Archive for 1月, 2015

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その2)

3.125Wといえば、現代の感覚からすれば小出力である。
でも真空管アンプの時代、それも初期の真空管アンプの時代では決して小出力ではなかった。

数Wのアンプで大型のスピーカーを鳴らしていた時代がある。
だから小出力で鳴らすスピーカー・イコール・小型スピーカーというのには、
それもありだけど、高能率の大型スピーカーでも……、とリクエストしたくなる。

HUGOの3.125Wの出力が、
きちんと設計された真空管パワーアンプの同等の出力と、
スピーカーを鳴らすことに関して同じだけの実力だとは考えていない。

それに高能率のスピーカー・イコール・昔のスピーカーでもあるわけだから、
こういったスピーカーのインピーダンスは16Ω(イギリス製だと15Ω)である。
となると3.125Wは半分の出力になってしまう。

それでもJBLのD130、それからグッドマンのAXIOM80をHUGOにつないで鳴らしてみたら……、と想像する。

プログラムソースとスピーカーのあいだに介在するオーディオ機器の数を減らすことが、
音質向上に直結するわけではない。
それでも、まずは試してみることは、とても大事なことだと思う。

D130は15インチ口径、AXIOM80は9.5インチ口径。
これらを適切なエンクロージュアにいれればかなりの大きさのスピーカーシステムとなる。
HUGOは手のひらにのるサイズである。

ここには大きさのギャップ、時代のギャップがある。
うまくいくかどうかは鳴らしてみないことにはわからない。

だが、昔では考えられなかったほどミニマルな構成で音を鳴らせる。
ミニマルであることが、シンプルであるとは限らない。
シンプルであることが、音の良さに必ずしもつながるとは限らない。

それでもCDが登場した時、池田圭氏がCDプレーヤーをスピーカーに直結で鳴らされたこと、
その姿勢は見習っていくべきである。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(トーレンスのリファレンスのこと)

以前、トーレンスのリファレンスは開発過程ではダイレクトドライヴであった可能性がある、と書いた。
2011年6月、「私にとってアナログディスク再生とは(トーレンス・リファレンスのこと)」に書いている。

確度の高い推測とは自分で思っていても、
それを裏付けるものがなにか──フローティングベースの形状以外に──があったわけではない。

昨夜、audio sharing例会でEMTの950のことが話題になった。
950はEMTが開発したダイレクトドライヴ型プレーヤーの一号機である。

950は1977年か78年に登場している。
帰宅後、そういえば……、と思い、Googleで、「EMT 950」のキーワードで画像検索してみた。
モーターの写真が見つかった。
このモーターが950のフレームにどういうふうにマウントされているのかもわかった。

950のモーターは、写真をみるかぎり、
リファレンスのフローティングベースのセンターに設けられたスペースにぴったりおさまるように思える。
取り付け方も問題はない、といえる。

いうまでもなくEMTとトーレンスは同じ工場で作られていた。
リファレンスのシャフト、軸受けはEMTの930stのものを流用していることからも、
リファレンスは、やはり開発過程でダイレクトドライヴであった、と断言していいのではないだろうか。

それにしても便利な時代である。
キーワードを入力して、画像を見ていくことで、
昔ならば、どんなオーディオ雑誌にも掲載されていなかったところまで確認することができるようになっている。

Date: 1月 7th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その1)

2014年の新製品、いったいいくつの製品が登場したのか。
気になる(なった)新製品は、人によって違ってくる。

私は、というと、もっとも気になったのは、CHORDのHUGOだった。
HUGOが登場したとき、侮ってみていた。
オープンプライスということもあって、内容もあまり読まずに10数万円くらいかな、とまず思ったし、
実際の価格を知って、そんなにするの……、とも思った。

けれどHUGOについてあれこれ知っていくと、侮れないモノだと、わかってくる。
HUGOの詳細についてここでは書かないが、個人的にもっとも惹かれたのが、スピーカーが鳴らせることだった。

CDプレーヤーが登場した時、池田圭氏がアンプを通さずに、
CDプレーヤーの出力だけで、スピーカーを鳴らすことをやられていた。
CDプレーヤーの出力は2Vrms。
出力インピーダンスが十分に低ければ、8Ω負荷では2Vの自乗(4V)を8Ωで除算した値だから、0.5Wになる。
100dB/W/mほど能率の高いスピーカーであれば、鳴らせないことはない。

とはいえ池田圭氏の記事を読んでも、自分で追試することはしなかった。

HUGOの出力は5Vrms。
ということは8Ω負荷では3.125Wの出力になる。
HUGOの輸入元のタイムロードのインターナショナルオーディオショウのブースでは、
小型スピーカーをHUGOで鳴らしていた。

Date: 1月 7th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その3)

ステレオサウンド 43号のRFエンタープライゼスの広告。
     *
「JC-2というのはフェラーリなんだよ。」マーク・レビンソンがいつか云ったことがあります。
 まだレビンソンのアンプが世に紹介されて間もない頃でしたが、JC-2のごく些細な使い勝手の”欠点”を人から指摘されたとき、この生真面目な青年は、ちょっと顔を曇らせて黙って聞いていましたが、やがて口を開いてこう云ったのです。「……これは走るためにつくられたんだ。乗り降りの容易さとか、シフトが重いとか、そういうことが、このクルマにとってどうしてそんなに大事なのかね。」
 彼はそれきり口を噤んでしまいましたが、おそらく胸の中でこんなふうに考えていたことでしょう。「このクルマは、その性能を必要とする人に、そしてこれを乗りこなすことに喜びを感ずる人にこそ、乗ってもらいたものだ。」
     *
いまのステレオサウンドに載っている広告とは、ずいぶんと違う広告であった。
43号は、私には三冊目のステレオサウンドで、JC2はまだ見たことはなかった。
ステレオサウンドの記事でのみ知るアンプだった。

だから、JC2の些細な使い勝手の欠点が、どういうことなのか、それも想像できなかった。
ただ、JC2はフェラーリなんだ、ということが、印象に残った広告だった。

JC2のデザインはツマミに変更が加えられたが、基本的には変らず、ML7に引き継がれている。
菅野先生には、トラックかブルドーザーのようなデザインのML7なのだから、JC2もそういうことになる。

マーク・レヴィンソンは、「JC-2というのはフェラーリなんだよ」と言っている。
それはアンプとしての性能のことであり、デザインに関してのことではない、とも読める。
43号のFエンタープライゼスの広告では、そこのところまではわからない。

マーク・レヴィンソンはJC2のデザインに関しても、
「JC-2というのはフェラーリなんだよ」と思っていたのだろうか。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その1)

オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その2)

ステレオサウンド別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」で、
菅野先生がML7のところでマークレビンソンのアンプのデザインについて書かれている。
     *
ただし、マーク・レビンソンの一連の製品についていえることだが、明らかに一般ハイファイ・マニアを相手にしながら、プロ機器仕様とデザインを決めこんでいるのはどうかと思う。トラックかブルドーザーのようなデザインばかりではないか。中ではLNP2Lが一番まともだが、決して使いやすくもない。
     *
これを読んで、LNP2のデザインに感じていたのは的外れではなかった、とほっとした。
ただトラックやブルドーザーのようなデザインには、完全には同意できなかったけれど、
菅野先生とはいわんとされているところはわかる。

何度も書くが、LNP2のデザインを悪いデザインとは思っていない。
けれど、優れたデザイン、美しいデザインとはこれまで思ったことはないし、
これから先もそう感じることはない、と言い切れる。

なのに、なぜLNP2は、いいデザインという評価が得られているのだろうか。
オーディオマニアすべてがそう思っているわけではないにしても、
少なくない人が、しみじみと「LNP2のデザイン、いいですよね」と発するのを聞いている。

悪いデザインとまでは思っていないから、あからさまに否定することはしないものの、
この人もそうなんだ、とは思ってしまう。

「LNP2のデザイン、いいですよね」という人は、
菅野先生の「トラックやブルドーザーのようなデザイン」という発言をどう受けとめているのだろうか。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(反省と皮肉をこめて)

毎日書いていると、書くことにつまることはない。
むしろ、書きたいこと、書いておかねばと思うことがいくつも出てくる。
だから書く気になるかどうかは別として、書くことに困ることはない。

いいわけにもならないが、そのため、「同軸型はトーラスなのか」のように、
続きを書くのにときとしてあいだが開きすぎてしまう。
他にも続きを書こうと気に掛けつつも、他のことを書いてしまっている。

私は、このブログを書くために試聴や取材をやっているわけではない。
それでも書きたいことは、山のようにあるわけだから、
オーディオ雑誌に携わっている人たち(編集者、筆者)は、
試聴や取材をやっているわけだから、私以上に書きたいことは山のようにあるわけだ。
しかも本づくりには複数の人が携わっているわけだから、
ひとりひとりの山は、私ひとりの山よりもずっと高くあるべきだし、
その高い山がいくつも連なっているのだから、そこから発せられる情報量は、
本来ならばとてつもなく多いものになるはずである。

ステレオサウンドは季刊誌である。
私がいたときも、季刊誌のままでいいのだろうか、と編集部と先輩と話していたことがある。
月刊は無理だろうから、隔月刊にするべきなのかも……と。

そのときは隔月刊もきつい、ということに落ち着いたように記憶している。

そこから外れて、いま思うのは、
編集部の人数がいまの倍ほどになれば、ステレオサウンドの月刊化はできるはずだということである。
もちろん、いまと同じページ数での月刊化である。

読者に伝えていくこと(書いていくこと)は、そのくらい余裕であるはずである。
書くことに困る(誌面をうめることに困る)ということは、彼らがプロフェッショナルであるならば、
ありえないはずである。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: トーラス

同軸型はトーラスなのか(その27)

その1)を書いたのが2010年3月、五年ほど経っている。
この項の(その26)も2011年2月ですでに四年前、
ずいぶんあいだをあけすぎたな、と思いながら、また書き始める。

「同軸型はトーラスなのか」というタイトルは、
その3)(その4)に書いたように、
「回」という漢字からの連想である。

パイオニアのS-F1のユニットは、まさに「回」の字そのものといえるからだった。

同軸型の「同」。
「回」の下の横棒を上にずらす。
口の部分の上にもってくると、同になる。
こんなこじつけめいたことも考えながら、書き始めた。

同軸型ユニットとはいっても、いくつかの種類がある。
最初から同軸型ユニットとして設計されたものと、そうでないのものとがある。

多くの同軸型ユニットは最初から同軸型として設計されたといえるが、
たとえばコーン型ウーファーもしくはフルレンジユニットの前面に、
コーン型もしくはドーム型トゥイーターを後付けしたユニットがある。
これも同軸型であり、私が昔鳴らしていたシーメンスのコアキシャルも、いわばトゥイーター後付け型になる。

ただ、ここで考えていきたい同軸型から、この手のモノは除外する。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その12)

旅人がトランクにつめこんだレコードは、いうまでもなく「ききたいレコード」であった。
ききたいレコードが一枚ではなく、何枚もあったから車掌は、
いきたいところがわからなかった旅人の行き先を察することができた。

ききたいレコードは、ききたくないレコードの裏返しでもある。
ならば旅人がトランクにききたくないレコードばかりをいれていたら、
それを見た車掌は、旅人がいこうとしている目的地を察することができただろうか。

38年前には考えなかった、こんなことをいまは考えている。

単純接触効果というのが、すでに実証されている。
くり返し何度も対象と接することで、好意度が高まり印象が良くなる、というものである。
音に関しても、単純接触効果はあるのだろう。

だとすれば……、と思う。
オワゾリール、アルヒーフの録音が好きだったききては、
ほんとうにこれらのレーベルの音が好きだったのか、である。

人の好みは、どうやって形成されていくのか、くわしいことは知らない。
ただ思うのは、嫌いなものを排除することの好みの形成であるはずで、
好きな音がまだつかめていない段階でも、嫌いな音、ききたくない音ははっきりしているのではないだろうか。

人によって、それも異っているのかもしれないが、
とにかく嫌いな音を徹底的に排除することから、
オーディオをスタートさせたききては十分考えられる存在だ。

嫌いな音を徹底排除することによって、ある独特な音が形成される。
その音で、彼はさまざまな音楽をきいてきた。
音楽をきいてきた回数だけ、その音に接している。
そして、いつしか、その音を好きになっている──。

これも単純接触効果といえるだろう。

Date: 1月 5th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その1)

マークレビンソンのLNP2というコントロールアンプ。
1970年代後半もっとも注目を集めたといえるコントロールアンプ。
私も憧れたことのあるコントロールアンプ。

よく耳にするのが「LNP2のデザイン、いいですよね」である。
あの時代の、憧れのコントロールアンプだから、悪いデザインとはいわないものの、
優れたデザインか、となると、そうとはいえない。

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1のカラー口絵。
JBLの4343をバックに、マークレビンソンのアンプが真正面から撮られたページがある。

この写真が象徴しているように、LNP2には精度感があった。
ウェストンのメーターは大きすぎず小さくもない、
三つあるレベルコントロールのツマミの周囲には、減衰量がdB表示されていた。
ツマミの大きさも大きすぎない。

精度感を損なう要素は見当たらないLNP2のフロントパネルであった。

HIGH-TECHNIC SERIES 1の写真は、そのことを充分伝えていた。
このページを切り取って壁に貼りたいとも思っていた。

それでもLNP2のデザインは優れているとは、思っていなかった。
これは、いまも変らない。

Date: 1月 5th, 2015
Cate: audio wednesday

第48回audio sharing例会のお知らせ(同軸型の未来)

今月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

昨夜(正確には今日未明)、あるキーワードで検索していたら、
Great Plains Audioから604E SeriesIIなるユニットが出ていることを知った。

Great Plains Audoは、アルテックの製造ラインを引き継いだ会社として知られている。
いまもアルテック時代のスピーカーユニットの製造を行っている。
604シリーズも、フェライト仕様の604-8H-IIIがあるのは知っていた。

これまでにいくつもの604という型番のついたユニットが登場している。
数でいえば、604E、604-8Gがもっとも多く市場に出回っているのではないだろうか。
604-8Gまでがマルチセルラホーンで、604-8Hからマンタレーホーンへと変更された。
この604-8Hがアルニコマグネット仕様の最終モデルだった。

その次の604-8KSはフェライトマグネット仕様であり、
こういうユニットを購入してスピーカーを組む者は、フェライトよりも心情的にアルニコを選ぶ。

私も604に関して、興味があったのは604-8Hまでだった。

それでもアルテックのユニットに精通している人によれば、アルテック時代の最後の604がもっとも音がいい、ということでもある。
つまりフェライトマグネットである。

音はいいのかもしれない。
ただユニット単体として眺めた時に、
フェライトの604は、アルニコの604のプロポーションを見馴れた目には寸足らずに感じられて魅力を感じない。

601の原型となる601は、1941年開発。
そういう時代を感じさせてくれるという意味で、604はアルニコマグネットであってほしい。

604E SeriesIIは、フレームの形状でいえば、604-8G SeriesIIといえる。
写真の印象では、悪くない。
聴いてみたい、とおもわせるものがある。
しかも価格も納得のいくものである。

604E SeriesIIの写真を見ていたら、同軸型ユニットについて、あれこれ思っていた。
それについてひとつひとつ書いていくと長くなるのでばっさり割愛するが、
同軸型ユニットは、他のユニットにはない何かがある。
同軸型ゆえの構造的欠点もある。

そんなこともふくめて、同軸型ユニットのこれからをテーマにしたい。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その1)

昔は、はっきりとオーディオマニア向けを謳ったLPがいくつかのレコード会社から出ていた。
一部の例をのぞき、LP、CDをふくめてレコードにおさめられているのは音楽である。
音楽を伝える・届けるためのメディアとしてレコードはあり、
だからこそ音楽が主体のメディアといえた。

けれどオーディオレコードと呼ばれるものは、音楽よりもはっきりと音が主体であった。
だからこそオーディオレコードは、蔑みの意味も込められて使われることが多かった。

とはいえオーディオマニアであれば、音の快感を知っている。
音の快感をまったく知らなくてオーディオマニアとはいえない、ともいえる。

その音の快感のためだけに存在するレコード、
それがオーディオレコードといえた。

ここでのタイトルである「オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器」とは、
そういうことである。

オーディオ機器はレコード(録音物)を再生するためのモノである。
音楽を聴くための機器である。
けれど、ここにも音の快感が無視できない存在として、オーディオマニアならば意識する。

そういうオーディオマニアとしての部分をしびれさせる音を特徴とするオーディオ機器がある。
そういうオーディオ機器を、オーディオレコード的と捉えている。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その9)

インターネット・オークションが盛んになり、
個人売買が日常となってくることで、見えてくるものもある。

オーディオ店が買取り、中古として売る場合には、多少の整備がなされる。
少なくとも店側として高く売りたいから外観はキレイにする。
前使用者の手垢を感じさせるものは取り除く。

けれど個人売買だと、必ずしもそうではない。
はっきりと前使用者の手垢を感じさせるものがついてくることがある。

それがカートリッジの場合であれば、
ヘッドシェルに、針圧をメモしたテープが貼ってあったり、
さらにはカートリッジ交換時の調整をはぶくために、
ヘッドシェル込みの重量をすべて一定にするためにウェイトで調整したり、
高さ調整を省くためにヘッドシェルとカートリッジの間にスペーサーを挿んだり、という例もあるときく。

スタティックバランス型のトーンアームであれば、
ヘッドシェル込みの重量を調整すれば、針圧調整すら不要になる。
重量調整の、最初の手間さえ面倒と思わなければ、いいアイディアといえるかもしれない。

私にこういう発想はなかった。
私は気に入ったカートリッジを見つけたら、そのカートリッジを最適に調整するようにしていたし、
カートリッジをあれこれ交換することはやっていなかった。

ときにはまったく傾向の違うカートリッジで聴きたいという欲求はあったけれど、
それほど強いものではなく、結局交換することはほとんどなかった。

そんな使い手もいれば、LPのジャケットにカートリッジの型番をメモしている人もいる。
このLPにはこのカートリッジ、というふうに交換していく人である。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: デザイン

シャーシーからボディへ

chassis(シャーシー、シャシー)、
辞書には、自動車・電車などの車台、ラジオ・テレビなどのセットを取り付ける台と書いてある。
車台とは、車輪の上の,車体を支えている部分、とある。

オーディオでシャーシーといったら、アンプの場合、金属ケース全体のことを指す。
私もそう言ってきた。
けれど厳密には、アンプの場合、シャーシーと呼べるのは、
真空管アンプで、トランスや真空管がとりつけられている土台となる金属ケースのこととなる。

トランジスターアンプのような金属ケースは、厳密な意味でのシャーシーとは呼びにくい。
だからシャーシーと呼ぶのをやめよう、といいたいのではない。

車の場合、シャーシー(車台)があって、金属ボディがある。
アンプの場合、これまで四角い金属ケースばかりだったから、シャーシーと呼ぶことに抵抗はあまりなかった。

けれど、いまアンプの金属ケースは四角いモノばかりではなくなってきている。
金属加工の技術がすすみ、カーヴを描くモノが増えてきている。
高級(高額)なアンプ、CDプレーヤー、D/Aコンバーターでは、
むしろ直線よりも曲線の方が主流になりつつある。

すべてが成功しているとはいわないが、ひとついえるのは、
もうこれらをシャーシーと呼ぶよりも、ボディと呼んだ方がいいのかもしれない、ということだ。

シャーシーからボディへ、
この流れがよりはっきりとしていき、結実していくのか、楽しみである。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その11)

カラヤンは、古楽器について、ひからびた、しなびたといった表現をしている。
これはカラヤンが古楽器を全否定しているから、こういった表現になっているのであり、
古楽器には古楽器ならではの音のよさがあり、古楽器によるすべての演奏がそんな響きだとは思っていない。

それにそんな響きであっても、
人によっては、ストイックな響き、と受けとめる。
一方の、古楽器ではない響きを、堕落した響きと受けとめる人もいても不思議ではない。

古楽器の響きをストイックと受けとめる人は、
古楽器の響きが好きということであり、
オワゾリールやアルヒーフ、このふたつのレーベルの音が好んでいたききても、そうであるといえる。

けれど好きな音と嫌いな音も、また呼応していることを忘れてならない。
オワゾリール、アルヒーフの音を好んでいたききてには、苦手な音・嫌いな音があった。

苦手な音・嫌いな音は、誰にだってある。
私にも、それはある。

どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手である。
一部では、こういう音をエッジがはっきりしている音と評価しているようだが、決していい音ではない。

ただ、こういう音は悪い音であるわけだから、苦手・嫌い、というよりも、
こういう音を出してはいけないともいえる。
とすると、いまの私は、はっきりと苦手な音・嫌いな音は、他に思い浮ばないから、ないのかもしれない。

嫌いな音は好きな音と呼応しているのだから、
好きな音がはっきりとしている(そのため狭くなりがちでもある)からこそ、
嫌いな音も、またはっきりと存在している──、のではないだろうか。

オワゾリール、アルヒーフの音を好むききてをみていて感じていたのは、このことである。
彼は好きな音を追い求めていたのだろうか、
それとも嫌いな音を徹底的に排除していたのだろうか。