Archive for 12月, 2013

Date: 12月 5th, 2013
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その37)

1988年の夏ごろ、フィリップスからノーノイズCDが登場した。
一回目が15枚、二回目以降は8枚ほど発売になっていた。
クラシックを聴いていた人ならば、このうちの数枚は耳にされているかと思う。

ノーノイズ(NO NOISE)はフィリップスの登録商標で、
それまでのアナログによる信号処理では除去できなかったノイズを、
デジタル信号処理によって除去するものである。

このデジタルノイズリダクションシステムは、
アメリカのソニック・ソリューションズ(Sonic Solutions)によって開発されたもの。
具体的にどういうふうに処理をおこなっているのか、技術的なことを知りたい方は、
ラジオ技術1988年6号にくわしい記事が掲載されている。

ステレオサウンドでは、岡先生が88号に5ページにわたる記事を書かれている。

いまでは個人が所有するパソコンでも簡単に短時間で処理できることでも、
1988年当時の処理能力では、このノイズ除去処理は大変な作業であったことがわかる。

このノーノイズCDが登場したときはまだステレオサウンドにいたので、
試聴室で第一回新譜は聴くことができたし、
このノーノイズCDのサンプラーも、
そして特典として用意されていたR.シュトラウス指揮のベートーヴェンの第五交響曲も聴くことができた。

すべてではないが、いくつかのノーノイズCDは購入もしている。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その13)

ケーブルは原則として、同じケーブルであれば長いものよりも短い方が、音質的には有利といえる。
線間容量も短ければ小さくなるし、
直流抵抗、その他の要素にしても長いよりも短い方が有利であることは確かである。

それにずっと以前に比べていまでは外部からのノイズの混入という点からしても、
長いケーブルよりも短いケーブルの方が有利といえる。

ならば各オーディオ機器を最短距離で接続するのは、
音質的には有利と考えがちになる。

たとえばCDプレーヤーを聴き手の真ん前に置く、
コントロールアンプはCDプレーヤーの真後ろに置く、
パワーアンプはコントロールアンプの真後ろに置く。
つまり左右のスピーカーのセンターに、
CDプレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプが直線上に並ぶわけだ。

こうすればCDプレーヤーとコントロールアンプ、コントロールアンプとパワーアンプ、
パワーアンプとスピーカーシステム、それぞれを結ぶケーブルはもっとも短くてすむ。

使い勝手はよくない。
見た目もあまり芳しくない。
けれど音質優先の配置だ、と胸を張れるだろうか。

こういう設置も一度試して、その音を聴いておくことは、
やる気があればやってみた方がいい、と私はすすめる。
けれど、そのままで聴くことはすすめない。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その12)

何年前のことになるだろうか、
菅野先生が、強い口調で話されたことがあった。

「部屋の真ん中を大蛇のようなケーブルが這っているところの音がまともだったことはない」と。
細部まではっきりと記憶しているわけではないが、このようなことをいわれたのははっきりと憶えている。

菅野先生はステレオサウンドの企画、ベストオーディオファイル、レコード演奏家訪問で、
多くのオーディオマニアのリスニングルームを訪問されている。
それだけではない、他のオーディオ雑誌の企画でも訪問されているし、
記事にならない訪問も決して少なくないはずだ。

その菅野先生が断言されている。
菅野先生が断言されなくとも、私も、
私なりの体験(菅野先生にくらべると桁違いに少ないのだけれども)、
同じことは感じていた。

音質最優先ということで、
大蛇のようなスピーカーケーブルを併記で部屋の真ん中を這わせる人もいるし、
天井からぶら下げている人もいる。

こうした方が音がいいから、とその人たちはいう。
その人たちにいわせれば、こうした方が音がよかったのだから、
菅野先生が言われていること、私もそう感じていることには納得できない、となるだろう。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: audio wednesday

第36回audio sharing例会のお知らせ

1月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。
ほかの日に変えようかと考えましたが、喫茶茶会記が年中無休ということですので、
毎月第一水曜日ということを変えることなく、正月早々1日に行います。

時間はこれまでと同じ、夜7時の予定ですが、
6時からにするかもしれません。時間については今月末にもう一度お知らせします。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その11)

スピーカーケーブルやラインケーブルに、非常に高価なモノが登場しはじめたことと関係しているのか、
オーディオ雑誌に登場する人のリスニングルームで、
部屋の真ん中を太いケーブルが大蛇のように這っている写真をみかけるようになってきた。

同じケーブルを使っていても、どう這わせるのか、どこを這わせるのかによって音が変る。
だからもっとも音がいいとするところを這わせた結果が、
部屋の真ん中を大蛇が這うようになってしまった、ともいえるだろう。

私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室ではスピーカーケーブルを部屋の真ん中を這わせていた。
試聴室はいわば実験室ともいえるし、
試聴室で聴く行為は、あくまでも試聴であり、リスニングルームと同じように思う人もいるかもしれないが、
試聴室とリスニングルームは決して同一には語れない。

リスニングルームをリスニングルームとして、音楽を聴く場としておきたいのか、
それとも試聴室としておくことに、なんのためらいも感じないのか、によって、
ケーブルの這わせ方は違ってくるのではないのか。

リスニングルームを試聴室として使うことは、私にだってあった。
いわば実験的に試してみたいことがあって、一時的にそういう使い方をしていたわけだ。

あえて、普通ならばやらないことをやってみることは、時として必要だと思っている。
あえてのことをやってみて、わかることがやはりあるからだ。
でも、あえてのことを、そのままにしておくわけではない。
あくまでも、それは一時的なことであって、
それによって得られることを、その先にどう活かしていくのか、採り入れていくのかに、頭を使う。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その13)

メリディアンのM20は、好きなスピーカーのひとつである。
かなり心は動いた。
何度かステレオサウンドの試聴室で聴く機会があり、聴くたびに、買おうかなぁ、と思っていた。

M20の音、
それもメリディアンのCDプレーヤーとコントロールアンプで統一したときの音は、
私の好きな音を出してくれる。
しかも、その好きな音というのは、LS3/5Aに感じている魅力と同じ流れのものだから、
よけいに心が動いていた。

LS3/5Aに対する不満、
というよりもないものねだり、とでもいうべきか、願望として、
あとすこしスケールの豊かな音がしてくれれば、思わないわけではない。

メリディアンのM20は、その「あとすこし」というところを、
私にとってはうまい具合に満たしてくれていた。

LS3/5Aと M20の違い、
ユニット構成はすでに書いているように共通するところがある。
ウーファーがシングルかダブルかの違い、
エンクロージュアが密閉かバスレフかの違い、容積・プロポーションの違いなどがあり、
内蔵ネットワークかマルチアンプか、という違いもある。

これらのことが、どう音に関係してきて、LS3/5AとM20の音の違いとなってあらわれるのかは、
なんともいえない。

M20はLS3/5Aと共通する音色をもちながらも、LS3/5Aよりも安心して音楽を聴ける。
LS3/5Aの、少し神経質なところが、その魅力となっているわけだが、
そういうあやうい魅力はM20には感じなかった。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その7)

ステレオサウンド 50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏は、
すでに書いているようにアンプはマランツのペア。
アナログプレーヤーは、RCAのターンテーブルにカートリッジはオルトフォンのSPU-A、
トーンアームはRF297で、シーメンスのオイロダインを鳴らされている。

森氏は1970年代後半にステレオサウンドに「幻聴再生への誘い」という連載を書かれていて、
ご自身の装置については、そこで触れられている。

私なら、オイロダインには、伊藤先生のアンプを組み合わせたい。
この項のタイトルがいくら「妄想組合せの楽しみ」としているとはいえ、
伊藤先生のアンプは一般的な意味での市販品とはいえない。

伊藤先生のアンプを除くとなると、
ずいぶんと音の傾向は違ってくるけれど、やはりオイロダインと同じドイツのアンプ、
ノイマンのV69aをパワーアンプとしたい。
コントロールアンプは、同じノイマンのWV2、
アナログプレーヤーは、別項で書いているようにEMTの927Dst。

入口から出口まですべてドイツ製になってしまった。
しかもずいぶんと昔の機器ばかりでもある。

いかなる音が響いてくるのか想像がつく部分とそうでないところもある。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」は、こんな装置で一度でいいので聴いてみたい。
だが、この装置でカラヤンの「パルジファル」を聴きたいか、となると、
試しに一度は鳴らしてみたい、と興味半分で思わないわけではないが、
カラヤンの「パルジファル」を聴くとなると、まったく違うシステムを持ってこないと、
カラヤンの「パルジファル」の評価、というよりも、聴き方を、
間違うとまではいわないけれど、どこかズレたところで聴くことになりはしないだろうか。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その3)

ららぽーとがある船橋からいま住んでいる国立まで電車の時間は一時間半ほどある。
その間ぼんやりと思っていたことがある。

いまジョン・カルショウがいたら、この日私が体験した技術で、
21世紀の「ニーベルングの指環」を制作するのではなかろうか、と。

20世紀の「ニーベルングの指環」はショルティとの全曲録音だった。
音だけのものであっても、カルショウはさまざまなことを試みている。
そのすべてが、いま聴いても価値が変らない、とはいえないところはある。
やりすぎの感はたしかにある。

それでも当時、初の「ニーベルングの指環」の全曲盤である。
あれだけ長い作品を音だけのレコードで、聴き手に最後まで聴き通してもらうためのアイディアとしては、
成功しているといえるし、そこがまたいまではやりすぎとも感じてしまう。

とはいえカルショウ/ショルティによる「ニーベルングの指環」はおもしろいレコードである。
こういうレコードを、いまから50年以上前にカルショウはつくっている。
そのカルショウが、3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか。

ワーグナーの楽劇でも、
「ニーベルングの指環」の作曲の途中でつくられた「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、
「トリスタンとイゾルデ」は登場するのは人間だけなのに対して、
「ニーベルングの指環」ではそうではない。

そういう作品である「ニーベルングの指環」だけに、あれこれ夢想してしまっていた。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その6)

組合せを考えていく場合、とにもかくにもスピーカーを決めるところからすべてははじまる。
特に、このディスク(音楽)を聴きたいための組合せなのだから、
スピーカー以外のものからきめていくことは絶対にあり得ない。

カラヤンの「パルジファル」を聴くためのスピーカーとして、何を選ぶのか。
その前にクナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴くためのスピーカーとして、何を選ぶのか。

これに関してはすでに答は出ている。
古今東西数え切れないほどのスピーカーシステムが存在していたわけだが、
クナッパーツブッシュの「パルジファル」ということになれば、
シーメンスのオイロダインしか、私にはない。

オイロダインを2m×2mの平面バッフルに取り付けて、クナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴きたい。

オイロダインでクナッパーツブッシュの「パルジファル」というと、
古くからのステレオサウンドの読者の方ならば、
50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏を思い出されることだろう。

森氏はオイロダインをマランツのModel 7とModel 9で鳴らされていた。
森氏のリスニングルームに響いたクナッパーツブッシュの「パルジファル」について、
五味先生は書かれている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。
     *
「パルジファル」はいうまでもなくワーグナーの音楽である。
その「パルジファル」をクナッパーツブッシュが、バイロイト祝祭劇場で振っている演奏を聴くのに、
シーメンスのオイロダイン以外のスピーカーは、いったいなにがあるといえるだろうか。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その11)

チャートウェルのステビング、JBLのランシングとは、マーク・レヴィンソンは違っていた。
レヴィンソンは会社をつぶしたり、会社の再建のために自殺をすることなく、
最初に興した会社マークレビンソンを手放したものの、
その後、チェロ、レッドローズミュージック、そしていまダニエル・ヘルツを興している。

レヴィンソンが経営者として優れているのかどうかはこれだけではなんとも言い難いが、
少なくとも「機敏なビジネスマン」であったことは疑いようがない。

ランシングもステビングもエンジニアだった。
レヴィンソンはエンジニアとは呼べない。
だからレヴィンソンは「機敏なビジネスマン」であった(なれた)というわけでもないはず。

JBLにはアーノルド・ウォルフが、ランシング亡きあと、いた。
ウォルフはSG520、SA600、パラゴンなどのデザイナーであり、
のちに社長となっている。

ウォルフのような人がいるということは、
デザイナー(エンジニア)としての純度と、会社を経営していく才は、
ひとりの男の中で両立するものでもあり、
マークレビンソン時代のレヴィンソンが、
「練達の経営者の才能」をあらわしはじめていたからといって、
オーディオマニアとしての純度が失われつつあった、とは必ずしもならない。

たとえオーディオマニアとしての純度が失われていっていたとしても、
それは「練達の経営者の才能」をあらわしはじめたことと関係していることにはならない。
違うところに理由はあって、
たまたま「練達の経営者の才能」をあらわしはじめた時期と重なっていたのかもしれない。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: EXAKT, LINN

LINN EXAKTの登場の意味するところ(その8)

dbxの20/20が自動的にフラットに周波数特性を整えてくれても、
実際にそのまま音を出したところで、それで終りというわけではなく、
20/20が、いわば提示した音をベースにして、聴き手がさらに細かな調整を加えていく。

すべてを機械まかせなわけではない。

にも関わらず、粋がっていた私は、なんとなくではあったけれど、
20/20を無視するようなところがあった。

なにもかも自分の手でやらなければ、というのは、
マニアとして当り前のこととして受けとめられがちであり、
なにかオートマティックなものを使うものならば、マニアとしての濃度が薄まってしまうような、
そんな感じがどうもあるように感じてしまう。

それは既製品などを使っていては、マニアではない、という人と同じではないだろうか。
自作をやっているすべての人がそうではないことはわかっている。
でも、ごく少数ながら、自作こそがマニアとしての究極の手段であり、
それ以外はいわば妥協の産物とでもいいたがっている人がいないわけではない。

でも、そういう人でも、結局は部品という既製品を購入しているわけである。
トランジスターや真空管、抵抗やコンデンサーといった部品を購入している。
こういう部品を自作しているわけではない。

そこまで自作しているのであれば、ごく一部の自作マニアの主張にも説得力はあるけれど、
実際のところ、そんな人はどこにもいない。

どこかで誰かの手を借りているからこそ成立するのは、
なにもオーディオの世界だけではない。
ならば20/20の自動調整の力を借りて、あるところまで調整して、
それから先は自分の手で行うことは、何も恥じることではない。

Date: 12月 2nd, 2013
Cate: トランス

トランスから見るオーディオ(その24)

理想トランスが実在していたとする。

この理想トランスの二次側は開放(つまりなにも接続しない)の状態で、
一次側のインピーダンスはどういう値を示すか。

巻線比が1:1であっても、1:2であっても、1:10でも、
巻線比に関係なく無限大の値を示す、のが理想トランスというものである。

理想トランスの二次側に負荷を接続する。
負荷となる機器の入力インピーダンスが理想トランスの二次側をターミネイトすることになり、
この二次側の負荷の値と巻線比によって一次側のインピーダンスが測定できるようになる。

だが現実に存在しているトランスはすべて理想トランスとは呼べない。
二次側をターミネイトしなくても、開放した状態でも一次側のインピーダンスを測れば、
無限大ということは絶対にあり得ない。

実際のトランスはどんなに良質の材料を使って、
どれだけ注意をはらってつくっても、巻線の直流抵抗をゼロにはできないし、
インダクタンスを無限大にもできない。
コアの磁束密度にしても同様だ。

Date: 12月 2nd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その2)

映画が映し出されるスクリーンの大きさは無限大ではないから、縁がある。
縦と横にそれぞれが縁があるからこそ、映画は成立するものであり、
だが時としてその縁を観客に意識させないようにしたいと考えている制作者もいるのではないだろうか。

船は時にあるららぽーとの西館に新しくできた映画館(TOHOシネマズ ららぽーと船橋)、
私がスタートレックを観てきた劇場は500人ほどの大きさ。
都内にはこれよりも大きな劇場があるし、その劇場のスクリーンよりもサイズとしては小さくなる。

けれど縁を感じたか、ほとんど感じなかった、ということでいえば、
TOHOシネマズ ららぽーと船橋のスクリーンは、大きさ(縁)をさほど意識しなかった。

これが今回はじめて体験したドルビーアトモスがもたらしてくれたものなのかどうかは、
まだなんともいえない。
それでも無関係とは思えなかった。

TOHOシネマズは来年日本橋にもできる。
その後上野、新宿にもできる。
おそらくドルビーアトモスも導入されることだと思う。
そうなってくれれば船橋まででかけなくても、もう少し近くの劇場で体験できるようになる。

最近ではホームシアターを熱心に取り組んでいる人の中には、
映画館よりも自宅の方が音も映像もよい、と感じている人が増えているらしい。

確かに昨日のTOHOシネマズ ららぽーと船橋は質の高い映画館だったが、
それほどでもない映画館があるのも事実で、
ホームシアターのマニアが、映画館よりもよい、と思うのはわからないわけではない。

でも、別項で書いている現場(げんば)と現場(げんじょう)
音場(おんば)と音場(おんじょう)でいえば、
ドルビーアトモスが体験できた映画館は現場(げんじょう)である、とはっきりといえる。

Date: 12月 2nd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その8)

シノーポリによるマーラーは、当時賛否両論があったように記憶している。
私のまわりにも、どちらかといえば否定的な意見をもつ人がいたし、
そうかと思えば熱狂的に、といいたくなるほどシノーポリの演奏を支持する人もいた。

非常に興味深い、という意味では面白い演奏なのはわかるけれども、
それでも、ここまで……、という気持が多少なりとも湧いてきたことも事実だった。

否定的とまではいかなかったけれど、熱狂的に支持するともいかなかった。
つまり態度保留にしていた。

しかも、ここ十数年、シノーポリのマーラーは聴いていない。
いちどすべて聴いてみよう、とは思っている。
私も歳をとっているし、時代も変っている。
鳴らすスピーカーも変った。
いま、どう感じるかを知りたい、と思うからだ。

バーンスタインのマーラーとシノーポリのマーラー、
当時、このふたつのマーラーを聴いて漠然と感じていたのは、
解釈(interpretation)と分析(analysis)の違いと、その境界の曖昧さだった

クラシックを聴く人は、同じ曲を何人もの演奏家の録音で聴いている。
それはつまり聴いた演奏家の数だけの解釈を聴いているわけであり、
シノーポリのマーラーも、シノーポリの解釈であることはわかってはいる。
わかってはいるけれども、当時、シノーポリの演奏は解釈よりも、
分析的な面が色濃く感じられるような気がしていた。

Date: 12月 1st, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その1)

船橋に出かけて映画を観てきた。
船橋までの距離は約50km。その間にいくつもの映画館があるにも関わらず、
船橋まででかけていったのは、11月22日にオープンした船橋のららぽーとに出来た映画館が、その理由である。

Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館である。
いまのところここでしかドルビーアトモスは体験できない。
しかもスタートレックを二週間だけ、このドルビーアトモスで上映してくれるとあれば、
ちょうど午前中に船橋に用事が重なったこともあって、出かけて、いま帰ってきたところ。

ドルビーアトモスについてはリンク先を読んでいただくとして、
スタートレックを一本観ただけの感想ではあるが、
映画館の音響とはいえ、トーキーと呼ばれていた時代とは別種の音響であり、
映画館で映画を鑑賞するための音響から、映画を体験するための音響といえる。

こんな書き方をすると効果だけを狙った音響のように受けとめられるかもしれないが、
決してそこに留まっている音響ではなく、
エンディングで流れる音楽を聴いていても、いい印象だった。

そしてスタートレックは3D上映だった。
3D上映とドルビーアトモスの相性は、かなりいいのではないだろうか。
観ている途中で気づいたのは、
通常の上映よりもスクリーンの大きさを意識することがかなり少なかった、ということ。