オリジナルとは(続×二十二・チャートウェルのLS3/5A)
マッキントッシュの音やデザインの魅力については、いまさら私が、ましてこの特集号で改めて書くことはあるまい。要するにそれほど感心したマッキントッシュを、しかし私は一度も自家用にしようと思ったことがない。私は、欲しいと思ったら待つことのできない人間だ。そして、かつてはマランツやJBLのアンプを、今ではマーク・レヴィンソンとSAEを、借金しながら買ってしまった。それなのにマッキントッシュだけは、自分で買わない。それでいて、実物を眺めるたびに、なんて美しい製品だろうと感心し、その音の豊潤で深い味わいに感心させられる。でも買わない。なぜなのだろう。おそらく、マッキントッシュの製品のどこかに、自分と体質の合わない何か、を感じているからだ。どうも私自身の中に、豊かさとかゴージャスな感じを、素直に受け入れにくい体質があるかららしい。この贅を尽した、物量を惜しまず最上のものを作るアメリカの製品の中に、私はどこか成金趣味的な要素を臭ぎとってしまうのだ。そしてもうひとつ、新しもの好きの私は、マッキントッシュの音の中に、ひとつの完成された世界、もうこれ以上発展の余地のない保守の世界を聴きとってしまうのだ。これから十年、二十年を経ても、この音はおそらく、ある時期に完結したもの凄い世界ということで立派に評価されるにちがいない。時の経過に負けることのない完結した世界が、マッキントッシュの音だと思う。
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「自分の体質と合わない何か」を、瀬川先生はマッキントッシュのアンプの音のうちに感じられている。
この文章は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュの号に書かれたもの。
1976年のことである。
このころのマッキントッシュのアンプは、コントロールアンプはC26、C28、
パワーアンプはMC2105、MC2300の時代である。
このころのマッキントッシュのアンプについては、ステレオサウンド 52号で書かれている。
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かつてC22とMC275の組合せの時代にしびれるほどの思いを体験したにもかかわらず、マッキントッシュの音は、ついにわたくしの装置の中に入ってこなかった。その理由はいまも書いたように、永いあいだ、音の豊かさという面にわたくしが重点を置かなかったからだ。そしてマッキントッシュはトランジスター化され、C26、C28やMC2105の時代に入ってみると、マッキントッシュの音質に本質的に共感を持てないわたくしにさえ、マッキントッシュの音は管球時代のほうがいっそ徹底していてよかったように思われて、すますま自家用として考える機会を持たないまま、やがてレビンソンやSAEの出現以後は、トランジスター式のマッキントッシュの音がよけいに古めかしく思われて、ありていにいえば積極的に敬遠する音、のほうに入ってしまった。
MC2205が発売されるころのマッキントッシュは、外観のデザインにさえ、かつてのあの豊潤そのもののようなリッチな線からむしろ、メーターまわりやツマミのエッジを強いフチで囲んだ、アクの強い形になって、やがてC32が発売されるに及んで、その音もまたひどくアクの強いこってりした味わいに思えて、とうていわたくしと縁のない音だと決めつけてしまった。
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このころのマッキントッシュのアンプの音ほどではないにせよ、
マッキントッシュのアンプの音は、瀬川先生の体質とは合わない「何か」を特徴としていた。
そういうマッキントッシュのアンプで、
これまた瀬川先生の耳を聴くに耐えないほど圧迫したアルテックの612Aを鳴らして、
とても好きなエリカ・ケートの歌声の美しさが、瀬川先生の耳の底に焼きついている、ということは、
どういうことなのか。
もしマランツのModel 7とModel 8BもしくはModel 9で612Aを鳴らされていたら……、
そう考えてみることで、浮びあがってくることがある。