Date: 8月 8th, 2014
Cate: ジャーナリズム,
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賞からの離脱(その39)

ベストバイの記事として、ステレオサウンド 51号のやり方は、私はまったく評価しない。
けれど、ひとつだけ評価する、というか、
51号によって気づいたことがある、という意味で、51号のベストバイを完全否定するわけではない。

ステレオサウンドは雑誌である。
雑誌は、ひとりの筆者だけで成り立つものではない。
何人もの筆者がいるからこそ、雑誌は雑誌としての輝きを得ることができる。

何人もの筆者(書き手)がいるのは、だから理解できる。
これはいまだから理解できることではなく、高校生、中学生であってもわかることだ。
それでも、読み手の勝手な心情としては、私の場合は、できるだけ瀬川先生に書いてほしかったわけで、
それが望めないと頭ではわかっていても、どうしてもそう思ってしまう。

いまのステレオサウンドの筆者で、この人の書くものは読みたい、と思う人はいなくなった。
そんなステレオサウンドの読み手であっても、ステレオサウンドを手に取るたびに思うことがある。

なぜ、この人に書かせるのか、だ。

あるブランドから新製品が出る。
いまのステレオサウンドだと、本を手に取らなくとも、
このブランドのこの価格帯の新製品ならば、この人が担当して新製品紹介の記事を書いているだろう、と思うし、
たいていそれは外れることはない。

そういう時に、またか……、と思ってしまう。
また、この人が書いているのか……、と。

なぜ、この人に書かせるのか、は、そういう意味である。

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