Archive for 9月, 2012

Date: 9月 16th, 2012
Cate: SUMO

SUMOのThe Goldとヤマハのプリメインアンプ(その3)

SUMOが登場したとき、最初のパワーアンプはThe Powerだった。
AB級動作で出力は400W+400W。
このThe PowerのA級動作のThe Goldが用意されていることは、同時に告知されていた。

このとき私は単純にThe PowerをそのままA級動作させたアンプだと思っていた。
ヤマハのCA2000がそうであったようにA級動作とAB級動作を切替えられるアンプはいくつかあったし、
出力段にかかる電圧をさげて、バイアス電流を増すことで、
回路構成はそのままでAB級アンプをA級アンプとすることができるからだ。

The Goldはステレオサウンド 55号の新製品紹介のページに登場した。
そこには「出力段はユニークで、独立した2組のフローティングパワーサプライによって」とある。
これ以上の詳細な技術的な解説はなかったため、
The Goldの出力段が具体的にはThe Powerとどう異るかはわからなかったものの、
すくなくとも単にThe PowerをベースにA級動作化しただけのアンプではないことだけは伝わった。

それからしばらくしてSUMOのカタログを見る機会があった。
The Goldの回路の概略図が小さく載っていた。
あくまでも概略図だから、細かいところまではわからないのだが、
すくなくともNPNトランジスターとPNPトランジスターによるプッシュプルの出力段を、
ブリッジ回路としただけではないことは、その概略図にNPNトランジスターしか書かれていないことからもわかる。

しかもカタログには、The Goldには音質に大きな影響を与えるバイアス回路が省かれている、ともあった。
いったいThe Goldはどういうアンプなのか、この時点では私の頭では理解できなかった。

The Goldがどういうアンプなのか、がはっきりとしたのは、その数年後。
実際にThe Goldを中古で手に入れて、回路図を入手したときだった。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: SUMO

SUMOのThe Goldとヤマハのプリメインプアンプ(その2)

1970年代、オーディオ用に半導体まで開発していたメーカーだったヤマハも、
一時期、オーディオへの積極的な関わり合いから離れていた。
それがA-S2000の開発により、またヤマハが戻ってきてくれた、という印象は多くの人が受けたことと思う。

CA2000に憧れていた中学生は30年以上経ったいま、
A-S2000に期待しながらも、その憧れは、残念なデザインによって消え去ってしまった。
それ以上の関心を、A-S2000には持てなかった。

そういうことなので、A-S2000がオーディオ雑誌でどういう評価を受けていたのかも知らない。
ただステレオサウンド 181号、
つまり昨年の暮れに出たステレオサウンド・グランプリとベストバリューが特集の号では、
掲載されてはいるけれども、それほど高い評価とはいえない。

A-S1000とともに20万円未満の価格帯にはいるA-S2000を推薦しているのは、三浦氏と和田氏のふたりだけ。
A-S1000は柳沢氏だけである。
この価格帯で評価が高いのは、オーラのvita、マランツのPM15S2、デノンのPMA2000SEなどである。
vitaは6人、PM15S2は5人、PMA2000SEは4人による推選である。

正直、私も、この評価に納得していたところがある。
デザインだけで関心を失い、それ以上、どういうアンプなのかについて調べもせずに、
だから音を聴くこともなく、ステレオサウンドの評価に同意していたわけだ。

そんなプリメインアンプを、こうやって取り上げているのは、
つい先日調べものをしていたら、A-S2000、A-S1000のパワーアンプ部に採用された回路が、
SUMOのThe Goldと基本的に同じことに気がついたからである。

ヤマハのサイトには、A-S2000のパワーアンプの回路を、フローティング&バランス式と名付けている。
そして概略図が載っている。
詳細な回路図を見ないことには、どこまでThe Goldと同じなのかははっきりしないが、
パワーアンプの出力段にフローティング電源を片チャンネルあたり2組用意しているところ、
そして一般的なプッシュプルがNPN型トランジスターとPNP型トランジスターを使うのに対し、
NPN型トランジスターのみを使っている点も、The Goldそのままである。

Date: 9月 15th, 2012
Cate: SUMO

SUMOのThe Goldとヤマハのプリメインアンプ(その1)

ヤマハのプリメインアンプにA-S2000A-S1000の2機種がある。
どちらも4年ほど前に登場している。
A-S2000が208950円、A-S1000が155400円。

以前であれば高級プリメインアンプに位置づけられる価格であっても、
いまではどちらかといえは安い方の価格帯に位置することになってしまう。
ステレオサウンドのベストバイ(現在ではベストバリュー)でプリメインアンプのページをみれば、
価格帯は3つに分けられている。
20万円未満、20万円以上50万円未満、50万円以上で、しかも税込み価格ではなく税抜き価格で分類するため、
ヤマハのプリメインアンプ2機種は、それぞれ199000円と148000円で、どちらもいちばん安い価格帯になる。

A-S2000、A-S1000は、私と同世代、そして上の世代の方ならば、
その型番からすぐにわかるように往時の、
ヤマハの代名詞的なプリメインアンプであったCA2000、CA1000の21世紀版とも受け止められていると思う。

1970年代、CA2000とCA1000は高級プリメインアンプを代表するものであった。
A級/B級動作切替を備え、白木の丁寧な仕上げのケース、GKデザインによるフロントパネル……、
いまでも手に入れたいと思っているマニアは少なくないだろう。

ヤマハはその後、プリメインアンプに関しては、まったくイメージを一新したA1を発表、
それに続くシリーズとして、A3、A4、A5、A6、A7、A8、A9を出し、
CA2000、CA1000の後継機は登場しなかった。
1980年代後半にA2000が登場し、型番の上からはCA2000の後継機ともいえなくもないが、
フロントパネルのデザインをみるかぎり、私にとってはCA2000の後継機ではいえなかった。

そんな私にとって、A-S2000とA-S1000の登場は、
ひさびさにヤマハが本格的に取り組むことの現れであり、CA2000、CA1000の後継機であることは、
写真を見ただけで伝わってきた。(とはいえ優れたデザインとはいえないけれど)。

Date: 9月 15th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その2)

私が在籍していたころ(1980年代)のステレオサウンドでは、
筆者の原稿を受けとったら、まず担当編集者が、いわゆる朱入れをする。

この時代はまだワープロがやっと登場したばかりで、しかもそうとうに高価で大きなモノだったたら、
筆者からの原稿はすべて原稿用紙に手書きのものだった。
朱入れした原稿を、実質的に編集長だった編集次長の黛さん(いまは筆者として活躍されている)がチェックする。
そして活字にするために写植にまわすことになる。

写植があがってきたらコピーして、編集部全員で校正する。
私がステレオサウンドで働きはじめたころは、私をいれて6人だった編集者は、
私がいたころ少なかった時は、その半分だったこともある。
だいたい4、5人で校正する。

その次に写真や図版などがレイアウト通りになってくる青焼きと呼ばれるものをチェック(校正)する。
ほんとうは、この段階で文章のチェックをするものではないのだけれど、
どんなにチェックしても誤植は完全にはなくせないから、ここでも文字、文章のチェックを行っていた。
青焼きに朱をいれたものが印刷にまわる。

つまり編集者が4人いたとしたら、のべ10人の目、5人だとしたら12人の目をとおって、本になるわけだ。

いまのステレオサウンドの体制がどうなのかは知らないが、そう大きくは変っていないだろう。
担当編集者の次に編集長が、そして校正の段階で編集部全員がチェックしている、と思う。

なのに、今回のおかしな日本語は誰の目にも留まらずに、そのまま誌面に残ってしまっている。
編集者は、筆者の原稿を読んでいるのだろうか、と勘ぐりたくなる。
文字だけを追っているようになってしまっているのではないか。

ステレオサウンド 184号のおかしな日本語は、文字の間違いはない。
だからうっかり見過されたのか。

このことを小さなミスと受け取るか、
それとも編集者の存在を問うことにつながることとしてとるのか、
それは人によって違ってくるだろうが、私は小さなミスとは、どうしても思えない。

Date: 9月 14th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その1)

電子出版元年は、これまで何度いわれてきたことだろうか。
最近では、電出版元年に変り、自己出版元年ということばも見かけるようになってきた。

自己出版と同じ意味で、ダイレクト出版という言葉も登場した。
書き手が読み手にそのまま電子書籍を配信することで、
そうなると編集者の存在が問われることになる。

電子出版という言葉の登場以前から、
インターネットがこれだけ一般的なものとなり、
不特定多数の人たちになにかを発信していくことがこれだけ容易になってくると、
書き手と読み手の間に、これまでの紙の書籍では必ず存在していた編集者が、
必ずいるとは限らなくなる。

編集者不在でも(つまり出版社を通さなくても)本(電子書籍)を出すことができる、
情報が発信できることは、いい面もあればそうでない面もあって、
編集者不在がいいとは思っていない。

それでも、あえていいたいことがある。
紙の本では編集者が不可欠ではあるが、
ほんとうに編集者として機能しているのか、と問いたくなることが、
オーディオ雑誌を手にとってみると、どうしてもある。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 184号を書店で手にとってパラパラと立読みした。
5分と手にしていない、それでもある文章が目に留まった。

誰が書いているのか、どういう内容だったのかについては書かない。
その筆者を責めたいわけではないから。

それは、おかしな日本語だった。
それのどこがおかしいのか説明するのに、すこし時間がかかるくらい、
人によっては、どこがおかしな表現なの? と思われるものではあるのだが、
明らかにおかしな日本語であることは確かである。

こんなことを書いている私だって、どこまで正しい日本語を書けているのか、と振り返ることは多い。
だから、そんなおかしな表現を書いた筆者を、ここで名指ししたいとは思っていない。

問題にしたいのは、なぜ、そのおかしな日本語が誌面に載ったかということだ。

Date: 9月 14th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その9)

ソプラノ歌手の再生といっても、基音だけでいえばそれほど広い音域を必要とするわけではない。
声楽の音域は、バスが82.4〜261.6Hz、バリトンが97.9〜349.2Hz、テノールが130.8〜391.9Hz、
アルトが196.0〜587.3Hz、メゾ・ソプラノが261.6〜783.9Hz、
そしてソプラノが329.6〜1046.5Hzとなっているから、
バスの最低音からソプラノの最高音までほぼ4オクターヴは、
1kHzよりも低いところにあり、意外にも、というべきか、それほど高い音は出ていないように思える。

これはあくまでも基音であって、楽器も人の声も倍音が発生する。
この倍音を含めて、周波数レンジはどの程度必要なのか、を楽器別にまとめた、
W.B.スノウによる実験データがある。

このスノウの実験データは、周波数レンジをどこまで狭めていくと、
もとの楽器、もしくは人の声の音色が損なわれるかを表しているもので、
女性言語は200Hzよりも少しひくいところから10kHzまで、となっている。

スノウの、この実験データは、たしか1931年に発表されたものであるから、
ずいぶんと古いデータであり、現代のシステムで実験をすれば、多少値に変動が出てくるかもしれないけれど、
目安としては、それほどの変化はないように思う。

女性の声に関しては、10kHzまできちんと再生されていれば、
音色の再現に支障をきたすわけではない、ということになる。

10kHzまでなら、
いま市販されているスピーカーのうち、
オーディオマニアを対象としたスピーカーシステムの大半(ほぼすべてといってもいいだろう)は、
楽々クリアーしている数字である。
さらに10kHzよりも周波数レンジが延びていれば、もっと音色の再現性は精確になっていくはずなのに、
一部のワイドレンジ型であり、音場型とも呼ばれているスピーカーシステムの中には、
くり返すが、ソプラノ歌手を正体不明にしてくれるモノがある。

そして、このこともまたくり返すが、レンジの狭いフルレンジのスピーカーのほうが、
ずっとはっきりとソプラノ歌手が誰なのかをはっきりとさせてくれることがある。

Date: 9月 13th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その3)

オーディオに関することで家族への言い訳をあれこれ考えずにすんだ人は、
めぐまれた人といえるのだろうか。

家族といっしょに暮らしていて、
誰にもオーディオ機器の購入、その他に関することでまったく言い訳する必要のない人は、
まず金銭的にもめぐまれている人であることは間違いないであろう。

言い訳なんぞしなくてすむならしたくはない、考えることしたくはない。
そんな言い訳をしなくてもすむのだから、すくなくともオーディオ機器の購入に関しては、そうであるのだから、
やはりめぐまれている、ということになる。
そして自由に、欲しいオーディオ機器が登場したら、買い替えられる。

買い替える、もしくは買い足すことに誰も文句を言わない、
そういう環境の人は、ほんとうに誰にも言い訳をしていない、と言い切れるだろうか。

確かに家族に対しては、言い訳をする必要はないからしない。
けれど、彼らの中には、自分自身に対して言い訳をして、あれこれ買い替え、買い足している人だっている。

あのスピーカーシステムがあれば、こういう音が出せる、
あのパワーアンプに買い替えれば、このスピーカーからもっといい音を出せる、
ケーブルをさらに高価なものにしたら……、
つねにこんな言い訳を自分に対してしていない、と言い切れるだろうか。

オーディオは自分自身に言い訳をしなければ、いい。
自分自身に言い訳をしてしまったらダメなのが、オーディオである。

Date: 9月 13th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その16)

こんなふうに書いていくと、
どうも私が個人によるガレージメーカーを全否定するものと思われるのかもしれないが、
そういうつもりはない。

なにもすべてのオーディオメーカーが組織でなければならない、とは思っていない。
個人だけのデメリットは確かにあるものの、
一人だから、というメリットもあり、だからこそ経営が成り立っていることもあることはわかっている。

私がいいたいのは、個人によるガレージメーカーであっても、
主宰者なきあとのことを考えての手はずを整えておくことはできる、ということと、
そのことをまったくやっていない個人によるガレージメーカーの製品を買う時には、
修理、メンテナンスに関して苦労することがあるかもしれない、
と購入を考えている人にわかっていてほしい、ということである。

どのメーカーとはいわないけれど、
やはり個人によるガレージメーカーの主宰者に、修理のことを訊ねている人がいた。
それに対する答は、明快だった。
そこの製品は、複雑な構成をとっているものではない。
回路的にもひじょうに簡単なものである。
だから、わからないことがあったら、なんでも訊いてくれれば教える、ということだった。
そのガレージメーカーの中に、1機種だけ高価なモノがあるけれど、
それに関しても、複雑そうに見えても構成はそうではなく、故障する箇所は限られている。
そこに関しても、教えますよ、
と惜しみなく、その製品に注ぎ込まれた、その人のすべてを教えてくれるメーカーがある。

こういうメーカーであれば、あまり不安もなく安心して長くつきあっていけることだと思う。
でも一方で、ノウハウは私の商売のタネだから、教えられない、と頑なな主宰者もいるのを、私は知っている。

そう主張したい人がいるのは理解できるし、
自身の商売を守るためのものだから(それにしても狭量だとは思うけれど)、仕方ないことだろう。

でも、主宰者自身が生きている間はたしかに商売をしていくためのことであっても、
主宰者なきあとのことを、彼自身はどう考えているのだろうか。
そういう主宰者にかぎって、製品を、自分の作品と呼ぶ人が多いようにも感じている。

作品と呼ぶのは、いいことでもある。
でも、その作品を買ってくれた人に対して、
自分がなきあとの修理、メンテナンスのことをまったく用意しておかないことは、
作品(製品)を購入し、彼をいわばサポートしてくれた人に対しても、
彼自身が作品と呼ぶ製品に対しても、不誠実な態度のようにみえる。

だから組織化しなければならないわけでもない。
文字通り個人経営であっても、自身が生きているあいだは明せないことであっても、
きちんとできることはある。

Date: 9月 12th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その2)

家族の理解が得られない……というオーディオマニア共通の悩みがある。
ひとり暮らしであれば、そんな悩みは当然ないし、
家族といっしょに暮らしていてもそんなこと悩みなんてない、という人もいることだろう。

でも多くのオーディオマニアにとって、なかなか家族の理解が得られない、得られにくいということは、
オーディオ機器をなにか購入する際、家族を説得することから始めなければならないし、
言い訳も考えておく必要も生じてくる。

なぜ家族の理解が得られないのか──。
音楽が嫌い、という人は少ないはず。
あまり音楽には深い関心はない、という人でも、一曲か二曲、
あるいはもうすこし多いだろうが、想い出の曲とか好きな曲はある、と思う。
音楽は好き、という人も大勢いる。

にも関わらず、家族の理解が得られないのは、なぜなのか。
昔からいわれていることだが、
これまでとくに答を見つけようとはしてこなかった。
気儘なひとり暮らしを続けているからなのだが、
昨晩、ふと気づいたことがある。

音は所有できない、と書いた。
実は、このことを直感的に知っている、というより気づいている人、といったほうがいいだろう。
こういう人たちを相手に、理解は得られないのではなかろうか。

オーディオマニアの目的は、いい音を所有することだとしたら、
いくらお金をつぎ込んだとしても、あくまでも所有できるのはオーディオ機器であって、
どこまでいっても、いい音を所有できるわけではない。

もしかするとオーディオという趣味が、オーディオ機器を所有することであれば、
家族の理解はもっとたやすく得られるのかもしれない。
けれど、オーディオという趣味は、いい音を求める趣味でありながらも、
音そのものは絶対に所有できないものであることを、すでに説得すべき相手が知っていたら、
言い訳をするしかないのかもしれない。

Date: 9月 12th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その15)

ガレージメーカーといっても、大きくわければ、ふたつあるだろう。
文字通り個人でやっているメーカーと、数人とはいえ組織化されているメーカーとにわかれる。

私が修理、メンテナンスのことで注意をうながすことをいってしまうのは、
個人でやっているガレージメーカーに関して、である。

会社の規模としては大きな違いはなくとも、
個人(つまりひとりしかいない)会社とすくなくとも組織化されている(すくなくとも数人はいる)会社とでは、
こと修理、メンテナンスに関して、大きな違い、もっといえば決定的な違いが生じることがある。

個人によるガレージメーカーであっても、その主宰者が健在なうちはとくに問題となることはない。
けれど、人はいつか此の世からいなくなる。
寿命であったり、病気が原因のときもあろうし、事故・災害ということもあろう。
それがいつなのかなんて、誰にもわからない。
本人にもわからない。

個人のメーカーでは、主宰者がいなくなってしまうと、
組織化されていないだけにそこで修理、メンテナンスといったアフターサービスも存在しなくなる。
たとえ数人とはいえ組織化されているガレージメーカーであれば、
たとえ主宰者がいなくなっても、新規開発はとまってしまうかもしれないけれど、
修理、メンテナンスは継続してくれる可能性が残っている。

もちろん会社そのものが存在してくれなければ、結果としては同じことになるわけだが、
それでも個人と組織とでは、規模の違いは少なくとも、このことは時として決定的な違いとなってしまう。

日本にもガレージメーカーはいくつかある。
その中には、個人によるところが、いくつかある。
個人でやることによって経費がおさえられるというメリットもあるから、
このこと自体を否定したいわけではない。

ただ購入する側からしてみると、
いざそういうことになったときの対応を考えているのかどうかは大事なことである。

ケーブルとかアクセサリーといった類のモノであれば、
とくに修理は必要としないから、こんなことを気にすることはない。

だがアンプやD/Aコンバーターといったモノになると、そうもいってられない。
まだ安価なモノであれば、故障した時に、そういうことになっていたらあきらめもつくかもしれないが、
高価なモノであったら、そうはいかない。

Date: 9月 11th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その1)

二度と同じ音は出ない、もしくは出せない。
ずっと以前からいわれ続けていることだ。

昨夜、素晴らしい音で鳴ってくれたのに、その面影も感じさせない音で鳴ることもある。
極端に大きく音が変ってしまうこともあれば、
わずかな違い──けれど、その所有者にとっては決して無視できない違い──のときもある。

システムはなにひとついじっていない。
にも関わらず音は、まるで意志をもっているかのように気まぐれな表情を、
システムの所有者に対してみせる。

理由はいろいろいわれている。
電源の状態が日々違うからだ、とか、天気(気温、湿度など)の違い、
それに聴き手の体調や精神状態、といったことが絡んでの音の変化であって、
実のところ、装置から出る音は変っていない、という人もいるけれど、
これらの要因は確かにあるけれど、それだけではなく明らかに音は変化している。

つまり、二度と同じ音は聴かせない。

なぜなのか。
つまるところ、音は所有できない、からだ。

われわれが所有できるのは、あくまでも音を出す器械(オーディオ)であって、
そこから出る音を所有しているわけではない。

だから音は変っていく。
二度と同じ音を聴かせないのだと思う。

そう考えると、われわれは音だけでなく、音楽も所有できないことに気がつく。
所有できるのは、アナログディスク、CD、SACD、配信されたファイルであって、
音楽そのものを所有している、と果していえるだろうか。

人が驚くような枚数のディスクを所有していても、音楽を所有してはいない。

Date: 9月 10th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(考え込む、ではなく、考え抜く、ために)

立ち止まって考えることが、考え込む、であり、
決して立ち止まらずに考えることが、考え抜く、なのではないか、と思う。

考え込む、ではなく、考え抜く、でありたい、とも思う。
だから毎日書いているのかもしれない。

考え抜いて書いている、とはいわない。
ただ考え込む、と、考え抜くを曖昧にはしたくない。
考え込んでいるを、考え抜いている、と思い込んでしまったら、そこまでだ。

Date: 9月 9th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その1)

6年ほど前のことだと記憶しているが、
NHKで美空ひばりのドキュメンタリー番組をやっていたのを、最後の方だけ見たことがある。
番組の流れからして、最後に「川の流れのように」を流すのだろうとは誰もが思うだろうし、
そのとおりに「川の流れのように」が流れた。

美空ひばりの写真が次々と映し出されていくのを見ているうちに、
唐突に映画「スパイダーマン2」でのセリフが浮んできた。

映画の中盤以降、主人公のピーター・パーカーに、メイおばさんが語るセリフがある。
このセリフを、最後のシーンで、今度はピーター・パーカー(スパイダーマン)がオクタビアスに語る。

このセリフが浮んできたとき、美空ひばりもそうだったのかもしれない、と思った。
才能と夢についても思っていた。

美空ひばりの才能は、歌にある。
美空ひばりの「夢」は、歌にあったのだろうか。
違うところにあったのように、その番組のエンディング「川の流れのように」を聴いていて思っていた。

ゆえに「スパイダーマン2」でのセリフが思い出されてきたのかもしれない。

才能は夢を実現するためのものなのだろうか。
才能は天からの授かり物だとしたら、
その才能が大きければ、強ければ、
毅然としてあきらめなければならないものがある──、それが夢であっても。

「川の流れのように」は、この時、そう語っていた。

Date: 9月 8th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(その3)

音を良くしていく過程として一般的といえるのは、
例えばいままで使っていたアンプでは、惚れ込んだスピーカーを十全に鳴らしきれていない、
そういうふうに感じはじめてきたら、新しいアンプの導入を考えはじめ、
いくつかの候補をあげて、いま使っているアンプと比較試聴、
候補機種同士の比較試聴をすることになる。

自分のリスニングルームで、自分のスピーカーで比較試聴できればそれにこしたことはないけれど、
そういかなければオーディオ店においての比較試聴ということになる。

アンプに限ったことではない。
CDプレーヤーにしてもそうだし、
ケーブルやインシュレーターといったアクセサリーに関してもそう。

ケーブルはアンプよりも、ずっと自分の環境においての比較試聴が容易なものであり、
購入しての比較試聴もあれば、懇意にしているオーディオ店からの貸出しということもあるし、
オーディオの仲間同士での貸し借りもある。

一対比較のときもあれば、もっと多くの種類のアンプやケーブルを比較試聴することにもなる。
その中で、自分にとって(購入できる範囲であっても)、もっとも望ましいアンプなりケーブルを選ぶ。

複数の中からひとつを選ぶ。
そのことにこそ主体性があり、
音を聴いて、よりよい音のするモノを選んでいるわけだし、
音による自己表現をより明確なのとしていく行為──、
そんなふうに思われているであろうし、昔はそう思っていた時期もある。

Date: 9月 7th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その14)

修理の際、ネックとなりやすいのは、なにもオーディオ専用部品だけではない。
消耗部品も、そうなりやすい。

たとえばテープデッキの録音ヘッド、再生ヘッドなどがある。
メーカーが同じヘッドを作り続けていてくれているか、部品をストックしてくれていれば、
ヘッドが摩耗しても安心して修理に出せるのだが、実際は難しいところだと思う。

カセットデッキは、残念ながら魅力的な新製品が登場しなくなって、けっこうな年月が経っている。
いまもカセットデッキを大切に使われている方がいるのは知っているし、
カセットテープにあまり愛着のもてない私でも、機会があれば欲しい、と思えるデッキは少ないながらもある。

でも、実際に入手したとしても、ヘッドの状態を考えると、その選択肢はさらに狭まっていくことになる。
もともとついていたヘッドとまったく同じものが無理でも、同等のヘッドて修理してくれるのならば、
まだそれでもいいと私は思うわけだが、それも難しいのかもしれない。

だから中古のオーディオ機器を眺めている時でも、
アンプを眺めている時とカセットデッキを眺めている時とでは、考えていることが少し異ってくる。
カセットデッキだと、どうしてもヘッドのことが気になり、
故障していなくてもメンテナンスのことが真っ先に頭に浮ぶ。
まだ会社が存続している会社であればなんとかなる可能性はあっても、
会社がなくなっているブランド、もしくはすっかり様変りしてしまった会社のデッキだったりすると、
そういうことを含めても、目でみてしまっている。

修理のことをあれこれ考えてしまうと、
オーディオ機器は買いにくくなってしまう。
こんなことを書いている私が、購入時にはほとんど、というか、まったく故障した時のことは考えずにいる。

けれど、オーディオ機器は、どんなモノであれ、故障しない、ということはない。
たまたま故障しなかった、ということはあっても、だからといって絶対に故障しないわけではない。

そして、オーディオの会社にしても、こういう時代だと、
どういう会社が生き残り、消えていくのか、も予測しにくいし、
オーディオ機器を買うのに、そんなことまで考えて、というのも、すこし淋しい。

それでも、安心して使える、ということのメリットは、
音がいいと同じくらいに重要なことである。

だから私が、あえて修理のことを最初に言ってしまうのは、
ガレージメーカーのブランドについて訊かれたときである。
それも海外のガレージメーカーではなく、国内のガレージメーカーについて、のときである。