Archive for 11月, 2012

Date: 11月 25th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その7)

スペンドールのD40は、
スペンドールの設立者であるスペンサー・ヒューズの息子、デレク・ヒューズの設計となっている。

スペンドールのスピーカーシステムの型番は、
たとえばBCシリーズは、
ウーファーの振動板のベクストレンとトゥイーターに採用されているセレッションを表しているし、
小型のSA1は、
自社製のウーファーとフランス・オーダックス製のトゥイーターを採用していることからつけられている。

そういう型番のつけ方をしているスペンドールだから、
D40のDは、デレク・ヒューズの設計を表している、と考えていいはず。

D40はコンパクトなプリメインアンプで、
機能も最小限度のものしかついていない。
入力セレクター、バランサー、レベルコントロールだけ。
外形寸法はW33.2×H9.6×D22.3cm、重量は6kg。
出力は型番からわかるように40W+40W。

回路についての技術的な説明はなにもない。

D40についての製品解説をしようと思っても、あまり書くことが見当たらない、
そういうプリメインアンプである。

けれど、このD40は、スペンドールのスピーカーシステムと組み合わせたとき、
なぜ、こんなつくりのアンプなのに、と思いたくなるほどの音を聴かせてくれる。

私はいちどだけBCIIとの組合せで聴いたことがある。
D40よりも物量を投入したプリメインアンプ、セパレートアンプのいくつかでBCIIを聴いたことはある。
そのどれよりも、D40で鳴らしたときに、BCIIは、こういう音も鳴らせるのか、という驚きがあった。

Date: 11月 25th, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その17)

編集部の人たちは、自分たちがつくっているのはオーディオ専門誌、と思っているのかもしれない。
オーディオ専門誌とまではいかなくても、オーディオ誌をつくっているのであり、
オーディオ雑誌と呼ばれることに抵抗や嫌悪感をもつ人もいることだと思う。

私だって、ステレオサウンドにいたころはオーディオ専門誌だとステレオサウンドのことを思っていたし、
オーディオ専門誌をつくっているつもりでいた。

でも、いまはよほどのことがなければ私はオーディオ専門誌という言葉は使わないし、
あえてオーディオ雑誌、と書くようにしている。
これは嫌味で、そう書くようにしているわけではない。

雑誌と書いてしまうと、雑という漢字が使われているため、
専門誌と表記されるよりも、一段低いレベルの本という印象になってしまいがちである。

けれど、雑誌とは別に雑につくられた本、という意味ではない。
雑誌だから、雑につくっていいわけでもない。

雑の異体字は、襍、旧字は雜(これは人名漢字としても使える)、
同じ系統の漢字として緝だ、と辞書には書いてある。

雑誌と書いてしまうから、なにか低いものとして捉えてしまいがちになるが、
異体字、旧字、同系統の漢字をあてはめてみると、雑誌という言葉が意味するところが見えてくる。

オーディオ襍誌、オーディオ雜誌である。
どちらも「おーでぃおざっし」と読む。

緝は、ザツと読むことはできないけれど、
この緝が、編集につながっていることがわかる。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その5)

ステレオサウンド 48号の表紙は、EMTの930stを真上から撮っている。
これを見るたびに、プレーヤーシステムとは、930stのことをいうものだと思っていた。

930stが高い評価を得ているのも、ステレオサウンド 48号の表紙を見れば、すぐに納得がいく。
48号は1978年発行、私はまだ15歳、930stは115万円だった。

その3年後、3012-Rを購入したときでも、アナログプレーヤーに100万円を出すことはできなかった。
9万円弱の3012-Rだって、分割払いでなんとか買っていたのだから。

それでも48号の930stの姿は、強烈だった。
930stの写真はそれ以前にも何度も見ている。
でも、48号の表紙(安齊吉三郎氏の撮影)ほど、
930stの、プレーヤーシステムとしての完成度の高さを伝えてくれる写真はなかった。

実は、いまもこれを書きながら、ステレオサウンド 48号の表紙を横目で見ている。
いい写真であり、いいプレーヤーシステムだ、と改めて実感している。

930stよりも音の点で上をいくプレーヤーはいくつかある。
でも、それらはプレーヤーシステムとして930stの上にある、とはいえないプレーヤーである。

世の中にアナログプレーヤーは、それこそ無数といっていいほどある。
けれどプレーヤーシステムとほんとうに呼べるアナログプレーヤーとなると、
その数はほんとうに少ない。しかも優れたプレーヤーシステムとなると、さらに少なくなる。

3012-Rとともに使うターンテーブル選びに悩んでいたときに気づかされたのは、
私が求めているのはプレーヤーシステムであり、
そのころの私には単体のターンテーブル、トーンアームを買ってきて、
キャビネットを自分で考え作り、プレーヤーシステムとしてまとめあげるだけのものは持っていなかった、
ということである。

そしてアナログプレーヤーのデザインは、
オーディオ機器のなかでもっとも難しいのではないか、と感じていた。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その4)

別項「使いこなしのこと」のところで、
SMEの3012-Rに見合うターンテーブル選びであれこれ迷ったことを書いている。

ガラードの401、301も候補として考えていた。
でも3012-Rはロングアームで、そうなるとプレーヤーキャビネットは、それなりの大きさになる。
するとどうにも3012-Rにしても301、401にしても単体で眺めているときに感じたデザインの良さが、
色褪せてしまう。

401と3012-R(301と3012-R)の組合せを、
プレーヤーシステムとしてうまくまとめあげることが、当時の私にはなかった。

いまなら、当時よりはずっとうまくまとめる自信はある。
あるけれど、それでもプレーヤーシステムとして優れたデザインでまとめられるかというと、
実際の使用面でのいくつかの問題をどう解消するかを含めて、満足できる答を見つけてはいない。

あのころはプレーヤーキャビネットの自作記事も、オーディオ雑誌には載っていた。
オーディオマニアの訪問記でもガラードが登場することはあって、
どんなキャビネットにおさめられているのかを見る機会もあった。
ステレオサウンド 48号でのアナログプレーヤーのブラインドテストにガラード301が登場している。
トーンアームはフィデリティ・リサーチのFR66S。

ロングアームだから、この組合せは、3012-Rとのターンテーブル選びのときに実物を見てみたい、
と思っていたら、あっさり見ることができた。
ステレオサウンドで働いていたおかげである。

丁寧につくられていたキャビネットだった。
それでも全体として、プレーヤーシステムとしてのまとまりに満足できなかった。
それに大きい。個人的にどうしても許せない大きさになってしまうことが、
ガラードを結局選ばなかったいちばんの理由である。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: iPod

「ラジカセのデザイン!」(続々続々・余談)

いまでこそ変っているけれど、
以前のJBLのレベルコントロールは連続可変で、巻線型を使っていた。
レベルコントロールのツマミをまわすと、巻線の上を擦っている感触が指先に伝わってくる。

JBLのユニットには能率の誤差がわずかとはいえあることは、以前別項で書いた通りだ。
それに実際のリスニングルームに設置されれば、左右の条件がまったく同一であることはあまりないから、
レベルコントロールを微調整することが聴き手に要求される。

はじめは少し大きくレベルコントロールを動かし、少しずつその範囲を狭めていく──、
そうやって微調整の範囲にまでくると、ほんのわずかの差で音のピントが合いもするし、ズレもする。

正直、もう少し精度の高い信頼性も高いアッテネーターを使ってほしい、と思う。
けれどそんなことをいってもしかたない。ついているのは、そんな,いわばヤクザな巻線型のモノだから。

そんなレベルコントロールだから、微妙な調整をしていくのも、
JBLのスピーカーシステムを鳴らしていく面白さでもあり、
そうやってベストと思える位置をさぐり出せたら、もう動かしたくはない。

4411も4311も、巻線型のレベルコントロールだった(はず)。
だから、その意味では微調整を加えたら、動かしたくはない──、
そういう使い方もある。

でも、ここでの組合せで私が求めているのは、ラジカセ的な使い方ができる組合せであり、
ラジカセで音楽を聴いていたときのような聴き方で楽しみたいから、なので、
細かく微調整をしていき、あるポジションをさぐり出すのではなく、
積極的に、最適ポジションなどまったく気にせずにレベルコントロールを動かす、
そういう楽しみ方をしたい。

それにはサランネットをつけてしまうとレベルコントロールが隠れてしまうスピーカーよりも、
4411、4311のようにレベルコントロールはつねに表に出ているスピーカーが,使い良い。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その3)

ガラードの401でプレーヤーシステムを組んだとしても、それほど高価になるわけではない。
当時10数万円で購入できるプレーヤーシステムよりも、音については満足のいくものになったといえる。

でも、私は不満があった。
価格や音のことではなく、プレーヤーシステムとしてのデザインのことで不満があった。

当時国内メーカーから出ていたプレーヤーシステムのデザインがどれも優れていたとはいわない。
でも、まだまとまりは感じられた。
ガラードの401を、当時はプレーヤーキャビネットも数社から発売されていたから、
それらを組み合わせればプレーヤーキャビネットを自作する必要はなく、
401をプレーヤーシステムとまとめられた。

けれど、でもプレーヤーシステムとしてのまとまりがよくない。
プレーヤーキャビネットほぼ中心に401があります、その右側にトーンアームがあります、
そんなただ指定された位置にそれぞれのパーツが配置されているだけ、
といった印象を拭えない、バラバラ感があった。

その点、ターンテーブル単体を発売していたテクニクス、ビクター、デンオンなどは、
専用キャビネットを用意していて、それが音質的にもっとも優れていたかはおいておくとしても、
専用キャビネットに取り付けた状態でのおさまりの良さは、まだあった。

ガラードの401のデザインは、どうしても旧型の301と比較して語られることが多く、
301の評価のほうが高い、といえる。

401は301とくらべると、造りが安っぽく感じられるところがある。
それが気になるといえば気になってしまうのだが、401のデザインは悪くないどころか、
いいデザインだと思うし、301と401、どちらが欲しいかとなると、401を私はとる。

でも、それでどういうプレーヤーシステムとしてまとめるかとなると、難しい。
401でも、301でも難しい。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その6)

300Bのアンプのことについては何度か書いてきている。
そのたびに、具体的な300Bのアンプについて書けないもどかしさを感じている。
市販品でなんとかおすすめできる300Bアンプがあれば、そのアンプを例にとって話をしていけるのに……、
というもどかしさがある。

300Bという真空管の名称は、真空管にさほど興味のない方でも、
いちど聞いたことのある、そういう誰もが名前だけは知っている真空管である。
なのに、そのもっとも有名な真空管を使ったアンプの音について、
なんらかの共通認識があるのかといえば、ないとしかいいようがない。

ウェスターン・エレクトリックの、ほんとうの300Bは格別の球であることは断言できる。
だからといって、ほんとうの300Bを出力段に使ったからといって、
それだけでどんなアンプでも、格段の音になるわけではない。

それでも300Bのアンプということが語られ謳われ、私も300Bのシングルアンプという表現を使う。
けれど、それは、おそらくみな違う音のことでもある。
伊藤アンプにかわる標準原器ともいえる300Bのアンプが登場してほしい、と、
300Bという言葉を、ここで書く度に思っている。

300Bのシングルアンプよりも、まだ多くの人が聴いているアンプ、
それも市販されたことのあるアンプで思い出したのがひとつある。
スペンドールのプリメインアンプのD40である。

同じイギリスのスピーカーメーカーであるロジャースのアンプは知っているけれど、
スペンドールもアンプを作っていたの? と思われる方は少なくないだろう。
D40も決して多く売れたアンプではない。

でもスピーカーとパワーアンプの関係について、
パワーアンプに求められる姿について考えていくうえで、
D40はもっとも好適である。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その5)

スピーカーのことについて書いていくのが、パワーアンプのことについて書いている。
もう少しパワーアンプのことにつきあっていただきたい。

パワーアンプの理想とはどういうことなのか。
いかなるスピーカーシステムであろうと鳴らしきることのできるパワーアンプを優秀なパワーアンプということで、
この項を書いてきている。
けれど、その優秀なパワーアンプでは鳴らせない音を、
300Bのシングルアンプのように、優秀なアンプの定義にはおさまらないアンプが聴かせることが、
オーディオには往々にしてある。

300Bのシングルアンプといっても、市販品に推められるアンプがあるからといえば、
そうとうに妥協しても、ない、といわざるをえない。
シングルアンプが無理なら、300Bのプッシュプルアンプでは──、
やはり、ない。
海外のメーカーからも300Bのプッシュプルアンプは出ているけれど、
あのアンプの写真を見たとき、なんというデザインなんだろう……、とひどくがっかりしたものだ。
仕上げはたしかに丁寧であっても、はっきりいってひどいデザインといえる。

でもオーディオ雑誌を読むと、デザインのことで褒めている人が何人かいる。
なんなのだろうか……、と思う。
これがブランド・イメージなのか、とも思う。

音に関しては、特になにもいわないけれど、あのデザインに関してだけは、あれこれいいたくなる。
いいたいことがありすぎる。
書き始めると、それだけでけっこうな文量になってしまうし、
書く方も読まれる方も気持のいいものではないから、具体的にはあれこれ書きはしないものの、
あのアンプのデザインを褒める人の音質評価は、私はもう信じないことにしている。

オーディオ雑誌で書いている人たちは、書きにくいことがあるのは読む方だって承知している。
だからデザインについて悪く書くことができなければ、
デザインについては触れなければいいわけで、それをあえて触れて褒めているということは、
その人は、あのアンプのデザインがいいと思っていることになる。
読者はそう受けとめるだろう。私はそう受けとめた。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: iPod

「ラジカセのデザイン!」(続々続・余談)

本棚にブックシェルフ型スピーカーをおさめてしまうと、
スピーカーの細かな調整はほとんど行えなくなる。

スタンドに乗せ、縦置き型のブックシェルフ型であれば、置き場所、スピーカーの角度など、
調整できる要素はそれこそいくつもある。
それらが、本棚にいれれば、ほとんどなくなってしまう。

とはいえ、いい音で聴くことを放棄してしまうのではない。
非常に限られた条件のもとで、気楽に、いい音を聴きたい、と思う気持があるから、
こんなことを妄想して、飽きもせず書いているわけだ。

本棚におさめ、4411のまわりに本を収めていくことで、
スタンドに乗せてフリースタンディングに近い状態で鳴らすのとくらべて低域のレスポンスには大きな違いが生じる。
それにスピーカーの調整としてできる大きなことといえば、トゥイーター、スコーカーを内側に配置するか、
それとも外側に配置するか、ぐらいしかない。

本棚の大きさ(幅)によるけれど、
おそらく私はトゥイーター、スコーカーを外側に配置する方を選ぶような気がする。

この状態で4411の音を鳴らすとき、レベルコントロールを軸上周波数特性フラットのポジションか、
エネルギーレスポンス・フラットのポジションにするかは、あえてどちらかに決めてしまうのではなく、
聴く曲、そのときの気分によって、大胆にいじっていきたい。

4411のサランネットが覆うのはスピーカーユニットだけであり、
レベルコントロールパネルはつねにいじれるようになっている。
これはJBLが、好きにいじっていい、といっているものと受けとめたい。

JBLからはこれまでに多くのスピーカーシステムが発売されてきているが、
サランネットをつけた状態でレベルコントロールをいじれるモノはわずかである。

この4411の他は、4311ぐらいではなかろうか。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その2)

人は生れてくる時代を選べないから、生れてきた時代をいい時代と思うようになっているのかもしれない。
そう思い込みたいのかもしれない。

たとえそうであってもアナログディスク再生ということに関していえば、
私が生れた時代(1963年)は、まだよかった、といえる。

いくつもの製品、いくつもの試みを実際にみて触れて、聴くことができたからだ。
じつにいろんなアナログプレーヤーがあった、と振り返って思う。

私がオーディオに関心をもちはじめて、ステレオサウンドを読みはじめたころ(1976年)は、
アナログプレーヤーはダイレクトドライヴ型が全盛の時だった。
それでも、ベルトドライヴ型のトーレンスのTD125、リンのLP12、デュアルの124、エンパイア698があったし、
アイドラー型も、EMT・930st、927Dstがまだ現役だったし、ガラードの401もまだ残っていた。

数は少なかったけれど、これらのプレーヤーが現役だったのは、
性能面ではダイレクトドライヴ型には及ばないものの、音質面ではそうでなかったからである。

ガラードの401については、瀬川先生がステレオサウンド 43号で、こんなことを書かれている。
     *
ワフ・フラッターなど、最近の国産DDと比較すると極めて悪いかに(数値上は)みえる。キャビネットの質量をできるだけ増して、取付けに工夫しないとゴロも出る。
     *
ダイレクトドライヴ型ならばゴロなんて発生する製品は皆無である。
なのにガラード401はターンテーブル単体で49800円(これだけ出せば国産のプレーヤーシステムが購入できた)。
これをキャビネットに取付けて、しかも専用キャビネットは販売されていなかったから、
自分で設計し作るか、市販のプレーヤーキャビネットを買ってこなければならない。
それにトーンアームも当然必要で、そうすると100000円は軽くこえてしまう。

それでもゴロの発生を完璧に抑えられるかどうかは保証されないのだ。
そんなターンテーブルである401が、ベストバイとして選ばれている。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その8)

バックハウスは、もういない。
バックハウス的といえるピアニストも、いま誰かいるかと考えても、すぐには思い浮ばない。

バックハウスのピアノ演奏がすべてではないし、
時代によって新しいピアニストが登場してくる。

同じピアニストはひとりもいないのだから、それは当然すぎることであり、
時代によって録音技術も変化・進歩していく。
演奏スタイルも、すくなくとも録音される演奏においては、
録音技術の変化・進歩とはまったく無関係でいることは無理なのかもしれない。

一度録音された演奏は、ずっと残っていく。
バックハウスの演奏も残っていくし、その他のピアニストの演奏も残っていく。
同じ演奏は、だから時代が求めていない、ともいえるのかもしれない。

時代はくり返す、ともいわれる。
だから、またバックハウス的なピアニストが登場するのかもしれない。
私は登場しないように思っている。

人がいちどに聴ける演奏は、ひとつだけである。
バックハウスのベートーヴェンを聴きながら、別の誰かのピアニストの演奏でバッハを聴く、ということは、
ただ鳴らしておくだけなら可能でも、実際にはできない。

人の時間は限られていて、録音されていくものは増えていく。
個人のコレクションも増えていく。

新しいものが登場していく陰で、注目されなくなるものも出てくる。
スピーカーの音も同じである。

技術が変化・進歩していくことで、それまでのスピーカーでは出し得なかった音が聴けるようになってきている。
だからといって、それまで聴けていた音がすべて出た上で、新しい音がそこに築かれているわけではない。
残念なことに、技術がまだまだ未完成・未熟なこともあり、何かを得れば何かを失っていく。

失うものが少なく、得るものが多ければ、それは進歩と呼ばれるのだろうが、
わずかでも失われるもののなかに、その人にとって大切なものが含まれていれば、
いくら得るものが多かろうと、それは進歩とはいえなくなる。

バックハウスの「最後の演奏会」は私に、
失われていく音、忘れられていく音がある、ということを考えさせる。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その7)

練馬区役所での、五味先生が生前愛用されていたシステムでバックハウスの「最後の演奏会」を聴いてから、
当然自分のシステムでも聴いてみるわけである。

五味先生の愛用システムではLPで、自分のシステムではCDである。
出てきた音に、ある程度想像できていたこととはいえ、がっくりした。
バックハウスが、あのように鳴ってくれない。

音が悪い、ということではない。
バックハウスがバックハウスとして鳴っていない、ということころでがっくりしていた。
なにかが根本的に違う、なにか違うのだろうか……。
そのことをしばらく考え続けていた。

五味先生のシステムと私のシステムとでは、スピーカーシステムの大きさも形式も大きく異る。
アンプもトランジスター型だし、部屋の大きさも条件も異っている。
そういうことが影響しての音の違いではない。

そこをはっきりさせなければ、バックハウスの「最後の演奏会」が、
バックハウスの「最後の演奏会」にならない。それでは困る。

それは、結局言葉で表せば、骨格のしっかりした音かそうでないかの違いだと思う。

骨格のしっかりした音とは、バランスのとれた音とは違う。
ピラミッド状の音のバランスがとれているからといって、それが骨格のしっかりした音ではない。
また肉づきのよい音とも違う。

骨格のしっかりした音は、骨格のしっかりした音としか、ほかにいいようがない。
うまく説明できないことにもどかしさを感じているけれど、
これはもう想像していただくしかない。

とはいえ、私自身も、骨格のしっかりした音、という表現そのものをずいぶん忘れていたことを、
バックハウスの「最後の演奏会」を練馬区役所で聴き、自分のところで聴き、
その違いをはっきりと自覚することで思い出したぐらいである。

骨格のしっかりした音は、骨格のしっかりした音を聴くまで、
なかなか意識の上にのぼってこない性格のものかもしれない。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その16)

なぜ、そう確信できるのか。
もうひとつ五味先生の文章を引用しておく。
     *
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
     *
できれば、もっともっとながく引用しておきたい。
すべてを引用しておかなければ、読む人に誤解を与えるのはわかっている。
だからといって、これ以上ながく引用すると、よけいに誤解をあたえそうな気がしてしまうのと、
結局、どこかで切るということが無理なことがわかってしまうから、
あえて、これだけの引用にしてしまった。

この文章は「西方の音」におさめられている。
「死と音楽」からの引用である。

このときなぜ五味先生はモーツァルトのレクィエムをくりかえしくりかえし聴かれたのかは、
「死と音楽」をお読みいただくしかない。

「何度、何十度私は聴いたろう」と書かれている。
それでもモーツァルトのレクィエムは、「何も答えてはくれない」。

五味先生がモーツァルトのレクィエムを「何度、何十度」聴かれたのは、
S氏邸で大晦日にトスカニーニのベートーヴェンの第九を聴かれたときから、10年近く経っている。

「何も答えてはくれない」は、だからそういうことだ。
これ以上書く必要はないだろう。読めばわかることなのだから。

誰も何も、答えてはくれない。
そのことに気づかぬ者が、誰かに何かに答を要求し、
そのことに気づかぬ者が、(気づかぬ者だけが答と思っているだけでしかない)答を語っている──、
それがなんになろう。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その15)

〝第九〟も同様だろう、あの優婉きわまりない、祈りの心をこめた、至福の恍惚境をさえしのばせるきわめて美しい緩徐楽章のあとに、ベートーヴェンは歓喜についての頌歌を加えるが、
 O Freunde, nicht diese Töne! ……
「おお、このような音ではなく、もっと心地よい、もっとよろこびに満ちたものを友よ、私たちは歌い出そうではないか」
 冒頭バリトン独唱によるこの歌詞をベートーヴェン自身で作っていることを、ここが歌われ出すたびに身のひきしまるおもいで私は想起する。音楽を聴いていて、居ずまいを正さずにはいられぬ作品はそう多くない。「襟を正す」という言葉を私はこの歓喜の章を聴くたびにおもうのだ。
 妻と別れようと考えた時期があった。〝二羽の鳩〟で結ばれた京都の人を失ったあと、〝ダフニスとクローエ〟に想いを托した女子大生へ、しだいに私がのめりこんでいた時だ。一度、佐藤春夫先生宅へ彼女を伴った。佐藤先生は素敵な乙女だと彼女を褒められた。そこへ佐藤夫人が外出先から帰ってこられた。夫人は、私の妻をよくご存じで、烈しい口調で私を叱られた。妻以外のそんな女性を佐藤邸につれてくるとは何事か、というわけだ。私はむっとした。叱るなら何故彼女のいない時に私を呼びつけて、叱られないのか。彼女の傷つくのが私には耐えられなかった。私はそういう人間だ。いつも自分のことは棚にあげて人さまを詰ろうとする。彼女の前で叱られればこちらは意地にでも彼女をかばう。つまり彼女サイドへかたむいてしまう。
 ところが、夫人が叱られると佐藤先生までが、口うらを合わせ、そうだ五味、きみはけしからん、とっとと帰れ。以後出入りはゆるさんぞ、と言われたときにはアッ気にとられ、一ぺんに肚がすわってしまった。私は彼女を見捨てるわけにはゆかぬ立場に自分がおかれたのをこの時感じた。あとからおもえば、彼女は傷ついて私の妻は傷つかないのか? そんな怒りをこめた夫人の叱声だったとわかる。だがいつも「あとから想えば」だ。この時は妻と別れねばなるまいと決めていた。といって彼女と結婚しようというのではない。とにかく、独りになって考えようと考えたのだ。私は妻を関西の実家へかえした。
 その年の暮、例によって大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴いた。トスカニーニ盤だったとおもう。第四楽章合唱の部にはいったときだ、一斉に歌っている人々の姿が眼前に泛んできた。合唱のメンバーはすべて私の知っている人たちだった。当時神様のようにおもっていた高城重躬氏も、S氏も、私の老母も、佐藤夫妻も、知るかぎりの編集者、知人、心やすい映画スター……みな口をそろえ声を張りあげて歌っている。まさに歓喜の合唱である。その中に妻の顔もまじっていた。ところがどうしたことか、妻だけは、声が出ない。うなだれ涙ぐんでいる。どうしたのだ? 私は妻の名を呼びかけて励ました。妻が涙ぐんでいるのは私と別れるためなのはわかっていた。しかし、貴女はまだ若い、これからいい人が現われるにちがいない、元気を出すんだ、ぼくのような男でなく貴女にふさわしい人間がこの世にはいくらもいる、今にそんな一人が貴女を仕合わせにしてくれる……へこたれないで元気を出してくれ。……私は精いっぱい声をはりあげ、妻を激励した。だがついに、最後まで、妻は歌をうたえなかった。うなだれて泣いていた。それを見た時、彼女のためにハラハラと私は涙をこぼした。妻に同情した涙だ。どんなに私との別離で妻は苦しんでいるかを、その幻覚に私は見たのだ。
 おそらく、誰に意見されても人間の言うことなら私は肯かなかったろう。だがベートーヴェンの〝第九〟がまざまざみせてくれたこの場面は、私にはこたえた。おのれの非を私はさとった。
 私は妻を東京へ呼びもどすことにして、女子大生と別れた。彼女がのちに入水自殺をしたのは、私とは関係のない別の理由によることだと聞いている。真実はもう知りようがない。私たち夫婦には、その後、はじめて娘が生まれ、娘は今年十七歳になった。
     *
長い引用になってしまった。
五味先生の「ベートーヴェン《第九交響曲》」(オーディオ巡礼所収)からの引用である。

このとき、トスカニーニによるベートーヴェンの第九の第四楽章が、
五味先生にみせた幻覚は、答ではない。
五味先生も、ベートーヴェンの第九が与えてくれた答とは思われなかった、と思っている。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その14)

ステレオサウンドへの批判で比較的多く目にするのは、
測定をやっていないから、そこでの評価は信用できない、というものがある。

こういうものを目にするたび、いつの時代も、こういう人がいるのか……、と気持になってしまう。
勝手に想像するに、こういう人は、ステレオサウンドに答を要求しているのではないだろうか。

スピーカーシステムにアンプにしろ、CDプレーヤーにしろ、
何がイチバンいいのか、それを示せ、と。
ここまで極端でなくても、この価格帯でイチバンいいのはどれか、という答を、
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に要求している、としか思えない。

ステレオサウンドは一時期測定をよくやっていた。
やっていたから、答を誌面で提示していたわけではないし、
そのための測定ではなかった。

ステレオサウンドは、そんな答を提示するオーディオ雑誌ではない。
これはステレオサウンドを否定しているのではなく、だからこそステレオサウンドを昔私は熱心に読んでいた。

そのことは、おそらく当時ステレオサウンドに執筆されていた方たちの暗黙の了解でもあったのではないだろうか。

オーディオ評論家は、読者に答を提示する存在ではない。
私は、オーディオ評論家は、読者に問いかけをする存在だとする。
読者に、音楽をオーディオを介して聴くということについて、
もっと深く考えてほしい、感じてほしい、という気持からの問いかけであるからこそ、
評論なのだと思う。「論」がそこにはついていくる。