Archive for 11月, 2013

Date: 11月 16th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(真空管アンプのレイアウト・その7)

街が機能するには、電気が必要であり、そのための電線が敷設される。
電力の供給だけでなく、上下水道もガスも電話線(いまでは光ファイバーか)も必要であり、
日本では電線、電話線は電柱を立てて地上に露出しているけれど、
地下にすべてを埋設もできる。

真空管アンプの内部、つまりワイアリングもそれらと同じである。
真空管のプレートにかかる高電圧の電源供給ライン、
ヒーター用の定電圧の電源供給ライン(交流であったり直流であったりする)、
それから信号ライン、アースラインなどワイアリングされている。

いつのころからか真空管アンプにもプリント基板が使われるようになり、
こういった見方をすることの無理なアンプも市販品には多い。
ワイアリングの巧拙、枝ぶりの美しさ、といったことをあれこれいう楽しみも、
いまどきの真空管アンプにはなくなりつつある。

伊藤先生のアンプには、あたりまえすぎることを書くが、
プリント基板はいっさい使われていない。
すべてベルデンのフックアップワイアーを使われている。
ラグ、ターミナルストリップを適所に配置して、部品を固定しながらひとつひとつワイアリングされている。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その10)

岡先生の「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」は、
Deliusをデリウスと安易に書いてしまうような人には、到底無理なサーヴィス精神といえよう。
Deliusをデリウスとしてしまう人のは、「あちこちにごろごろしているプラスティックのサーヴィス精神」であり、
どんなに彼がサーヴィス精神を発揮しようとも、
プラスチックのサーヴィス精神は「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」になることはない。

黒田先生は1981年の時点で、プラスチックのサーヴィス精神が「あちこちにごろごろしている」とされている。
いまは30年前よりも、もっともあちこちにごろごろしているのではないだろうか。

何をモってプラスチックのサーヴィス精神と判断するのか、
本物の、筋金入りのサーヴィス精神とするのか。
それは人によって異ることなどない、と思いたいのだが、
どうも実際にはそうでもないように感じることもある。

私がプラスチックのサーヴィス精神だと感じている人がいる。
その人の書いたものを信用することなど私にはまったくないけれど、
意外にも、その人が、いまオーディオ評論家と呼ばれている人の中で読者から信用されていることを、
インターネットでみかけたりすると、がっかりするではなく、
それは驚きであるし、理解できないことでもある。

いま「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」を持っている人、
つまりは「本物の、筋金入りのサーヴィス精神」を行うには、
調べられることは徹底的に調べる精神が必要であるわけだが、
そういう人がいるのだろうか。

いなくなったからこそ、
「あちこちにごろごろしているプラスチックのサーヴィス精神」によって書かれたものばかりになり、
そのプラスチックをガラスをみせかけようとしている人が信用されているのかもしれない。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その9)

Deliusをデリウスを書いてしまう人と違い、岡先生は調べられることは徹底的に調べる人である。
もっともDeliusをデリウスを書くようなことは、徹底的に調べなくとも少し調べるだけで避けられること。

徹底的に調べる、ということは、あるひとつのことについて調べていても、
それに附随・関連するいろいろなことを知り、またそれらについて調べていくことでもある。

そういう岡先生の本だからこそ、といえるところが「マイクログルーヴからデジタルへ」にはある。
これについて黒田先生はこう書かれている。
     *
 そしてもうひとつ、どうしても書いておかなければならないことがある。岡さんの、決して押しつけがましくならない、相手にそれと気どられることさえさけようとする、いかにも岡さんらしいサーヴィス精神である。サーヴィス精神という言葉は、昨今、ひどく安っぽくつかわれることが多いが、岡さんのサーヴィス精神は、あちこちにごろごろしているプラスティックのサーヴィス精神ではなく、本物の、筋金入りのサーヴィス精神である。
 岡さんの本の、ほとんどすべての偶数ページの下段に、さまざまなレコードのジャケット写真と、そのレコードについての二五〇字前後のコメントが印刷されている。たとえば、こんな具合にである──「ワイル《三文オペラ》ロッテ・レーニャ、他(米キャピトルP8117、1950年12月)この《三文オペラ》は1930年に映画化されたときのメンバーによる4枚組SPがオリジナル。のちに独テレフンケンが30cm片面にして出している。ジャケットの裏に3、500と値段が鉛筆で書いてある。昭和26年の輸入盤LPが当時の物価から見ればずいぶん高いものだったことを改めて思い出す。しかもこのレコードは両面で27分足らずしか入っていなかった」(同書、二二一ページ)。そして、そのページの本文では、当然のことに、そのレコードについても、ふれられている。
 読者は、本文を読みつつ、同時に、下段のジャケット写真をながめ、それにそえられたコメントに目を走らせて、いってみれば立体的なたのしみをあじわうことになる。まことに岡さんらしい、岡さんならではのサーヴィス精神の発露というべきではなかろうか。
     *
「マイクログルーヴからデジタルへ」の偶数ページの下段のレコード紹介は、
本文と同じくらいに楽しめる内容だった。
モノクロで、決して解像度の高い写真ではないけれど、ジャケット写真を見て、
それらのレコードを、ほぼすべて発売時に聴かれてきた岡先生のコメントは、
岡先生よりもずっと後の時代に生れ、いわば後追い体験している者(私)にとっては、興味深くもあった。

これに関しては読み手の世代によって違いがあろう。
黒田先生はこんなふうに書かれている。
     *
ああ、そういえばこういうレコードがあったと、過ぎた日に輸入レコード店の店頭でながめ、しかし買うことままならずながめるだけですまさざるをえなかったレコードを、そのジャケット写真は思い出させてくれる。
     *
黒田先生と私は27違う。
東京生れ東京育ちの黒田先生とは、この部分でも違うのだから。

Date: 11月 15th, 2013
Cate: VOXATIV

VOXATIV Ampeggio Signatureのこと(その3)

VOXATIV Ampeggio Signatureの音は、
ジャーマン・フィジックスのUnicornを2002年に聴いた時と同じように、もう一度聴きたくなっていた。
だから最終日にインターナショナルオーディオショウに行った。

Unicornのときは、取扱いのタイムロードのブースでは、一日中鳴っていた。
他のスピーカーシステムが鳴っていることはなく、
どの時間帯に行ってもUnicornの音が聴けたのはありがたかった。

VOXATIV Ampeggio Signatureを取り扱っているアークの場合、そうはいかなかった。
アークのブースではVOXATIV Ampeggio Signatureの他に、ソナス・ファベールのスピーカーシステム、
それからフランコ・セルブリンのスピーカーシステムが交互に鳴らされるのだから。

最終日、朝から会場に行くことができていれば、
二回聴く機会はあったのだが、会場着は午前中に用事があったために一時過ぎだった。
最終日は終了時間は他の日よりも二時間早い。
そんなこともあって二時からの回だけを聴いてきた。

アークはオーディオ評論家と呼ばれている人による音出しではなく、
アークのスタッフによる音出しであるから、
初日に聴いた時と同じディスクが鳴らされる可能性もあった。

それはそれでもいい。
とにかくVOXATIV Ampeggio Signatureの音を、もう一度聴いておきたかったのだから。

VOXATIV Ampeggio Signatureについての説明は初日のくり返しだった。
ディスクは数枚は同じだったが、違うディスクの方が多かった。
初日とは聴く位置をあえて変えてみた。

Date: 11月 15th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その9)

この項の(その6)で、バラコンについて書いた。
シスコン(システムコンポーネント)に対する言葉として、ある時期使われていた。

シスコンも決していい言葉ではないけれど、バラコンはシスコンよりもひどい。
こんな言葉は誰も使わないのがいい。
けれど、われわれわオーディオマニアがついやってしまっていることは、
フランケンシュタインが理想の人間をつくろうとして陥ってしまったのと、
ほぼ同じ立ち位置にいる、ともいえる。

バラコンという言葉は使いたくないけれど、
ほとんどのオーディオマニアが組合せにおいてやっていることは、
フランケンシュタイン・コンポーネントといえることである。

なぜフランケンシュタインは理想の人間をつくろうとして、怪物を生み出してしまったのか。
そんなことを考えていると、
今年のインターナショナルオーディオショウで見たあるメーカーの、あるオーディオ機器のことが浮んでくる。

このオーディオ機器がなんであるのか、その型番について書くのを少しためらっている。

このオーディオ機器が発表になった時、
インターネットに公開されていた写真を見た時、そのデザインにびっくりした。
いい意味でのびっくりではなかった。
だから、型番を書いていこう、とその時は思った。

ただ一応実物をきちんと見てからにしようと思い、
インターナショナルオーディオショウまで待っていた。

初日に見てきた。
写真で見るよりも、ずっと凝った細工がなされていて、仕上げも丁寧である。
なのに、なぜこんなデザインにしたのか、と考えてしまう。
この時までは、型番を書こう、と思っていた。

だがフランケンシュタインのことが思い出されて、躊躇うようになってしまった。

Date: 11月 15th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(真空管アンプのレイアウト・その6)

伊藤アンプでは出力管の周囲に小穴が開けられていることは書いた通りであり、
この小穴がなければ、伊藤アンプの印象はずいぶんと違ってたものになる。

ずいぶん以前、ラジオ技術から真空管アンプに関する別冊が出た。
そのなかで、ある人が伊藤アンプ、それも300Bシングルに似せた写真を載せていた。
誰が見てもそれは明らかなように伊藤アンプを真似ている。
けれど、そのアンプには放熱用の小穴がなかった。

その他にもこまかな寸法の違いもあったのかもしれないが、
小穴のある無しで、ここまで印象が変ってくるのか、を実感できた。

真似をするのであれば徹底的に真似をすればいいのに、
肝心なところを真似ていないというか、手を抜いているとでもいおうか、
とにかくのっぺりとした印象がそこには感じられた。

伊藤アンプではアルミの上にトランスや真空管などがレイアウトされているのは、
いわば街並の1ブロックをきりとったジオラマのようにも感じる。
そういう目で見ると、真空管が立ち並ぶ位置は、街における広場のようにも見えてくる。

トランスを建物だとすれば、真空管は木に見えなくもない。
木は地中に根を張っている。
伊藤アンプではアルミの下部が、地中にあたる。

真空管ソケットがアルミに取り付けられ、
その端子にはワイヤーや抵抗、コンデンサーなどのリード線がハンダ付けされている。

Date: 11月 14th, 2013
Cate: 瀬川冬樹

バターのサンドイッチ(瀬川冬樹氏のこと)

瀬川先生の三十三回忌法要のあとの雑談のときに、
黛健司さんから、バターのサンドイッチの話をきいた。

岩崎先生には、岩崎門下生といえる細谷信二氏、朝沼予史宏氏がいた。
瀬川先生に、黛さんがいる。
私は勝手に黛さんのことを、瀬川先生の一番弟子と呼んでいる。

黛さんは私がステレオサウンドで働くようになったころの編集次長だった人だ。
編集長は、現会長の原田勲氏だった。
いま黛さんはステレオサウンドに書かれている。

黛さんが瀬川先生の追っかけだったことは、誰からかきいて知っていた。
私より10年上で東京住い、瀬川先生の追っかけをやるには理想的だと、
すこしうらやましくなる。

そういう黛さんだけにステレオサウンドでは自然と瀬川番。
ずっと瀬川先生にはりついて原稿が書き上がるのを待つ仕事。

瀬川先生は夜中に書かれる、らしい。
書き始めると、ほんとうにすごい速さで書き上げられる。
それでも書き上がるのは朝になってしまう。

黛さんはでき上がった原稿をもってそのままステレオサウンドに向うわけだが、
その前に、瀬川先生が朝食をつくってくれたそうだ。

それがバターのサンドイッチである。

バターのサンドイッチ?
私も、最初そう思った。
バターを使ったサンドイッチではなく、
バターを薄くスライスして、バターだけをパンではさむ。
他は何も使わない。

バターは塗るものだ、という思い込みがある。
バターを塗ったパンと、どう違うのか。
塗るとはさむ。

材料はパンとバターだけ。
どこの家にでもたいていはあるものだし、どこにでも売っているもの。
そんなありふれたもの同士を組み合わせて、おいしいサンドイッチをつくる。
塗るのではなく薄くスライスしてはさむことで。

この話を黛さんからきいていて、
瀬川先生のオーディオの使いこなし、鳴らしこみの秘密・秘訣のようなものが、
ここにもあるように感じていた。

だから、バターのサンドイッチのことだけは、どうしても書いておきたかった。

Date: 11月 14th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(真空管アンプのレイアウト・その5)

伊藤アンプのシャーシーの厚みは5cm。
この5cmの鉄製のフレームの上にアルミの板がのり、
アルミに真空管、トランス、コンデンサーなどが取り付けられる。
アンプによっては入出力端子も、このアルミに取り付けられることがある。

トランス類は基本的に後方に、
トランスを背にして真空管が配置される。
出力管の周囲には放熱用のための小穴が開けられている。

ステレオアンプでは出力管の手前に電圧増幅管が配置される。
モノーラルアンプでは向って左側から電圧増幅管、出力管、整流管と並ぶ。

こうやって言葉にしてしまうと、他の人が作るアンプとそんなに大差ないようになってしまうが、
できあがったアンプの佇まいには大きな違いが生れてくる。

伊藤アンプにおけるトランスは、いわばビルといえる。
背の高いトランスは高いビル、低いトランスは低層のビル、
真空管はビルというイメージよりも、違うものの感じがする。

トランスとトランスのあいだはそれほど離されていない。
隙間はそれほどない。
だから、その隙間はビルとビルとの間を走る道路であり、
道路を後方から前方に向って走ってくれば、ぱっと目の前が開けてくる。

そこには真空管が立ち並んでいる。

Date: 11月 14th, 2013
Cate: ショウ雑感, 瀬川冬樹

2013年ショウ雑感(続・瀬川冬樹氏のこと)

私にとって、もっとも会いたかったオーディオ評論家は瀬川先生だった。

熊本には瀬川先生よりも先に、別のオーディオ店に長岡鉄男氏が来られたことがある。
それには行かなかった。
私が初めて行ったのは瀬川先生によるものだった。

瀬川先生による、いわば試聴会だけを高校生の時ずっと体験してきた。
つまり、私にとって瀬川先生のやり方がひとつの基準としてある。
そのことに、実はいまごろ気がついた。

なにも瀬川先生のやり方がすべてで、理想的だった、とはいわない。
オーディオ店、メーカーのショールームにおいて、理想的な条件が得られることはまずない。
いくつもの制約があるのが当り前で、
その制約を言い訳にすることなく、さらに時間という制約の中で、ひとつの音をきちんと聴かせてくれる。

そして、このことも重要なのだが、
瀬川先生はレコードのかけかえもカートリッジの上げ降しも、アンプのボリュウム操作も、
誰かにまかせることは一度もなくすべてやられていた。

だからこそ、見ているだけで学べることがいくつもあった。

それらのことが私の中にはある。
だからインターナショナルオーディオショウなどの催物での、
いまオーディオ評論家と呼ばれる人たちのやり方を見ていると、
無意識のうちに瀬川先生のやり方を基準としてみていたことに、いま気がついた。

そして、瀬川先生のやり方を見て知っている人も、
いまでは少なくなってきた、ということにも気がついた。

Date: 11月 13th, 2013
Cate: アナログディスク再生, ショウ雑感

2013年ショウ雑感(アナログディスク再生・その14)

アナログディスク再生に対して確固たるものを持っていない人の書いたものは、
読んでいて、すぐにそうだとわかる。

確固たるものが自分の確固たるものと同じでなくてもいい。
さらにいえば確固たるものが正しいのかどうかも、極端な話どうでもいい。

とにかく確固たるものを持った上での評価をしているのかどうか、
それは確固たるものを持っている読み手であれば、
それがどの人のことを指しているのかはすぐにわかるはずだから、
ここではその人の名前を出すことはしないし、ここでは個人攻撃はしたくはない。

それでもおかしなものを高く評価していたり、
その反対のことをやっていたりするのをみかけると、ついあれこれ思ってしまうし、言いたくなってしまう。

そんなことをやっている人が、私よりもずっと若い人で、
オーディオに関心を持ち始めた時はすでにCDが主流で、アナログディスクとの出合いはその後だった、
というのならば、仕方ないかもな、とは思いはするければ、
私よりも上の年齢の人で、いまもそういう人が野放しになっているのは、
どこに、誰に責任があるのだろうか……。

Date: 11月 13th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(池田圭氏の「音の夕映え」)

別項で池田圭氏の年齢を知りたくて、久しぶりに「音の夕映え」を取り出した。
奥付を見た。

そこに初版千五百部、再版千部、とあった。

「音の夕映え」の初版は1979年に出ている。
再版は1981年に出た。

1981年に「音の夕映え」を買った時に、奥付で、この数字は見ていた。
けれど、そのときはオーディオの書籍がどれだけの数が出るのかという知識はまったくなかった。
だから、ただ1500部と1000部、合せて2500部。私が持っている「音の夕映え」は2500分の1冊なのか、
ぐらいのことしか思っていなかった。

1979年はオーディオブームの全盛期は過ぎてはいたものの、
まだまだオーディオには勢いがあったように感じていた。
そのころ出た「音の夕映え」の初版が1500部なのか……、といまはおもう。

池田圭氏は、ステレオサウンドにもときおり書かれてはいても、
メインの筆者のではなかった。
とはいえ「音の夕映え」の初版1500部は少ない、と感じる。

「音の夕映え」は2500円である。
「音の夕映え」を手にとった人ならばわかるはずだが、
この本のつくりは池田圭氏のわがままをかなえている。

「音の夕映え」には、最新のオーディオ機器のことはほとんど出てこない。
そういう本だからこれだけの数しか売れなかったのだとしたら、
──なんだろう、いまのオーディオのある一面と重なってきて、
虚しさみたいなものを感じないではいられない。

Date: 11月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(真空管アンプのレイアウト・その4)

なにをもって「まともな」真空管アンプとするのか。

私の答は、伊藤先生のアンプということになる。

それではまったく何も説明していないのと同じじゃないか、といわれるだろうが、
それでも、これ以上こまかいことを書いていこうとは思っていない。

この私の答に納得がいかない人は、
とにかく伊藤先生のアンプの写真をじっくり見てほしい。
納得がいくまで見てほしい。

できれば実物を見てほしいところだが、
メーカーによって大量生産されたアンプではなく、伊藤先生ひとりの手によるアンプだから、
つくられたアンプの数もメーカー製と比べればずっと少ない。
けれど写真はインターネットの普及によって、以前と比較すればずっと多く見ることができる。

できればプロのカメラマンによる写真を見てほしい。
サウンドボーイに発表された伊藤アンプの写真は、由利賢次氏の撮影だった。
オーディオ雑誌に掲載された伊藤アンプの写真の中では、
由利氏による写真が圧倒的によい。

とにかく見る。
じーっと見る。それこそくたくたになるまで見ていれば、伊藤アンプが「まともな」理由が、
理屈としてではなく感覚的に感じられるはずだ。

Date: 11月 12th, 2013
Cate: アナログディスク再生, ショウ雑感

2013年ショウ雑感(アナログディスク再生・その13)

どんな人にでも、いわゆる粋がっていた時代はあるのではないか。
それがいつなのか、どのくらいだったのかは人によって違ってくるだろうし、
いまも粋がっていたいという人だっている。

そんな粋がっていた時には、定番のモノよりも、
エキセントリックだったり、エキゾティシズムのモノにより惹かれることがある。

私のように若いころからEMTの930stを欲しい、と思ってきた者は、
さしずめ定番のモノを使って、人よりもいい音を……、と考えているのだろう。
それでも定番とは対極に位置するモノに魅力を感じてこなかったわけではない。

むしろ定番の良さをしっかりと認識することで、
その対極にあるモノの魅力もよりはっきりとみえてくることだってある。
つまり定番を頭から拒否している人は、
エキゾティシズム、エキセントリックなモノに騙されてしまうこともあるような印象をもっている。

いま市場に出廻っているアナログディスク再生に関するオーディオ機器を眺めていると、
素晴らしいモノといっしょにどうにもこうにもおかしなモノがある。

そんなモノを高く評価する一部の人が、またいる。
そんな人の書く、アナログディスク再生に関するものを読むと、
この人にはアナログディスク再生に対しての、その人なりの基準がないように感じられる。

アナログディスク再生は、昨日今日のものではない。
長年続いてきているものであり、
私と同世代、そして私よりも上の世代の人はそれだけの時間、
アナログディスク再生に時間を割いてきているわけだ。

人はその中で、その人なりのアナログディスク再生とはこうあるべき、という考えを構築形成してきたはず。
そうやってつくられた基準によって、アナログディスク再生に必要なオーディオ機器を評価判断する。

それは人によって違ってくるところがあるし、ひとりの人の中でもこれだけ、というわけではない。
少なくともオーディオ雑誌で不特定多数の人にアナログディスク再生に関する文章を書く人ならば、
そういう基準をしっかりと持った上で評価判断してほしい、と思っている。

だが実際には一部の人は、あきらかにそれが感じられない。
おそらくないのだと思う。
だから、あきらかにおかしなモノを高く評価したりする。

Date: 11月 12th, 2013
Cate: アナログディスク再生, ショウ雑感

2013年ショウ雑感(アナログディスク再生・その12)

オルトフォンのSPU-GとSMEの3012-Rの組合せは、定番中の定番といえたかもしれない。
オルトフォンのRMG309よりも、SMEのロングアームの方がSPUと組み合わされることは多かったかもしれない。

SPUのように針圧が3g前後のカートリッジにはダイナミックバランス型のトーンアームが向く。
そういう思い込みにとらわれている人にとっては、
SMEの3012-Rはスタティックバランスということで関心を持たないかもしれない。

でもこの組合せは、ステレオサウンドの試聴室で何度聴いたのかは忘れてしまったほど聴いている。
私がいたころのステレオサウンドの試聴室にあったのは、SPU-Goldだった。

ほとんどのレコードを難なくトレースしてくれた。
トレースに不安を感じて調整をしなおした、ということは一度もない。
安心してさまざまなレコードをかけられる組合せだった。

定番同士の組合せだから、といえるだろうし、
そういうモノだから定番と呼ばれている、ともいえる。
定番と呼ばれているモノは、その多くがこういう良さを有している。

モノマニア的なところがないオーディオマニアはいないのかもしれない。
だから、人とは違うモノに魅力を感じてしまうのかもしれない。

誰もが使っている定番はできれば使いたくない。
そういう視線で目新しいモノを選んでしまうと、それは時としてエキセントリックだったり、
エキゾティシズムの魅力のモノだったりすることがある。

オーディオ機器には、昔からそういうモノが存在しているし、いまも存在している。
特に一部のアナログ関係のモノ、スピーカーシステムに見られる。

それらすべてがそうゆうわけではないが、中には以前書いているように欠陥スピーカーといいたくなるモノがある。

Date: 11月 12th, 2013
Cate: EXAKT, LINN

LINN EXAKTの登場の意味するところ(その6)

池田圭氏がぎりぎり明治の生れだったとしたら、1981年の時点で70歳ということになる。
70にして、dbxの20/20を試聴もすることなく購入されたことを、どう思うのか。

池田氏はウェスターン・エレクトリックの大型ホーンを中心としたシステムを組まれている。
アンプは真空管アンプ。
池田氏の著書、盤塵集(ラジオ技術社)、音の夕映え(ステレオサウンド)を読めば、
池田氏のオーディオの考え方がある程度は掴めるし、
どういう取り組み方をされているのかも伝わってくる。

あの歳で、こういうシステムを使っている人ならば……、
そんな紋切り型の捉え方をするのであれば、
20/20の導入は、何を血迷われたのか、ということになるだろうし、
先入観にとらわれずに何でも自分で試される人という見方からすれば、
20/20の導入は自然なこととしてうつる。

池田圭氏はステレオサウンド 61号に、
「僕のオーディオは僕のためになるからである。」と書かれている。

そういう池田氏だから、20/20をすんなり導入されたのだろう。