Archive for 10月, 2012

Date: 10月 10th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”というCDボックスが、いま出ている。
7枚組で、HMVなど安いところでは、1700円を切る価格で売っている。

廉価盤というつくりでブックレットはついていない。
だから、この値段なのか、とも思うけれど、やはり安い。

内容は、だからといって、それ相当のものではなく、ワルターが米COLUMBIAに残したマーラーの演奏は、
とくにニューヨーク・フィルハーモニーとによるものは、いま聴いても興味深いものを感じる。

コロムビア交響楽団とのワルターの演奏は20代のときに集中して聴いていた。
あのころは、素直にいい演奏と感じていたものが、いまでももうそれほどとは思えなくなっている。

そのころから20数年経ったいま、私にとってワルターは、
ウィーン・フィルハーモニーと残したいくつかの演奏を除いて、もう大切な指揮者ではなくなりつつある。

そんな私の耳にも、ニューヨーク・フィルハーモニーとの一番、二番、四番、五番、「大地の歌」、
その中でも五番の交響曲は素晴らしい、と思える。
こういう曲だったのか、という、いくつかの小さな発見を、2012年のいま、1947年の演奏を聴いて感じている。

いいCDだ、と、ワルターのこれらのマーラーの演奏を聴いたことのない人には推められる。
なのだが、ひとつ思うこともある。

DISC1にはコロムビア交響曲との一番と、ニューヨーク・フィルハーモニーとの二番の第一楽章のみがはいっている。
DISC2には二番の二楽章以降と「さすらう若人の歌」が、
DISC3にはニューヨーク・フィルハーモニーとの四番と、コロムビア交響楽団との九番の一楽章が、
DISC4には九番の二楽章以降が、
DISC5にはニューヨーク・フィルハーモニーとの五番、
DISC6にはニューヨーク・フィルハーモニーとの「大地の歌」、
DISC7にはニューヨーク・フィルハーモニーとの一番と「若き日の歌」がおさめられている。

廉価盤として、少しでも価格を抑えるためにディスクの枚数を減らすための、
こういう組合せなのだろう、と一応は理解できる。

けれど、二番と九番の、ふたつの交響曲はどちらも一楽章のみが、別のディスクにはいっている。

マーラーは二番の交響曲の第一楽章のあとに、すくなくとも5分以上の休止をおくこと、と指示している。
だから、二番の楽章の分け方は納得できないわけではない。
ディスクを入れ換えて、5分以上の休止を聴き手がつくるのにもいいかもしれないからだ。

だが九番に関して、マーラーはそのような指示は出していない(はず)。

なのにこういう曲の収め方をするということは、
ディスクの枚数を減らす、という目的とともに、
これはもうレコード会社(ここではSony Classicalになる)が、
リッピングして聴け、といっているようにも受けとめられる。

リッピングしてしまえば一楽章のみが別のディスクにはいっていることなどは関係なくなるし、
ワルターのマーラーを録音年代順に並び替えるのも簡単にできる。

CDと同じフォーマット、
16ビット、44.1kHzでの配信を全世界に行っていくための設備を整えるのは大変なことなのかもしれない。
それもよりも手なれたCDで、できるだけ安く作って市場に出した方が、
レコード会社にとっては手間のかからないことなのだろうか。

そんなふうにも勘ぐってしまいたくなる。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その12)

グレン・グールドの、シベリウスのソナチネの録音における試みは、
グールドが自身がのちに語っているように、けっして成功とはいえないものである。

アナログディスクで聴いても、1986年にCD化されたものをで聴いても、
グールド贔屓の聴き手が聴いても、やはり成功とは思えないものではあった。

それでもグールドがシベリウスの録音でやろう、としていたことは興味深いものであるし、
1976年からそうとうに変化・進歩している録音技術・テクニックを用いれば、
また違う成果が得られるような気もする。

グールドが狙っていたのは、音のズームである。
そのためにグールドは、4組のマイクロフォンを用意して、
4つのポジションにそれぞれのマイクロフォンを設置している。
ひとつはピアノにもっとも近い、いわばオンマイクといえる位置、
それよりもやや離れた位置、さらに離れた位置、そしてかなり離れた位置、というふうにである。

これら4組のマイクロフォンが拾う音と響きをそれぞれ録音し、
マスタリングの段階で曲の旋律によって、オンマイクに近い位置の録音を使ったり、
やや離れた位置の録音であったり、さらにもっとも離れた位置の録音にしたりしている。

ピアノの音量自体はマスタリング時に調整されているため、
マイクロフォンの位置による音量の違いは生じないけれど、
ピアノにもっとも近いマイクロフォンが拾う直接音と響き、
離れていくマイクロフォンが拾う直接音と響きは違ってくるし、その比率も違ってくる。

だからピアノにもっとも近い位置のマイクロフォンが捉えた音でスピーカーから鳴ってくるピアノの印象と、
もっとも遠くの位置のマイクロフォンが捉えた音で鳴るピアノの印象は異ってくる。

同じ音大きさで鳴るように調整してあっても、
響きの比率が多くなる、ピアノのマイクロフォンの距離が開くほどに、
ピアノは遠くで鳴っている、という印象につながっていく──、
これをグールドは、音のズームと言っていた。

Date: 10月 9th, 2012
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その11)

菅野先生が例としてあげられているカラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーのレコードは、
実をいうと聴いたことがない。
CDを買ってきて聴いてみようか、とも考えたが、
いま購入できるCDで、チャイコフスキーの第四番がおさめられているのは、
五番、六番との2枚組であり、1997年に発売されたものである。

もしかすると、リマスターによって、菅野先生が指摘されているところは
多少補整されている可能性もないわけではない。
なので、結局CDは購入しなかった(チャイコフスキーをあまり熱心に聴かないのも理由のひとつ)。

このカラヤン/ベルリンフィルハーモニーにチャイコフスキーの四番の録音が、
どう問題なのか、は、71号の菅野先生の発言を引用しておく。
     *
カラヤンとベルリン・フィルによる、チャイコフスキーの『交響曲四番』を、たまたま聴いていたら突如としてオーケストラが、ステージごとせり出して来ちゃって、びっくりしたわけね。
おそらくあれはね、オフ・セッティングでオーケストラのバランスのとれる一組のマイクロフォン、もっとオンでマルチにした一組のマイクロフォンがあり、それぞれにサブ・マスターがありまして、それがマスターへ入ってくる。
そして、その音楽のパッセージによって、そのオフ・セッティングを生かしあるいはオンも生かすというようなかっこうでいっているんだろうと、思うんです。
僕の記憶によると、ピアニッシモで、わりあいに歌うパッセージではオフが生きるんですな。そして、フォルテになってきますとオンのほうが生きてくる。
たしかに、それは明瞭度の問題からいっても、わからなくはない。
しかし、オーケストラのフォルテッシモは、大きく広がった豊かなフォルテッシモになってほしいのが、オンになってきますと、むしろその豊かさじゃなくて、強さ、刺戟ということで迫ってくる。
セッティングがそういうオン・マイクロフォンですから、それにすーっとクロスしていくと、オーケストラがぐわーっと出てくるんですね。
たぶん録音している人は十分わかっていると思うんですよ。ところが、カラヤンさんは恐らくそれを要求している。
そのとき、カラヤンさんに、
「いや、これはレコードにしちゃまずいですよ、オーケストラが向こうへいったり、こっちにきたりしますよ」
ということをたとえば言ったとしても、カラヤンさんは、
「いや、ここではこの音色が欲しいんだ。近い、遠い、そんなことはどうでもいい」
と言ったかどうかはわからないけれども、そして、
「ちょっと聴かせてくれ」
と、ミキサーに言う。ミキサーは
(じゃ、オフマイクの音のことを言っているのかな)
と勘を働かせて聴かせますね。
「これだ! これはこれでいい。じゃ、この部分はこの音で録ってくれ、ここの部分はこの音で録ってくれ……」
それでミキサーはそれに忠実に従って録ったと思う。
カラヤンさんはそれを聴いて、おそらく音楽的にきわめて満足をしたでしょう。
ところがわれわれが聴くと、これはほんとうに……近くなったり、遠くなったり、定位が悪くなったり……。
     *
これはあくまでも菅野先生の推測による発言ではあるものの、
かなり確度の高い発言だと思える。

このカラヤンのチャイコフスキーは1976年12月にベルリンで録音されている。
単なる偶然なのだろうか、1976年12月のトロントでも、同じようなコンセプトによる録音が行われている。
グレン・グールドによるシベリウスのソナチネである。

Date: 10月 9th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その14)

ラインレベルの出力をもつ入力ソース側の機器としては、
チューナーやカセットデッキがあり、1982年秋からこれにCDプレーヤーが加わった。

チューナーやカセットデッキ、CDプレーヤーの違い、
アナログ機器とデジタル機器といった違いではなく、
リアパネルを比較したときの違いとして目につくのが、ヒートシンクの有無である。

私が見た範囲ではチューナー、カセットデッキのリアパネルがヒートシンクがついているモノはなかった。
けれどCDプレーヤー登場の、
わりと初期(1980年代なかごろまで)の製品のリアパネルにはヒートシンクがついているのが、いくつもあった。

このヒートシンクは、電源のレギュレーター用である。
ヒートシンクといっても、パワーアンプの発熱量とくらべればそれほど多いわけでもなく、
ヒートシンクも櫛の歯状のフィンのものが多かった。
だから指でフィンをはじくと、けっこう盛大に音を出すモノもあった。
そして、中には成型したゴムをフィンに取り付けて鳴きを、ほとんど抑えているものも出てきたし、
すこし後にはフィン状ではなくチムニー型ヒートシンクも登場してきた。

リアパネルに飛び出した、それほど多くないヒートシンク、
指ではじけば鳴くといっても、パワーアンプのそれとは比較にならないほど小さな鳴き、
しかもパワーアンプは出力段のパワートランジスターが取り付けてある、
増幅段に直接関係してくる個所にあるのに対して、
CDプレーヤーのヒートシンクは電源用のものであり、直接には信号回路には関係しない個所のものでる。

にも関わらず、リアパネルのヒートシンクの鳴きを、どう処理するかによって、
そのCDプレーヤーの音は変っていった。

Date: 10月 8th, 2012
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その10)

ここでとりあげているバーンスタインのベートーヴェン全集は1980年に、
カラヤンのベートーヴェン全集は1977年に、
どちらもドイツ・グラモフォンから発売されている。

録音された時期は両者で2、3年の違いが存在しており、
その数年のあいだにも技術は進歩しているし、録音テクニックも変化していっている。

けれど、この両者のベートーヴェン全集のレコードの違いは、
そういう技術、テクニックの、時間の推移による違いから来ているものというよりも、
録音のコンセプト自体の違いが、それ以前にはっきりとした違いとしてあるように考えられる。

それはバーンスタインのベートーヴェンが、いわゆるライヴ録音であるということ、
カラヤンのベートーヴェンが、綿密なスタジオ録音であるということとも関係してくることとして、
録音のフィデリティの追求として、
バーンスタインにおいては、コンサート・フィデリティ、
カラヤンにおいてはスコア・フィデリティ、ということが他方よりも重視されている、といえよう。

このコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティについては、
ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)の、菅野先生と山中先生の巻頭対談の中に、
菅野先生の発言として出てきた言葉である。

ステレオサウンド 71号の菅野先生の発番を引用しておく。
     *
録音というものの基本的なコンセプトには二つあると思うんです。
一つは、コンサートの雰囲気を、そのまま録音しようという、コンサート・フィデリティ型、もう一つ、これはクラシックの場合に限られるけれども、スコアに対するフィデリティ型です。
スコアに対してのフィデリティを追求した録音は、生のコンサートの雰囲気をスピーカーから聴きたいという人には「顕微鏡拡大的である」とか「聴こえるべき音じゃないものが聴こえる」として嫌われます。
再生の側から言えば、いつもコンサート・フィデリティ派が主流になっています。
ところが、困ったことに、そういうコンサート・フィデリティ的なプレゼンス、あるいはオーケストラ・ホールに行ったかのごとき疑似現実体験、距離感が遠いとか近いとか、定位が悪いとか、音像が小っちゃいとか大きいとか、そんなことは音楽を表現する側にとっては、まったくナンセンスなんだ。
     *
この対談で、菅野先生はコンサート・フィデリティの録音として、
発売になったばかりのアバド指揮シカゴ交響楽団によるベルリオーズの「幻想交響曲」を、
スコア・フィデリティの録音として、
カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによるチャイコフスキーの第四交響曲をあげられている。

Date: 10月 7th, 2012
Cate: audio wednesday

第22回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、11月7日(水曜日)です。

11月7日ですから、テーマは「瀬川冬樹を語る」です。

Date: 10月 7th, 2012
Cate: 境界線, 録音

録音評(その1)

「北」という漢字は、右と左の、ふたりの人が背けた状態の、
人をあらわす字が線対称に描かれている──、
ということは川崎先生の講演をきいたことのある方ならば耳にされているはず。

「北」がそうであるように、「化」も人をあらわす字が線対称的に描かれた文字である。
左の「亻」も右の「匕」も、そうである。

「花」という漢字は、艹(くさかんむり)に化ける、と書く。
ならば、「音」に化ける、と書く漢字もあっていいのではないか、と思う。

花が咲く、茎や枝の色とくらべると、花の色は鮮かな色彩をもつ。
音楽も、豊富な色彩をもつ、音が化けることによって。

花と、茎や枝の色は違う。
けれどあくまで花は、枝や茎の延長に咲いている。
ここからここまでが茎(枝)で、ここから先が花、という境界線は、
実はあるようにみえて、はっきりとその境界線を確かめようと目を近づけるほどに、
境界線は曖昧になってくる。

音と音楽の境界線も、あるようでいてはっきりとはしていない。

よくこんなことが、昔からいわれているし、いまもいわれている。
「このディスクは録音はいいけれど演奏がねぇ……」
「このディスクは演奏はいいけれど録音がもうひとつだねぇ……」
そんなことを口にする。
私だって、時にはそんなことをいう。

昔からレコード評には、演奏評と録音評がある。
オーディオ雑誌、レコード雑誌に載る演奏評、録音評は、たいてい別のひとが担当している。
演奏評は音楽評論家、録音評はオーディオ評論家というぐあいにだ。

ただ、これもおかしなはなしであって、
菅野先生はかなり以前から、そのことを指摘されていた。

Date: 10月 7th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その13)

マークレビンソンのML2(No.20)は、
シャーシーの側面からヒートシンク1基に対して2本の金属柱を出していて、
この金属柱に星形ヒートシンクのHの字の水平ラインにネジ止めしている。

このヒートシンクには出力段用のトランジスターとエミッター抵抗がとりつけられていて、
そのままではこれらのパーツが露出してしまうため、
コの状に折り曲げたアルミ製のカバーが取り付けられている。

このカバーもシャーシー側面から延びた金属柱にヒートシンクが取り付けられ、
さらにそれを延長する形でついている短めの金属柱(スペーサー)にネジ止めされている。

ML2(No.20)のヒートシンクも、このカバーも肉厚は厚くはない。
どちらかといえば薄い、といったほうがいいだろう。

これらが、いわば中空に浮くような状態になっている。
しかもコの字状のカバーは垂直のラインの上下2点による固定なので、
コの字の水平ラインは片持ち状態である。

前述したように分割したヒートシンクだから、
ヒートシンク1基あたりの重量はそれほどでもない。

実際にML2(No.20)のヒートシンクを指ではじいてみると、
けっこうな音で鳴っていることが確認できる。

ソニーのTA-NR10は、重量10kgの重量のあるヒートシンクを、
TA-NR1でも採用されている、ハイカーボン・スチール(いわゆる鋳鉄)のベースに取り付けている。
このベースは最大肉厚21mm、重量は10.5kg。

ML2(No.20)の側面はアルミで、ずっと薄い。
ML2(No.20)の底板だが、もちろんこんな重量級ではない、アルミ製である。

TA-NR10のヒートシンクは、一般的な形状をしているものの、
おそらく鋳鉄製のベースにフィンの先端を固定しているもの、と思われる。

いくら重量級で銅でつくられていようと、
フィンを指ではじければ、大なり小なり音叉的存在ゆえ、音は発生する。

けれどフィンの先端を、鋳鉄(銅に対して異種金属)に固定すれば、
フィンの鳴きはそうとうに抑えることができる。

TA-NR10をバラしてみたことはないけれど、鋳鉄ベースの形状と、
TA-NR10の内部のつくりをみていると、まちがいなくフィンの先端は鋳鉄ベースで固定されているはず。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その50)

「あの男、このまま行ったら、いつか発狂して自殺しかねませんな」
 2年前、最初に日本を訪れたマーク・レヴィンソンに会った後の、N先生の感想がこれだった。N氏は精神科の権威で、オーディオの愛好家でもある。
 じっさい、初めて来日したころのレヴィンソンは、細ぶちの眼鏡の奥のいかにも神経質そうな瞳で、こちらの何気ない質問にも一言一言注意深く言葉を探しながら少しどもって答える態度が、どこかおどおどした感じを与える、アメリカ人にしては小柄のやせた男だった。
     *
ステレオ誌の別冊「あなたのステレオ設計 ’77」に掲載された、
瀬川先生の「アンプの名器はイニシャルMで始まる」は、この書出しからはじまっている。

1981年、ステレオサウンドの別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」に巻頭に載っている、
「いま、いい音のアンプがほしい」のなかでも、このことについて書かれている。
     *
そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
     *
精神科の医師が、N氏なのかM氏なのか、
どちらかが誤植なのだろうが、マーク・レヴィンソンは発狂しなかったし、
だから自殺もしなかった。

仮にそうなっていたら、彼は「伝説」になっていたかもしれない。
マーク・レヴィンソン、その人について語るときに、
「伝説の」とつける人が、いる。
「伝説」の定義が、ずいぶん人によって違うんだなぁ、と思う……。

とにかくマーク・レヴィンソンは、いまも健在である。
それは発狂しなかった、からであろう。

なぜ、レヴィンソンは発狂しなかったのか。

Date: 10月 6th, 2012
Cate: SUMO

SUMOのThe Goldとヤマハのプリメインアンプ(その7)

Wiggins Circlotron Power Amplifierの回路が具体的にどうなっているのかは、
私がここで文章だけで説明するよりも、
Googleで検索すると、回路図がダウンロードできるサイトがすぐに見つかる。

Circlotron History Pageというサイトで、
このサイトのトップに表示されている概略図は、AUDIO CYCLOPEDIAにも掲載されていた。

この図の真空管をトランジスターに置き換えて、
出力トランスをスピーカーに置き換えてみる。

もちろんスピーカーには、プッシュプル用の出力トランスのようにセンタータップはないので、
そのまま置き換えはできないけれど、
実際のWiggins Circlotron Power Amplifierの回路図をみて、
そしてアンプの回路に関する知識のある人ならば、難しいことではない。

いまGoogleで検索すると、過去のアンプの回路図が入手できる。
なかには回路図だけではなくサービスマニュアルもダウンロードできる。

けれど、SUMOの、他のアンプの回路図は入手できるけれど、
The Goldに関しては,私の探し方がたりないのか(回路図そのものをもっているためもあろう)、
まだネットで見たことはない。

ただThe Powerには、出力が半分のThe Halfが用意されていたように、
The GoldにはThe Nineというモデルがあった。
このThe Nineの回路図は、検索してみれば見つけることができる。

電圧増幅部はThe Goldではディスクリート構成(FETは使わずすべてトランジスター)に対し、
The NineはOPアンプに置き換えられているものの、
出力段の基本構成は、当然ながらThe Goldの考え方を受け継いでいる。

Date: 10月 6th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その12)

ソニーTA-NR10、マークレビンソンML2(No.20)のヒートシンクはシャーシー内部・外部の違いはあれど、
左右に振り分けられている。
おそらくNPN型トランジスターとPNP型トランジスターとで振り分けられているのだろう。
言い換えれば+側と−側となる。

そうなるとヒートシンクは最低でも2基必要になり、TA-NR10ではそうなっているのに対し、
ML2(No.20)では6基のヒートシンクを使っている。

ML2(No.20)の6基のヒートシンクうち2基は定電圧電源の制御トランジスター用であり、
出力段用のヒートシンクは4基となり、
+側、−側で分けて、さらに2分割しているわだ。

どちらもA級動作のパワーアンプで発熱量は大きいため、
ヒートシンクも大きなものを必要とするわけだが、
それに対し大きなヒートシンクを用意するか、中型のヒートシンクを複数用意するか、がある。

ソニーは前者であり、マークレビンソンは後者の手法をとっている。
これによってもアンプの音を変える要素となっている。

しかもそのヒートシンクの取り付け方法が、ソニーとマークレビンソンとでは違う。

TA-NR10のヒートシンクは材質は純銅と、それまで採用例のない、
熱伝導率がアルミニウムよりも優れているものだが、
ヒートシンクの形状は一般的なもので、いわゆる櫛のようにフィンを均等に並べている。

ML2(No.20)のヒートシンクは、星形ともいわれるもので、
アルファベットのHの、左右の縦のラインを放射状のフィンにしたもので、
シャーシー本体への取り付けは、Hの字の水平のラインを使っている。

つまりTA-NR10はシャーシー底部に、
ML2(No.20)はシャーシー側面に、それぞれ取り付けられている。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その49)

マーク・レヴィンソンがトム・コランジェロと肩をくんでいる写真がある。
レヴィンソンがチェロを興したときの写真であり、
ステレオサウンド 74号のレヴィンソンのインタヴュー記事の中でも使われている。

この写真が、マーク・レヴィンソンとトム・コランジェロの関係をよく表していて、
その関係性があっての、ML3、ML7以降のマークレビンソンのアンプの音である、と私は思っている。

こういうふうに肩をくめる相手との協同作業によって生れてくるアンプが出す音と、
絶対にそういう関係にはならないであろうふたりによって生み出されたアンプが出す音とは、
はっきりと違うものになってくるはずである。

ジョン・カールにインタヴューしたときの、
彼の話しぶりからすると、マーク・レヴィンソンに対する彼の感情は、
コランジェロのように、レヴィンソンと親しく肩をくめる関係にはないことは伝わってきた。

MC型カートリッジのヘッドアンプJC1以外、
マークレビンソンのアンプの型番から”JC”を消してしまったレヴィンソンもまた、
ジョン・カールに対しては、コランジェロに対する感情とはそうとうに違っているように思える。

そういうふたりの関係が、初期のマークレビンソンのアンプの音に息づいている。
だからこそ、私は、この時代のマークレビンソンのアンプの音に、いま惹かれる。

アンプそのものの性能(物理特性だけでなく音質を含めての意味)では、
初期のマークレビンソンのアンプが、当時どれだけ高性能であったとしても、
いまではもう高性能とは呼べない面も見えてしまっている。

それでも、なおこの時代のマークレビンソンの音に魅了されているのは私だけではなく、
世の中には少なくない人たちが魅了されている。

この時代のマークレビンソンのアンプとは、
マーク・レヴィンソンとジョン・カールという、決して混じわることのない血から生れてきた、
と、いまの私はそう捉えている。

つまり、ふたつ(ふたり)の”strange blood”が互いを挑発し合った結果ゆえの音、
もっといえばマーク・レヴィンソンの才能がジョン・カールという才能に挑発されて生れてきた音、
だからこそ、過剰さ・過敏さ・過激さ、といったものを感じることができる。

私は、いまそう解釈している。

Date: 10月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その11)

ステレオサウンド編集部にいたころ、ジョン・カールにインタヴューする機会があった。
ジョン・カールによると、マークレビンソンのML2(彼によるとJC3)の、
あの独特な形状のヒートシンクは市販品である、とのことだった。

たしかにML2の登場以前に、同形状のヒートシンクを採用したアンプは、国産にも海外製にもあった。
ただ、どちらもML2のように、視覚的に強くアピールするコンストラクションではなかった。

ML2(No.20)といえば、まずあの星形ともいえるヒートシンクが、
シャーシー左右にそれぞれ3基ずつ並んだ外観がまっさきに浮ぶ。
筐体のじつに2/3は、ヒートシンクということになる。

これに較べるとソニーのTA-NR10では、ヒートシンクはシャーシー内部に収められている。
せっかくの純銅ブロック製のヒートシンクなのに、外観からはまったくそのことは伝わってこない。
これを日本的ともいえるだろうけど、もうすこしアピールするようにしていれば、
TA-NR10への注目度は増していたかもしれない。

ヒートシンクをシャーシーの外に出すのか、内にしまいこむのか。
これだけでも音は違ってくる。
一概にどちらがいいとはいえない。

シャーシー内におさめることのメリットもあればデメリットもある。
外側に配置するメリットとデメリットもある。

とくにモノーラルアンプの場合やマルチアンプの場合には、
パワーアンプを複数台使用することになるわけで、
その場合にもヒートシンクがシャーシー内にあるアンプと外にあるアンプとでは、
アンプの配置において気をつけることが変ってくる。

ヒートシンクが音叉的存在であることを考えれば、
なぜそうなのかは想像できるし、予測のつくことでもある。

Date: 10月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(続・聴くことの怖さ)

ステレオサウンドの新しい号が出る数日前になると、
ステレオサウンドのウェヴページが更新され、最新号の予告(表紙の写真と掲載記事のタイトル)が公開される。

184号は9月1日に発売された。
その数日前に、ステレオサウンドのウェヴページは更新されていたのだけれど、
表紙の写真のところには、”Now Printing”の文字だけだった。
翌日もそうだった。その翌日もそうだったから、
これは、おそらく9月1日に情報解禁されるオーディオ機器が表紙になっているんだな、という予測は確信になった。

ステレオサウンド 184号の発売当日にもう一度更新され、
表紙が表示されるようになるとともに、”CONTENTS”のところに、
それまで表示されていなかった”JBL Project Everest DD67000/DD65000″も表れた。

いま「オーディオ機器の新製品情報はオーディオ雑誌よりもネットのほうがずっと早いから……」的なことが、
よくいわれるようになっているし、そういう文字を目にすることも、さらに増えてきた。

たしかにオーディオ雑誌に週刊誌はない。
月刊誌か、ステレオサウンドのように季刊誌である。
情報の伝達ということだけに関していえば、1ヵ月、3ヵ月とスパンということになってしまう。
ネットであれば、新製品の発表当日に、その情報は公開される。
今回のステレオサウンドのことは、それに対する手段といえなくもないが、有効といえるだろうか……。

こういったスピードに関しては、雑誌はどうあがいても無理である。
だからといって、オーディオ雑誌は不要、というふうに考えてしまうのは、あまりにも短絡的でしかない。

新製品の登場の情報はネットで得て、気になるオーディオ機器があれば販売店に聴きにいけばいいのだから、
オーディオ雑誌なんて要らない、ということになるだろうか。

新製品に限らず、販売店や、そろそろはじまるオーディオショウなどの催しものにいけば、
オーディオ機器の音は聴ける。
でも、その聴けた音が、十全な音だという保証は、どこにもない。
どういう状態で鳴っているのか判断し難いところでの音だけで、
そのオーディオ機器のすべてを聴いたつもりになってしまう人もいるだろう。

聴くことの怖さがある。
だからオーディオ雑誌は必要である。
それも良心的な、良質なオーディオ雑誌が必要である。

Date: 10月 4th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(聴くことの怖さ)

百聞は一見に如かず、が、オーディオでは、
百読は一聴に如かず、となる。

誰かの試聴記を何度読むよりも、
あるオーディオ機器について書かれた、いくつもの試聴記、評価を読むよりも、
自分の耳で聴くことのほうが得られるものは多い、ということになるのだが、
これはおおむね事実であっても、つねに一聴したことが正しい、とも限らない。

これまでにいったいどれだけくり返されてきたことだろうか、といつも思ってしまうのだが、
オーディオ機器は、いわゆる使いこなしによって、その結果として生ずる音が影響を受けてしまう。
どういう試聴環境での「一聴」なのかが重要になるわけだが、
案外、このところには関心がないのか、
ただ聴いた印象が、その人の中に居座っていることも多い、と感じることがある。

運良く、再度、同じオーディオ機器を聴く機会があり、
前回とはまったく異る環境において、そのオーディオ機器の特質が充分に発揮されていれば、
その人の中での、そのオーディオ機器の印象は書き換えられていくはずだが、
そういう機会がないままだと、ずっと最初の音の印象のままになってしまう。

オーディオ機器の中でもスピーカーシステムは、使いこなしによる影響が大きい。
それに優れたスピーカーシステムであればあるほど、
使いこなしの未熟さだけでなく、
アンプやプレーヤーといった、
そのスピーカーシステムに接がれるオーディオ機器の性格ストレートに描き出すことも多い。

ある場所である機会に、あるスピーカーシステムの音を聴いた──、
としても、そのときの音がひどかったとしても、その原因がどこにあるのか、ということになると、
往々にしてスピーカーシステムが負うことになりがちである。

そして誤解が生れ、ときにはそれが育っていってしまう。

いま、この項でダイヤトーンの2S305について書いている。
2S305はヤマハのNS1000Mとともに、日本のスピーカーを代表する存在でもあり、
おそらく多くの人が一度は耳にされた機会がある、と思う。

いい音で鳴っている2S305を聴かれた人もいれば、そうでない2S305の音、
そしてひどい音で鳴っていた2S305の音を聴かれた人もいる。

NS1000Mとともにロングセラーモデルであっただけに、
他の国の、ほかのブランドのスピーカーよりも、
同じ日本のブランドの、他のスピーカーよりも、多くの人の耳に聴かれている。

個人のリスニングルームで、オーディオ販売店の決していいとはいえない環境下で、
さらにスタジオで、2S305は鳴ってきていた。
それだけにひどい音、ひどい音とまでいかなくとも十全でない音で鳴っていた2S305の数は、
他のスピーカーよりも多いはず、と思う。

その数が多ければ、そういう2S305の音を耳にした人の数も多くなる。
その結果「2S305なんてねぇ……」と言ってしまうのも、思ってしまうのも、
なぜ、2S305のことを延々と書いているのだろうか、と疑問に思われる方がいても不思議ではない。

だからいっておきたい。
聴くことの怖さを知ってもらいたい、と。

中途半端なかたちで聴いてしまったがために、そのスピーカーに対する関心を失ってしまうことを、
どう思うのかは、その人の自由ではある……。

オーディオにおいては、時として一聴より百読が正しいこともある。
もちろん、誰が書いたものを読むかも、とても重要なことではあるけれど。