続「かたち」
このブログをはじめたばかりのころに書いたこと。
「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」
これまで「かたちが心にすすめる」の「すすめる」、薦める、奨める、勧める、だと思っていた。
それが間違っていたわけではないが、すすめるは進めるでもあることに、いまごろ気づいている。
たしかに心を進めてくれることがある。
このブログをはじめたばかりのころに書いたこと。
「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」
これまで「かたちが心にすすめる」の「すすめる」、薦める、奨める、勧める、だと思っていた。
それが間違っていたわけではないが、すすめるは進めるでもあることに、いまごろ気づいている。
たしかに心を進めてくれることがある。
音のカンヅメは、
クヮェトロ氏が胸のポケットのようなものからとり出したピカピカ光る箱のようなものと同じである。
われわれ人間にはまったく理解できない理論で、音を封じ込め(記録)、解放(再生)する。
ケーブルもいらない、電源もいらない。
つまり、そんな細かなことに悩まされることなく、
そして聴き手が何も苦労することなく、最上の記録と再生を手に入れられる。
おとぎ話のような、魔法のような、そんな箱(カンヅメ)で音楽を聴くようになったら、
私はどう思うのか。
そうなってしまったら、私でも「録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」とは思わなくなる、はずだ。
少なくとも「録音は未来」ということはいわなくなるような気がする。
私がなぜ「録音は未来」と考えるのかは、現在のオーディオのメカニズムと大いに関係している。
こんな複雑なシステムで聴いていて、つねにいい音で、と思いつづけているからこそ、「録音は未来」となる。
つまりオーディオマニアとして再生するからこそ、「録音は未来」であって、
魔法のような音のカンヅメから、何もしないで、いい音が鳴ってきたら、もう録音は未来ではなくなってしまう。
それはそれで素晴らしいとは思っても、そこにはオーディオマニアの私はもう存在しなくなる。
いままでとはまったく異る次元の理論が発見されて、
文字通りの音楽を封じ込める、いわゆる音のカンヅメが可能になったとしよう。
そのカンヅメのフタを開ければ、たちどころに音楽が部屋いっぱいに鳴り響く。
しかも、音量、スケール感を除けば、演奏会で聴いた音(聴ける音)がそのまま鳴っている。
同じような架空の話は瀬川先生書かれている。
「虚構世界の狩人」所収の「聴感だけを頼りに……」の冒頭がそうだ。
そこには「X星からUFOに乗っていま私の目の前に飛んできた、ミスター・クヮェトロ氏」が登場する。
クヮェトロ氏に、ステレオのメカニズムを電気的、物理的に説明する。
アナログディスクでもいい、コンパクトディスクでもいい、
どうやって音を記憶し音が鳴るのか、
プレーヤーの仕組み、アンプの仕組み、スピーカーの仕組みなどすべてを事細かに説明する。
これは大変なことだし、ていねいに説明しようとすればするほど、
われわれはいかに複雑な機構で録音し、それを再生しているのかをあらためて実感できる。
クヮェトロ氏は、長々とした説明をきくはめになる。
そして、瀬川先生はこう続けられている。
*
「というような次第なんですがね、クヮェトロさん。こういう仕掛のメカニズムで、たとえば私の声を録音・再生したら、いったいどの程度忠実に再現できると思いますか」
するとクヮェトロ氏、しばらく首をひねっていたが、やおら胸のポケットのあたりから何やらピカピカ光る箱のようなものをとり出した。(中略)
ところでそのピカピカ光る箱、だが、これもわれわれに身近な例でいえば小型の手帳か電卓ぐらいの大きさで、しかしこれまた見たこともない素材で、アルミニウムよりは深い光沢で、ステンレスよりは冷たく硬い材質のようで、しかし彼が何やらあちこち押したりしているのをみると金属にしてはエラスティックな感じがして何とも奇妙だか、しかし話はさっきの、私が地球上のステレオ録・再装置の話をして、それでたとえば私の声がどの程度の忠実さで再現できると思うか、と質問したところに戻る。
するとその箱をいじりまわしていたQ氏の手もとから、何と驚いたことに、いま長々と説明していた私の声が、気味悪いぐらいそっくりに再生されてきたではないか! そしてQ氏はニヤリと笑って言ったのである。
「もしかしてこの声よりももう少し忠実かもしれませんが、それにしてはお話の装置は複雑すぎますね」
*
地球に住む人類とはまったく異る知的生命体にとっては、
現在のオーディオのメカニズムは、あまりにも複雑で、滑稽なものにみえるのかもしれない。
われわれは、そういうシステムで、音楽を聴いている。
オーディオマニアは、録音されたものを聴く。
たまにライヴ放送を聴くことはあっても、ほぼすべて録音されたものを聴いている、といえる。
録音されたものは、最新録音のものであれ、数ヵ月から一年ほど前に録音されているわけで、
つまりは過去の演奏といえなくもない。
それに最新録音ばかりを聴いているわけではない。
もっと前に録音されたものも聴く。
十年前の録音、二十年前の録音、三十年前の録音……、
さらにもっと古い録音も聴く。そうなってくるとステレオ録音ではなくモノーラル録音になり、
モノーラル録音でもテープ録音もあればディスク録音もあり、
電気を使わなかったアクースティック録音の復刻まで聴いている。
そうなってくると百年ほど前の録音ということになる。
数ヵ月前の録音ですら過去というふうに捉えるのであれば、
五十年、百年近く前の録音となると、過去というより大昔というふうに捉える人がいても不思議ではない。
録音された音楽を、いまでもカンヅメ音楽と軽視する人がいる。
まるでナマのコンサートで演奏される音楽とはべつものであるかのように蔑視する。
そういう人は、こうもいう。
自分らはコンサートで、現在の音楽を聴いている、
オーディオマニア(に限らず録音物で聴く人)が聴いているのは、すべて過去の演奏だ、と。
たしかに録音された日時は、現在からすれば過去である。
数ヵ月前であろうと十年前であろうと過去である。
録音されたものも、過去といえるのだろうか。
グレン・グールドがたしかいっていた。
グールドの感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった、と。
音の世界、オーディオの世界では、美しさは移ろいやすさ、美しいは移ろいやすいのであるのなら、
幻想をそこに抱くのは、むしろ自然な行為なのかもしれない──、ともおもう。
幻想そのものをもってしまうこと、幻想に身をおくことも、
オーディオマニアとしての資質として必要なことなのかもしれない。
幻想があるからこそ理想もある、とはいえないだろうか。
私も幻想を、これまでもってきたことがある。
いまもなにがしかの幻想が、心のどこかにひそんでいるかもしれない。
幻想とはまったく無縁のオーディオをやってきているとは、いえない。
30年ほど前、永遠の価値をもつオーディオ機器について話し合い、考えていたことがある。
永遠とまでいかなくとも、永続する価値をもつオーディオ機器で、システムを構築したい、とさえ思っていた。
幻想は、和英辞書によれば、a fantasy (夢); an illusion (誤った希望); a vision (視覚的な)、とある。
使わずに保管しておけば新品のままであり続ける──、というのは、あきらかに an illusion だ。
誤った希望である。
なぜ人は、誤った希望を持ってしまうのか。
どこで、なぜ誤ってしまったのか。
そして、誤った希望に騙されてしまうことがあるのか。
オーディオマニアだから──、
これがその答なのかもしれない。
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に何も求めるのかは、読み手によって違う。
私のように、オーディオの読み物としての読み応えを期待する人もいるだろうし、
オーディオ機器の購入の参考としてステレオサウンドを購入する人もいるだろう。
それが雑誌であると私は思っているし、
同時にすべての読み手を満足させることはまずできない、といえよう。
私が読み応えを感じる内容のステレオサウンドがこれから先出て来たとしても、
オーディオ機器の購入のガイドブック的な読み方をしている人は、
私が読み応えを感じる記事は、ほとんど役に立たない記事ということにだってなる。
そういう人にとって、いまのステレオサウンドのベストバイは、
購入ガイドとしては役に立つ記事になるのかもしれない。
ここでもう一度考えたいのは、いまのステレオサウンドは、
ベストバイという企画をどう考えているのか、ということだ。
ベストバイが始まった35号は1975年に出ている。
すでに40年近く続いているだけに、オーディオというシステムの存在も、
時代に時代によって変化していっている面もあり、ベストバイということばの意味、
ベストバイという企画の意味も変化していっている。
CDプレーヤーは、そう遠くない将来なくなってしまうんじゃないか、といわれる。
そうかもしれない。
細々と残っていてくのかもしれない。
なくなってしまうと心配している人は、いまのうちに気に入ったCDプレーヤーを、
その時ための呼びとして確保しておかなければならない、という人もいるときく。
その気持、わからないわけではないが、
予備としてもう一台、CDプレーヤーを購入したとして、
その人は箱に入れたまま、その時がくるまで保管しておくのだろうか。
それともいま持っているCDプレーヤーと交互に使っていくのだろうか。
旧いアンプを使っている人は、そのアンプに使われているパーツ、
それも未使用品を故障した時のために保管している人がいる。
この気持もわかる。
けれどどちらの場合も、ただ保管しておくだけでは、CDプレーヤーもパーツも劣化していく。
元箱に入れたまま保管しておけば、外観はきれいなままだが、肝心の中身はどうか。
もちろん中身もきれいなままである。
きれいなままであれば、性能が劣化していないのであればいいのだが、そんなことはない。
使わずに保管していても、どんなものであれ劣化していく。
トランジスターも同じだ。
リード線のところから湿気が内部に入り込んでいく。
保管という点に関しては、実はトランジスター、半導体よりも真空管のほうが長持ちする。
この点に関しては半導体の技術者に確かめたことがある。
技術者もまった同じ意見だった。
ただ保管しておくだけだったら真空管のほうが、まだいい、と。
半導体は、特に古いトランジスターは湿気の影響を受けている場合がある。
もちろん、古い、製造中止になっているトランジスターのすべてがダメになっているわけではないが、
使わずに大事に保管しておけば、新品のままを維持できる、というのは幻想でしかない。
ノーノイズCDのティボーは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第三番で、
このディスクについては、岡先生はステレオサウンド 88号に、次のように書かれている。
*
興味ぶかくかつ、問題にもなりそうなのはティボーである。一部のふるいティボー・マニアのひとが、これはききなれたティボーの音じゃないといったという噂もきいたことがある。高域がわりとのびて、やや冷たい感じがする。それがイントネーションの感じまで変えているのだが、考えてみると、われわれがSPでききなれたティボーの音の艶というのは、ひょっとしたら、SP特有のサーフェイスノイズに変調されて生まれた味わいではなかったのではなかろうかとも考えたくなるのだ。筆者はティボーのナマはきいたことは勿論ないし、最晩年の久しぶりの録音で、彼のトーン自体も20〜30年代のそれとちがってしまっていたのかもしれないという気がする。それにしても、このシリーズでいちばん謎を感じたディスクであることはたしかであった。
*
ノーノイズCDで聴けるティボーの音は、たしかに聴きなれたティボーの音は違っていた。
私の場合SPでティボーを聴いた経験はなかった。
SPからLPへの復刻、CDへの復刻で聴いた経験しかなかったが、
それでもティボーの音の変化(変質といえるような気もする)は、感じとれた。
ノーノイズの処理技術が、この時点では完璧ではなく、
すべての録音に対して一定の効果が期待できるというようなものでもないことは、
このティボーのノーノイズCDを、他のノーノイズCDと比較するまでもなくいえることだが、
それでも他のノーノイズCDでの音の変化からすると、ティボーのノーノイズCDにおける音の変化は、
岡先生も指摘されているように、謎を感じる。
この時の私は、謎を感じながらも、それ以上考えることをしなかった。
このティボーのノーノイズCDの謎を思い出すのは、20年ほど経ってからである。
1980年代後半にフィリップスから登場したノーノイズCD。
非売品だったサンプラーには、リヒァルト・シュトラウス指揮のベートーヴェンの交響曲第五番が、
ノーノイズ処理前と処理後の両方が入っていた。
これで聴きくらべると、ノイズは明らかに減っていることが認められるし、
細部の明瞭になっていることもはっきりとわかる。
アナログでは到底不可能な信号処理技術だということも実感できる。
この時点でのノーノイズの処理技術が完璧とは思わなかったが、
これから先有望な技術として、より進歩していくだろう、と思えた。
ノーノイズCDを聴けば、ステレオサウンド 50号に長島先生が書かれた文章を思い出した人もいることだろう。
創刊50号記念の記事として、「2016年オーディオの旅」というタイトルの、ひとつの未来予測である。
この中に、フルトヴェングラーのベートーヴェンの第五交響曲を聴くシーンがある。
しかも、そこでのフルトヴェングラーの演奏は、2016年の最新録音のように、申し分ない音で鳴った、とある。
旧いモノーラル録音のフルトヴェングラーのベートーヴェンを、
ステレオに変換し、波形の修復が加えられた、いわば復刻盤ではなく修復盤が、2016年には登場している。
1987年、フィリップスのノーノイズCDのサンプラーを聴いて、
そこへの一歩を踏み出している、と実感できるレベルにはあった。
このとき聴いたノーノイズCDで意外であり、謎のようでもあり、
いま思えば問い掛けであったのが、ティボーだった。
the Review (in the past)の名称を、
the re:View (in the past)と変更しました。
URLは同じです。
日本の特撮において、巨大な生物(ゴジラやウルトラマンなど)やロボットが海中から現れたり、
海でのシーンでは、どうしても、そこでのゴジラやウルトラマンなどが、人の大きさということを隠しきれない。
そこに水があり、何ものかがいて動いていれば、波が発生する。
この波の大きさとそこでの何者かの大きさとを自然に比較して、
そこでの何者かの大きさを自動的に判断してしまうからである。
特撮の技術が進歩していっても、こればかりはどうにもならないことだと思っていた。
いまではコンピューターグラフィックスの進歩により、そんなことは感じなくなっている。
ゴジラにしろウルトラマンにしろ、他の実写のロボットにしろ、
街中でのミニチュアのジオラマによるシーンと水があるシーンとでは、
すべてのものが後者では縮小されてしまった感じが拭えない。
人は、何かによって、そこでの大きさを判断してしまうようだ。
その一方で、大きさを正しく判断できない写真に目にすることが何度かあった。
最近もあった。
おもに車の写真において、である。
実際の車の写真であるのに、非常に良く出来たミニカーを撮っている、とどうしても思えてしまうことがある。
人が一緒に写っていれば、そう感じることはもちろんないだが、
そうでないシーンでの撮影だと、どうしても実際の車のサイズがイメージできない写真がある。
なぜだろう、と思う。
2014年「ゴジラ」を観ていながら、つい1954年に「ゴジラ」を観た人たちは、
この2014年のハリウッド「ゴジラ」を観たら、どう感じるのだろうか──、ということをぼんふりと思っていた。
1954年の「ゴジラ」はモノクロ映画で、音声も映画と比較すると周波数レンジも狭く、
映画の音響としての効果もあまり期待できるものではなかったはず。
それにゴジラも着ぐるみによる演技で、ゴジラによって破壊される東京の街並もミニチュアである。
いまの映画の技術水準からすれば映像も音もずっと貧弱ということになるわけだが、
表現としては、必ずしも貧弱とはいえないところがあったからこそ、
60年後の現在、新たなゴジラが生み出されている。
2014年「ゴジラ」の咆哮に、感慨はなかった。
60年前、映画館でゴジラの咆哮を初めてきいた人たちは、どう感じていたのだろうか。
1954年と2014年は、何もかもが変っている。変りすぎているところもある。
1954年は1945年からまだ九年しか経っていない。
私は1963年生れだから、当時の雰囲気を肌で感じていたわけではない。
それでも、1945年から九年ということで、想像できることはある。
1954年の空気の中でのゴジラの咆哮は、何かを切り裂いていた、はずだと思う。
2014年の空気の中でのゴジラの咆哮は、何ものも切り裂いていなかった、切り裂けなかった。
私はそう感じている。
「オーディオマニアは、いつも装置をいじってばかりいる」。
こんなふうな厭味をいわれることがある。
確かにいじっている時間は短くない。
ステレオサウンドで働いていたころは、仕事でオーディオをいじっていて、
帰宅後、今度の自分のシステムをいじる、そんなことを飽きずによくやっていた。
いじっている時間は、ときには長いこともある。
私も20代のそんなころからすれば、あまりいじらなくなっている、ともいえるが、
それでも徹底的にいじることに集中する時期は、いまでもある。
そういう時期を過ぎれば、ほとんどいじることなく聴いているだけの時期が続き、
またしばらくすると、なにのかきっかけがあろうとなかろうと、いじる時期に移行する。
なぜ、オーディオマニアはいじるのか。
音を良くしたいから、ということになっている。
最近、ほんとうにそうだろうか、とも思うようになってきた。
何度か書いているように、オーディオ機器は劣化する。
どんなに大切に扱っていたとしても、劣化は絶対不可避の現象である。
このことを強く意識している、していないに関係なく、
オーディオマニアは、このことを感じているからこそ、
オーディオマニアでない人よりもいじる傾向にあるのではないか。
つまり音を悪くしないために、いじっている。
そう思ってしまうのは私だけだろうか。
もちろん私と正反対に、またこの人が書いている、よかった、と思う人もいることはわかる。
それでも、なんのために何人もの筆者がいるのか、ともいいたくなる。
人は勝手なものだから、私などは、書いている人が瀬川先生だったら、
まったくそういうことは思わないわけで、
また同じ人が書いている……、と思ってしまうのは、書き手として信用できない人であるからだ。
(これも私にとって信用できない人であって、逆に信用できるという読み手がいることはわかっている)
すべての読み手を満足させることは、一冊のステレオサウンドではできない、ともいえる。
だからこそ、毎年12月に発売になる号での特集、
ステレオサウンド・グランプリとベストバイがあるといえるし、私はそう受けとっている。
新製品紹介で、あるブランドについてほぼ毎回同じ人が書いている。
それを喜ぶ人もいれば、私のように感じる人もいる。
それでもベストバイで、そのオーディオ機器について他の人が書いていたらどうだろうか。
ベストバイで、43号、47号のやり方と同じように、
その機種をベストバイに選んだ人のコメントすべて読めるようになっていたら。
あるスピーカーシステムを五人の人が選んでいたら、五人のコメントが載っている。
だが残念ながら、いまのステレオサウンドのベストバイは59号でのやり方と基本的に同じで、
選んだ人全員が書いているわけではない。
一人ということはないが、何人かだけであり、ここでも前述した不満が残ることもある。
新製品紹介を担当していた人が、ベストバイのコメントも担当していたりする。
他に選んだいる人がいて、その人は書いていないにも関わらずだ。
読みたい人のコメントが載っていない。
私にとって、読み応えのある内容とは到底言えない。
ベストバイの記事として、ステレオサウンド 51号のやり方は、私はまったく評価しない。
けれど、ひとつだけ評価する、というか、
51号によって気づいたことがある、という意味で、51号のベストバイを完全否定するわけではない。
ステレオサウンドは雑誌である。
雑誌は、ひとりの筆者だけで成り立つものではない。
何人もの筆者がいるからこそ、雑誌は雑誌としての輝きを得ることができる。
何人もの筆者(書き手)がいるのは、だから理解できる。
これはいまだから理解できることではなく、高校生、中学生であってもわかることだ。
それでも、読み手の勝手な心情としては、私の場合は、できるだけ瀬川先生に書いてほしかったわけで、
それが望めないと頭ではわかっていても、どうしてもそう思ってしまう。
いまのステレオサウンドの筆者で、この人の書くものは読みたい、と思う人はいなくなった。
そんなステレオサウンドの読み手であっても、ステレオサウンドを手に取るたびに思うことがある。
なぜ、この人に書かせるのか、だ。
あるブランドから新製品が出る。
いまのステレオサウンドだと、本を手に取らなくとも、
このブランドのこの価格帯の新製品ならば、この人が担当して新製品紹介の記事を書いているだろう、と思うし、
たいていそれは外れることはない。
そういう時に、またか……、と思ってしまう。
また、この人が書いているのか……、と。
なぜ、この人に書かせるのか、は、そういう意味である。