがあった。

直径21.5cm、重量26kgの、このコンプレッションドライバーのカタログ発表値は、16Hz〜1000Hzとなっている。
低音ホーンに使え、最低域までカバーできるコンプレッションドライバーは、
他に同類の製品は存在したのだろうか。

オールホーンシステムにさほど関心のない私でも、D1250を思い出したのは、
JBLのD2 Dual Driverの存在である。

D1250はボイスコイル径12.8cmの、一般的なドーム状のダイアフラムである。
これがD2 Dual Driverだったら……、と想像したくなる。

JBL PROFESSIONALのM2に搭載されているD2 Dual Driverは3インチ・ダイアフラム。
JBLがそんなものをつくることはないのはわかっていても、
4インチ、もしくは5インチのD2 Dual Driverで、低音までカバーしたモノをつくってくれたら……。

いったいどんな低音が聴けるのだろうか。